2009年12月30日水曜日

十二月三十日浮き遊ぶ

色とりどりの海月がむやみやたらと浮遊している。
時々、海月同士が衝突しているけれど、痛そうでもないし迷惑そうでもない。たぶん、誰のせいでもないのだ。
忘れていたけれど、明日は一年ぶりの大晦日だ。

お陰様で2009年は大変によい年でした。
年々、月日が経つのが加速しておるのがチト困りものですが(笑)、来年もぼちぼちちまちまとやっていこうと思いますので、よろしくお願いします。
まずは「時計」というテーマで連作を始めたいと企み中。(←言っておかんと、忘れそう)

2009年12月28日月曜日

猫と温度計

タマは、ガリレオ温度計の玉と遊びたいらしい。
最近、ようやくあの玉には触れないと気がついたようで、引っ掻く代わりに擦り寄るようになった。
日向に温度計を置いてやると、擦り寄ってしばらく頬擦りした後、温度計を抱えるように丸まり、寝てしまう。
日向とタマの体温で、ガリレオ温度計は、火照りっぱなしだ。

2009年12月26日土曜日

謎ワイン

 酒屋を営むネゴチオ氏は、或る朝、見慣れぬ薄汚い木箱が店先に置かれているのを発見した。
 木箱の中には、ワインが一ダース。取り出してみるが、どこにもラベルは貼られていない。
 まさか毒入りということもなかろうと、ネゴチオ氏は一本開けると、香りを確かめ口へ含み、直後にそのワインを店で売り出すことに決めた。値段をいくらにしようかと悩んだ末、店で一番安価なワインより更に少し安くした。
 ワインは「謎ワイン」と呼ばれ評判となり、大変によく売れた。売り切れる頃合いを見計らったように、店先に例の木箱が置かれるので、品薄になることもなかった。
 しかし、善良な商売人であるネゴチオ氏には、罪悪感があった。素性の知れないワインを店に出すことも、売上のすべてを己の懐に入れることも。
 ネゴチオ氏は、徹夜で店の前に立ち、木箱を運んでくる人を待つことにする。せめてお礼を言わなければ、気が済まない。
 しかし、ここで話は終わる。この話の目撃者であるネズミがネズミ獲りに掛かってしまったからだ。謎ワインはチーズによく合うだろうと思ったのが運の尽き。ネゴチオ氏がワインの謎を解くのを見届けるまで、我慢することができなかったのである。

(494字)
********************
500文字の心臓 第91回タイトル競作投稿作
○1 △1 ×1

ネゴチオってのは、イタリア語の「negozio」(店の意)から。
どっか大昔の、どっか架空の、いかがわしい町の話、という脳内設定。

2009年12月24日木曜日

ピンチ!

白い髭の老人は、まだ気がついていない。
どっこらしょと背負ったその袋、大きな穴が開いているよ!

2009年12月22日火曜日

ロケット男爵

七つの宇宙を股に掛けて飛び回ったロケットは、ロケットとして初めて爵位を賜った。
まもなくスペースデブリとなるロケット男爵が、社交界にデビューする日は近い。
年頃のメテオロイドたちが、キラキラとロケット男爵に熱い眼差しを送る。
だれがロケット男爵のダンスの相手をするのかしら。

発売中の雑誌、「散歩の達人」
なんと、赤井都さんの『第二の手紙』の写真が表紙です。
豆本がちゃぽんの話題も出てます。

2009年12月19日土曜日

楽園のアンテナ

猫の尻尾を丹念に探ると、小さな硬いものに触れる。
ちょっとゴメンヨ、と言ってやわらかな毛を掻き分け、ポケットに忍ばせたナイフを取り出して、チョンチョンのスッと切ると、小さな透明な棒が出てくる。血は出ない。
陽の光に当てると、虹よりも派手な虹色が広がった。
僕はそれを「楽園のアンテナ」と呼んだ。
楽園のアンテナの標本は、やっと9本集まった。
これを持って外を歩けば、温かいお昼寝に適した場所とか、満月がよく見える場所とか、おいしい魚屋の場所とか、怠け者のネズミが棲んでいる家とか、ミルクをくれるおばあさんちとか、なんでもよくわかる。
アンテナを失った猫たちの心配はいらない。あいつらにとって楽園のアンテナはオマケみたいなもので、楽園のことはちゃんとヒゲが覚えているから。
今日は、ノラ猫のサスケのアンテナを首にぶら下げて、散歩に出かけよう。

2009年12月16日水曜日

微亜熱帯

葉だけ椰子の木になった松の木の盆栽を眺めながら、嘴だけターコイズブルーになった雀に米粒をやる。

2009年12月14日月曜日

故郷へ

泳ぎは苦手だから、海には行きたくないんだ。
なんて言っていたのは、嘘だったのね。
と、金魚鉢を眺めながら呟く。
恋人は、私の部屋の金魚鉢で泳ぐのが、いたく気に入ってしまった。
「こっちへおいでよ。気持ちがいいよ」
そんなことを言われても、私の躰は金魚サイズにはならない。
私は、海で泳ぎたいの。

金魚鉢を抱えて、電車に乗った。故郷を目指して。
脚に残った鱗が疼く。

文フリが終わってちょっと気が抜けてます(笑)。
若干滞ってます。もっとテキパキ動けるとよいのだが。

へんぐえの架空ストア委託準備は、商品ページ作成まで終了。
あとは、モノを架空ストアに届け、公開するだけ。なんだけども、本を個包装するための袋の手持ちがないのでストップ中。たぶん火曜日に買いに行きます。
そして、金曜日までのどこかで架空ストアに行きたい(願望)。気力がなければ、送る。ちゃんとこの通り動けば、週末までに発売開始できると思う。
関係各位、遅くなって申し訳ありませぬ、しばしお待ちを。

金曜日に、心臓の選評書きたい。

早く週末にならないかなー……(まだ月曜だ)

2009年12月12日土曜日

還れない

石灰水の中で溺れて瀕死の様相を呈している小さな葉がいる。
青すぎる水の中で、少しずつ、身体に澱のようなものが纏わりつき、身動きが取れなくなる。
樹木を茂らせる一構成員だった葉は、葉脈活き活きと力強く、日差しを一杯に浴びて、空を眺め、風にそよぎながら暮らしていた。
樹木を離れなければならなくなったときも、別段悲しくはなかった、苦しくもなかった。風に飛ばされ、しばらく旅をした後、どこかで土に還るはずだった。
けれど、思いがけないところに葉は迷い込む。どうしてこんなところにやってきたのだ、鍾乳洞。
そこの池は、今まで浴びたどんな雨とも、異なっていた。重く、まとわりつく。
葉は、土に還ることはもうできない。石灰の中に囚われた葉は、何億年も

2009年12月10日木曜日

うわの空

夢と現つの隙間に落っこちてしまった。
現つはぐいぐいと押し寄せてくるし、夢はふにふにと頬っぺたを触ってくる。
無理やり見上げると、細い空が見える。一筋の青は綺麗だなと思う。
身動きが取れないけれど、まぁそれでもいいや。

2009年12月5日土曜日

地球をみじん切り

ラジオから流れるDJの声に雑音が混ざる。DJは、まもなく僕のリクエストしたナンバーを流すと言っているのだ。数日前に葉書に書いた僕のコメントが、途切れ途切れに読まれている。
チューニングのつまみをそっと、ほんの少しだけ左右に動かしてみる。曲が始まるまでに、周波数よ、合え。

ポンっと音がして、無音になった。
とうとう壊れちゃった、僕のおんぼろラジオ。何もこんな時に壊れなくてもいいのに。
「あーあ」と大きな声で、悪態をついた。
すると、「壊れたんじゃないさ」と、ラジオとは思えぬほどの明瞭な声で、DJが言った。
「リクエスト、ありがとう、ラジオネーム「地球をみじん切り」。キミが地球をみじん切りにしたから、たった今から宇宙よりお届けしている」
窓の外を見ると、闇でもなく光でもなく、ただDJの声で充たされていた。

2009年12月2日水曜日

十二月二日連綿と続くもの

もうすぐ百歳になるという、少女の曾祖父の長命を敬いつつ、二人の亡き祖父と幾らも年が変わらないことに思いが至る。
眠り薬を飲むことを、許してください、今夜は。

2009年12月1日火曜日

鳴らない

ここに、クラリネットが二台ある。
きみは、昔、ブラスバンドをやっていたから、クラリネットをドレミファソくらいまでなら、吹くことができるはずだ。
さあ、吹いてごらん。
おや、鳴らないって? そりゃあ、そうさ。
ひとつはマウスピースにキツツキが穴を開けたから音が出ない。
もうひとつは、山の枯葉に14年間埋もれて腐ってしまったから音が出ない。
だけれど、キツツキのほうは「スー」と鳴らないし、腐っちまったほうは「フー」と鳴らないだろう。
どっちが好きかい?
どっちも嫌い? 鳴らない楽器は楽器じゃないって?
さぁて、それはどうかな。同じ鳴らないクラリネットでも、腐ったやつがよいと思うよ。悠久の時の流れを感じるからね。
大袈裟だって? 私はいつだって大袈裟だ。

2009年11月29日日曜日

瓢箪堂のお題倉庫

来年咲く花
偽物の世界
不響輪音
空中花
踏切にて
間違い街角
ゆらりゆらら
沈殿都市
オレンジ色の人
胡桃割り人形の錯乱
最後の楽団
暗夜回路
読書の残骸
暁の真ん中で
飛行船群の襲来
増殖する愛
海底の寝心地
可憐な罠
音符の行進


果物橋


クラシカルクジラ

+++++++++
お好きにお使い下さい。
報告等は必要ありません。
思いついたら加えるかもしれません。



2009年11月26日木曜日

ルート3のおしまい

三叉路の入り口に恋人が立っている。

一番目のルートは、走っていくよ。
二番目のルートは、自転車だ。
三番目のルートは歩いてく。
さぁ、どれにする? って突然言われても困ってしまう。
行き先はどこ? と訊くとにっこり笑って「僕にもわからないんだ」って答えが返ってきたから、また困る。
「どれにする?」
もう一度訊かれたから「ルート3」と応えた。
なんだかよくわからないけど、ゆっくり行こうよ。と、呟いたのが恋人に聞こえたかどうかは、わからない。

手を繋いで、落ち葉を踏みしめて歩く。私も恋人も、何も言わない。時々、風が吹いて、枯れ葉が降る。新しい落ち葉の上を歩くと、音が大きくなる。
この道に、おしまいなんていらない。

2009年11月25日水曜日

夢 第十二夜

誰かが私の顔を捻っている。頬骨に力が掛かり、下顎が突き上げられる。額が押されて、鼻が潰れる。
顔を捻られているから声が出せない。やめてくれということはできない。
「これは治療なのです。あなたの苦痛が和らぎます」
人の顔を捻っている手の持ち主とは思えぬほど穏やかな声が、頭の上から降り注ぐ。
「治療によって、容姿も整うでしょう」
そう言われて、もうずっと長いこと、鏡を見ていないことに気がつく。

2009年11月23日月曜日

良いクラッカー

クリスマスが近いから、クラッカーを用意しなければならない。
明かりを暗くして、クリスマスツリーの赤や青の電飾を点滅させる。
そして、ケーキを前にクラッカーをパンと鳴らして、君の耳元で「メリークリスマス」と囁くのだ。

その時のクラッカーは、まず音がよくなければならない。不発なんてもってのほか。
それから、煙は少なめに。これは大切なことだ。
最後に、クラッカーの中身がサンタクロースであること。
昔、サンタクロース入りのクラッカーの話を絵本で読んだのだけれど、どこを探してもサンタクロース入りのクラッカーが見当たらない。これが手に入らなければ、クリスマスパーティーは今年もお預けだ。

2009年11月20日金曜日

十一月二十日峠道で魚に会う

峠道で魚が迷子になっていた。
紅葉の中、途方に暮れる魚をどうして助けてやればよかったのだろう。
どんなにピチピチ跳ねても、ここじゃ潮風すら浴びることはできない。

2009年11月17日火曜日

エルエル

エルとエルは背中合わせに座っている。
ぴたりと背中をくっつけて、脚を投げ出し、夜中の野原に座っている。
二人は裸で、今は冬。互いの背中の温もりだけを頼りにゆっくりと白い息を吐いている。
二人は星を見ているのだ。七つの一等星の瞬きの隙間から、時折、流星が見える。エルもエルも声は決して出さないけれど、流れ星を見た瞬間にだけ、白い息がほぉっと大きくなる。
エルはエルの願い事を知らない。
エルもエルの願い事を知らない。
それでも夜明けまで背中だけを頼りに温め合う。
エルが凍え死んでしまわぬよう、それだけを祈りながら。

2009年11月16日月曜日

明確なアイマイ

午前三時に目が覚める。寝返りを打つと、目の前に眠る男の顔があった。
睫毛
額にうっすらと、にきびの跡
規則正しい寝息

左手でそっと顔を撫でる。いとおしさが溢れる。
私は、この人のことが、とても好きなのだ。
再び目を閉じた。


朝、代わり映えのない目覚めだ。
窮屈なベッドの中で起き上がるのを渋っていると、なぜか毛布から他人の匂いがした。心地よい男の匂い。よく知っている男に違いないと思うのに、まったく心当たりがない。
けれど、確かに言えるのは、私はきっとその男がとても好きなのだ。

2009年11月13日金曜日

禁止する看板

「……べからず」
看板はトタン屋根に引っ掛かっている。あちこち錆びていて、文字は最後の「べからず」しか判読できない。
風が吹く。嵐が近づいているのだ。
看板はトタン屋根の上で不恰好な宙返りを三回してから、電線に一瞬触れたあと、犬小屋の前に落ちた。また角がへこむ。
黒の犬がフンフンと検分してから、看板に小便を威勢よく掛ける。
看板は、生暖かい液体が錆びに染み渡るのを感じながら、己がかつて「立ち小便するべからず」ではなかったことを願う。

ビスケット色

ビスケット色した蝋燭を見つけた。
「ねえ、これに火をつけようよ」
電気消してさ。きっと香ばしい時間を過ごせると思うんだ。

けれども、彼女はあっさり却下した。
「どうしても?」
「どうしても」

何故かって訊いても答えてくれないだろう。
きみには秘密が多すぎる。
年齢も、好きな色も、好きな食べ物も、僕は知らない。
そういえば、名前さえ知らない。

「都会のネオンはまぶしすぎるね」
僕は、きみがくれたビスケット色のマフラーを巻いて、出ていくことにした。四十六階から、階段を使って歩いて降りるつもりだ。

たぶんきみは僕を追いかけない。ビスケットがもうすぐ焼けるころだから。
きみがビスケットのこんがり焼け具合に、拘り過ぎなくらい拘っていることだけは、よく知っているから。

2009年11月11日水曜日

七五三の庭

 西日を受け、石庭の白砂が薄色に輝いている。普段は観光客で賑やかな方丈だが、今はとても静かだ。いささか静か過ぎる気がしないでもないが、ゆっくりと石庭に対峙できることを嬉しく思いながら、廊下に腰を下ろす。
 石の上を軽業師のように飛び跳ねている子供がいる。庭に降り立っては、せっかくの箒目が台無しになってしまうではないか。しかし、箒目には足跡はひとつも見つからず、そんな私の疑念を見透かすように、子供は尚いっそう軽々と油土塀と石の上を軽やかに飛び回っている。
 子供は時々ふと見えなくなる。やはり子供は幻かと思うが、またすぐにどこかの石の上に姿を現す。そういえば、方丈の廊下からこの庭の十五の石を全部一度に見渡すことは出来ないという。私から見えない石を承知の上で、飛び回っているらしい。その証拠に、しばらく隠れた後は必ずこちらを見遣り、悪戯っぽい顔で笑って見せるのだ。
 小さな石にも大きな石にもぴたりと着地し、そのたびに石庭を見下ろす子供。それはまさしく大海原を見下ろす目であった。その小さな身体はしなやかで、美しく、厳かだった。
 いよいよ日が暮れて、飛び回る子供の姿が朧に溶けていく。私は方丈の廊下から退く。方丈の中ほどに立ち、見えなかった石を見ると、子供が手を振っている。こちらもぎこちなく手を振り返す。



ノベルなび未投稿作品 龍安寺石庭


明日は美味しい

「たくさん笑った次の日は、雲がぼくの匂いになる。だから、泣いちゃだめだよ。笑っていてね、ちゃんと見ているよ」
そう言って恋人は目を閉じた。

久しぶりに笑った。声出して笑った。
明日が雨になればいい。どしゃぶりになればいい。止まない雨がいい。
傘を差さずに町を歩いて、、きみの匂いに包まれたまま眠りたい。

2009年11月8日日曜日

十一月七日 香り高き日

その髑髏車には車輪がなく、しかし多量の刻んだ茗荷を運んできた。
うまかったので、許す。

快遊展に行きました、という日記。

2009年11月2日月曜日

あかるいね

真っ黒な遮光カーテンをもろともせず、室内に燦燦と陽が降り注ぐ。
「あかるいね」
と彼女はまぶしそうに目を細めた。
一体どういうことだろう。
思い切ってカーテンを開くと、窓の外は、すべての可視光線をこれでもかと凝縮したような明るさなのだった。目が眩んで慌ててカーテンを閉じる。

蛍光灯はいらなくなった。サングラスは見たこともないくらいに黒くなった。
それでも外は明るすぎて、遮光ヘルメットが政府から全国民に支給された。それを被らないととても歩けない。
一番困るのは、いつも二人で行く河原で、彼女にキスできないことだ。

(250字)
+創作家さんに10個のお題+

三里さんのお題は、どこかに甘やかな感じがして、つい恋人を描きたくなる。

私もふと思いついたタイトル案をメモしていて、10個溜まったのだけど、どうしようかな。
逆選王になる見込みはないからなー(笑)

2009年10月29日木曜日

十月二十九日 12月について、幾つかの考察未満

12月のことばかり考えている。
四個、12月についての考え事がある。
二つは楽しいことで、ひとつはおじいさんのことで、もうひとつは、去年の12月についてだ。
ここまで書いて、どういうわけか、ケーキのこととご馳走のことを全く考えていなかったことに気が付いた。
12月についての考え事が六個になった。
六個のことをあれやこれやとメクルメク考えるのは、サイコロみたいだ、と思う。

サイコロといえば、来年はどっちに転がるのだろう。

2009年10月26日月曜日

僕たちの世界

紙飛行機に乗って、僕たちの世界を探そうよ。
と、彼は言う。わたしたちはいつだってどこだって二人ぼっちだった。透明な鳥籠の中の番いの小鳥のように扱われた。皆、親切にしてくれるけれど、それだけだった。
わたしたちは鳥籠から逃げ出さなければならない。それはもう、揺るぎないことなのだ。
「紙飛行機でいいの?」
「紙飛行機がいいのさ」
「今日は雨が降っているよ?」
「大丈夫、雨粒なんかじゃ壊れないよ」
「風が強すぎない?」
「風で飛ぶわけじゃないんだ」
彼はわたしの額にキスをした。不安が吸い取られていくのがわかる。
彼が折ったちょっと不恰好な紙飛行機を手のひらに載せて、私たちは飛び立った。遠くへ

(286字)

2009年10月24日土曜日

泣きっ面に蜂

躁鬱なドーバーのじいさん、相当な素封家になり、浮かれて草原を駆け回る。
どでかい蜂にチクリと刺されて、じいさんは我に返った。
手元のお金は借りた金。騙されたんだ、破産したんだ、糠喜びだ、なんてこった。
蜂に刺された鼻と膝を真っ赤に腫らして、うろたえたじいさんはドサクサに紛れドーバーに後戻り。 


There was an Old Person of Dover,
Who rushed through a field of blue Clover;
But some very large bees,
Stung his nose and his knees,
So he very soon went back to Dover.

エドワード・リア『ナンセンスの絵本』

2009年10月21日水曜日

夢 第十一夜

河原で石を拾っている。この河原にはラブラドライトの原石がゴロゴロしているのだ。
私は気に入りの一つを見つけようと、のんびり石を拾っては、触り心地を確かめ太陽の光で透かし見、もとに戻すのを繰り返している。
いつの間にか傍らに男がいて、忙しなく石を拾っている。私は焦る。私は男と競うように石を拾い始める。ラブラドライトを捜しに来たのに、赤黒い石ばかりが溜まっていく。

(179字)

2009年10月19日月曜日

夢 第十夜

ブルーグレーのスニーカーを履いて、私は走っている。ギクシャクとスローモーションのような動きで、思うように前に進まない。

逃げているのだろうか?
追い掛けているのだろうか?

私はそのスニーカーがお気に入りで、それを履いていることが嬉しい。だから、うまく身体を動かせないままに、走り続ける。
懐かしい景色。ここは高校の近くだ。
プラネタリウムの角を曲がったら、中学校の校舎が見えた。
遡っているのだと納得する。

(197字)

高校の頃は本当にブルー系のスニーカーをよく履いていた。夏服のスカートがブルーとグレーのチェックだったから、それに合わせて。

2009年10月18日日曜日

冷たい紅

きみが珍しくルージュを引いていることは、すぐにわかった。大時代のモデルみたいな、真っ赤でくっきりした唇だから。
どうしたの? と聞く前にキスしてしまうことにした。
冷たかった。温めようとして唇をはむ。舐める。熱い吐息を掛ける。それでもいつまでも冷たかった。
ようやくきみがきみでないと知る。
途端に自分の唇が冷えて行くのを感じる。これから恋人に会いに行かなくてはならない。

(181字)
+創作家さんに10個のお題+

変なのが書けた(ニヤリ)。たぶん一種の吸血鬼譚

2009年10月13日火曜日

きつね味

森の中にぽつんとアイスクリームスタンドがあった。私と恋人は歩き疲れていたので、アイスクリームはとても魅力的だ。
「バニラアイスを下さい」と言うと、赤いキャップの若者はちょっと困った顔をして
「きつね味しかないのです」
と言った。
きつね味? 私と恋人は顔を見合せたけれど、私たちはとても疲れていたから、どうしても甘い物が食べたかった。
「きつね味ってどんな味なのかしら」
「きつね味のアイスクリームだから、きつねの味です」
「おいしいの?」
「そりゃあ、もう、とっても!」
「それじゃ、きつね味を二つ下さい」
赤いキャップの若者はとても嬉しそうな顔で、コーンからはみ出しそうなくらいにきつね色のアイスクリームを盛りつけた。

きつね味のアイスクリームがきつねの味かどうかはよくわからない。だって、きつねを食べたことがないんだもの。
その後も森を歩き続けたのだけれど、きつねを見掛ける度に恋人が「ちょっと味見してみる?」と言うので、段々その気になってきた。きつね味のアイスクリームは、そりゃあ、もう、とってもおいしかったから、きっと生のきつねはもっとおいしいと思うのだ。

(470字)

2009年10月10日土曜日

偏愛フラクタル

恋人の背中には痣がある。
細かい線が複雑に絡み合って、砂浜で拾った珊瑚を顕微鏡で覗いているみたい。
私はそれを中指で辿る。痣の上を通り過ぎても、そのまま肌の上に指を滑らせる。
すると痣は、それを追いかけるようにすうと拡がる。
「わたし、この痣好き」
恋人は私に言われるまでそんな痣があることを知らなかったらしい。
姿見の前で身体を目一杯ひねっても、私が手鏡の角度を絶妙に合わせても、自分自身では見ることができない。
うつ伏せの背中の上で私の中指が踊る。痣との追いかけっこ。始めは小さかった痣ももう掌よりも広くなった。古い教会のラビリンスのよう。
彼の背中に私の中指が迷い込む。出てこれなくたって、構わない。

(295字)



2009年10月7日水曜日

笑い坊主

 誰も見つからない。
 僕は諦めて、ぼんやり下ばかり見て歩いている。
「もういいかい」
 きっちり百数えてそう叫んだけれど、応えはなかった。たぶん、はじめから僕を置き去りにするつもりだったのだ。
 僕は僕の影を見つめて歩く。このまま家に帰ったら、母さんの顔を見た途端に泣いてしまいそうだった。いや、もう泣いてる。
「何を泣いておるのだ」
 にゅうと立ち上がった僕の影が、口と目をくり抜いただけの真っ黒な顔で、僕を覗き込んだ。
「……誰?」
「お前の笑い坊主」
「笑い坊主?」
「泣いてばかりでは、泣いてばかりだから、笑い坊主だ」
 とんちんかんなことを言いながら、真っ黒な顔は百面相を始めた。
「やーいやーい、泣き虫毛虫、アリンコのキンタマくれてやる」
 とうとう僕は吹き出す。
「今泣いたカラスがもう笑った」
 笑い坊主は泣きそうな顔をした。きっと夕焼けのせいだ。

(360字)
********************
500文字の心臓 第89回タイトル競作投稿作
○5 △1

原点に帰ろう、私が好きな超短編、私が書ける超短編を素直に書こうと決めたら、こうなりました。
せっかく心臓に出すのだから、超短編を書こうと。
心臓に超短編書かずにどこに書くんだ、と前回反省した。
コメントが染みました。ありがとうございます。
特に脳内亭さんからは最大の賛辞を頂戴しました。ありがとう。

影に掛けて、黒い生き物(アリンコとカラス)を出したところが今回のお遊び。

2009年10月4日日曜日

ことり

「コトリコトリコトリコトリ」
ラーメン屋の軒先で飼われている九官鳥のキュウベエは、それしか言わない。
誰かが教えたわけでもないらしい。ただただ「コトリコトリコトリ」と繰り返している。
その声があんまり切ないので、私は時々キュウベエに訊いてみる。
「コトリがどうしたの?」
それでもキュウベエは「コトリコトリコトリコトリ」と繰り返すだけ。

ある朝、私はキュウベエの声で目覚めた。
「コトリコトリコトリガミツケタ」
キュウベエは私のアパートの前で私を待っていたのだった。
「コトリコトリコトリコトリイッテシマウ」
どうやって鳥籠を抜け出したの? ラーメン屋のおじさんが心配しているかもしれない。そんなことを言いそうになったけれど、キュウベエの真剣な眼差しに負けた。
「コトリコトリコトリ」
キュウベエはよたよたと飛びながら「コトリ」を追う。
「コトリ コト リ コトリ コ トリ コト コト コト……」
壊れたテープのような声で喘ぎながら、「コトリ」を追う。
もう飛べなくなってもまだ「コトリ」を追う。
「もういいよ、キュウベエ。ことりは見つかったよ」
私は小さくなったキュウベエをてのひらにそっと包む。
てのひらから伝わるキュウベエのぬくもりは、なぜかとても懐かしい。

(506字)

ことり「第十七回タイトル競作」、タキガワさんと庵さんの作品が呼応してる…競作の奇跡だ。

2009年10月3日土曜日

観察する少女

 少女は素早くノートに書き記す。視線をノートに落とすことなく、小さな文字できっちりと文字を綴っていく。あまりにも小さな文字で読むことはできないけれど、僕のまばたきを、僕の呼吸を、すべて書き残しているのだ。いつだかこっそり教えてくれた。
 少女は僕の何もかもを見逃すことはない。だから僕たちは四六時中見つめ合っている。
「あなたは透明な檻の中にいるの。檻の中の物が檻の外の者に触れることはできない」
 僕がそっと少女の頬に手を伸ばそうとすると、彼女はそう言った。けれど、僕はそれを無視して少女に触れた。抱き寄せる。
 透明な檻なんて、初めからないんだよ。
 僕がそう耳元で囁く間も、少女はペンを動かし続ける。
僕の囁きがペンを走らす音にかき消される。抱きしめる。小さな文字が歪む。もっと強く抱きしめる。罫線からはみ出す。
それでも少女は観察する。その視線の先に、僕はいないのに。

(376字)

2009年10月1日木曜日

へたっぴサーカス、サーカスを見る

 サーカス団のへたっぴ三人組は今夜も公園でのこっそりお稽古に出かける。
 公園には、先客がいた。いつもゾウのミマノが玉乗りの練習をするあたりに、野良猫が一匹寝ているのだ。
 「こまったな」とおどおどしているのは、ライオンのコギュメだ。ライオンのくせに野良猫一匹追い出すことができない。
 仕方なく野良猫の邪魔にならないように、ひとりづつ変わりばんこに稽古することにした。一番目は、綱渡りの少女ニイナ。ところが綱が絡まってなかなか解けない。ミマノの鼻や、コギュメの尻尾も手伝おうとするけれど、綱は絡まるばかり。とうとうニイナの練習時間は終わってしまった。
 次にライオンのコギュメが火の輪くぐりを始めたけれど、野良猫がいるから助走距離がいつもより短い。踏鞴を踏んでばかりでうまく走ることすらできない。
 それを見ていた野良猫が「にゃーお」と話しかけてきた。飛び上がるほど驚いたコギュメは、ようよう野良猫に返事をする。
「こんばんは、猫さん。いい月の晩にお騒がせします」
 すると、猫はこう言った。
「あんたたちも、サーカスやってるのかい? おいらも今、サーカスの稽古中なんだ。ちょっと見てやってくれ」
 へたっぴな三人は顔を見合わせた。サーカスどころか、どう見たって猫は寝ているだけなのだ。
 こっちこっち、と猫は尻尾で三人を呼び寄せた。
「よくよく見ろよ、目ん玉凝らして見るんだぞ」
最初に気がついたのはライオンのコギュメだ。身をよじってモゾモゾしている。
「あら!」
 ニイナもミマナも気がついた。猫の毛皮の中で、小さな小さな蚤のサーカスが繰り広げられていたのだ。
 蚤たちは、突如現れた観客に大喜び。綱渡り蚤は綱渡りを往復二十三回もやって見せ、玉乗り蚤は猫の体を隈なく動き周り、火の輪くぐり蚤は火の輪に火を付け過ぎて、危うく猫が火傷しそうになった。
サーカスが終わると蚤たちが整列して高く高くジャンプした。
「どうもありがとう。明日はきみたちのサーカスが見たいな」
身体中を掻きながら、猫は去った。



2009年9月29日火曜日

九月二十九日 漆黒を手に入れる

時々、赤い目が光る。
二種類の丸と点が反対。
選ぶ余地が少ない音。
ペンギンはドジだ。

大袈裟に言うならば――なりふり構っていられない時が来る気がする。悪くない。

2009年9月28日月曜日

出るのはしゃっくりではないはずだ

ウィーンの老人は瀉下薬で晩酌する。
持病の癪が悪いときは、カミツレ茶で「ヒックヒック」。
このウィーンの老人には釈然としない。 


There was an Old Man of Vienna,
Who lived upon Tincture of Senna;
When that did not agree,
He took Camomile Tea,
That nasty Old Man of Vienna. 

エドワード・リア 『ナンセンスの絵本』より

2009年9月27日日曜日

めがね

「ゆめをみるためのめがねをください」
 と、人間の男の子がきつねの雑貨屋さんを訪ねてきました。
 たしかにきつねの店にはおかしなものがたくさんあります。願いが叶わない四つ葉のクローバーとか、一秒が長すぎる懐中時計とか、雨が大嫌いな長靴とか。
「なんだって、そんな眼鏡が欲しいんだい? 眠れないのかい?」
 きつねは男の子に尋ねました。
 男の子は違うと言いました。決して眠れないわけではないのだと。ただ、生まれてこの方、五年間「夢」を見たことがないというのです。
「そりゃあ、おかしいな」
 きつねはニヤリとしました。そして「ちょっと待ってな」と言い残して屋根裏に行きました。
 男の子が夢を見ていないはずがないのです。こんなきつねの店、人間は夢でも見てなければ来られないのですから。でもせっかくなので、きつねは男の子に眼鏡をあげようと思いました。昔々、この店によく来ていた人間のおじいさんの老眼鏡です。きっと屋根裏にあるはずです。あれなら男の子が欲しい「ゆめをみるめがね」にうってつけだときつねは思いました。
「ああ、あったあった」
 丸い鼻眼鏡のレンズに「はぁ」と息を吹きかけて尻尾で丁寧に拭くと、曇っていた眼鏡はぴかぴかになりました。
 屋根裏から降りると、きつねは眼鏡を男の子に渡しました。
「はい、178円だ」
 男の子は小さな緑色のお財布の中身を全部きつねのてのひらに乗せました。ぴったり178円です。
 さっそく、おじいさんの老眼鏡を掛けた男の子は言いました。
「あれ? おじさん、きつねじゃなかったの?」
おやまあ、あのおじいさん、ずいぶんな眼鏡を遺したもんだ、きつねは苦笑いしながら言いました。
「さて、帰ってゆっくりおやすみ。目が覚めたら夢がどんなものかわかるはずだよ」

(716字)

2009年9月26日土曜日

懺悔火曜日

「抱いた女は一人も顔を覚えちゃいない」
水曜日の男は、無精髭を擦る。
「一人きりになりたいのです」
木曜日の少年は鏡と接吻をする。
「1897年の2月31日は雨だった」
金曜日の老婆は繰り言を皺に刻む。
「にゃあ」
土曜日の猫はお天道さんのことしか考えない。
「……」
日曜日の赤ん坊は言葉を持たない。
「お許しください、お許しください」
月曜日の女は胸に手を当てさめざめと泣く。
「これから奪いに行きます」
私は火曜日に罪を宣言する。
占いが外れていなければ、私の罪はまたひとつ増えるから。

(232字)

2009年9月22日火曜日

壊すことの意味について

硝子戸にワイングラスを投げつけたら、どんな音がするだろう。
大した音じゃないかもしれない。石ころを投げつけたほうが余程派手でわかりやすい音がするに決まってる。誰が聞いても「今、ガラスが割れた!」ってわかる音がね。
でも石ころみたいに固くて握りやすくて投げやすいものじゃないんだ、この場合。この場合、ってのは今の僕の現実。空っぽのワイングラスを持って右往左往している。
ワイングラス。細くて薄くて軽くて透明で、繊細さに欠ける僕の手はどこをどう持っても壊してしまいそうで、何度持ち上げてもすぐにテーブルの上に戻してしまう。
だからいっそのこと壊してやりたくなったんだ。盛大に、ガッシャーンと。
そう決めてからも僕はワイングラスを上手く持てない。おずおずとつまみ上げてはテーブルに戻してしまう。
床に落とすのは簡単だ。けれど、床が相手では不足なのだ。ワイングラスに負けず劣らず薄くて透明なものは、あの食器棚の硝子戸しかない。
そこまでわかっているのに、僕は動けない。
何を迷っているんだ? 答えははっきりしているじゃないか。

(450字)

九月二十一日 船を見上げて

峠から見る船は、青空なのに霧の中を進む。面舵一杯。どこへ向かうのか尋ねる間もなく。

(41字)

2009年9月20日日曜日

へたっぴサーカスのお客さま

サーカス団のアジトはオンボロアパートの地下にある。
公園での夜の稽古から帰ってきたへたっぴな三人は、眠っているへたっぴでない団員たちを起こさぬように抜き足差し足。
ライオンのコギュメは初めから足音を立てることはない。だってライオンだもの。コギュメが歩いているのは団員たちのベッドの上。コギュメに踏みつけられているのに、だーれも目を覚まさない。
綱渡りのニイナは一昨日まで乳飲み子だった息子ナイムに右目でウィンクする。ナイムはお帰りのダンスで二頭と母を迎える。ニイナが左目でウィンクするとナイムはダンスを止めて、すやすや夢のくにへ。
最後に帰ってきたのは、ゾウのミマノだ。ミマノは尻尾でくるくる玉乗りの玉を回しながら歩いてきて、音もなく投げ、玉の籠へと片付けた。

こんなに器用な三人の姿を団員は誰も知らないから、いつまでたってもへたっぴサーカスなのだ。なにしろ二頭と一人も、これが芸になるとは思っていないから、披露したことがない。
でも本当は、感心して毎夜見物しているのお客さまがいる。オンボロアパート102号室に住む98歳のおばあちゃま。床の穴から覗き込んで目をぱちくりさせたあと、見物料にレーズンを三粒落とす。穴にはレーズンより大きいものが入らない。
けれど、そのレーズンは、オンボロアパートに住むネズミ一家がすぐに食べてしまうから、二頭と一人はレーズンをもらっていることを知らない。



2009年9月18日金曜日

夢 第九夜

私は開店前のバーにいる。ビルの一室であるその店の椅子に座って水を飲んでいる。
よれよれのジャージを着たくたびれた男が店内を掃除している。
男がおもむろに指を鳴らす。と、シャッターが上がり磨きあげられたガラスの扉が現れ、味気ない蛍光灯はどこかに失せてやわらかな照明が灯る。
男はいつの間に着替え、髪や髭を整えたらしい。見違える姿でバーテンとなっていた。
私は椅子に座って水を飲んでいる。

(186字)

2009年9月17日木曜日

開閉注意

ノルウェーのご婦人は戸口に座り込む。
扉が開いて、ぺしゃんこになる度「すわ一大事」と叫ぶ。
伸るか反るかのノルウェーのご婦人。 


There was a Young Lady of Norway,
Who casually sat on a doorway;
When the door squeezed her flat,
She exclaimed, 'What of that?'
This courageous Young Lady of Norway. 

 エドワード・リア 『ナンセンスの絵本』より

2009年9月16日水曜日

九月十六日 勇者たち

叫び声に振り向くと、巨大な蜘蛛がいた。脚が長い。
天井近くを素早く動く。動く度に悲鳴があがる。
悲鳴を聞き付けた勇者ナリがスリッパ片手に現れ、蜘蛛に挑んだ。
潰れた蜘蛛を回収するために、箒と塵取りを取り戻って見ると、蜘蛛はまだ死んでいなかった。ひるむ私の前に勇者キサが現れ、箒で蜘蛛に留めを刺す。
蜘蛛は絶命した。

(153字)

2009年9月15日火曜日

頭蓋骨を捜せ

 レントゲン技師は申し訳なさそうにこう言った。
「ミスター、あなたのレントゲンには頭部が写らないのです。つまり、その、頭蓋骨が……ない、ということです」
 ああ、私はこの善良そうな若きレントゲン技師を困らせてしまったようだ。
 それにしても、私はどこで頭蓋骨を落としてしまったのだろう。
 ホスピタルを出、道端にごろごろと転がっている夥しい数の頭蓋骨を前に途方にくれた。この中から私の頭蓋骨を捜すとなると実に骨だぞ、と呟きながら、明らかに自分よりも小さな頭蓋骨を一つ拾い上げる。
「これにしてしまおうか」
 すると小さな頭蓋骨は、まだ年端もいかない声で叫んだ。
「拐かしめ!」

(276字)

発掘作。

傍目も振らず、一目散

稀なまなこをお持ちのお嬢さん。
カッと見開き、色目、流し眼、上目遣い。
彼女がにっこり微笑むと、誰もが逃げずにいられない。 


There was a Young Lady whose eyes,
Were unique as to colour and size;
When she opened them wide,
People all turned aside,
And started away in surprise.

エドワード・リア『ナンセンスの絵本』

2009年9月10日木曜日

靴の屁理屈

リーキンの爺さん、ギシギシ軋む足音が気色悪いこと甚だしい。
「きっちり教えてもらおうじゃないか、リーキンの爺さん。あんたの靴は革製か」
キンキン金切り声で気色ばむ。
There was an Old Man of the Wrekin
Whose shoes made a horrible creaking
But they said, 'Tell us whether,
Your shoes are of leather,
Or of what, you Old Man of the Wrekin?'

エドワード・リア『ナンセンスの絵本』

++++++
久しぶり(実に二年ぶりだ!)にやると調子が出ない(笑)。難しい。
柳瀬訳はライム重視だから、私は意味とダジャレを重視して、尚且つちょっとリズムを悪くしてる。
納まりが悪い感じ自体がイングランドユーモアっぽいような、勝手なイメージ。

2009年9月9日水曜日

お仕着せがましい

西に住みたるご老人、豪華なプラム色のチョッキをちゃっかり着服。
「着心地は如何」と訊かれて
「あっぷっぷ」
と、血相の悪い西のご老人。 


There was an Old Man of the West,
Who wore a pale plum-coloured vest;
When they said, 'Does it fit?'
He replied, 'Not a bit!'
That uneasy Old Man of the West.

エドワード・リア『ナンセンスの絵本』

2009年9月7日月曜日

螺旋街

 螺旋上の坂道を歩いて、円錐ビルディング32号棟の最上階の部屋へ。ここが僕の仕事部屋だ。
「カメラ作りをしているなら、仕事がたくさんあるよ」
 酒場で出会った縮れ髭のお爺さんに誘われるままやってきた海沿いの街。この街の建物は、渦巻きだった。
 円錐型の建物に巻きつくようにぐるりとスロープが付いている。手すりもなにもないこの坂道を、腰の曲がったおばあさんも、よちよち歩きのちびちゃんも、平気で上り下りしている光景には、心底魂消た。何しろ、階段がないのだ、この街には。

 僕はピンホールカメラを作っている。精巧な螺鈿細工を施した箱を使ったカメラは、そんなに売れるものじゃないけれど、僕はこの仕事に誇りを持っていた。僕のカメラを気に入ったカメラマンや好事家から、ぽつりぽつりと注文が入る。僕の作ったカメラで撮った写真とカメラを並べて、個展を開いたりもする。材料集めからすべて一人でやっているから、ひとつのカメラを仕上げるのには時間がかかる。だから注文が少なくても、暇で困るということはなかった。
 けれど、この街に来てから、カメラの注文は倍になった。海沿いの街だから、材料には困らない。箱に使う流木も、螺鈿に使う貝殻もすぐに拾い集めることができた。けれども、時代遅れのピンホールカメラを皆が欲しがる理由がわからない。

 夕方、仕事が一段落した僕は自分のカメラを抱えて部屋の窓から街を見下ろした。円錐型の建物がにょきにょきと伸びた街が、夕陽に照らされて美しい。ピンホールの蓋を開け、ゆっくり四十五秒数えた。蓋を閉じる。すぐに暗室に入る。
 そういえば、この街に来てからまだ撮影をしたことがなかった、と思いながら定着液から印画紙を引き出した。
 そこには螺旋に捩じれたグレーの街が映っていた。透明な巻き貝のレンズで覗き込んだような光景。そうか。この街は、街ごと螺旋に捩じれている真っ只中にあるのだ。
 妙に納得しながら、出来あがったばかりの写真と、窓から望む街の景色を見くらべてみる。今日の晩ご飯は何にしよう。

(836字)

2009年9月6日日曜日

夢 第八夜

雨が降りだしそうな鈍色の空の下、私は傘を持って信号が青になるのを待っていた。
不意に、傘を持った手を引っ張られる。背の高い、表情の乏しい男が私の手首を掴んでいる。
信号が青になる。私は走り出す。向こうに行けば、逢いたい人に逢えるはずなのだ。
だが、走っても走っても、知った顔に出合わない。
歩く人全てが、あの表情のない背の高い男で、走り疲れた私は、とうとう男に捕えられてしまう。

(185字)

2009年9月5日土曜日

夜空の色

尻尾を切られた黒猫は、夢を見た。
コルネット吹きが独りでコルネットを吹いている。黒猫は聴いたことのないメロディーだ。コルネット吹きは誰にそれを聴かせるふうでもなく、夜空に向け、遠くへ遠くへ、音色を飛ばそうとしていた。
音色はやがて色になり、空一面に散らばり始めた。七色の空に瞬く星星。
こんなに空が明るくなってもコルネット吹きは演奏を止めない。黒猫は眩しくて目を閉じた――

目を覚ますと黒猫はコルネット吹きに逢いに行った。
〔何故コルネットを吹くのだ?〕
「ヌバタマは難しい質問をするな。夜空を黒くするためさ。七色の夜空なんて、可笑しいだろう? この中には、夜空から吸い取った色が入ってるんだ」
黒猫はコルネットのラッパの中に頭を入れてみたが、夜空のように黒いだけだった。

(328字)

2009年9月3日木曜日

名前はまだない

 「さぁ、名前を教えておくれ」
 カンバスに問い掛ける。若く美しい婦人像は応えない。つまり、完成していないのだ。絵は完成すれば、必ず名乗る。
 マーガレット。僕は想い人をそこに描いたつもりだった。肖像画を描く技術には自信がある。愛情も劣情もありのままに筆に込めた。それなのに描かれた女は無言のまま。彼女を知る人は誰しもこれはマーガレットを描いたものだと言うはずだ。けれど当の絵が何も言わないのでは、どうしようもない。これはマーガレットに一見、似ているだけの絵であり、マーガレットの肖像画ではないと、絵は主張している。
 僕は再び筆を取る。どうしてよいのかわからないので、暗い色ばかりを盛り付ける。
「名前は?」
 無言。
 一筆毎に名を訊ねる。絵は応えない。
 マーガレットのはずだった婦人が暗澹たる油絵具に埋もれていく。それでも絵は名乗らない。
 ついに陽が暮れてしまった。
「新作の肖像画、完成を見たかと思いきや、崩壊を始める」
 創作ノートに記すと、まだ触れたことのないマーガレットを想いながら、欲望を激しく吐き出した。カンバスに白い汁が飛び散った。これ以上どう侵すことができようか?

(476字)

********************
500文字の心臓 第88回タイトル競作投稿作
○1

2009年9月2日水曜日

九月二日 後悔する理由

一日に何度も「後悔先に立たず」と呟いている。
ウサギは「それはお前が鈍感だからだ。今しか出来ないないことに気が付かない」と赤茶色くなった毛皮をボリボリ掻きながら言う。夏の間、日焼け止めを塗り忘れたのだ。毛がハラハラと床に落ちる。
「掃除は自分でしろよ」とコロコロを渡したら、身体に転がし始めた。テープがべったり貼りつく。剥がしてやろうとすると痛い痛いと喚く。
「後悔先に立たず」。ウサギの場合は、鈍感などではなくて、単なるアホだと思う。

(215字)

2009年8月31日月曜日

青い玉、赤い玉

甘い匂いに誘われて通りを歩いていると、蛇が絡まる絵が施された黒い面を被った男が、露店を開いていた。
「いらっしゃい」
高い鼻の面からくぐもった低い声がする。
「箱から出てきたのが青い玉なら夢をあげましょう。赤い玉なら、闇をあげましょう」
面の中から覗く男の目が金色に光る。
差し出された箱は、男の面と同じ黒地に蛇の這う絵。丸く開いた穴に手を入れると、生暖かい。
底に触れて探っても、玉など一つもなかった。男に問い質そうと口を開き掛け。た途端、手のひらに飛び込む球体。
恐る恐る引き上げると、私の右手は鮮やかな赤い玉を握っていた。
「おめでとう。闇を差し上げます」
煙草の煙でも吐き出すように、男の口から黒い靄が出てきた。少しも逃すまいと、口を開けて吸い込む。どうしてこんな不気味なものを吸い込もうとするのだ、と頭の片隅で考えるが、やめられない。

闇を受け取ってからというもの、休日になると面を付け、箱を抱えて通りに出る。もちろん、尖った鼻の黒い面には蛇の絵。
「いらっしゃい。赤い玉なら

(431字)

2009年8月29日土曜日

DEAR MY SOLDIER

盾になることが君を守る唯一の方法だと思い込んでいた。
ズタズタに斬られて、それで君が無事なら、僕の行いは完全に正しいと信じていた。

僕が君を守ろうとすればするほど、君は涙を流す。青い涙をガラスのペンに浸して、僕へのラブレターを綴る。
君はラブレターを紙飛行機にして、戦場にいる僕に寄越すけれど、その手紙を僕は読むことができない。そこにはただ涙の跡があるだけ。

ついに僕はラブレターを読む。君の血液で綴られた文字を読む。
「あなたが傷つけば私も傷つくと、いつになったらわかってくれるの? ――あなたは「私の愛する人」を何よりも大事にしてください」

あぁ、僕は若過ぎた。君の涙の意味をちっともわかっちゃいなかった。おまけに僕は、傷ついた僕に陶酔していたんだ。
あれから、どれだけ年月が経っただろう。僕も君もずいぶん年を取った。あの手紙を書くために君が傷つけた右の太股の内側には、まだ跡が残ったまま。

(389字)

2009年8月27日木曜日

夢 第七夜

かつて城下町だったこの町だが、大通り商店街に人の気配はない。
錆びたシャッターが延々と続く。点滅したままの青信号、剥げた横断歩道。
祭りを知らせる赤い提灯型の電球だけが規則正しく明る過ぎる。
私は真夜中の大通り商店街の車道の真ん中を一人で歩いている。どこに向かっているのかわからない。歩いても歩いても、死んだ商店街は終わらない。
突如、鳴り響く「ニュース速報」の音、と同時に激しい揺れ。
絶叫。
叫んでいるのは私だと、夢の中の私は気が付かない。耳を塞いだまま、あらんかぎりの声で、叫んでいる。

(240字)

2009年8月26日水曜日

八月二十五日 ウサギ乞いし池袋

ウサギ追う列車の中に晩夏の風
赤信号、憂国の男、スピーカー
人込みを避けて通るはホテル街
ウサギなく牛の姿に後ろ髪
万華鏡、小宇宙にウサギを見る
サーモン・チーズ、エビ・アボカド、優柔不断
民社党? 思いがけなく時間旅行
兎にも角にもウサギ捕獲失敗

(116字)

2009年8月21日金曜日

夢 第六夜

新しい縮毛矯正が開発されて、友人は早速試した。さらさらな髪にご満悦だ。
私は彼女に一本の白髪を見つける。抜いて欲しいというのでそれを辿ると、根元に向かって太くなっていく。頭皮に至ると親指くらいの太さがあったが、ちょっと引っ張るとあっけなく抜けた。大きな毛穴を覗き込む。なにやら蠢くものが見える。右手に握った白髪がぶるんと震えた。

(163字)

2009年8月20日木曜日

夢 第五夜

ハイテクノロジーな文房具セットを手に入れる。
ロックを外せば小さな机があらわれ、各種テープ類が整然と並び、鋏は3種類、カッターや刃物は4種類、糊や接着材は数えられないほど。どれもきっちり定位置に収まっている。糊もテープはいくら使っても尽きることがない。
真っ白でつるりとした機能的なミニデスクは、何がどこにあるのか探すのが大変だ。そしてあまりにも機能的過ぎることにデスクが自己陶酔しているらしい。消しゴムのカス一つで、警告音が鳴り響く。

(216字)

2009年8月18日火曜日

夢 第四夜

口角炎が治らない。一言喋ろうとする度に口の端が切れて血が滲み出る。
ハンカチ大のガーゼを折り畳み唇に押し当てる。何度も血液を吸ったガーゼを、洗い、また使う。
斑な赤茶色の染みを作ったガーゼを使い続ける。
そのうち口を開かなくとも、ふいに血がじわりと溢れ出るようになる。洗い過ぎて硬くなりつつあるガーゼが傷に障る。このガーゼを、どこまで汚すことができるかしらと頭のどこかで考えている。

(188字)

2009年8月17日月曜日

夢 第三夜

部屋の床一杯に散乱した貝殻とビー玉を分類している。
家中の籠や笊を使って、巻貝、二枚貝、タカラ貝、青いビー玉、赤いビー玉、緑のビー玉……と選り分ける。
貝殻もビー玉も、割れているものが相当ある。割れているのは選り分けない。なかなか床の貝殻とビー玉は減らない。けれども飽きることも焦ることもなく、私はひとつづつ拾っては検分し、籠に入れていく。ただ、籠や笊が足らないので少し困っている。もうこれ以上入れ物になりそうなものは家にない。
部屋の片隅で、年若い男が私の様子を眺めている。膝を抱えて蹲り、無表情でこちらを見ている。

(256字)

2009年8月14日金曜日

夢 第二夜

生前葬に呼ばれる。
食事を始めて暫くすると、ストレッチャーに乗った旧い友人が現れた。治療法の確立されていない難病に冒され、余命いくばくもなくなり、生前葬を決めたらしい。
十数年振りに見る彼はげっそりとやつれ、髪は真っ白になっていた。あちこちにチューブや包帯を付け、痛むのか頻りに左の太股を擦っていた。
はち切れんばかりの笑顔の彼は、そこにはなかった。私は彼にずいぶんと世話になった。逞しい彼は、少々お節介だったけれども、確かに私の騎士だった。
感謝を伝えたかった。病との闘いを労いたかった。しかし虚ろな目の彼に掛ける言葉が見つからない。いくら咀嚼しても唾液が出ないまま、出された食事をもそもそと臙下し続ける。

(300字)

2009年8月12日水曜日

夢 第一夜

腹痛に泣いている男の腹をさすっている。
男は痩せているのに、その腹はやわらかな脂肪がついている。
男の腹痛が落ち着いても私は彼の腹を撫で続け、心地よくてそのままウトウトと眠ってしまう。

目覚めてから、この男は現実に具合が悪かったのではないかという気がして仕方がないのだが、確かめようがない。男が誰だかわからないのだから。

(157字)

2009年8月11日火曜日

銀河ステーション

別れを惜しむ恋人たちを尻目に、私は仁王立ちで汽車を待っている。
ステーションには次々と汽車がやってくるが、私の乗るべき汽車はずいぶん遅れているらしい。数十億光年の長距離汽車だから仕方がないのかもしれない。
しかし私は待ちくたびれた。足がホームに張りついたように動かない。
馴染みの駅員が私の前に立ち、一口だけ駅弁を食わせてくれる。
残りを頬張りながら、駅員は改札に戻って切符切りを始める。鋏の音につられて、私の心の臓は大儀そうに鼓動を続ける。
私は一体なんという星を目指して汽車に乗ろうとしているのだろうか、ふと不安になる。さっきまで確固たる確信の下に汽車を待っていたはずなのに、よくわからなくなっている。今の私に切符を確かめる術はない。
煌めく星星の眺めと裏腹に、ホームの一寸先は宇宙の闇。汽車など待たず、足が動くうちにホームの向こうへ歩きだせばよかったのかもしれない。ほんの三歩歩ければ。
また汽車が来る。
駅員が慌て走ってきて私をひょいと持ち上げ、車掌に渡す。死んでないだろね、トランクのほうが重たくなってら、と車掌が笑う。

(457字)

2009年8月10日月曜日

電卓について

もしも存分に道楽できる身分であったら、私は電卓を収集したい。
電卓がきちんと並んだ陳列棚のある書斎で書き物をするのを夢想する。時折、大きさや色で並べ替えるのは、実に愉しいひとときだろう。
電卓の何が私をそんなにも興奮させるのか。規則正しく並んだ数字釦、小さな画面に現れるデジタル数字。ならば携帯電話も似たようなものじゃないかと思うが、やはり違うのだ。ただ計算をするためだけに特化された形と機能は、普及してから大きな外見的変化なしに、しかし世の中の流行を反映させながら、新しい電卓は生まれ続けている。
一体、ごく平凡な生活を営む善良な市民が人生で何度、電卓を買うだろうか。電卓は簡単に壊れる家電製品とは違うから、そう幾度も買い直すものではない。それにも関わらず文房具売場には数種類の電卓を置いてある店も少なくない。携帯電話や電子辞書、あちこちに計算機の機能は付加されているというのに、電卓は電卓それ以上でもそれ以下でもなく、今尚存在している。健気ではないか。
武骨な事務用のもよい。かわいらしくカラフルなのもよい。一応の好みはある。縦型の長方形で、上部に液晶窓があるものが一番好ましい。

店で電卓を見るたび、このようなことを考えながら、私は指をくわえるのだ。

(523字)



2009年8月9日日曜日

八月九日 薔薇日和り

インカの薔薇の指輪を付けて、薔薇の香り風呂に入った。
仕方がない。このくらい強い色と香りでなければ、抑えることができない。

(60字)

2009年8月7日金曜日

東京に空がない

指を揃えた両のてのひらを頭上にかざす。人差し指と親指が作る三角窓から仰ぎ覗く東京の灰色の空は、ビルと電線で細かな欠片にしか見えない。
あの日初めて東京に来た時も、同じことをした。その頃はまだ辛うじて、てのひらの三角窓に、空だけを入れることもできた。
けれど今じゃ不可能だ。どこへ行っても空は細かい境界線が引かれ、難易度の高いジグソーパズルみたいになってしまった。
未来になれば、科学技術も開発計画も進んですっきりとした街並みになるんだと思っていた。
だが実際は、逆だった。東京は網の目どころか蚊帳の目のように電線が張り巡らされ、建物はひたすら天を目指して建設ラッシュが止まらない。
青空も、雲の流れも、夕焼けも、星空も、今や郷愁の中に生きているのみ。
突然、猛烈に空が恋しくなって、建設中のビルに駆け込む。都内一となる予定のビルだ。793階建ての667階まで完成、328階までは既に入居が済んでいる。
超高速エレベーターに乗って328階まで上がり「工事関係者以外立ち入り禁止」のゲートを破り、667階へ。ここから先はロボットの仕事場だ。警備を騙して、ようやく赤い鋼鉄の腕を見つける。あれに連れて行ってもらうのだ、東京で一番高い所へ。空を独り占めするために。
しがみ付いたクレーンはゆっくりと上昇を始める。
さぁ! 空だ、空だ、青空よ! ここまで来れば何も邪魔することはない!
しかし視界はいつまでも、のっぺりとしたグリーン一色。

(602字)

2009年8月6日木曜日

振動

携帯電話を金魚鉢に沈めた。
金魚は新しい侵入物を気にするふうもなく、変わらずに泳いでいる。
ふいに水中の携帯電話が振動する。金魚鉢の水は大袈裟なくらい波打ち、金魚は鉢から飛び出した。
フローリングの上で苦しむ三匹の金魚を尻目に、私は震える携帯を水中から掬いだす。
液晶画面に、あの人の名はない。真っ暗な画面のまま震え続ける携帯電話を胸に押し当てる。息絶えた金魚たちはもう異臭を放ちはじめた。

(191字)

2009年8月4日火曜日

酔狂

酔わせるつもりが、酔ったのは俺のほうだった。
どうしたんだ、みっともない。こんなつもりじゃなかったのに。わずかに残った冷静な脳ミソが呟いているけれど、身体は言うことを聞いちゃくれない。
きっとアレだ。彼女が珍しいでしょ、と言って見せてくれた小瓶のせいだ。
透明な液体が入った龍の姿をした瓶は、小さいながらも今にも躍動しそうな迫力があって目が離せなくなった。
欲しい? と問われて答えた声は上ずっていたかもしれない。
「龍に勝つことが出来たら」
彼女は龍の尾を捻り、引き抜いた。瞬間、目が眩むほどの強烈な匂い。
やっぱりそうだ、俺が酔ったのは酒なんかじゃなく、あの龍のせいだ。
「中身はただの香水だよ? こんな腰抜けじゃ、まだ、あげられないね」と悪戯っぽく笑う彼女に凭れながら、今に見てろと回らない舌で言ったけれど、彼女に言ったのか龍に言ったのか、我ながらわからない。

(373字)

2009年8月3日月曜日

八月三日 眠たくない

窓から鈴を投げているとカラスが「ぽっぽっぽ」と鳴きながら鈴を持って飛んで行ってしまった。
こんな寝不足の日に昼寝をしなかった罰だと思う。

(67字)

2009年8月1日土曜日

海中ホテル

思い出話をしよう。僕は15歳の中学生で、修学旅行の時の話だ。
海沿いの暖かい町だった。特急とバスと船を乗り継いでホテルに着いた。
ホテルは海の中にぽつんと立っていた。特になんの変哲もない、どこかの町のビジネスホテルのような作りだった。
先生は言った。「ホテルに着いたから、荷物を持って船を降りなさい」
ホテルの入り口は一階で、それはもちろん海の中だった。
泳ぎに覚えのある奴は平気な顔で飛び込んで行ったけれど、生憎僕は泳げない。完全なカナヅチだった。
とうとう船にはマナミと僕だけになった。マナミもやっぱり泳げなかったのだ。
マナミは「一緒に行こう」と僕の腕を掴んだ。思いの他しっかりしがみついてきたので、僕にもう一つ緊張が加わった。けれど僕はマナミに感謝もしていたのだ。僕のほうこそ誰かにしがみつきたい気分だったのだから。
マナミの身体の重みは僕に勇気をくれた。

ホテルにどういう魔法が掛かっていたのだろう、海の中では呼吸が苦しいこともなく、身体は思い通りに動かすことが出来た。導かれるように、ホテルの入り口まで沈んでいった。
僕はマナミと手を繋いだままホテルに入ると、髭を生やしたフロントマンが笑顔で迎えてくれた。髭が潮の流れに合わせてゆらゆらと動いているのが可笑しくて、僕とマナミは大笑いしたけれど、フロントマンはちっとも怒らなかった。
「三年二組、皆様お揃いですね。海中のお部屋になさいますか? それとも海上のお部屋に?」
もちろん、僕もマナミも海中の部屋にしたよ。

(624字)

2009年7月29日水曜日

不眠

「己の鼓動がうるさくて眠れない」
隣で寝る祖父はやおら起き上がり、耳を包丁で切った。
耳を失ってもまだ「うるさい」という。
今度は包丁を胸に突き刺し
「あぁ、やっと静かに眠れる。お前もおやすみ」
と祖父は言った。
おじいちゃん、おやすみなさい、と呟いて頭まで布団を被る。鼓動がうるさくて眠れそうにない。

(145字)

2009年7月28日火曜日

亀使い

神社の境内にある池には、亀が大勢泳いでいる。亀の甲羅の上には一人ずつ少年少女がいる。亀使いだろうか。
亀使いは中華風の格好をしているように見えるが、皆身長五センチほどで、この橋の上から覗きこんでそう見えるだけのことだ。
亀使いは棒、といっても実際は縫い針より小さいわけだが、それで亀の頭をつついている。
ただ、亀使いの合図通りに亀が泳いでいるのかどうか、判断は出来ない。無闇につついているだけかもしれない。
夕立がやってくると亀使いは皆、亀の首から甲羅の中に潜り込んでしまった。
亀は先程までと変わらない様子で池を泳いでいる。亀使いが甲羅の中から操っているのかもしれないし、そもそも操ってなどいないのかもしれない。
結局、小さな少年少女たちが亀使いなのかどうかは、わからない、という結論に至る。
雨足が強くなってきた。

(352字)

2009年7月26日日曜日

七月二十六日 五粍

この暑い中、厚い紙を切り出してはみたものの、やはり厚過ぎて、どうにも使い物にならないと判明する。何かに似ているような気がするけれど、思い出せない。
あまりに厚いから腕が痺れた。
そういえば、ウサギの尻尾はまだ見つからない。
すべては暑さのせい。

(119字)

豆本がちゃぽん、八月は変則稼働の予定です。

パフォー! の放送は3日らしいですな。BS2かな。録画しよう。
超短編の人たちのがひとつでも出ると、にやにや出来て楽しいと思う(というか、にやにやすれば満足だ)。

2009年7月24日金曜日

棲家

家の中に小川が流れている。玄関を入ったらまず川を跨いで越える。
廊下の真ん中は川だ。メダカが元気だ。
台所には、洗い物や飲み水用の溜め池があるから、実用的ではある。
居間には立派な座卓がある。川の上に座卓があるのだ。
足を伸ばせば、川の中に入ることになるから、この家では裸足でいるのが賢明だろう。
大家は「冬は温いです」と言った。それは冬にならないとわからない。
階段は、滝になっている。静かなもので、とくに飛沫が床や壁を濡らすこともないようだ。
二階には四畳半が二間、上がって右の部屋を寝室に、左の部屋を仕事部屋とすることに決める。さっぱりとしたよい部屋だ。仕事場も、文机さえ置ければよい。狭いことは、特に気にならない。
水源は、寝室の押し入れだ。「布団は濡れません」と大家は言った。
この奥には、小さくて広大な森が広がっているのだそうだ。
「森の神さんと水の神さんが時々、くすぐりに来ます」と大家は言った。
くすぐられて笑えば、水害も干ばつも起きない。だが、ほんの少しでも腹を立てたり、邪剣にすれば、国のどこかで災害が起きるという。

(457字)

↑滋賀県の琵琶湖畔の「川端(かばた)」、そんなイメージ。ずいぶん前に、NHKの番組で見て、憧れたなあ。実際住めば、水道しか知らない私には、戸惑いや困ることもあるのかもしれないけれどね。でもやっぱりいいよなあ。


この写真に興奮した。
ライトアップというのは、あんまり好きでないのだけど、さすがにこれはキタ。
洞窟は幼稚園のときに行った富士山の富岳風穴と鳴沢氷穴で好きになった。福音館書店の月刊誌たくさんのふしぎの「どうくつをたんけんする」堀内誠一で決定的になった。私の雑学の半分は、たくさんのふしぎでできている。
ケイビングはやらない。運動音痴だから。狭いの怖いから。

2009年7月22日水曜日

海底教会

皆既日食でフクロウがうっかりホホゥと鳴いたり、幽霊がうっかり「羨ましや」と呟いたりした日の晩に、海底教会は出現するそうだ。よくわからない。
私は拾ったゴミだらけの玉手箱をうっかり開いたせいで海底教会に連れて来られた。砂浜でうっかり亀に「海はどっちですか」と訊ねた八歳の男の子と、これから指輪の交換をするらしいのだけれど、乙姫さんがうっかり指輪を試しにはめて、抜けなくなったから、もうしらない。

(195字)

七月二十二日 赤い糸

赤い糸は長すぎる。細すぎる。絡まって仕方がないから解きにかかる。
けれど解くのに夢中になって、一体この糸で何を縫おうとしていたのか、忘れてしまう。
いつまで経っても解けない。解いても解いてもまだ絡まり、ダマがいくつも出来ている。解くのを諦めて糸を手繰っていったら、外に出てしまう。歩いて歩いて、結局、公園で昼寝をしているウサギの薬指にたどり着いた。糸切鋏を取りに帰ろう。

(183字)

2009年7月21日火曜日

骨格標本のある部屋

 扉を開けると、強い芳香が押し寄せる。
 初めて訪れた友人Mの部屋には、二十センチから六十センチほどの骨格標本が壁一面の大きな棚に整然と並べられていた。
「君、これは一体……。とても美しいな」
 骨格標本の並んだ棚は、ブラックウォルナットで出来た重厚な造りで、小さな骸骨が一層白く輝いて見える。
「どうだい? きれいだろう」
 私が圧倒されているのを見て、Mは満更でもない様子だ。同じくブラックウォルナットのデスクには、作業用のマットと、様々な刃物や道具が几帳面に並んでいる。
「素晴らしいじゃないか、君にこんな趣味があるとは知らなかったよ」
「気味悪がる奴もいるからね、大学ではほとんど話したことがなかった。こんなに喜んでくれるとは、君を呼んで正解だったな。遠慮なく見たまえ」
 標本には細かいデータを記したキャプションが付いている。名前、生年月日、死亡日時、死亡原因。すべて十代の少女だ。
 一部の骨が欠損した標本や、骨折の跡などが残っているものもある。触ってもいいか、とMに断ってから、左足のない「マーガレット」の頭蓋骨を指先でそっと撫でた。
「見れば見るほどよく出来ている。一体どうやって作ったのかい?」
「これらは確かに、僕の手によるものだ。だが、作ったというと語弊があるな」
 Mはそう言うと、ちらりとデスク脇の紙袋に目を遣った。そこには大小様々な少女を模した人形がいた。目が合った西洋人形は、片頬が割れ、闇を覗かせている。慌てて目を逸らす。
「以前、医学部の友人を連れてきたら、『この部屋は解剖室と同じ匂いがする』と言って出て行ったよ」
 腐った実芭蕉を思わせる匂いを、胸一杯に吸い込む。

ビーケーワン怪談投稿作

落し物

 切れかけた街灯の下に、佇むものを見る。
 その街灯は、もう長いこと切れかけたままである。交換される気配もなく、完全に切れることもない。何年もジリジリと消えたり点いたりを繰り返しているのだった。
 佇むものに気がついたのも、いつのことだったかはっきりとは思い出せない。はじめは自転車や犬猫の姿ばかりしていたのだろう、気にも留めなかったのだ。ある時それが人の形をしているのを目撃してから、否応なしに街灯の下を注目するようになった。暗がりの中、街灯の明滅に合わせ、佇むものも揺らぐ。人の形をしたものが立っている時は、声を掛けるべきかと迷う。一度もそれをしなかったのは、猫でも人でも自転車でも、それらが文字通り地に足が着いていないからだ。
 彼は誰時にその道を通る。街灯はやはり、不規則な明滅を繰り返していた。
 私は、ずっとそれらが「ひとり」だと思い込んでいた。夜にそこを通る時はいつも、一人か一匹か一台だけだったから、姿を変えて同じものが居るのだと思っていた。だが、そうではなかった。空のもとで目にしたのは、猫や狸や子供や人形が組んず解れつ、街灯をも巻き込みながら蠢く巨大な肉の塊であった。よくよく見れば、所々に傘や薬缶や自転車がぎちぎちと挟まっている。
「不用品ですか?」
 清掃員の格好をした男だった。男は一本だけの腕を忙しなく動かしながら肉の塊を継ぎ接ぎだらけの頭陀袋に押し込み、繰り返す。
「不用品ですか?」
 脳裏に浮かぶものを打ち消そうと大声で答える。
「違います」
 ニヤリと笑い、清掃員は頭陀袋を背中に担いで歩き始める。頭陀袋の破れ目から、たった今思い浮かべた顔をした人が落ちる。

ビーケーワン怪談投稿作

2009年7月20日月曜日

トリコ

 鳥籠を形見として手に入れたのは、祖父が死んでまもなくのことだった。祖母も初めて見るという鳥籠は竹で出来たドーム型で、繊細に編まれて美しかった。簡素と効率を好んだ祖父と、華奢で麗しい鳥籠はどうにも似合わないが、死んで初めて垣間見た祖父の一面が染み入り、大切にすると心に決めた。早速、小鳥を飼うことにする。鳥籠に鳥がいないのは、やはり寂しいと思ったのだ。
 十姉妹を一羽、飼うことにした。鳥が入った鳥籠は、一層美しく見えた。祖父もこうして鳥籠を眺めてうっとりとしたことがあるのかもしれない。
 明くる朝、十姉妹は鳥の姿ではなくなっていた。小さな少女が一人、止まり木に腰掛けている。ふらふらと足を揺らして。
「あなたが飼い主なの?」
 黒目がちな目が真直ぐにこちらを見据える。
「そういうことになる、と思う」
 僕は鳥を飼い始めたつもりなのに、少女の食事を作り、服を着せ、髪を梳かし、身体を拭くことに明け暮れた。徐々に要求は高まる。ほんの僅かしか食べないのに、高価な食材でないとそっぽを向く。服は華美を極め、お姫様のような姿になった。女の子の人形遊びだってこんなにはしないだろう。そして、僕がどんなに夢中になろうと、彼女はやはり相変わらず鳥だった。鳥籠には抜け落ちた羽と、鳥の糞が溜まっていく。
 羽の抜け落ちは、半年を過ぎる頃から尋常でない量に増えた。同時に美貌も衰え始め、豊かな髪は艶を失い、眸は濁った。
 ついに止まり木から墜落した少女は、十姉妹の姿に戻った。鳥籠に彼女を納めた日から十ヶ月と二十四日目のことだった。僕は庭に墓を作り、小さなドレスに包んだ十姉妹を埋めた。
 そんなことをもう四半世紀も続けている。庭の鳥の墓は、六十七になった。

(705字)

第七回ビーケーワン怪談大賞に未投稿作品

投稿作は
落し物
骨格標本のある部屋
ランデヴー

どうにかこうにか、今年も三作出せました。トリコは、最初に書いて結局投稿しなかったものです。
何がいけないってんじゃなくて、二作目に出した「骨格標本のある部屋」と一番似た雰囲気だから。「骨格標本」と、どちらかをやめにしようと思って、こっちをやめた、ただそれだけです。

今年は、なんというか、無意識の意識とか、身の回りの人への思いやりとか慈しみとか(特に先に出した二作では、逆説的な描き方になっておるが)、そーいうものが書きたかったらしい。……と、四作並べて見渡してから気づくわけだけども。

最後に、投稿前に目を通してくれた友人たちにお礼を。ありがとー!大好きだ。
やっぱり、こまごまと具体的な感想を貰わずとも、一度人前に出すことによって、自分も客観的に読み直せるんだね。

2009年7月18日土曜日

地球は深呼吸で反転す

半ば強引に空を広く眺めて、深呼吸する。
ほら、浮き世のざわめきは、呼吸を浅くするからね。視野も狭くなるようだ。

三度目に大きく息を吐き出したら、ごぼごぼと大きな泡ぶくが出て、急に呼吸が楽になった。
空と海とがひっくり返ったらしいぞ。今からぼくは、陸上ではなくて海中の生きものだ。
ならば、泳ごう。居心地のよい潮流を求めて。

空には、びっくり眼のチョウチンアンコウが浮かんでる。

(183字)

2009年7月15日水曜日

彼方へ

砂漠の地下には砂の厚さと同じだけの深さの湖があるという。
砂漠の風紋は、鏡のように湖の波紋となって現れる。
砂漠の底が湖底であり、湖底は砂漠の底である。しかし清らかな水は、砂漠を潤すことは決してない。

ここに、砂漠に迷った旅人の亡骸がある。
静かに静かに、砂は旅人を覆い、沈めていく。
何十年経ったであろうか、ようやく砂の底まで沈んだ彼は、事切れたその瞬間の姿のままだ。
湖は、旅人の衣服をじんわりと濡らし、やがて彼を水中に引き入れ、流す。ゆっくりと湖面に向けて浮かび上がらせる。
長い時を掛けて、彼方へ辿り着く。旅人の旅は終わった。

(260字)

2009年7月14日火曜日

祈り

生命の清きも穢れも抱く恒河に、一人の少女が身を浸している。
恒河は、少女のホトから初めて垂れ落ちた血を、自身の一部として取り込む。
下流では、とうの昔に齢を数えるのを止めた老婆が、祈りの言葉を唱えながら沐浴する。
老婆の周囲ではしきりとあぶくが立っている。生命に成り損ねたものたちの叫び。老婆はそれを掌で掬いあげ、天に向けて放ち続ける。

(165字)

このたび、タキガワさんの尊敬する人を務めることになりました、ひょーたんです、こんにちは。
……。
考えてみても、何を尊敬されたのか、さっぱりわかりません。取り敢えず、私は初めて会った時からタキガワさんが好きです(告白)。

2009年7月8日水曜日

早いほうの七夕

昨日、七月七日は満月だった。だが実際のところ、あの夫婦の逢瀬の日はまだ先だ。
でもまぁ、七夕といえば七夕だし、ちょうど満月だし、天の川の水量も程よかったので、月は此れ幸いとばかりに天の川で水浴びをして遊んでいたらしい。

(108字)

2009年7月7日火曜日

膝小僧が二人

傷だらけの膝小僧二人、波打ち際で遊んでいる。
海水に沁みるだろうに平気な顔して遊んでいる。
わずかな血の匂いを、遠くで鮫が察知しているけれど、だからと言って膝小僧たちが襲われる心配はない。
その血は、おいしくないと鮫は知っている。

(112字)

↑意味がわからない。まあ、たまにはいいだろう(たま、か?)

それはそうと、ノベルなびの自分のページをあれこれいぢくってみているのだけども、なんだか難しい。
フラワーツーリズムから行くと「おすすめ」に拙作が入ってます。ありがとうございます。

ついでに、パフォーの投稿作にも、おかげさまでボチボチと拍手をいただいているようです。感謝。10日くらいで投稿締切らしいですよ、パフォー。

近況のような予定のような。
近況:ヘロヘロです。寝てばかりいます。
予定:秋に向けて、ものすごい作ることになりました、豆本。

2009年7月5日日曜日

Acid Rain

狂った子供がどれほど喚いても、世間はちっとも驚きやしない。
酸っぱい雨は、工場の機械をあっという間に錆びさせた。世界中の歯車が錆びても、まだ止まない。
けれど僕のしょっぱい涙を丸めて、飴玉にしてくれるのはこの酸っぱい雨だけ。
君にもあげるよ、犬っころ。舐めにくいなら、ペロペロキャンディだってあるんだ、ほらね。

(152字)

2009年7月4日土曜日

誰も見てないんだけどさ

僕は布団の中では夢を見ない。夢を見るのは風呂の中。ぬるま湯で微睡みながら見る夢に悪夢なんてない。近ごろは、あの子の夢ばかり見る。嬉しいけれど、夢の中でも夢が覚めても僕は裸だから、ちょっと決まりが悪いんだ。

(102字)

2009年7月3日金曜日

七月二日 本当は欲張り

短冊に書きたいことは決まっているけれども、まだ書かない。旧暦の七夕までに叶うかもしれないでしょう? そうしたら、違う願い事ができるじゃないか。

(70字)

2009年6月30日火曜日

生の煮魚

沸騰滝。地下のマグマが地下水を熱し、噴き上げる。山肌に到達した熱い地下水は湯気を上げながら勢いよく崖を落下する。
滝壺に棲む魚は、湯の中を濁った眼で泳いでいる。
ここの魚は美味いらしいが、もはや初めから煮魚で、煮ることも焼くことも、捌く必要すらなく、もくもくとした湯気が立ち込める中、釣ったばかりの魚を箸でつっつき、つっつき食するのだ。

(166字)

2009年6月29日月曜日

エンドレス

海辺で拾ったトランプにはクラブの9が、なかった。
「これはきっと、小さい女の子人魚の持ち物ね」
そうなの? そうなのかな? 人魚の女の子ったら、クラブの9をどうしちゃったんだろう。
「食べちゃったんじゃないかな」
僕たちは砂浜にトランプを並べて神経衰弱を始めた。終わらないゲームを、何度も何度も繰り返す。これからも、ずっと。

(156字)

2009年6月27日土曜日

再生

蜘蛛の糸が縦横に張り巡らされた白い部屋に私はいる。露で濡れた糸は偏光パールのような輝きをするからとても綺麗。私は糸を切らないように、露を零さないように、じっとしている。
「あ」
私は初めて声を出した。何を思ったのか、何を感じたのか、知る暇もなく声は口から飛び出していた。
声が衝突して、一本の糸が痺れるように振るえた。振動は糸から糸に伝染して、部屋中の糸がびりりと振るえはじめた。
振動する糸から露は全部零れ部屋を満たす。透明過ぎるその水に私は溺れた。溶けていくのが解る。
目覚めると、私はこの部屋を張り巡る糸になるのだ、きっと。

2009年6月23日火曜日

営み

紐のない運動靴、ヒトデの死骸、割れたワインの瓶、海草の絡まった魚網、ラブレターの切れ端。
恋人が海から拾ってきたものたちを、僕はひとつひとつ標本にする。日付をつけて。
罅だらけの浮、滑らかな流木、ふやけた聖書、大量の貝殻。
僕が標本にしたものたちを、恋人は標本をひとつひとつ海に捨てに行く。波にそっと浮かべて。
指を咥えたルンペンが恋人の姿を浜辺から眺めているのを、僕は気にしない。

(187字)

2009年6月22日月曜日

生まれる

こんなに居心地がよいところを出なくちゃいけないなんて、世の中理不尽なんだな。
僕はどういうわけか、瓶をひとつ持っている。大きな瓶だから、お母さんは大変だと思うけれど、僕は瓶にここの水を入れて外に出ようと思う。
外に出てからも、お母さんの海を大事に大事に飲むんだ。

(129字)

もっといろいろ描写をしたかったはずなんだけど、なんか、こう、めんどくさくなっちゃった。(ダメ)

……蒸しますなぁ。頭も身体もかったるくっていけません。
どろどろと溶けて昏睡したい(?)
クエン酸かレモン汁を入れた水を飲んで、水分補給しとる。

2009年6月20日土曜日

霧の中

向こうの山が朧に白い。霧が深いのに妙に空が明るいのは、月が丸いからだろう。
霧は尋常じゃないほど深い。服は絞れそうなほどぐっしょりと重たい。心なしか息をするのも苦しい。
今、此処は水中でもなく、空中でもないのだ、きっと。
いくら明るいとはいえ山道の足元は暗い。一歩先の地面はぽっかりと穴が空いているやもしれぬ、そんな恐怖を打ち消し打ち消し、歩を進める。
どこに向かっているのか、わからない。けれども隣には君がいる。それは望んだことだから、幸せなことだ。
君は何も言わずに、この湿気がこれ以上なく飽和したこの道を、とぼとぼと歩いている。
せっかく二人で歩いているのだから、と少し強引に手を取った。握り返す力に安堵しながらも、そういえば手を繋いで歩くのは初めててだな、と気が付く。
また少し霧が重くなった。

(344字)

2009年6月18日木曜日

六月十八日 初めて見上げた空

初めて見る空の色は覚えていない。
希望も夢も見ないと決めた。
けれど、世の中はただただ鮮やかに、目まぐるしい。

(53字)

2009年6月16日火曜日

パイロットは大変だ

海中を飛ぶ飛行機は大変だ。エイだのサメだのマグロだのイルカだのが、なぜだか飛行機に対抗するから、パイロットの気苦労は絶えない。
飛行機というものが、もともとは空を飛ぶヤツだと知ったイルカだのエイだのマグロだのサメは、ついに空に進出して雲のまにまにぐんぐん泳いでいるから、やっぱりパイロットは気が気じゃない。

(152字)

『「おまえだ!」とカピバラはいった』斉藤洋 を読んだ勢い。
マンタが高層マンションの窓をすり抜けて少年を訪ねる話です。(乱暴な説明)
にしても、小学校中学年くらいから読める本で、そこはかとなく「スケベオヤジ心」が滲みでているんだけど(笑)。

2009年6月15日月曜日

芳しい天気

昔はしとしと降るものだった、梅雨の雨は。何だってこんなタチの悪いどしゃ降りになるんだろう。
雨が降る直前の埃っぽくて湿った匂いは、決して嫌いではなかった。九歳の時、それを詩に書いたくらいだ。
以来、僕は天気を読む時は鼻をひくひくさせるようになった。あの詩を書いたときの気分をいつでも思い出したいから。
太陽の匂いも大好きだけれど、それは子供の頃と変わらない。
あの、梅雨の雨の前の匂いは、もう四年も嗅いでいない。

(202字)

2009年6月14日日曜日

珊瑚礁の向こう側

人工珊瑚礁の海辺で、母さんは僕を産んだという。
「それはそれは神秘的な光景だったさ。満月の夜でな、人工珊瑚も産卵していた。母さんは、とても苦しんでいたけれど、とても綺麗だった」
父さんは、砂浜から僕が産まれるのを眺めていたそうだ。
けれど、母さんは僕を産んで、最初のおっぱいだけを飲ませた後、海に帰ってしまった。人工珊瑚礁よりもっと沖の深い深い海に。
どうして僕を置いていったのだろう。
父さんは、相変わらず母さんが好きで、うっとりと同じ思い出話をする。
逢えないのに、寂しくないの? 置いていかれて、怒っていないの?
何度も何度も訊いたけれど、答えはいつも同じ。
「だって母さんは海の人だから。お前もいつか、海の人と愛し合うのさ」
だけど、僕は海が怖い。もうすぐ十二歳になるというのに。
人工珊瑚は整然としすぎている。この海で僕は泳ぐことができない。

(365字)

2009年6月13日土曜日

六月十三日 捜索中

ポストは雑木林を彷徨うから、いつも探すのが大変だ。今日みたいな日は、とりわけ鬱蒼として、おまけに蚊柱が行く手を阻む。
私は一体何をしているんだっけ?

(73字)

2009年6月12日金曜日

どういうわけか、干からびた。

どういうわけか、枯れない水溜りがあるのである。
東京の、どこかの、アスファルトの上。
どういうわけか、太陽はその水溜りが気になって仕方がない。
太陽は、がんばる。張り切った。
そして、少々張り切りすぎた。水溜り以外全部、干からびた。
田んぼはカラカラ、森はパサパサ。
太陽は反省したので、雨雲を呼ぼうとしたけれど、雲さえも、雲を生む海さえも干からびてしまったから、もうおしまい。
けれども水溜りだけは相変わらず水深1.3センチを保っている。

(213字)

2009年6月10日水曜日

楽天家たち

静かな静かな洪水だ。
人々は思い思いの浮き輪や筏を使い、流れに身を任せた。
街を飲み込み、家々を超す水位になったというのに、濁流となることはなかった。水はあくまでも透明なまま、ゆっくりと流れている。
人々は街を水上から覗き、眺めた。水中の信号機、水中の街路樹、水中の郵便ポスト。

「我々はどこに行くのだろう」
誰もが口にしたが、知る者はいない。
「我々はどうなるのだろう」
誰もが口にしたが、泣く者はいない。

(197字)

2009年6月8日月曜日

隠遁

井戸は僕を隠してくれる。
真っ暗で深くて、水が身体を冷やしてくれるから好きだ。
誰にも逢いたくないときは、井戸に飛び込めばいい。
そう教えてくれたのは、ほかでもなく井戸だった。
いつでもいらっしゃいと言う井戸は菩薩さまよりやさしい。
でも天狗だけは、いつも僕を見つけてしまう。
「出たくない。ここは気持ちがいいから」
と天狗に食いついても、天狗は大きな嘴で僕の首根っこを咥えて井戸から引きづり出す。
井戸から出る瞬間、眩しさと切なさに目が眩む。
心地よかった水が、すべて僕の身体から離れてしまう。
「いつまでも井戸にいたら、お前も井戸も枯れてしまう」
何度諭されても、その意味がわからない。
泣き叫ぶためにまた僕は井戸に飛び込む。少し水が温いような気がする。

(317字)

2009年6月7日日曜日

悪臭の思念

汚水は、進むほどに記憶を失っていく。
雨、屎尿、排水……はっきりとした経歴を持っていたのにも関わらず、全てが混ざり、流れ、混沌とする中で悪臭は増しに増し、汚物をさらに引き寄せる。

鼠は前歯が伸び続けて困っている。コンクリートの地下道の壁で歯を削ろうと試みるが、ふいに津波のように押し寄せてきた汚水の波に飲み込まれてしまう。
長い長い前歯に人間の髪の毛が絡むのを感じながら、なぜ急に汚水が増大したのだろうかと不審がる。
答えなど見つかるはずもなく、鼠もまた汚水の一部となり、そこで鼠の思考も停止した。

(245字)

2009年6月4日木曜日

聴きたい歌があるんだ

ボリューム上げて、歌声だけを脳ミソに流し込む。

今聴きたい歌は何?
雨雲がからかう。雨音に負けないくらいボリューム上げる。安物のイヤホンを突っ込み直す。

歌を歌う人よ、聴かせて欲しい。
刹那の恋の歌じゃなく、痛みの先にある慈しみを。
あの人の手のひらが、やさしすぎたから。

雨雲の嘲笑は止まない。雨音はますます強く。けれど、もう迷わない。歌声しか聴かないと決めたから。

(178字)

京都フラワーツーリズムのHP、「ノベルなび」に二作目「戻ル橋」が公開されました。

2009年6月1日月曜日

愛の雫

豊かな森の中には湧水がいくつもある。愛し合う神が抱き合い、雫が滴るから泉が湧く。
いつか山歩きの途中で出会ったお婆さんが言っていた。
神様っていっても男と女だろ、永く見つめ合ってたら、火花が散ることもあるだろうにねぇ。お婆さんは悪戯っぽく笑った。

それ以来、ぼくは火打ち石を持って山に入る。湧水を見つけると、カチカチと石を鳴らして手を合わせる。神様たちの代わりに火花を出すのだ。
だってほら、いつまでも存分に愛し合っていてもらわなくちゃ、水が飲めなくなってしまうから、ね。

(232字)

京都フラワーツーリズムのHP、「ノベルなび」に拙作「はかなげな」が公開されました。哲学の道が舞台です。子供の頃に行った京都での思い出を元に書いたものです。
ノベルなびのこと、京都新聞にも記事が出たそうです。

2009年5月31日日曜日

月を彩るものたち

雑貨屋で見つけた袋入りの青い硝子のビーズは、店主によると「アンティークだ」そうだ。
気に入った一袋を求め持ち帰り、金魚鉢に入れ、水を注いだ。
金魚はいない。ただビーズだけが底にある。

夜になると、なにやら金魚鉢が騒がしい。
「今夜は満月だ」「満月だ」
と口々にビーズが言う。ビーズも大勢いると声は大きくなるらしい。
ベランダに金魚鉢を置くと、ビーズたちがうっとりとするのが手に取るようにわかった。運んできたばかりだというのに、金魚鉢の水はぴたりと波を鎮める。
「なぜそんなに月が好きなんだ?」
と呟くと
「我々は月の女神セレーネのネックレスである」
といきなり仰々しく声を揃えて言うので、笑った。ほんとかしらん?
ともあれ、確かに銀色に輝く満月によく映える青だ。
そういえば、しばらく月を眺めていなかった。

(341字)

2009年5月29日金曜日

クラゲの詩

僕の恋人は小さなクラゲを胎内に飼っていた。
「やさしくしてね」
抱き合う度に真剣な眼差しでこう訴えるのは、奥に棲むクラゲを驚かせたり傷つけたりするな、という彼女の命令。だけど僕にはクラゲがいる感触などわからない。

ある朝、彼女は突然海に行くと言い出した。クラゲの命が終わりに近づいているという。最後に海に帰してやりたい、と。
僕は、涙を浮かべながらお腹を撫で続ける彼女を助手席に乗せ、海に向かった。

誰もいない浜辺で、僕の恋人は裸になる。まだ冷たい海に入り、クラゲを産み落とすのだという。
独りになりたいから帰って欲しいと彼女は言った。
僕は逆らえない。彼女を海に残し部屋に戻る。

あれから一週間経つのに、僕の恋人は戻らない。まだクラゲを産めずにいるのだろう。きっとそうだ。

(329字)

2009年5月28日木曜日

クジラのことを考える

溺れるのは苦しすぎるから、ただただ水を飲み込んだ。
海の水は、本当に塩辛い。すぐに飲み込むことも苦しくなった。おなかが破裂する。
「じゃあ、ぼくの仲間になるかい?」
声を掛けてきたのは、海洋性動物プランクトンだった。小さいの。名前は知らない。
わたしは少し考えてから、こう答えた。
「プランクトンになったら、きっとわたしヒゲクジラに食べられるのね。シロナガスクジラがいいな」
もう苦しくない。

(190字)

2009年5月26日火曜日

憂鬱な水中花

僕は水中で咲く花だ。憂いと息苦しさを糧に咲く花だ。
淀んだ沼の中も、澄んだ水の中も、苦しさはたいして変わりない。もちろんヘドロを問題にするなら、沼は実際辛いだろう。水中はどこでも苦しいのに、沼はその上汚くて臭い。ただ、そのぶん咲いた花は派手なはずだ。その代わり、花開いた姿を誰かに見せびらかすことはできない。たまにアメリカザリガニが通るだけだ。だから、どうせ沈むなら泉のほうがいいと言う花は多いよね。
海はやはり深いから、沼とも泉とも違う。どこまで沈めば花が咲くのかわからない。
わからないわからないと憂いながら潮に流され、流されたままいつのまにか花が咲いた。
咲いたというのにまだ流され、沈む。
一体どこまで沈むのか。花が開いたまま沈むとどうなるのか、わからないわからない。僕の身体に、もうひとつ憂いの蕾があるのか。わからないわからない。

(365字)

2009年5月25日月曜日

地球がまるごと夜だった日

地球がまるごと夜だった日、水も眠りこけた。
波が静止した海と流れない川、けれど固まったわけではなく、何故かとても澄みきっていた。

(64字)

2009年5月24日日曜日

魚影

彼の影がチョウチンアンコウ型をしているのに気が付いた時は、とてつもなく驚いた。
けれど、あんまりくっきりとチョウチンアンコウなので、彼の足元にじっと見入ってしまう。
「おや、もうバレちゃったの?」
と彼は笑い、私の頭をくしゃくしゃと撫でる。影のチョウチン部分がふるふると揺れる。
「水がなくても、大丈夫なの?」
彼にでもなく、チョウチンアンコウ型の影にでもなく、なんとなく呟いた。

(185字)

2009年5月23日土曜日

水槽に住む人

いつからか、君は水槽で暮らすようになった。大勢の熱帯魚が暮らしていた水槽に断りなく入り込み、繊細な熱帯魚たちは、たちまち一人残らず死んでしまった。
相変わらず君は饒舌だけれど、水槽越しに聞く君の声はごぼごぼしていて、何を言っているのか、ちっともわからない。
君は水槽の硝子に手を付けてこちらを見つめ、口付けようとする。はじめのうちは応えようとしたけれど、硝子越しの接吻には何の意味もないと気付いてからは、やめた。
それでも、君は何事か訴えようとする。わからない。通じていないことをもどかしく思っているらしいことだけは、わかる。じゃあ、なぜ水槽の住人になったのと訊ねる。その答えもごぼごぼしていて理解できない。

(301字)

2009年5月21日木曜日

呼吸

海面を突き破り、大きく息を吸う。
あ、またあの子がいる。最近よく見かけるあの子は種族が違うから、ぼくと同じようにこちらを認識しているかどうか、わからない。確かめる術もない。
しばらくあの子を感じていたかったけれど、すぐに海中に消えてしまった。なぜか海中ではあの子を察知することができないから、呼吸の瞬間が偶然合わなければ、見ることはない。
この広い空に誰かと同じタイミングで顔を入れるなんて、そうそうあることじゃない。呼吸の回数は、種族にもよるけれど一日に何十回もあるものではないし、一度の呼吸だって長くは掛からない。ましてやぼくの視界に入る範囲で、となれば、一人の人と遭遇する確率は本当に小さいはずだ。
それなのに、近頃は必ずと言っていいほど、あの子と遭遇する。
ぼくがあの子を想いながら呼吸するせいだろうか。そう思いたいけれど、だからそれが何かの証になるかといえば、何も示してない気がする。
この「偶然」を、誰かぼくに説明してほしい。

(413字)

2009年5月19日火曜日

接続海

うちの浴槽は、どこかの海と繋がるらしい。
時々、魚が泳いでいる。どこからともなく現れて、浴槽を通り過ぎていく。塩水ではないけれど、魚は平気なのかしら。
鰯などが現れると、捕まえて食べてしまおうかと思うのだけれど、まだやってみたことはない。

今日はちょっと身体が締め付けられる。温かい湯に入っているはずなのに、痛くて感覚がなくなってくる。でも何故か湯から上がろうとは思わない。
デメニギスが通って行くのが見えた。そうか、今日はずいぶんと深い海に繋がっているみたいだ。

視界に闇が拡がる。
もっと深いところに行きたい。

(251字)

2009年5月18日月曜日

再会

草原で口づけあった二人の右には大河、左には川があった。
私が川がいいと言ったのに、あなたは大河を選んだ。早く海に出たいのだと言う。
私の舟は小さい。漕ぐこともせず、ただ流される。雲を眺め、星に願い、風を聴いた。

大河に合流する。あなたの大きな船はきっともうここを通り過ぎた。
町を通り、港に近づいたら、潮風を一杯に吸い込もう。あなたはたぶん、そんな暇もなく沖に出てしまったのでしょうね。
海原であなたに再び出逢うことはあるのかしらと太陽に問う。
もし逢えたとしても。あの草原での交わしたような接吻は二度と叶わない。

(251字)

2009年5月14日木曜日

水音

季節外れの渇水で、水道が止まってから五日。
乾き切った浴室から、ぴちゃんぴちゃんと水滴が落ちる音がする。
見に行っても、もちろん水が出ているはずもなく、けれど水音は止まらない。
水が欲しい、水が欲しい。水が欲しいから、水音から離れられない。
身体の渇きはいよいよ酷く、蛇口を捻り続ける。蛇口はくるくると手応えなく回り続け、水音はやがて轟音となる。

(169字)

2009年5月13日水曜日

沈む恋

魔法使いは瓶を持ち海へ向かう。異国に住む恋人に逢いたいと泣き暮れる少女が入った瓶を。
魔法使いは娘に魔法を掛け、小さくなった少女を瓶に入れた。
瓶を波に託す。ゆらゆらと浮き沈みながら沖へ遠ざかる瓶を眺め、魔法使いは嘆息する。瓶は恋人のいる国に流れつくことはできないだろう。
一刻も早く恋人に逢いたいと少女は瓶に入っても泣き止まない。
少女が涙に溺れるか、涙で重くなった瓶が海に沈むか。
どちらが先かは、魔法使いにもわからない。

(208字)

2009年5月11日月曜日

龍、砂漠にて

龍はなぜだか世界を旅してみたくなったのだ。そして、よりによってサハラで迷ってしまった。
せめて水が、一滴でもあれば。だが龍は自力で動く力は残っていない。宝珠も耀きを失い、くすんでしまった。

今、龍は駱駝の背の上に乗せられている。二つのこぶの間に掛けられた龍はだらりと垂れ、干からびかけて小さくなっている。これでは、トカゲに笑われてしまうが、どうしようもない。
駱駝は黄色い歯を見せながら、オアシスに連れていってやるから心配するなと言った。
いつもは近い月がやけに遠くに見えるのを不思議に思いながら、龍は駱駝に揺られて砂漠を行く。

(260字)

2009年5月9日土曜日

教会の鐘

音が鳴らないこの町の教会の鐘は、実は鐘ではなく如雨露なのです。
大きく揺れながら、町の花に水遣りをしています。

(54字)

2009年5月8日金曜日

昼寝

 授業に疲れると、いつもそっと教室を抜け出す。先生も、クラスの皆も何も言わない。別に無視されているわけではなくて、ただ当たり前のこととして。そんな皆の態度が、僕には何よりもありがたかった。
 学校には空き教室がたくさんある。十年くらい前はまだこの辺りにも大勢子供がいたから教室が足りなくてね、と教頭先生は教えてくれた。でも今じゃ、使われている教室よりも空き教室のほうが多いくらいだ。
 空き教室と言っても、それぞれ雰囲気が違う。美術室として使っていた部屋はなんとなく絵の具の匂いがするし、普通の教室もしんとした教室もあれば、ざわざわした気分になる教室もある。僕の一番のお気に入りは、「あの子」に逢える教室。
 その教室は四階の奥から二番目にある。二階の自分のクラスを出て、授業の声を聞きながらそっと廊下を歩き、階段を昇る。歩いているうちに少しづつ具合が悪かったのが和らいでくるような気がする。
 目的の教室に辿り着き、ドアを開けると花の香りが僕を包む。ピンク色のカーテンが目にまぶしい。ほかの教室は緑色っぽいカーテンだけれど、ここだけかわいらしいピンク色だ。その理由を訊ねると、「あの子が好きだった色だからだよ」と教頭先生が教えてくれた。僕が初めて教室を抜け出して、校舎をうろうろとしている時にこの教室に連れてきてくれたのが、教頭先生だった。
 窓は閉まっているのに、カーテンがふうわりと膨らむ。僕は念入りに床を探し回る。どこかに影猫がいるはずだった。最近は影猫もかくれんぼが得意になって、探すのが大変だ。花瓶を倒さないようにしなくちゃ。
 ようやく教卓の影からしっぽが伸びているのを見つけた。
「にゃあ?」
 教卓から出てきた影猫を抱いて、あの子の座っていた一番前の席で僕は少しだけ眠る。

NHKパフォー 投稿作品

2009年5月6日水曜日

おじさんの家

おじさんの家は、廃屋同然のボロ小屋で雨露を凌いでいるかどうかも怪しいような有様だった。おじさんは別にオケラではなかった。ちゃんと働いていたし、高級なレストランに時々連れて行ってくれた。
そんなおじさんも年を取り、病院の寝台でうつらうつらするだけになった頃、僕は訊いた。
「ねえ、どうしてあんなボロい家に住んでいたの?」
おじさんは薄く目を開けて、ニヤリとした。しゃがれ声で切れ切れにこう言った。
「あの家の、雨漏りは、どんな水より甘かった」
雨漏りってよりそのまま雨だったじゃないか、と僕が笑うと
「そうだっけなあ」
と言ってまた眠ってしまった。
おじさんの家は、まだそのままある。今度の週末の天気予報は、雨だ。

(298字)

2009年5月4日月曜日

田植え前

水が染み込んでくると、水田はしばしの休息がまもなく終わることを知る。

(34字)

2009年5月3日日曜日

幻川を見る人

かつて川だった道、というのが所々にある。
道路の下の暗闇に水が流れていることもあれば、すっかり埋め立てられている場合もある。流れを無理矢理補正して、少し離れた場所で流れている川もある。
なんにせよ、そんな川だった場所を歩く時、私は水音を聞き、水流に逆らいながら(もちろん圧されながらの時もある)歩くわけで、大抵なことではない。周りの通行人がスタスタと歩く中、私はかつて存在した川の中を歩く。ただそれだけの違いなのに、人々は私を奇異の目で一瞥し、通り過ぎてゆくのだ。

(230字)

2009年5月1日金曜日

夢喰い人

夢というのは蒸気ですから、私はそれをシャボン玉に絡め取り、重たくなって地面に沈んだシャボン玉を拾って食べるのです。

(57字)

2009年4月30日木曜日

渦潮に飲み込まれたい、と隣の女の子が言う。
学校で瀬戸内海の渦潮の話を聞いた、その日の帰り道だった。
そんなのダメだよ、死んでしまうよ、としか僕は言えなかった。
けれども、隣の女の子は僕の声は聞こえなかったようで、渦潮渦潮と繰り返し呟いていた。
次の日、隣の女の子は、自由帳にぐるぐると渦巻きばかり描いていた。
さらに次の日、プールの時間に自由帳を大事そうに抱えていた。先生に、自由帳は置いていきなさいと言われても離さなかった。
準備体操をしている最中に、隣の女の子は自由帳を抱いたままプールに飛び込んだ。プールの水ははぐるぐると渦を巻き、隣の女の子もぐるぐると渦に巻かれていた。凄い轟音。
そのうち女の子は渦の中心に沈んでいき、プールは静かになった。プールの中に、隣の女の子はいなかった。
準備体操が終わって、プールに入る。もう少しで、五十メートル泳げるようになるんだ。

(378字)

2009年4月27日月曜日

宝物殿

深い森の中、かつて此処に小さいながらも裕福な王国があったことを知る者は誰もない。
ただ湖だけが、その記憶を持つ。湖底に沈む財宝を守るために。
清らかな湧水は、金属が錆びることを許さず、宝石に泥が積もることを拒否する。
湖を覗けば誰しも、色鮮やかなまばゆい光を見ることができるだろう。だが、それを目にする者は、過去にも未来にも存在しない。
見る者が顕れなくとも、財宝はひたすらに輝き続ける。深い森の奥に佇む、この湖が枯れ果てぬ限り。

(211字)

2009年4月25日土曜日

目前に壁がなくとも

少女が両手を使いたい時、黒猫の尻尾は少女の手首に巻き付く。
今日、少女はオニの家で編み物を習っている。
「キナリちゃん、とっても器用。上手ねぇ」
オニがニコニコと見守る傍らで、少女は夢中で編み棒を操る。
尻尾は退屈で眠たくなる。力が抜け、手首から落ちそうになると、少女は尻尾をギュウギュウときつく手首に巻き直す。
留守番をしている黒猫は思わず後退りしてしまう。

(175字)

2009年4月24日金曜日

小さな海

恋人が海で拾ってきたと巻き貝の貝殻をくれた。
小さな出窓の窓辺を片付け、一番美しく見えるように置く。
翌朝、僕は波の音で目覚めた。窓辺には、小さな海があった。
天気が悪ければ波は高くなり、良くなれば穏やかになった。一日部屋にいると潮が満ち干くのがよくわかる。紛れもない海が、僕の部屋にはある。
恋人には、まだ海を見せていない。遠くの国へ旅立ってしまったから。

(175字)

2009年4月21日火曜日

第七感

星の感触というのは、第五感では到底説明できない。
「七番目の感触だよね」
うんうん、と皆で言い合うけれど、ナルミ先生はキョトンとしている。
世界中で僕たちの年だけ、星の感触を感じることができる。2777年生まれの子供だけが。
だから僕たちは、スター・セブンなんて呼ばれるけれど、なんだか大昔の煙草の名前とよく似ているらしいから、あまりカッコいいとは思わない。
彗星はとても不思議な感触だった。昨日の夜のことだ。第五感はすべて塞がれてしまったけれど、いつまでも浸っていたかった。彗星は足が速く、三十分ほどで第七感は薄れて、五感が戻ってしまった。本当にあっという間だった……。
世界中の子供たちも同じだったようで、うっとりとしたまま失神した子供が、何十万人もいる。
僕たちはあの星が再び地球に近づくのを強く強く願っている。大人になった時、僕たちの中から、あの彗星を地球に近づけるプロジェクトを実現させる者が現れるだろう。
それが地球を滅ぼすことになっても、構わない。それぐらい、第七感は、僕たちには大事なんだ。

(445字)

2009年4月20日月曜日

冷たい香り

「よい香りでしょう?」
 言われるがまま、鼻孔をくすぐるジャスミン茶の香りに浸る。
 カップを覗くと、河の両岸に古ぼけた白い壁と黒い屋根の建物が並ぶ。水の中に建っているような不思議な家々。
「ここは?」
「蘇州の景色が見えましたね」
 男は嬉しそうに笑った。男の故郷だと言う。
「素敵な街ですね」
 お世辞ではなく、心底そう思った。舟からの景色だろうか、私はゆっくりと水路を下っている。穏やかに水と時が流れる。水面に映る家々がたゆたい、石の橋を潜る。
 「お茶が冷めてますよ」
 時計を見ると、どうやら二十分近くも経っていた。
 男はどういう幻術使いだろう。訝しみながらも、黙って冷えたお茶を飲む。しかし、もう一度蘇州に行きたい衝動は抗しがたく、冷たいジャスミンの香りを思い切り吸い込むと酷く咽た。

(332字)

2009年4月18日土曜日

亀影

老海亀が泳ぐ影は、水底と空に映る。
それを目にすることができるのは飛行機だけらしい。

(41字)

2009年4月17日金曜日

童話みたいな

人魚姫は、水の泡になってしまうんだっけなぁ。残念ながら僕はお姫様が出てくるような童話のことは、よく知らないんだ。
氷の姫は、温かくなったら一体どうなる?
溶けてしまうのか、蒸発してしまうのか。
僕の気も知らないで、冷凍庫の中の姫はぱちくりと睫毛を動かして小首を傾げる。
姫は小さい身体だけれど、冷凍室の中で窮屈そうに横たわったり、膝を抱えて座っていたりする。
おかげで、この新しい冷蔵庫が来てからというもの、氷も作れない(焼酎をロックで飲むのが好きなのだ!)し、冷凍食品も買えない。
例えば、僕が姫にキスをしたら(だって、たぶん、そういうものだろ?)、僕が王子になるか、姫が普通の女の子になるか。
だけど、どっちの展開になる人生もなんだか自分じゃないみたいで、結局今夜もため息をつきながら「おやすみ」と冷凍室の引き出しを閉めるのだ。

(359字)

2009年4月15日水曜日

空中散歩

月が言う。
「ヌバタマ、空を飛んでみたいとは思わないか」
黒猫は高いところを厭わない。教会の屋根もするりと歩く。だが宙を浮いたことはない。月や少女に抱かれて持ち上げられた時以外には。
「空中散歩に出掛けよう。キナリには内緒で」

月の友人だというコウモリは小さい身体でやすやすと黒猫を爪に引っ掛け飛び立った。
[人は思いもよらないだろう! コウモリと黒猫が夜空を散歩しているとは]
黒猫は地に足が着かないことよりも、いくらか偉そうなコウモリの物言いが不愉快だった。
しかし、教会の屋根から見るよりも満月が大きく見えるような気がするので、文句は言わないことにした。

(272字)

2009年4月14日火曜日

瓶の話

瓶が一本、波に揺れている。
浜辺に打ち上げられそうになりながら、しかし完全に打ち上げられることはなく、また返す波にさらわれて海に戻る。
瓶は、長い時間そうしている。
瓶は酒瓶だった。男か女が酒を飲む。瓶は小さな島の酒造場で洗浄され、また酒を詰められ、大陸に船で運ばれて、また女か男が酒を飲んだ。
そんなことを長い間繰り返していた。仲間と比べても、ずいぶん丈夫な瓶だった。
ある時、なぜか船から落っこちた。コルクが朽ちて、酒は海に流れた。それ以来ずっとこうして砂浜の前を漂っている。
寄せては返す波と共に、行ったり来たりするのは、酒瓶であった頃とたいして変わらない。
だが、世の中は静かになった。酒場も酒造場も人間の声が響いていた。海は荒れても、酒場のように五月蝿くはない。

(329字)

2009年4月13日月曜日

山の娘

彼女の髪には細かな水玉がたくさんついている。彼女の動きに合わせて艶やかな黒い髪を水玉たちが滑る。彼女の傍にいると、山の川の匂いがする。

「母に逢いに行くから、一緒に来ない?」
と誘われて、行くことにした。彼女の故郷の話はいつもおもしろかったから。

険しい山道も彼女は軽々と歩いた。「今日はお父さんの機嫌がいいみたい」といいながら、歩きやすい場所を示してくれたので、僕もそれほど苦労せずに歩くことができた。

水音が近づくにつれ、彼女の足取りはますます軽くなった。
「ただいまー!」
彼女の声は滝の轟音にかき消される。

裸になり滝壺に飛び込みはしゃぐ彼女を見守りながら、彼女と同じ匂いの滝の飛沫を浴びて、深く呼吸をする。

(301字)

2009年4月11日土曜日

だから僕は海へ入る

海水が荒れた肌に染みる。痛い。
痒いのと痛いのと、一体どちらが楽なのかと考える。
答えはない。

君の舌でざりざりと舐めてくれればきっと心地よいだろう。
けれど、君はたぶん鮫肌みたいな舌の持ち主ではない。残念だけれど、きっと擽ったくて、笑いこけて、もっと痒くなると思う。
そのうち僕を舐めるのになんか飽きちゃって、プイとどこかに行ってしまうだろう。
そうじゃなかったら、舐められているうちに欲情して、絡み合ってしまうかもしれない。
海水は、飽きてどこかに行ってしまうこともない。僕は海水に欲情することもないはずだ。
だからこのまま海水に沈んでしまうのが一番いいような気がしてきた。

(281字)

2009年4月10日金曜日

人魚の火遊び

右の眼窩に火灯シ海月を棲ませている、人魚の娘がいる。
海月が火を灯すと、身体をくねらせては下半身の鱗に無数の小さな炎を映し、左眼でうっとりと見惚れる。
一度でよいから、揺らめく炎に触れてみたい。
細い指を右の眼窩に近付けると火灯シ海月がひどく暴れるから、娘の右顔面は火傷で爛れている。

(139字)

2009年4月8日水曜日

皇帝ペンギン

一体、地球を何周したのだろう。見る度に皇帝ペンギンは大きくなった。
いつからか海水さえあれば生命を維持できる身体になっていた。もはや自分が動物なのか植物なのかもわからない。時折、海面に映る己の姿は、かつて陸地にいた頃の、やわらかい栗色の髪をなびかせた少女のままだ。たが、それは私の記憶が作り出す幻に過ぎないだろう。もしも少女の姿であれば、とっくに肉食の獣や凶暴な魚たちに襲われているに違いない。
私は破れることのない泡の中にいる。海流に乗って、地球の移り変わりを眺めている。暑い時には山脈と呼ばれた辺りを漂った。寒い時には、氷の隙間で永遠かと思われる時間を過ごした。
たくさんの生き物が滅び、生まれた。その間も皇帝ペンギンだけは巨大化を続けている。
海中を泳ぐこの鳥に皇帝の名を与えた人間を恨んでみたいと思うけれど、なぜか笑い声しか出てこない。

(368字)

2009年4月6日月曜日

樹音

樹齢三百年を越えた樹木の虚に溜まる水が唄うのは、樹木が幼木のころに聴いた鳥の囀りや風がそよぐ音。

(48字)

2009年4月4日土曜日

まばたきの発明

時間を数える方法が不明なので、眼球を保護するために装備されている膜を秒針の動きと同時に上げ下げしてみる。

(52字)

ジョアン・ミロの絵のタイトルより

2009年4月1日水曜日

底無し

しょっちゅう水溜まりに落っこちる。
水溜まりの中は案外深くてなかなか底には届かない。落っこちるのに飽きて、うとうと眠ってしまい、気が付くと、水溜まりの前にしゃがみこんでいるのが常だ。
目覚めた後、元の世界に戻ったのか、水溜まりの中の世界なのか、いつもわからなくて途方に暮れる。
だけど、水溜まりの中か外かを判断できるものは何もない。

いつものように水溜まりの前で膝を抱えていると、長い長い傘を持ったおじいさんがやってきた。背丈より長い傘を軽々と携えて、おじいさんは僕に言った。
「おや、坊や。水溜まり潜りの癖があるようだね」
ミズタマリクグリなんて言葉は知らないけれど、そういうことになるだろう。
「この水溜まりもずいぶん深いのぉ」
おじいさんが傘を水溜まりに入れると、長い長い傘は持ち手まですっかり沈んでしまった。
「いまのところ、ちゃんと戻ってきているようだから心配ない。ちゃんとここは坊やの世界だ。パパもママも友達も町も、正しく本来の坊やの世界だ。だが、次はそうではないかもしれない。水溜まり潜りをしたまま行ったきりの子供はたくさんおる」
坊やがそうならないために、とおじいさんはポケットから長い長い傘をくれた。傘を水溜まりに突き刺せば、坊やは潜らなくて済む。傘が代わりをするからだ、と説明してくれた。
おじいさんのポケットのほうが、水溜まりよりよほど不思議だと思う。

(576字)

2009年3月31日火曜日

海底便り

受話器越しのきみの声は思ったよりもくっきり聞こえて、少し鼓動が早くなる。目覚めちゃだめ。
「きみはどこから電話しているの? ……ぼくは夢の中なんだ」
「ぼくは海の中から。大きなガラスのコップを沈めてね、その中で今、きみの声を聞いている。とてもよく聞こえるよ」
海の底にいるきみを想う。コップの中にいるきみを想う。
なんて美しいんだろう。目覚めちゃだめ。
「こうして話していたら、すぐに酸素が、なくなっちゃう」
「そんなの構いやしない。だって、きみは夢の中なんだろう? きみの夢の中の海の底のガラスの中のぼく、さ」
「だけど」
「ガラスにヒビが入ったよ。水圧ってすごいんだね。だんだんと亀裂が伸びていく。きれいだ。きみも」

(300字)

2009年3月29日日曜日

運河の家

僕が生まれたのは、運河の交差点に建つ石造りの家だった。
産婆さんは、東の町からボートを漕いで一人でやってきた。
南の町からはやってきたのはエンジン付きの小型船。粉ミルクの缶をたっぷり積んで。
西からは、装飾を施した船で高級洋品店のオーナーがやってきた。産まれたての僕を採寸するために。
北の町からは、僕のおじいちゃんとおばあちゃんが、水上タクシーに乗ってやってきた。チップはずいぶん弾んだそうだ。
僕の家は大小の船に四方を取り囲まれて、運河を行く船みんなに注目された。運河が渋滞すれば、隣の国もその隣の国も困ってしまう、わかるでしょ?
だから、母さんは産まれたばかりの僕を抱いて東西南北の窓の前に立たなければいけなかった。
「赤ちゃんが産まれたの! よろしくね!」
って。
十一歳になった僕は、毎日東西南北の窓に入れ代わり立ち、運河を行く人たちの伝言係をやっている。
「北の町の水門が故障中だよ」
「南の町は桜が咲いたってさ」
「東の町にサーカスが来てるんだって」
「西の町の科学者が、お嫁さん募集中らしい」
たぶん僕は、こうやって水と船と雲を見ながら、一生を終えるのだ、父さんがそうだったように。

(484字)

2009年3月26日木曜日

三月二十六日 昔の話

前はどんな感じだったっけ?
思い出そうとしてみるが、そもそも相手が違うのだ、比べものにならない。

(47字)

2009年3月25日水曜日

雨の夜の留守番

たとえば黒猫がじっと蹲って静かに過ごしたい夜、それは大概雨の晩であるのだが、そんな夜でも少女は黒猫の尻尾を掴んで出掛けてしまう。
少女は玉虫色の傘を左手で差し、尻尾を右手に掴み雨の町へスキップしそうな勢いで出ていく。
少女は玉虫色の傘をとても気に入っていたが、時々傘を差すのを止めてしまうらしい。おそらく、傘を放り出してブランコに乗ったり、傘を差すには狭すぎる路地に入っていったりするのだろう。
そのたびに、屋内でうとうとと過ごしているはず黒猫は身震いして尻尾を濡らす雨水を振るい飛ばす。
〔尻尾は実に繊細なのだ、とキナリに言ってやらなければ〕
と人間語で呟くが、笑顔で帰ってくる少女を見ると、つい言いそびれる。

(301字)

2009年3月24日火曜日

月のレクイエム

南国の波は白い砂浜をひたすらに撫で続ける。
月が近い。満月は実に球体だった。

膝を抱えて海を眺める私の傍らに、少年が現れた。
「夜遅くに一人で……」
少年の横顔を伺うと、それは恐らく問題にならない心配であることがわかった。
少年の瞳は黄色い。波と全く同じ呼吸で、細い肩が僅かに上下していた。
少年は突然こちらに向き直り、囁くように言った。
「さぁ、おやすみの時間だ」

私はイエローの瞳に見つめられ、唇を柔らかく吸われ、砂浜に横たえられた。

月がいよいよ近い。手を伸ばしたけれど、触れたのかどうか判然としないままに、私は眠りに堕ちる。

(257字)

2009年3月23日月曜日

ヌバタマの安堵

強い風でヒゲがあちこちにひっぱられる。
キナリの長くて細い髪はもっとあちこちににひっぱられて、そのまま風に連れて行かれるのではないかと思うほどだった。

風はピタリと静まった。
けれど、キナリの髪はぐちゃぐちゃに絡み合ったまま垂れ下がって、顔を塞いでいた。
手で解こうと苦心したが、余計に事態を悪化させるだけだった。
キナリはついにあきらめたのか、公園のベンチに座り込む。猫の手も舌も、人間の異様に長い毛は梳くことは不可能だ。膝の上に乗ってキナリを見上げる。髪に隠れて表情はよくわからない。

「キナリ!どうしたんだい、その頭は? 流星と取っ組み合いをしてもそんな髪の毛にはならないよ」
チョット・バカリーが現れたらキナリは泣き出した。顔に垂れた髪が涙と鼻水で濡れていく。
「泣かないで、キナリ、僕が解いてあげるから」
チョット・バカリーはキナリを抱き上げ膝に乗せ、コルネットを扱うよりももっと優しくキナリの髪に指を入れた。
少しづつ見えてきたキナリの顔は、穏やかな笑顔だった。

(426字)

2009年3月22日日曜日

泳ぐ髪

湖に飛び込むと、身体中の毛穴に澄んだ水が染み渡る。
わたしが泳ぐと髪も一本一本泳ぐみたいに水流に乗る。
深く潜る。息は苦しくならない。わたしは小さい時、魚になりたかった。

「素裸のまま泳ぐのは止めろよ」
と不機嫌な様子でケイは言う。昔はケイのほうが泳ぎはうまかったのに、いつのまにかわたしはケイよりも長く深く泳ぐようになっていた。そして、ケイは湖に入らなくなった。けれど、わたしは湖で泳ぐのを止めることはできない。

ケイは今、わたしが脱ぎ散らかした服を守るように、わたしが上がってくるのを待っているだろう。

水が暗くなってきた。日が落ちてきたのだ。
ケイはまた心配そうにしているに違いない。
遅い、と責められると、わたしはうまく謝れない。だってケイが勝手にわたしを待っているんだもの。
でも、ケイが濡れた髪を結なおしてくれるのは、嬉しい。ケイの大きな手が頭を撫で、髪を梳くと、なぜか鼓動が早くなる。だから、湖から出た時にケイがいないのは、嫌だ。

「ケイ」
と水の中から呼び掛けてみる。
少し冷えてきた水が心地よくて、またわたしは少し深く潜る。

(459字)

2009年3月20日金曜日

森へ

瓶をお日さまにかざすきみの姿が脳裏に焼き付いて離れない。

あの日照りの年、川は干上がり、井戸は枯れた。土はひび割れ、草原は火の気もないのに焼けた。
愛想のない缶に入った人工水が欠かさず配られたから渇きで死ぬ心配はなかったけれど、人工水はあくまでも水素と酸素の化合物で、無表情な缶以上に味気なかった。

きみが大切に持っていた硝子の瓶も、瓶の中の水も……そしてきみも。輝き過ぎの太陽の光を穏やかにして見せた。
「これはね、森の水なの」
森。僕は森を知らない。森はずいぶん昔に滅んだはずだ。そう習った。
「森は、どこにあるの?」
「この、瓶の向こうに」

きみは森を探しに、旅立った。瓶の蓋を閉めるよう、僕に託して。

たぶん、きみは森を見つけたのだろう、きみが旅立ってまもなく、雨が降った。さらさらと、細かい雨だった。

時々、懐から瓶を出してお日さまにかざす。あの日きみがやっていたように。
硝子は傷ひとつなく、水は澄んでいる。きみの姿を水の中に見ることはできない。

今年は酷い日照りになりそうだ。
僕は森を探しに行こうと思っている。

(450字)

2009年3月18日水曜日

素敵なお月さん

「ねぇ、ヌバタマは三日月と満月とどっちが好き?」と少女は夜空を見上げて黒猫に問う。
〔満月は歩きやすい〕
「そんな理由か……」
と、月は少々落胆する。
黒猫が生まれた晩は新月だった。翌晩現れた月に黒猫は大層驚いたものだ。そして、夜毎に形を変える月に照らされるのは悪くないと思うようになった。
「ナンナルは、下弦の三日月が一番ハンサムだよね?」
少女が隣の月の顔を悪戯っぽく覗き込む。
黒猫を撫でる月の手が暖かい。

(199字)

2009年3月16日月曜日

劣等と秘密

長い名の絵描きは酒が好きで、本当は酔っぱらいだ。
〔なぜその姿をキナリに見せない〕
「らって、キナリは怖がる、よ?」
だが、尻尾を切られた黒猫を撫でる手は、酒を飲んでいるときのほうが、ずっとやさしい。
「嫌われたくないんらもん、キナリに」
絵描きの手が放つ油絵の具の匂いに酔って、黒猫も饒舌になる。
〔キナリは、もう怖がらない。なぜなら、酔ったプキサを知っている。キナリは千鳥足のプキサを見かけたことがある〕
黒猫を撫でる手が止まる。
「でも、見せたくないんだろ。それがプキサのプライドだ」
こんな夜は、月も訳知り顔。

(250字)

2009年3月15日日曜日

蒼い炎

鬱蒼とした森に棲む顔面蒼白の老人が、蒼い炎の焚き火にくべるのは、処女の大腿骨。

(39字)

2009年3月14日土曜日

かさぶた職人

蛇の目傘を持ち、豚を引き連れ
「瘡蓋剥がしたい。瘡蓋剥がしたい」
と呟き歩く老人のこと。

(42字)

2009年3月12日木曜日

頭蓋骨を捜せ

 頭を失くした骸骨が訪ねてきた。頭がないせいでバランスが悪く、今にも崩れ落ちそうにギクシャクと歩いている。
「やい、一体どこで頭を失くしたんだ」
 骸骨は頭がないから、口が利けないみたいだ。筆談でこう言った。
「砂浜を散歩していたら、砂に足を取られて、転んで頭が外れました。頭は波に攫われて、海に流れていきました」
 まったく骸骨のくせに砂浜なんか歩くからだ。やれやれ、仕方がない。俺はボートを出して骸骨と海に出た。
 ボートの上で、骸骨は不安そうに俺に寄り添い、しがみ付いてくる。夕日を浴びて、白い骨が美しく輝いていた。
 さてと、早くコイツの頭を捜してやらにゃ、この子の顔も見られない。

(284字)
********************
500文字の心臓 第83回タイトル競作投稿作
○4

2009年3月9日月曜日

三月九日 夢遊電話

時々、携帯を握り締めて寝ているらしい。
私が眠っている間に、私は誰かと電話で話ているのかもしれない。
誰と? さぁね。
ウサギは知っているだろうけど、教えてくれるはずもない。

(83字)

2009年3月8日日曜日

月の……発作

「ナンナルまただよ、欠伸ばかりしてる」
少女の指摘通り、月は欠伸を止められなくなっていた。
「まったく一体どういうわけなんだろうねぇ」
長い名の絵描きも呆れたような、からかうような口調で言った。
尻尾を切られた黒猫は月を仰ぎ見る。
〔厄介だ〕
こんなにも美しい月を見ると欠伸が止まらなくなる月はどうかしていると黒猫は思う。彼は、彼の尻尾を見ても欠伸も出ないし、退屈もしない。

(181字)

2009年3月7日土曜日

リクエスト

コルネット吹きがケースの留め金をパチン! と開ける音が、少女は好きだ。けれども、尻尾を切られた黒猫はこの音が好きではない。
〔なぜこの音が好きなんだ〕
「どうしてこの音が苦手なの?」
〔痛いから〕
「痛くなんかないよ、わくわくするよ」
〔痛いものは痛い〕
そんな会話を横目に、コルネット吹きは、ピストンに油を注し、鹿の鞣し革で全体を磨いてお月さん色にする。それからマウスピースを差し入れ、はぁと息を吹き入れる。
ようやく楽器が温まると、コルネット吹きがおどけながら問う。
「さて、お嬢さんならびにに黒猫さん、一曲目は何をご所望かな?」
〔Z機関車で行け〕
「Z機関車で行け」
今度は、意見が一致した。
コルネット吹きはニコッと一人と一匹に笑いかけ、とびきりご機嫌な演奏を始める。

2009年3月6日金曜日

呪文

少女の後ろ姿を見て、尻尾を切られた黒猫は不審に思った。
〔キナリは熱を出してベッドの中のはずだ〕
黒猫は後ろ姿を追う。路地の路地、さらに路地を入る後ろ姿に、黒猫はますます訝しむ。もうここは、大人の街だ。
「あら、猫ちゃん、寄ってく?」
舌足らずな声と香水の匂いを振り切り、後ろ姿を追う。足が速い。黒猫も小走りになる。
はた、と後ろ姿は止まった。行き止まりだった。
振り返った顔は、やはり少女ではなかった。少女と同じ背格好の、老婆。
「ぬばたまの」
老婆が唱えると、辺りの灯りが蝋燭を吹き消したかの如く、すぅと消えた。
「翠玉に宿りし」

記憶はここで終わっている。どうやって本物の少女と尻尾の元に帰ったのかはわからない。
少女に言わせれば、この日以来黒猫のエメラルドの瞳は輝きを増したらしい。

2009年3月4日水曜日

猟奇的逃亡

包んだハンカチで拭っても拭っても血が滲み出てくる。この肉片があなたの肉体の一部であったのは、もう半刻は前のはずだというのに。
包んだハンカチの赤い染みは瞬く間に広がった。滲み出る血は段々と粘度を増し、私の手をべったりと汚す。小指以外の爪の中に血が入り込んでいる。

私はそっと血布を捲り、肉片を覗く。
何も覚えていない。ただの血塗れの肉片で、身体のどこを抉り取ったのかもわからない。それをしたのが私なのかもわからない。気が付いたら、手に丸まったハンカチを持っていた。中身を知り、逃げ出した。見つかることより、奪われることを恐れている。
この肉片があなたのものなのかもわからない。狂おしい程いとおしい。それだけが確信だ。

2009年3月3日火曜日

猫の足音

「靴を履いてみたいとは思わない?」
と長い名の絵描きは尋ねる。
「一人で歩く時は、靴の音がメトロノームさ。特にこんな寒い夜にはね」
コルネット吹きも応じる。
「この前も、肉球が冷えて赤くなっていたよ」
少女が畳み掛ける。
〔猫は足音を立てない〕
と答えたが、もしも履くなら爪先の尖った革靴がいいと、尻尾を切られた黒猫は考えている。

2009年3月2日月曜日

仇花

蔓に絡め取られた樹木は、人知れず折れた。

樹木は宙に浮き、所在なく風に揺れる。蔓からは一斉に花芽が飛び出し、死した樹木を尚も容赦なく絞め続ける。

2009年2月27日金曜日

色白日和

雪化粧した紅梅を見てときめいたのは、頬を赤らめた色白のあの娘に似ていたからだった。
それを思い出すために、梅園をぐるりと七周もした。その間に私の差していた黒い傘にはずっしりと雪が積もり重たくなった。これもまた、あの娘を抱いた時の重みを思わずにはいられない。

2009年2月26日木曜日

月の百面相

波間に映る月は、ゆらゆらと形を変え続ける。
少女も尻尾を切られた黒猫も、月が百面相をしているようで笑ってしまう。
「ねぇ、ナンナルもあんな顔してみて」
ねだられても応じない月に痺れを切らし、尻尾は月を擽りだした。
脇や首や足の裏。月はたちまち赤くなり、身を捩って笑い泣き。
心なしか波間に映る月も、さっきより大きく揺れているように見える。
黒猫は、尻尾の働きに満足する。

2009年2月25日水曜日

化石村

 長老の家に泊まることになった。
 歓迎の酒だと言って出されたグラスを受け取って、俺は尋ねた。
「よい色ですね、ウィスキーですか」
 長老は白くなった眉毛を動かしながら、答えた。
「旅の者よ、この村の古い名をご存知かな。ここは化石村と呼ばれてきた。この酒は、村で採れた琥珀で作ったものだ。お飲みなさい」
 そういえば松脂の香りがする。一口含むと、強いアルコールと針葉樹の香りに包まれ、思わず目を閉じた。
「旅の者よ。目を開けて御覧なさい。私の顔がわかりますか」
 そこには精悍な顔の青年がいた。見覚えのある眉毛が動く。

2009年2月24日火曜日

Raindrops

雨の晩はつまらないと尻尾を切られた黒猫は思っていた。
月が出ていないから、少女は出かけたがらない。黒猫も身体が濡れるのは嫌いだ。
しかし、背の低いコルネット吹きだけは違った。

夕焼け色の傘を肩で差し、器用にコルネットを吹く。雨音を伴奏者に仕立てあげ、いつもにまして切ない調べを奏でるのだった。
人の少ない通りにコルネットの音色が染み渡るのを、黒猫は雨の当たらないビルディングの階段で聴いている。

2009年2月23日月曜日

月の背中

月の裏側を見たいんだと呟きながら、ずんずんと歩く子供は満月を見上げて歩くからひっくり返りそうだった。
尻尾を切られた黒猫は月を連れて子供の前に立ちはだかり、月に言い放つ。
〔ナンナル、回れ右〕
「なぁんだ」
と子供は言い、スキップで去った。

2009年2月21日土曜日

ダンデライオン

長い名の絵描きの散歩についていくと、興味深い。
花を摘み、葉を拾い、土を集める。
高いところ、細い道、温かい場所を歩く猫の散歩とは大違いである。
長い名の絵描きはどんどんと荷物が増える。
「全部、絵の材料さ」
〔今夜は誰の絵を描くのだ?〕
尻尾を切られた黒猫は、本当は訊ねずともわかっていた。
今日摘んだ花は、キナリが好きな花だ。

2009年2月20日金曜日

くもよ

雨粒で武装した巣に君臨する蜘蛛に問う。
雲の上をてくてく歩けば、あの娘の住む町まで行けるかな。

2009年2月19日木曜日

チョット・バカリーのコルネット

「チョット・バカリー、このコルネットはいつから吹いているの?」
少女の問いにコルネット吹きは懐かしそうに目を細める。
「十一歳の時、そう、ちょうどキナリと同じくらいの時だ。コルネットの実った樹を見つけたんだよ。コルネットがたわわに樹からぶらさがっていた。三日月の晩だったけれど、コルネットは眩しいくらいに輝いていた。僕は一番低いところにぶらさがっていたコルネットを、何度も何度もジャンプして、ようやく手が届いたのをもぎ取ったんだ。それがこのコルネットさ」
尻尾を切られた黒猫は、月と同じ色のこの小さなラッパが実る樹を見てみたいと思った。

2009年2月18日水曜日

ヌバタマの愚痴

迷子の仔猫の声が聞こえたような気がした。
声を辿って行き着いたのは、古ぼけた雑貨屋のショーウィンドウだった。
ショーウィンドウの中には、硝子で出来た猫の置物があった。
物に話し掛けられてロクな目にあったことはない。立ち去ろうとすると、やはり硝子猫は話し掛けてきた。投げ遣りに答える。
「あぁ。この目はエメラルドの緑だ」
取り替えて欲しい? 冗談じゃない。硝子の目玉なんて、御免だ。
硝子猫の甲高い懇願の声がいつまでも追い掛けてきた。

「羨ましいかったんだろうよ、嫉妬というものだ」
とナンナルは言う。
月はわかったふうな顔をして、今夜は満月だ。

2009年2月17日火曜日

蜜の味

禁断の果実を食べたら、夕焼けが眩しくて涙が出る。
おまけに涙が甘いから、大好きなペロペロキャンディーを三日も食べてない。

2009年2月16日月曜日

マシュマロ・マンホール

12784個に一個の割合でマシュマロ・マンホールは存在する。
ふにふにした踏み心地は病みつきになるが、翌日はもうただのマンホールになっているから、行ってみても無駄さ。
僕も一度踏んだことがある。すぐに気が付いたから、しゃがんで、手で撫でて、爪を立てて引っ掻いた。
中は真っ白で、本当にマシュマロだった。そのままほじくってがしがし食べていたら、マシュマロ・マンホールは僕の重みに耐えきれなくなり、僕は下水道に落っこちた。マシュマロは一度食べはじめると止まらないよね。

2009年2月15日日曜日

危ない喫茶店

あまりにも居心地がよいので、もう十八年コーヒーをここで飲み続けている。窓から見る外の景色は随分変わったようだ。マスターと話すことは、とっくになくなってしまった。
ひとつ心配なのは、十八年分のコーヒーの代金が手持ちの金で払えるかどうかだ。この店にやってきた時、私は貧乏な学生で、財布に紙幣が入っていることは稀だった。
そして私は今、何者なのだろう。大学の籍は外されたはずだ。だが、そんなことはたいした問題ではない。店の壁には鏡があるが、私が十八年分齢を取ったようには、見えない。
店の中だけ、時間が止まっているのかもしれない。そういえば、七十年前の創業時の写真のマスターと今のマスターは、同じ人だ。

2009年2月14日土曜日

春の忍者

雪解けとともに、春の忍者も目を覚ます。
木の芽を飛び渡り、土筆に隠れ、蕗の薹に忍び込む。
春の忍者の任務は桜が咲き始めるまで。

彼らは忍び、隠れるのはお手のもの。もし遭ってみたければ、鼻を利かせるのが肝要だ。春の薫りを感じたら、きっと春の忍者は近くにいる。ただし、くしゃみは禁物。軽く一里は吹き飛んでしまうからね。

2009年2月13日金曜日

my pretty valentine

尻尾を切られた黒猫は、時折、教会の屋根の上に登る。
ここで聴く、背の低いコルネット吹きの奏でる音色は、地上で聴くのとは随分違って聴こえる。おまけにヒゲが擽ったい。しかし、その擽ったさは地上では決して感じることができないのだった。
「チョット・バカリー、ヌバタマを見なかった? 近くにはいるはずなのに、姿が見えない」
少女に訊かれて、コルネット吹きは答える。
「心配しないで、キナリ。ヌバタマは、ちゃんと近くにいる。僕の音をよく触れる場所で聴いてるはずだ」少女は安心して、コルネット吹きにリクエストをする。
「ねぇ、゛my pretty valentine゛をやって」
黒猫は、その曲の甘い擽ったさに身を捩り、堪えきれずに教会の屋根を降りて少女の元に向かった。
少女のうっとりとした眼差しに、黒猫はたじろぐ。この眼差しがさっきの甘い擽ったさと同じものだとは、黒猫は理解していない。

2009年2月12日木曜日

黒を使わなかった黒猫の絵

 長い名の絵かきが、尻尾を切られた黒猫の肖像画を、月夜の中で描いている。
「夜なのに、ヌバタマの絵なんか描けるの? ピベラ・デュオガ・ハソ・ヘリンスセカ・ド・ピエリ・フィン・ノピメソナ・ミルイ・ド・ラセ・ロモデェアセ・スペルイーナ・ケルセプン・ケルセプニューナ・ド・リ・シンテュミ・タルヌヂッタ・レウセ・ウ・ベリンセカ・プキサは」
 と少女は心配そうに訊ねる。
「暗いほうが、ヌバタマの緑色の目が綺麗だからね」
 黒猫は油絵の具の匂いを嗅いでいた。描きはじめてから随分経つのに、まだ黒の絵の具の匂いがしない。
 黒猫は伸びをする。本当に自分のことを描いているのだろうか。
「ヌバタマ、動いちゃだめ」
 と少女が窘める。
「大丈夫だよ、キナリ。ちゃんと描けるから。でもヌバタマ、ぼくが見えるところに居ておくれよ」
 できあがったのは確かに黒猫の絵だった。艶やかな黒い毛と冷たいエメラルド色の目を持つ尻尾のない猫の絵を、黒猫の尻尾はいたく気に入ったようだ。しきりに絵の中の猫の尻に触りたがる。

2009年2月11日水曜日

プラスティック・ロマンス

 ボールチェアに沈んで、脚を組み転寝をするキミは人形のように完璧で、僕はいつも粗探しを始めてしまう。

 寝息は耳を澄まして、ようやく微かに聞こえる程度で、硬そうな下着で形作られた胸は上下しない。
 睫毛は長く流れる。目脂の欠片も見つからない。
 くっと細い顎を持ち上げて、鼻の穴を覗き込む。真っ暗で何も見えない。
 腹の上で組まれた手の爪は計算された図形のように揃い、真っ赤に塗られている。
 短すぎるスカートは、捲るまでもなく、裾をちょっと引き上げる。ふっくらとした恥丘は、薄い布一枚で覆われているだけなのに、陰毛の影はない。
 白いロングブーツを脱がせ、足に顔を寄せる。
 何の匂いもしない左足の親指を甘く噛むと、キミの身体がピクッと反応した。それは本当に僅かで、ささやかな反応だったけれど、僕を決意させるに充分だった。

 真っ白な球体に包まれて眠るキミは、夢の世界ではなくて、宇宙に行っているんだろう。そこには僕はいない。だから僕は、これからキミを凌辱するよ。

ボールチェア:エーロ・アールニオ

2009年2月10日火曜日

飛行秤

夜の空中散歩は静かだ。あのうるさい鴉もねんねの時間だし、ジャンボジェットだって少しは遠慮するのかおとなしく通り過ぎる。
ぼくはペダルをキコキコ漕いで馴染みの箒星を訪ねる。自転車に翼をくっつけただけの乗り物に乗って、よくここまで来られるねぇ、と箒星たちは笑う。
けれど、僕が飛行秤をリュックサックから取り出すと、箒星たちはそわそわし始めるんだ。
飛行秤は質量ではなくて、箒星の箒の美しさを計測する、と箒星は思っている。本当のところはよくわからない。
僕がイリジウムの分銅を飛行秤の左の皿に置くと、箒星は神妙な顔で右の皿に腰掛ける。飛行秤が揺れる。箒星の箒もさらさらと揺れる。僕はこの瞬間が一番美しいと思う。

ジョアン・ミロの絵のタイトルより

2009年2月7日土曜日

見えない扉

「呪文? 知らないよ」
少女と尻尾を切られた黒猫は往来の真ん中で動けなくなっていた。何もないのに、前に進むことができないのだ。
〔見えない扉を開ける呪文だ〕
「ナンナルに聞けばわかるかな」
〔そんな暇はない〕
少女の手の中の尻尾がやおら動きだした。
尻尾は見えない扉をゆっくりと撫で回し、止まった。
〔キナリ、ここが鍵穴だ〕
「でも、鍵は」
〔ポケットに。さっき拾ったろう〕

少女がビールの王冠を尻尾の指し示す鍵穴に入れる。急いで見えない扉を通る。
ズン、と扉が閉まる音で辺りが揺れた。
「後から来る人が困っちゃうね」
黒猫は黙っていた。見えない扉は黒猫と少女の前にしか現れないことを。

2009年2月6日金曜日

水浪漫

 ブナの森。地面にぽっかりと穴が開いている。
 そこは、誰も知らないくらいに森の奥で、村で一番足の速いテトだけが辿り着ける場所。

 穴を覗き込んでも、何も見えやしない。ただ、水の気配がする。耳を澄まし、地面に手を当てる。水は流れている。穏やかに、だが勢いは強い。
 森の下は湖なのだ。ブナの樹が浄めた水、ブナの樹を守る水がこの下に集まり、地下湖となっているに違いない。

 どこまでも澄んだ水はこの穴から僅かに射す日の光や月の光で輝いているだろう、澱みを知らぬ水の中で泳ぎたい、いつまでも永遠に。テトは夢想する。

 ここのところ、テトは毎日のように穴へやってきていた。仕事もせずにどこへ行くのだと父や仲間に厳しく責められても、答えなかった。きっと睨んで森の中へ走り去る。誰も追いかけてこない。追い付けないから。
 穴の直径はテトがなんとか飛び込めるくらいの大きさだ。近頃、とみに大きくなっているテトだから、あと何ヵ月かしたら、穴に入ることはできなくなるだろう。

「行くなら、今だ」
 テトは服を脱ぐ。ブナの葉が優しくした日の光が、テトの幼さの残るしなやかな肉体を照らす。
 胸の前で手を合わせ、ゆっくりと息を吸った――。
 テトが上げた飛沫と水音の美しさは、ブナの樹たちだけが知っている。

2009年2月5日木曜日

春。芽生えの季節

「春だよ。悠介、起きて」
 乱暴に身体を揺すられている。そんなに急に起こすな。俺様は今、長い眠りから目覚めるのだ。恭しく起こせ。それから、春眠暁を覚えず、という言葉を教えてやらなきゃいかんな。
 薄目を開けると、飛び込んで来たのは春菜の心配そうな顔だった。こんなに近くで春菜の顔を見るのは一年振りだな。でも、ちょっと、唇近すぎだ……。
 今、俺のベッドを覗き込んでいる春菜は、隣の山岸さんの長女で、要するに幼なじみだ。俺とはぴったり四ヶ月違いの十六歳。ずっと一緒にいたから、春菜がかわいいかどうかなんて、よくわからない。ただ、近頃、クラスの奴に「春菜ちゃんを紹介しろよ」なんて言われると、ちょっと、いや、大分腹が立つ。

 どういうわけだか、俺は生まれつき冬眠をする。気温が低くなり、最低気温が五度を下回ったあたりから、身体が言うことを聞かなくなる。冬日、つまり最低気温が零度を下回ると、もう完全にアウト。問答無用に昏々と眠り続けることとなる。学校に行くなんてもってのほか、飯もトイレも無しに、ただひたすら眠り続ける。そんなわけで、日本海側に住んでいるくせに一度もスキーもスノボもしたことがないのが密かなコンプレックス。
 初めて俺が冬に眠りこけていた時、お袋は相当心配したらしい。いくら寝るのが仕事の赤ん坊でも、ミルクも飲まず、おしめを換える必要もなく、ただただ眠っているのだから、そりゃあ心配するのも当然だろう。おまけにその冬はやたら寒くて、ほとんど冬の間中寝ていたようだ。雪の中、眠る俺を抱きかかえて何軒も病院を回ったが、どこでも「寝る子は育つ」と一蹴されてしまったそうだ。身長が一八七センチもある今じゃ、笑い話だ。もちろんお袋は、すっかり俺の冬眠にも慣れて
「寒くなってきたわねえ。悠介、そろそろ寝ないの? あんたが寝てる間、食費が浮いて楽なのよね。どうせ雪降ろしも手伝わないんだから、寝るならさっさと寝ちゃいなさい」
 なんて酷いことを言いやがる。好きで寝てるんじゃない。息子の気、親知らず。
 赤ん坊の俺を目覚めさせたのも、春菜だったらしい。春菜の母さんが春菜を抱いたまま、ベビーベッドに眠る俺を覗き込むと、春菜は懸命に手を伸ばして俺に触ろうとしたそうだ。あんまり真剣なので、春菜の母さんは春菜をベビーベッドに降ろした。俺の隣に寝かされた春菜は、そっと手を伸ばし顔を触り……そして俺は初めての冬眠から目覚めた、というのが双方の親に何百回となく繰り返し聞かされた逸話、だ。
「まるで白雪姫のようだったわ。王子と姫の立場は反対だけどね」
 と二人の母親はうっとりと語る。そして、お袋が安堵のあまり号泣してしまったことをしみじみと振り返り、最後に一歳になるかならぬかの頃からぴったりと添い寝をし合った俺と春菜を笑うのがお決まり。近頃はこれを言われるのが妙に照れくさくて仕方がない。チラリと春菜の顔を見るが、母親たちと一緒になってけらけら可笑しそうに笑っているだけだ。俺が一人で気にしすぎなのか?

 つまり、春菜は欠かさず毎年、冬眠した俺を起こしに来る。そして今年も、春菜は俺を起こしに来てくれた。
「あ、目が開いた。おはよ、悠介」
「んー、春菜ぁ。今日は何月何日だ」
「三月五日。今年は暖かかった。やっぱり温暖化かなあ」
 五日か、よかった、春菜の誕生日に間に合った。今年は、どうしても誕生日にプレゼントを渡したかった。三月七日の春菜の誕生日、去年も一昨年も、おめでとうすら言えなかった。照れ隠しに俺は春菜の頭をぐしゃぐしゃ撫でる。こんな時の春菜の顔は、なんだかとても子供っぽい。
「なぁ、春菜。春菜はいつまで俺を起こしに来るつもりだ?」
「え? 悠介、わたしが来ないと起きないでしょ? それともまだ眠っていたかった? でも、気温もそんなに低くないし、今なら期末試験も間に合うし、数学、だいぶ進んじゃったけど。そうそう純くんから伝言があって」
「そうじゃなくて」
 強く言ったつもりはなかったが、起き抜けの低い声に春菜の顔が少し強ばった。
「そうじゃなくて。高校卒業しても、働くようになっても、都会で暮らすようになっても……おまえに恋人が出来たり、結婚したりしても、俺を起こしに来るのか? 春菜が起こしに来てくれなかったらと思うと、俺、本当のところ、怖いんだ」
 春菜はキョトンとした顔で俺の話を聞いていたが、すぐに頬を桜色に染めながら、だけどキッパリと言った。
「悠介、そんなこと心配していたの? 大丈夫!  わたしの恋人が悠介なら、わたしの旦那さんが悠介なら問題ない。ちゃんと毎年起こすから、悠介は安心して冬眠していいんだよ。……さ、お腹減ってるでしょ。おばさーん、悠介起きたよー」
 飯を食ったら、プレゼントを買いに行こう。指輪って、どこで買えるんだろう。俺はちょぴり溢れてきた涙を、欠伸のふりで誤魔化した。

第8回「電撃リトルリーグ」投稿作

2009年2月4日水曜日

スクリーン・ヒーロー

 それは、ヒールとの激しい闘いの最中だった。
 ヒールの拳がヒーローの鳩尾に入る。止めの一撃を食らわせてやったと、右の口角だけあげてほくそ笑むヒール。顔を歪めて苦しむヒーローを、観客は手に汗握り見守る。観客の祈りが通じたわけではなかろうが、ヒーローはよろよろと立ち上がり反撃に出た。最後の力を振り絞り、長い足での廻し蹴り。
 渾身の蹴りは、しかしヒールには命中せず、スクリーンを見事に突き破る。
 グガバッグバガバグバッガ
凄まじい音を立て一瞬で白い破れ幕と成り果てたスクリーンから、ごろり、ヒーローが観客席に転がり落ちたのだった。
 夢にまで見た二枚目ヒーローがそこにいる。だがそれは、瀕死の重傷を負った男だった。観客席に喜びとも痛みともいえぬ悲鳴が響き渡る。
 まもなく到着した救急車で運ばれたヒーローの安否も、映画の結末も、ついぞ知られることはなかった。
 スクリーンが破られる音ばかりが、滓のように耳に沈んでいる。

********************
500文字の心臓 第82回タイトル競作投稿作

猫の挨拶

尻尾を切られた黒猫の、かつて尻尾があった箇所は傷口が生々しい。つい数日前に切られたような状態である。
「そのお尻、痛そうね。舐めてあげるわ」
行き会った雌猫にしばしば声を掛けられるが、黒猫にはありがた迷惑でしかない。
「……構わないでくれ」
つれない黒猫の態度は、界隈の野良猫たちに評判がよろしくない。
「ヌバタマ、今の猫と何話してたの?」
〔コンバンハ、と〕
「本当に? あの猫、機嫌が悪くなったみたいだったけど」
きっと少女の手の中にある尻尾にも緊張が走ったのだろう。
傷口が塞がっては困る。いづれ尻尾は戻るのだから。

2009年2月2日月曜日

黒い毛皮に紅い花びら

紅梅の下で尻尾を切られた黒猫が丸まっている。
月の光に照らされた梅の花は妖しく紅い。
花びらがひとひら、黒猫の背に舞い降りる。
少女の手の中にある尻尾が、花びらを払おうと身を捩るが、届くはずもない。少女はベッドの中だ。
花びらは、黒猫の背中に居座っている。気に入ったらしい。

2009年1月30日金曜日

幻術遣いは誰であるか

少女が公園で遊ぶ間、尻尾を切られた黒猫もまた、公園で遊ぶ。
少女がブランコで遊べば、黒猫は滑り台の上に丸まってそれを眺める。
黒猫が植え込みの中を散歩すれば、少女はそれを追い掛けまわす。
そんな時、月は黒猫を抱きベンチに腰掛けて少女を見守っている。膝の上の黒猫は黒猫ではなくカボチャだということに、月はなかなか気が付かない。少女が笑う。
「ナンナル、またカボチャを抱いてる」
「ヌバタマが何やら術を使って騙すのだ」
と月は言うが、公園に行く度に手頃なカボチャが落ちているから、黒猫はカボチャが月を惑わしているに違いないと考えている。

2009年1月29日木曜日

真昼の夢

午睡で見る夢は、大体いつもどこかが狂っている。小さな歯車が抜け落ちて、狂気じみてぎくしゃくした夢。
苦い汁を浸した綿を口に詰め込まれて殺されかける。
謎の伝染病にかかり高熱で高熱で苦しむ。
友人と激しく性交し気を失う。
夜の夢では一度も感じたことのない疲労感に、ぐったりとする。
もう昼間になんか寝るものかと思うのに、午後二時十五分になると容赦なく眠気が降り掛かる。夜とは違い、粉っぽく酸味が強い眠気。どうしたって払い除けることができない。狂った夢の原因は、この眠気にあるのではないかと睨んでいるのだけれど。

2009年1月28日水曜日

賑わいの町

通る人すらいない商店街、目を閉じれば俄かに活気づく。
耳を澄ませて歩く。右手に八百屋のダミ声がする。近寄っておじさんに声を掛けた。
「りんごをください」
右手に袋を握らされ、また声を頼りに歩きだす。
店先でお客とお喋りに夢中の洋品店のおばさんの声を辿る。セーターと、新しいシャツと靴下を見繕ってくれと頼む。
「きっとよく似合うよ」とおばさんに紙袋を渡された。
それから最後は花屋さん。これは耳より鼻がいい。迷うことなく到着し、バラの花束を、と頼む。

花束を抱えて花屋を出るともうそこは商店街の終わりだ。目を開けると喧騒が消える。振り返ると、やはりシャッターの閉まった、がらんどうな通りだった。
なぜかバラの花束がずしりと重たい。

2009年1月26日月曜日

古い缶詰

黒猫にまだ尻尾があった頃のことだ。
餌を求めて迷い込んだ地下室に、夥しい数の缶詰が転がっていた。
ラベルは色褪せ、埃が積もり、錆びた缶詰は、一体何が入っているのかわからない。缶詰を開けるのは難しい。諦めて外に出ることにする。
ひとつ、膨張して今にも破裂しそうな缶詰があった。しかし黒猫はそれに気付かず、尻尾で蹴飛ばしてしまったのだ。
缶詰は、あっけなく爆発した。腐敗臭が地下室一杯に立ち込め、気を失いかけながら地下室から脱出した。

「それは何の缶詰だったの?」
少女が目を輝かせて問う。
〔わからない〕
「羊のげっぷ。七十六年前のな」
何故か、月が答える。

2009年1月25日日曜日

流星群の夜

「動かないで。目を閉じて。耳を澄ませて。このまま……」
少女の足音が遠ざかる。
冬の夜。尻尾を切られた黒猫は往来の途中で(といっても、そこは塀の上であった)突如置き去りにされた。少女はもう大分遠くに離れた。動くことはたやすいが、もう暫く少女の言う通りにしてみようと考えた。
耳を澄ませて、と言われたから、耳を澄ませたままでいる。
時折、流星が走り抜ける音がする。ヒゲからも毛からも。
耳だけを澄ませるのは、なかなか難しいことだ、と黒猫は考える。
まだ少女は戻らない。

2009年1月24日土曜日

教会

少女は石造りの古い教会に入ってみたくて仕方がない。少女が生まれるずっと以前に閉鎖された教会である。人気のない教会は薄汚れ、町の中心に在りながら暗く重苦しい雰囲気を漂わす。だが、同時に堂々とした威厳を今も尚感じさせるのだ。
どうやら少女は、廃墟だからこそ、その存在に圧倒され、魅了されているらしい。黒ずんだ石段を大股で昇り、開かないとわかっている扉にしがみついて中を覗きこむ。何度覗こうと何も見えないことも、もちろんわかっている。

尻尾を切られた黒猫は、一度だけ教会に入ったことがある。裏の通風孔を通って中に入ることができたのだ。
外から覗いた時には、真っ暗だったはずなのに、教会の中は輝きに満ちていた。大勢の天使に迎えられ、黒猫は自由に中を散策することを許された。
真っ白なマリア像に見守られながら、広い教会内を歩いた。天井はひたすらに高く、どんな小さな音もよく響く。黒猫は生まれて初めて己の足音を聞いた。
まもなく黒猫は、黒いものが己だけであることに気付く。こんなにもまばゆい光の中にいるのに、そこに影がないのだ。

〔ここにあるのは、まやかしの光だ〕
「中は真っ暗だよ?」
見えないから惹かれることもあるのだ、と黒猫は考える。

2009年1月23日金曜日

ねぇ

「ねぇ」
きみからの電話に少々縮みあがる。あんなことをして怒ってないだろうか。感傷的になっていたのは確かだけど、勢いだけじゃなかった。だって
「気紛れだったなら、そう言って。酔っ払った勢いで、という言い訳も今だけ受け付けます。そうじゃないなら恋の槍とか、キスの雨とか降らせちゃうんだからね。覚悟シロ」

彼女が電話越しにあっけらかんと言うから、そんなの降るもんかと笑いながら窓から空を見上げてみる。
ホントだ。雲からハート型の槍がぶら下がって今にも落っこちそうになってら。早く降っておいで。

朝靄の中で

少女が眠っている間、尻尾を切られた黒猫はどうしているのか。夜明けの月は少々意地悪な関心で天から黒猫を観察することにした。

黒猫はそっと少女の腕から抜け出すと、寂れた歓楽街のビルの陰で、年老いた娼婦にミルクを貰っていた。
残飯を漁る鴉を一瞥し広場に出ると、しゃがれ声の老人の唄を少し離れたところから聴いていた。老人は死んだ恋人を求め彷徨う唄を繰り返し繰り返し唄った。

漸く老人が唄うのを止めると、黒猫は立ち上がり白い月を見上げながら、些か大袈裟な欠伸をした。
「やや、お見通しだったね」
月の苦笑いに、黒猫は二度目の大欠伸で応える。

2009年1月22日木曜日

チンパンジー計画

産まれたばかりの弟は、そりゃあもう、チンパンジーにそっくりのかわいらしさだった。私はすぐに決心した。迷いはなかった。
「ママ、パパ。この子は私が育てる。いいでしょう?」
私は弟がそのまま大きくなるように願った。クリッとした黒い瞳、ふぅわりとした体毛、豊かに感情を表す口元、赤くてぽっこりとしたお尻、細長いのに力強い手足。
だから私は哺乳瓶とバナナと弟を抱えて、毎日動物園に通ったの。
檻の中のチンパンジーたちは、まもなく弟の顔を覚えて、挨拶するようになった。弟もチンパンジーと同じ挨拶をすぐに覚えた。幼稚園に行く年頃になるとチンパンジーに弟を預けた。
弟は、今度結婚する。もちろんチンパンジーと。フィアンセは私が弟を連れて動物園に通いだした頃産まれた子。弟にとっては幼なじみ。彼女はもう妊娠しているから、今度こそ本当のチンパンジーの甥っ子(姪かもしれない。どちらでもいいの)が産まれるの。

2009年1月19日月曜日

ヌバタマの呟き

キナリに抱かれると眠たくなるが、ナンナルに抱かれていると、なにやら目が覚めてくる。それは、冬の冴えた三日月を眺めている時の気分に似ている。キナリに言わせると、瞳の緑色が輝いてくるらしい。
「そりゃ、お前さんがエメラルドなんか飲み込むからだ」
ナンナルは笑う。
そのエメラルドの指輪は、今はキナリが持っている。だが、もう一度飲み込みたいとは思わない。あの時ほどにおいしくはないだろう。この緑色は手に入れてしまったから。

2009年1月18日日曜日

黒猫を探して駆け抜けた夜

黒猫の尻尾を握っていれば、少女は安心だ。黒猫が独りで出掛けている時でも体温を感じることができる。黒猫の機嫌や、近くまで戻ってきたこともわかる。
けれども今夜は違った。だらんとしたまま動かず、温もりがない。毛並も悪かった。こんなことは、初めてだった。
少女は黒猫の身に何かあったのではないかと、気が気でない。
尻尾を握り締めたまま駆け廻る。もう隣町だ。夢中で走っているうちに、少女は独りで来たことがないくらい遠くまで来てしまっていた。
〔キナリ、どこへ行く〕
少女は急ブレーキを掛けたように立ち止まった。
「ヌバタマ、ヌバタマの尻尾が、尻尾が……」
〔ちょっと遠く離れていただけだ〕
黒猫は、少女の涙を舐める。海の匂いとよく似ている、と思いながら。

2009年1月17日土曜日

初恋の思い出

尻尾を切られた黒猫は、橋の欄干の上で丸くなり、夜の川面を眺めている。ここは海が近い。潮風がヒゲに当たる。
「何をしてるの? ヌバタマ。こんなところに座っていて怖くない?」
少女に問われる。
黒猫が初めて仲良くなった娘猫は、港に暮らす猫だった。漁師に魚を貰い、潮風に当たりながら毛繕いをし、船乗りとひとしきり遊び、倉庫の隅で眠る、そんな日々を送る彼女のことを海の近くに来る度、思い出す。
〔ただ、それだけだ〕
と、黒猫は答えて立ち上がった。
夜の川面は、空より暗い。

2009年1月16日金曜日

欠けた満月

月の様子がおかしいのに真っ先に気がついたのは、尻尾を切られた黒猫だった。黒猫は少女に問う。
〔キナリ、今夜は満月ではないのか?〕
「え?」
黒猫は毛を逆立て、エメラルドの瞳で射るように月を見上げている。
少女はにわかに不安になる。満月が齧られたように欠けているのだ。
少女の不安は的中した。暫くしてやってきた月は頭に大きな絆創膏をしていたのである。
「ナンナル! その怪我どうしたの?」
「参ったよ。このご時世に月はチーズで出来ていると信じるネズミがあんなに大勢いるとはね!」

蹴飛ばせ!

自転車を素手で駐輪場に運ぶ。冬の夜の自転車は、氷よりも冷たい。
パズルのように自転車を並べていく。駐輪場がいっぱいになると、今度は自転車の上を自転車を抱えて飛び歩き、累ねていく。

夜中にだけ出現する美しく輝く自転車ピラミッド。鼠たちの秘密の遊園地。

朝になれば、また自転車は出ていく。だが、この絶妙なバランスで積み上げられた自転車を取り出せる奴なんかいない……俺以外に。

だから朝の人々は、自転車を一斉に蹴飛ばすのだ。自転車のピラミッドは儚く崩れ落ちる。大音響と鼠の糞を浴びて、美しくもない自転車の山から一台を引きずり出して跨がり、世間様とやらに分け入っていく。俺は仕事明けの旨い酒を呑みながらそれを眺める。いい気味だ、お天道様が眩しいぜ。

2009年1月14日水曜日

36度

小学校に続く長い坂の入り口には「三十六度」と書かれた汚れた木の杭が立っていた。だから皆、この坂を「三十六度坂」と呼んでいた。
子どもたちは、学校で分度器を習うと、一様に「この坂の角度は36度だ」と思い込む。
坂道に記された三十六度の意味、それはかつてここにあった祠の名残なのだ。
祠は何度造り直しても原因不明の小火で焼け、三十六度焼けた後、再び建てられることはなかった。
杭だけになってからは小火は起きていない。
小僧たちがこぞって小便を引っ掛けるからだ、と杭にしがみついている祠の神様はぼやいている。

2009年1月13日火曜日

おもちゃ屋への行き方

〔おもちゃ屋に行く〕
黒猫は、小さな小さな路地を入る。
割れた瓶が転がる酒臭い細い道を歩く少女の胸は好奇心と恐ろしさが半分づつである。
「ねぇ、ヌバタマ。こんなところにおもちゃ屋さんなんてあるの?」
ふいに少女の前に現れたのは、恐ろしいほうだった。
顔の赤い大男が、少女の前に立ちふさがる。黒猫は大男の足の間をすり抜けて行ってしまう。
「おい、こども!」
怒声と酒臭い息が少女に降り注ぐ。
「この先のおもちゃ屋に連れていってやる」
大男が少女をひょいと肩車してその場で三回ぐるぐる回った。

降ろされるとそこは、人形やビー玉や汽車がぴかぴかに輝く部屋の中だった。大男の姿も黒猫の姿もない。誰の気配もしない。おもちゃたちが皆、息を潜めて少女を観察しているような気がして、少女の鼓動は速くなった。
〔キナリ、ずいぶんと遅かったな〕
欠伸をしながらそう言った黒猫は、たくさんの猫のぬいぐるみに埋もれていた。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん。よくこの店がわかったね。あぁ、黒猫と友達なんだね」
にこにこと現れた紺色のエプロンを締めた店主は、さっきの大男だ。

愛しています

頭ん中と胸の内の、このぐちゃぐちゃは全部言葉に変換できるのだろうか。
できたとして、それをドサリと渡したら、君はどんな顔をするだろう。甘い言葉ばかりじゃない。臭い言葉もきっとある。尖った言葉もきっとある。
君はたぶん泣くだろう。怒るだろう。
それもこれもひっくるめて「愛してる」は全部表してしまうような気がするから、余計に口に出しにくい。
なのに、君はいつだって僕の「愛してる」をせがむ。

2009年1月12日月曜日

子猫が訪ねて来た話

尻尾を切られた黒猫は、毛繕いの最中だった。
〔キナリ、子猫の声がする〕
「本当だ」
少女が部屋の扉を開けると、小さな猫が震えながら鳴いていた。
〔腹を空かせている〕
「でも、ミルクはさっきヌバタマが全部飲んじゃったから残っていないよ。どうしよう」
黒猫は、気にする様子もなく、今度は子猫を舐めている。
〔ナンナルが来れば、解決する〕
まもなく現れた月は、おやつに持ってきたミルクとビスケットを全部子猫に奪われ不機嫌になったが、子猫の瞳が赤いのに気がつくと落ち付き払って言った。
「キナリ、ポケットに何か入っていないか?」
少女はガーネットのネックレスを掲げた。
「この子も石を飲みこんじゃったんだ!」

掌に降るゆき

 一月二十日夜。凛とした静寂に、雪が積もり始めていることを知る。
 僕は寒さに身を縮めながら部屋を出た。着古した綿入れを羽織り、マフラーをしっかりと巻いて長靴を穿く。手袋はつけない。寝ている父や母を起こさぬようそっと外に出た。
 日が落ちてから降りだした雪は、既に足首まで積もっていた。夜なのに仄かに白い空を仰ぎ見る。今夜は、きっと逢える。冷えて赤くなった両の掌を椀のようにして、そっと差し出した。
 まるで僕の掌目掛けて雪が降っているようだった。たちまち掌一杯に雪が積もる。はぁ、と温かい呼気を吹き掛けると、懐かしく愛しい人があらわれる。まだちょっと眠たそうにしているから、驚かさぬよう囁き声で名を呼んだ。
「ゆき」
 くるん、とゆきの瞳が輝いた。
「一馬」
 十一歳の頃そのままの笑顔と声で、僕の身体中の関節は甘く火照る。ぎゅっと手で包みたくなるけれど、掌の中のゆきはあまりに小さい。そのまま、そのまま。やさしく掌を崩さぬように。
 元気そうで、よかった。と呟いたら涙が零れた。ぽたん、とゆきの傍らに落ちた。いけない。ゆきが身体を強ばらせる。僕の涙も、ゆきにとっては重い塩水の塊だ。
「ごめんよ、あんまり久しぶりだから……嬉しくて涙が出てきちゃったんだ」
 謝るとゆきはにっこりと笑ってくれるから、また涙が溢れてきて、顔を背けて鼻を啜った。
 去年は逢えなかった。雪が降らなかったからだ。一昨年とその前の年は逢えたけれども、四年前は逢えなかった。毎年というわけにはいかない。一月二十日に降り出すしんしんと静かな雪の晩にしか、僕はゆきに逢えない。

 十一歳だった一月二十日、幼なじみの悠紀は居なくなった。悠紀は母親が入浴しているほんの数十分の間に、居なくなった。父親は夜勤の日で不在の夜のことだった。
 風呂上りのまま表に飛び出してきた悠紀のお母さんが、真っ赤な顔で身体中から湯気を上げて悠紀の名前を叫んでいた姿を、僕は一生忘れることはないだろう。娘を呼ぶその声は、無情にもすべて雪に吸い取られた。本当に雪の多い夜だった。
 一週間ほど近所のおじさんやお兄さんたちが険しい顔で探し回った。結局、悠紀は見つからなかった。
 春になればひょっこり出てくるよ、と地区で一番年長のばあちゃんが目を真っ赤にして呟いた言葉に皆が期待したが、雪が解けてもやっぱり悠紀は帰ってこなかった。未だに手がかりも、遺体も何も見つかっていない。悠紀は、雪と一緒に解けてしまったんだ、と僕は思った。
 悠紀の両親は、居た堪れなくなったのか、形だけの葬儀を済ませると遠くの町へ引っ越していった。悠紀が帰ってくると最後まで信じていたばあちゃんも夏の終わりに死んで、近所の人も悠紀のことを口に出さなくなった。一年も経たないうちに誰もが、悠紀はまるではじめから存在すらしなかったような態度になったのが、許せなかった。
 悠紀を偲ぶことが出来るのは、僕だけだ。僕は白いうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて毎晩のように誓った。引っ越していく日に悠紀のお母さんがそっとうちを訪ねて来て、僕にくれたぬいぐるみだ。悠紀が可愛がっていたそのぬいぐるみは、何度も悠紀の部屋で見たことがあるものだった。その夜は、悠紀とよく似た悪戯っぽい瞳をしたそのうさぎのぬいぐるみを、泣きながら抱いて眠った。

 悠紀が居なくなってちょうど一年後の一月二十日の夜、去年と同じように雪が降った。僕は一人で外へ出て、掌に積もる雪を見詰めながら「ゆき……」と呟いたのだ。
「なあに? 一馬」
 聞き覚えのある声とともに現れた悠紀に、僕は心底驚いた。恐ろしくもあった。手を開いて放り出しそうになるのを、寸でのところで押し留まった。深呼吸して、もう一度、掌を覗き込んだ。悠紀は悠紀だけど、小さくて軽かった。
「本当に、悠紀? おれ、何かに化かされてない?」
「化かしてなんかいないよ。悠紀よりずっと小さいけれど、ゆきだよ」
 それを聞いて僕は、胸がいっぱいになった。ずっとずっと、逢いたかったのだ。
 悠紀に逢うことがあれば、たくさん言ってやりたいことがあった。
 皆、心配したんだぞ。どこに行っていたんだ。怪我はなかったか。怖い思いをしなかったか。
 けれども、悠紀の小さすぎるその姿は、違う世界の人であることをはっきりと物語っていた。今更、失踪したことを責め立てるのは躊躇われた。それでもやっぱり、訊きたいこともいっぱいあった。
 普段はどこにいるの。誰かと一緒に暮らしているの。どうして僕に逢えるの。……悠紀は死んだの。
 でも、言いたいことも、訊きたいことも、何ひとつ口に出せなかった。今僕にできることは、今のゆきを大切にすること。そう決めたら、ひとつだけ訊ねることができた。
「来年も、逢える?」
 ゆきは、きっぱりと答えた。
「雪が降ったら」

 ゆきに初めて逢った日のことをぼんやりと思い出しながら、僕は近い将来のことを語った。春になったら専門学校を卒業して、町に出ること。もうすぐ一人暮らしの準備を始めること。ゆきはちょっと寂しそうな声で言った。
「一馬、なんだか知らないお兄さんみたいだ。もう大人なんだよね。もうすぐ二十歳だもんね。いつまで経ってもゆきばっかり小さいままだ」
 ゆきに悠紀の頃の記憶がどれくらいあるのか、僕は知らない。ゆきが自分の話をすることはほとんどなかった。いつでも僕の近況を知りたがり、嬉しそうに聞いていた。だから、ゆきが僕に負い目を感じているとは、気付かなかった。僕はあの頃のままの悠紀の姿でいる、今のゆきを大切に思っているし、大好きなんだ。でも、それを口にしてよいのかどうか、わからない。
 黙っていると、ゆきは、ふっと優しい声になって言った。
「一馬、手が疲れたでしょう?  ほら……霜焼けになってる」
 ゆきは僕の指先をちろちろと舐める。その仕草は、十一歳のものとは思えなくて、姿は変わらずともちゃんと年齢を重ねているのではないかと思わずにはいられない。
「危ないよ、滑り墜ちる。おれは大丈夫だから」
 そう言った声は少し擦れていた。顔が赤いのは、寒さのせいではない。ゆきの唾液が赤くなった指に滲みるけれど、その痛みすらもこの小さな小さなゆきが幻ではない証だと思える。
「一馬の着てる綿入れ。あの日着ていたのと同じだよね。わたしがこっちに来た日。一馬がそれを着て、雪の中でわたしを探しているの、ずっと見てたよ。ごめんね、って思いながら」
 心臓がぎゅっと掴まれたような気がした。ゆきは、やっぱり悠紀でいた頃を覚えているのだ。
「誰かに呼ばれたわけじゃない。自分で来たの。間違って人間に生まれちゃったような気がしてた。ずっと、小さい時から。だから、自分の棲むべき場所に帰ろうと思ったの。一馬と離れ離れになることだけが、嫌だった」
 間違って人間に生まれちゃった、ってどういうことだ? ゆきは何者なんだ? ゆきは、悠紀であるときから人間ではないと自覚していたのか……。
「わたしは、幸せだと思う。本当に棲むべき場所がどこだか解ったから。時々だけど、一馬ともこうして、逢うことができる。抱きしめてもらうことは、ちょっとできないけどね」
 冗談めかしてゆきは言ったけれど、僕はその真っ直ぐな言葉にひどくたじろいだ。

 朝が近づいても、空は相変わらず雪を降らし続けている。もう何時間も同じ姿勢で、ゆきを両の掌で掬うように包んでいるから、すっかり凝った肩に雪が降り積もっている。とうに両腕は痺れを通り越して、感覚がない。
「そろそろ、帰るね。一馬、また来年も雪が降ったら、逢えるよ」
「うん」
「でもね、一馬はもう、ゆきに逢いに来ないと思う」
「え?」
 そんなことはない、きっと、必ず来年も、と言った時にはゆきの姿はなくなっていた。掌の中にはこんもりと積もった雪があるだけ。思わず空を見上げて叫んでいた。
「悠紀ー!」
――ありがとう、一馬。
 と聞こえたような気がして掌をもう一度見ると、掌の雪は跡形もなく消えていた。

ゆきのまち幻想文学賞投稿作

2009年1月11日日曜日

連鎖

仕舞い込まれたCD-ROMは、何故か急に自己主張したくなり、高速回転を始めた。
それを見て目が回ったアルバムは写真を吐き出し、過去を清算しようと試みる。
写真を浴びた手紙入れの箱は、腹に溜まった手紙の差出人と写真に写る人を照合しはじめ、差出人のうち二割が既に故人であることを知る。

2009年1月8日木曜日

お喋りな石

「ちょっと、そこの黒猫。尾のない猫よ、頼みがある」
呼び止められて黒猫は立ち止まるかどうか迷った。黒猫を呼び止めたのは、塀の上に落ちていた白い石だったからだ。あまりよい頼み事ではないに決まっている。
〔何用だ〕
「黒猫よ、月と懇意であるな。我が輩は月に用があるゆえ、月のところへ運んでくれ。我が輩はこの通り死の危機に直面しているために自力では辿りつけない」
石の癖にお喋りで、どこが死にそうなのか、さっぱりわからない。
〔断る〕
黒猫が再び歩きだそうとすると、石は言った。
「その瞳、お前は石を飲んだことがあるはずだ。だから、我が輩の声が聴こえる。人間に言葉が通じるのもまた、尻尾を切られたからであろう。どうだ、違うか」
黒猫は仕方なく白い石をくわえて、月と少女の元に向かった。
今度は飲み込まないようにしないとな、と黒猫は独りごちる。

変異さん

変異さんの人生はスリルとサスペンスに満ちている。
変異さんは、朝起きるとまず身体中を隈無く点検する。鏡も使う。
今日は点検するまでもなかった。全身毛だらけ、だったからだ。
「結構毛だらけ、猫灰だらけ」
今朝の変異さんは機嫌がよいらしい。
ともかく、こうして毎朝なにかしらの変異を起こしている。昨日と違ったところを見つけられないと焦る。左の尻っぺたの内側に小さなホクロが出ただけの時は、発見まで四時間掛かって、変異さんは半狂乱だった。
変異さんは、自分が男か女かも気にしない。長い時は四年ほど男だったが、八ヶ月間毎日男女を繰り返したこともあった。
色が白くなったり、黒くなったりもするし、背や体重も変わる。
変異さんのコンプレックスは、自分の容姿がない、ということだ。

2009年1月6日火曜日

沈思黙考

黒猫は考える猫である。だが口数は寡ない。
人間語は伝達と思想と表現に遣うものだ、と黒猫は考えた。
黒猫が伝達すれば、それは人間語となり、少女は理解する。
黒猫が表現すれば、それは鳴き声となり、少女の手の中で尻尾がくねる。
「ヌバタマ、大好き」
〔……にゃおん〕
一度くらい、鳴き声じゃなく人間語で表現したいものだ。
と、やはり黒猫は無言で考えている。

2009年1月5日月曜日

散歩前のしっぽ

尻尾を切られた黒猫は、夜にしか出歩かない。独りの散歩をしたい時は少女に気がつかれないようにそっと少女から離れるのだが、少女は勘がよい上に四六時中黒猫の尻尾を握りしめたままだから、大抵の場合気付かれてしまう。
何故なら、ヌバタマが散歩に出掛けたいと思うと、少女の手の中の尻尾もまた落ち着きなくぴくりぴくりと動いてしまうのだ。
まだまだ修行が足りないと苦笑いしながらも、そんな時の尻尾は月光に照らされ、黒い毛並みが艶やかに際立つから、黒猫は我ながら見惚れてしまう。

2009年1月3日土曜日

黒猫がしっぽを切られた話

黒猫は少女に尻尾を掴まれた時、逃げてもよかったのだ。だが、黒猫は逃げなかった。少女の手に掴まれた尻尾自身が、逃げることを拒んだ。尻尾は、愉しんでいた。愉快がっていた。黒猫は、愉快を初めて知った。
ハサミでパチンとやられた時も、尻尾は身をよじって笑っていたから、黒猫は少しヒゲが痒くなった。少女に頬擦りをして誤魔化したが、それが恥ずかしかったからと気付いたのは、しばらく後のことだ。

少女は、キナリというらしい。
「猫、名前は?」
〔ヌバタマ〕
「変な名前」
〔あんたもな〕

見上げると、少女よりも真剣な表情で、月がこちらを覗き込んでいた。

2009年1月1日木曜日

差し出された手や手

三度目の新月の晩、黒猫は兄弟たちが眠っている間に、旅立った。
人間たちが世話を焼いてくれるので、ひもじい思いをすることはなかったが、一ヶ所に留まることは嫌った。
ミルクを差出し、身体を撫でていった人間の手を、黒猫はすべて覚えている。
皺だらけの手からは歓びを、太い指からは哀しみを知った。
小さな手からは怒りを、細い指からは、切なさを感じた。
尻尾を掴んだ少女の手は、今までとは明らかに異なる手だった。

生まれた晩と次の晩

新月の夜に、黒猫は生まれた。黒い猫は兄弟のうち彼だけで、母猫は彼に「ヌバタマ」と名付ける。悪くない名前だ、と黒猫は思った。
黒猫は乳を十分に飲むと、自分とよく似た色の空を眺め、それから眠った。
目覚めると、昨日はなかったか細い月を見つけ、二度欠伸をする。