2009年1月30日金曜日

幻術遣いは誰であるか

少女が公園で遊ぶ間、尻尾を切られた黒猫もまた、公園で遊ぶ。
少女がブランコで遊べば、黒猫は滑り台の上に丸まってそれを眺める。
黒猫が植え込みの中を散歩すれば、少女はそれを追い掛けまわす。
そんな時、月は黒猫を抱きベンチに腰掛けて少女を見守っている。膝の上の黒猫は黒猫ではなくカボチャだということに、月はなかなか気が付かない。少女が笑う。
「ナンナル、またカボチャを抱いてる」
「ヌバタマが何やら術を使って騙すのだ」
と月は言うが、公園に行く度に手頃なカボチャが落ちているから、黒猫はカボチャが月を惑わしているに違いないと考えている。

2009年1月29日木曜日

真昼の夢

午睡で見る夢は、大体いつもどこかが狂っている。小さな歯車が抜け落ちて、狂気じみてぎくしゃくした夢。
苦い汁を浸した綿を口に詰め込まれて殺されかける。
謎の伝染病にかかり高熱で高熱で苦しむ。
友人と激しく性交し気を失う。
夜の夢では一度も感じたことのない疲労感に、ぐったりとする。
もう昼間になんか寝るものかと思うのに、午後二時十五分になると容赦なく眠気が降り掛かる。夜とは違い、粉っぽく酸味が強い眠気。どうしたって払い除けることができない。狂った夢の原因は、この眠気にあるのではないかと睨んでいるのだけれど。

2009年1月28日水曜日

賑わいの町

通る人すらいない商店街、目を閉じれば俄かに活気づく。
耳を澄ませて歩く。右手に八百屋のダミ声がする。近寄っておじさんに声を掛けた。
「りんごをください」
右手に袋を握らされ、また声を頼りに歩きだす。
店先でお客とお喋りに夢中の洋品店のおばさんの声を辿る。セーターと、新しいシャツと靴下を見繕ってくれと頼む。
「きっとよく似合うよ」とおばさんに紙袋を渡された。
それから最後は花屋さん。これは耳より鼻がいい。迷うことなく到着し、バラの花束を、と頼む。

花束を抱えて花屋を出るともうそこは商店街の終わりだ。目を開けると喧騒が消える。振り返ると、やはりシャッターの閉まった、がらんどうな通りだった。
なぜかバラの花束がずしりと重たい。

2009年1月26日月曜日

古い缶詰

黒猫にまだ尻尾があった頃のことだ。
餌を求めて迷い込んだ地下室に、夥しい数の缶詰が転がっていた。
ラベルは色褪せ、埃が積もり、錆びた缶詰は、一体何が入っているのかわからない。缶詰を開けるのは難しい。諦めて外に出ることにする。
ひとつ、膨張して今にも破裂しそうな缶詰があった。しかし黒猫はそれに気付かず、尻尾で蹴飛ばしてしまったのだ。
缶詰は、あっけなく爆発した。腐敗臭が地下室一杯に立ち込め、気を失いかけながら地下室から脱出した。

「それは何の缶詰だったの?」
少女が目を輝かせて問う。
〔わからない〕
「羊のげっぷ。七十六年前のな」
何故か、月が答える。

2009年1月25日日曜日

流星群の夜

「動かないで。目を閉じて。耳を澄ませて。このまま……」
少女の足音が遠ざかる。
冬の夜。尻尾を切られた黒猫は往来の途中で(といっても、そこは塀の上であった)突如置き去りにされた。少女はもう大分遠くに離れた。動くことはたやすいが、もう暫く少女の言う通りにしてみようと考えた。
耳を澄ませて、と言われたから、耳を澄ませたままでいる。
時折、流星が走り抜ける音がする。ヒゲからも毛からも。
耳だけを澄ませるのは、なかなか難しいことだ、と黒猫は考える。
まだ少女は戻らない。

2009年1月24日土曜日

教会

少女は石造りの古い教会に入ってみたくて仕方がない。少女が生まれるずっと以前に閉鎖された教会である。人気のない教会は薄汚れ、町の中心に在りながら暗く重苦しい雰囲気を漂わす。だが、同時に堂々とした威厳を今も尚感じさせるのだ。
どうやら少女は、廃墟だからこそ、その存在に圧倒され、魅了されているらしい。黒ずんだ石段を大股で昇り、開かないとわかっている扉にしがみついて中を覗きこむ。何度覗こうと何も見えないことも、もちろんわかっている。

尻尾を切られた黒猫は、一度だけ教会に入ったことがある。裏の通風孔を通って中に入ることができたのだ。
外から覗いた時には、真っ暗だったはずなのに、教会の中は輝きに満ちていた。大勢の天使に迎えられ、黒猫は自由に中を散策することを許された。
真っ白なマリア像に見守られながら、広い教会内を歩いた。天井はひたすらに高く、どんな小さな音もよく響く。黒猫は生まれて初めて己の足音を聞いた。
まもなく黒猫は、黒いものが己だけであることに気付く。こんなにもまばゆい光の中にいるのに、そこに影がないのだ。

〔ここにあるのは、まやかしの光だ〕
「中は真っ暗だよ?」
見えないから惹かれることもあるのだ、と黒猫は考える。

2009年1月23日金曜日

ねぇ

「ねぇ」
きみからの電話に少々縮みあがる。あんなことをして怒ってないだろうか。感傷的になっていたのは確かだけど、勢いだけじゃなかった。だって
「気紛れだったなら、そう言って。酔っ払った勢いで、という言い訳も今だけ受け付けます。そうじゃないなら恋の槍とか、キスの雨とか降らせちゃうんだからね。覚悟シロ」

彼女が電話越しにあっけらかんと言うから、そんなの降るもんかと笑いながら窓から空を見上げてみる。
ホントだ。雲からハート型の槍がぶら下がって今にも落っこちそうになってら。早く降っておいで。

朝靄の中で

少女が眠っている間、尻尾を切られた黒猫はどうしているのか。夜明けの月は少々意地悪な関心で天から黒猫を観察することにした。

黒猫はそっと少女の腕から抜け出すと、寂れた歓楽街のビルの陰で、年老いた娼婦にミルクを貰っていた。
残飯を漁る鴉を一瞥し広場に出ると、しゃがれ声の老人の唄を少し離れたところから聴いていた。老人は死んだ恋人を求め彷徨う唄を繰り返し繰り返し唄った。

漸く老人が唄うのを止めると、黒猫は立ち上がり白い月を見上げながら、些か大袈裟な欠伸をした。
「やや、お見通しだったね」
月の苦笑いに、黒猫は二度目の大欠伸で応える。

2009年1月22日木曜日

チンパンジー計画

産まれたばかりの弟は、そりゃあもう、チンパンジーにそっくりのかわいらしさだった。私はすぐに決心した。迷いはなかった。
「ママ、パパ。この子は私が育てる。いいでしょう?」
私は弟がそのまま大きくなるように願った。クリッとした黒い瞳、ふぅわりとした体毛、豊かに感情を表す口元、赤くてぽっこりとしたお尻、細長いのに力強い手足。
だから私は哺乳瓶とバナナと弟を抱えて、毎日動物園に通ったの。
檻の中のチンパンジーたちは、まもなく弟の顔を覚えて、挨拶するようになった。弟もチンパンジーと同じ挨拶をすぐに覚えた。幼稚園に行く年頃になるとチンパンジーに弟を預けた。
弟は、今度結婚する。もちろんチンパンジーと。フィアンセは私が弟を連れて動物園に通いだした頃産まれた子。弟にとっては幼なじみ。彼女はもう妊娠しているから、今度こそ本当のチンパンジーの甥っ子(姪かもしれない。どちらでもいいの)が産まれるの。

2009年1月19日月曜日

ヌバタマの呟き

キナリに抱かれると眠たくなるが、ナンナルに抱かれていると、なにやら目が覚めてくる。それは、冬の冴えた三日月を眺めている時の気分に似ている。キナリに言わせると、瞳の緑色が輝いてくるらしい。
「そりゃ、お前さんがエメラルドなんか飲み込むからだ」
ナンナルは笑う。
そのエメラルドの指輪は、今はキナリが持っている。だが、もう一度飲み込みたいとは思わない。あの時ほどにおいしくはないだろう。この緑色は手に入れてしまったから。

2009年1月18日日曜日

黒猫を探して駆け抜けた夜

黒猫の尻尾を握っていれば、少女は安心だ。黒猫が独りで出掛けている時でも体温を感じることができる。黒猫の機嫌や、近くまで戻ってきたこともわかる。
けれども今夜は違った。だらんとしたまま動かず、温もりがない。毛並も悪かった。こんなことは、初めてだった。
少女は黒猫の身に何かあったのではないかと、気が気でない。
尻尾を握り締めたまま駆け廻る。もう隣町だ。夢中で走っているうちに、少女は独りで来たことがないくらい遠くまで来てしまっていた。
〔キナリ、どこへ行く〕
少女は急ブレーキを掛けたように立ち止まった。
「ヌバタマ、ヌバタマの尻尾が、尻尾が……」
〔ちょっと遠く離れていただけだ〕
黒猫は、少女の涙を舐める。海の匂いとよく似ている、と思いながら。

2009年1月17日土曜日

初恋の思い出

尻尾を切られた黒猫は、橋の欄干の上で丸くなり、夜の川面を眺めている。ここは海が近い。潮風がヒゲに当たる。
「何をしてるの? ヌバタマ。こんなところに座っていて怖くない?」
少女に問われる。
黒猫が初めて仲良くなった娘猫は、港に暮らす猫だった。漁師に魚を貰い、潮風に当たりながら毛繕いをし、船乗りとひとしきり遊び、倉庫の隅で眠る、そんな日々を送る彼女のことを海の近くに来る度、思い出す。
〔ただ、それだけだ〕
と、黒猫は答えて立ち上がった。
夜の川面は、空より暗い。

2009年1月16日金曜日

欠けた満月

月の様子がおかしいのに真っ先に気がついたのは、尻尾を切られた黒猫だった。黒猫は少女に問う。
〔キナリ、今夜は満月ではないのか?〕
「え?」
黒猫は毛を逆立て、エメラルドの瞳で射るように月を見上げている。
少女はにわかに不安になる。満月が齧られたように欠けているのだ。
少女の不安は的中した。暫くしてやってきた月は頭に大きな絆創膏をしていたのである。
「ナンナル! その怪我どうしたの?」
「参ったよ。このご時世に月はチーズで出来ていると信じるネズミがあんなに大勢いるとはね!」

蹴飛ばせ!

自転車を素手で駐輪場に運ぶ。冬の夜の自転車は、氷よりも冷たい。
パズルのように自転車を並べていく。駐輪場がいっぱいになると、今度は自転車の上を自転車を抱えて飛び歩き、累ねていく。

夜中にだけ出現する美しく輝く自転車ピラミッド。鼠たちの秘密の遊園地。

朝になれば、また自転車は出ていく。だが、この絶妙なバランスで積み上げられた自転車を取り出せる奴なんかいない……俺以外に。

だから朝の人々は、自転車を一斉に蹴飛ばすのだ。自転車のピラミッドは儚く崩れ落ちる。大音響と鼠の糞を浴びて、美しくもない自転車の山から一台を引きずり出して跨がり、世間様とやらに分け入っていく。俺は仕事明けの旨い酒を呑みながらそれを眺める。いい気味だ、お天道様が眩しいぜ。

2009年1月14日水曜日

36度

小学校に続く長い坂の入り口には「三十六度」と書かれた汚れた木の杭が立っていた。だから皆、この坂を「三十六度坂」と呼んでいた。
子どもたちは、学校で分度器を習うと、一様に「この坂の角度は36度だ」と思い込む。
坂道に記された三十六度の意味、それはかつてここにあった祠の名残なのだ。
祠は何度造り直しても原因不明の小火で焼け、三十六度焼けた後、再び建てられることはなかった。
杭だけになってからは小火は起きていない。
小僧たちがこぞって小便を引っ掛けるからだ、と杭にしがみついている祠の神様はぼやいている。

2009年1月13日火曜日

おもちゃ屋への行き方

〔おもちゃ屋に行く〕
黒猫は、小さな小さな路地を入る。
割れた瓶が転がる酒臭い細い道を歩く少女の胸は好奇心と恐ろしさが半分づつである。
「ねぇ、ヌバタマ。こんなところにおもちゃ屋さんなんてあるの?」
ふいに少女の前に現れたのは、恐ろしいほうだった。
顔の赤い大男が、少女の前に立ちふさがる。黒猫は大男の足の間をすり抜けて行ってしまう。
「おい、こども!」
怒声と酒臭い息が少女に降り注ぐ。
「この先のおもちゃ屋に連れていってやる」
大男が少女をひょいと肩車してその場で三回ぐるぐる回った。

降ろされるとそこは、人形やビー玉や汽車がぴかぴかに輝く部屋の中だった。大男の姿も黒猫の姿もない。誰の気配もしない。おもちゃたちが皆、息を潜めて少女を観察しているような気がして、少女の鼓動は速くなった。
〔キナリ、ずいぶんと遅かったな〕
欠伸をしながらそう言った黒猫は、たくさんの猫のぬいぐるみに埋もれていた。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん。よくこの店がわかったね。あぁ、黒猫と友達なんだね」
にこにこと現れた紺色のエプロンを締めた店主は、さっきの大男だ。

愛しています

頭ん中と胸の内の、このぐちゃぐちゃは全部言葉に変換できるのだろうか。
できたとして、それをドサリと渡したら、君はどんな顔をするだろう。甘い言葉ばかりじゃない。臭い言葉もきっとある。尖った言葉もきっとある。
君はたぶん泣くだろう。怒るだろう。
それもこれもひっくるめて「愛してる」は全部表してしまうような気がするから、余計に口に出しにくい。
なのに、君はいつだって僕の「愛してる」をせがむ。

2009年1月12日月曜日

子猫が訪ねて来た話

尻尾を切られた黒猫は、毛繕いの最中だった。
〔キナリ、子猫の声がする〕
「本当だ」
少女が部屋の扉を開けると、小さな猫が震えながら鳴いていた。
〔腹を空かせている〕
「でも、ミルクはさっきヌバタマが全部飲んじゃったから残っていないよ。どうしよう」
黒猫は、気にする様子もなく、今度は子猫を舐めている。
〔ナンナルが来れば、解決する〕
まもなく現れた月は、おやつに持ってきたミルクとビスケットを全部子猫に奪われ不機嫌になったが、子猫の瞳が赤いのに気がつくと落ち付き払って言った。
「キナリ、ポケットに何か入っていないか?」
少女はガーネットのネックレスを掲げた。
「この子も石を飲みこんじゃったんだ!」

掌に降るゆき

 一月二十日夜。凛とした静寂に、雪が積もり始めていることを知る。
 僕は寒さに身を縮めながら部屋を出た。着古した綿入れを羽織り、マフラーをしっかりと巻いて長靴を穿く。手袋はつけない。寝ている父や母を起こさぬようそっと外に出た。
 日が落ちてから降りだした雪は、既に足首まで積もっていた。夜なのに仄かに白い空を仰ぎ見る。今夜は、きっと逢える。冷えて赤くなった両の掌を椀のようにして、そっと差し出した。
 まるで僕の掌目掛けて雪が降っているようだった。たちまち掌一杯に雪が積もる。はぁ、と温かい呼気を吹き掛けると、懐かしく愛しい人があらわれる。まだちょっと眠たそうにしているから、驚かさぬよう囁き声で名を呼んだ。
「ゆき」
 くるん、とゆきの瞳が輝いた。
「一馬」
 十一歳の頃そのままの笑顔と声で、僕の身体中の関節は甘く火照る。ぎゅっと手で包みたくなるけれど、掌の中のゆきはあまりに小さい。そのまま、そのまま。やさしく掌を崩さぬように。
 元気そうで、よかった。と呟いたら涙が零れた。ぽたん、とゆきの傍らに落ちた。いけない。ゆきが身体を強ばらせる。僕の涙も、ゆきにとっては重い塩水の塊だ。
「ごめんよ、あんまり久しぶりだから……嬉しくて涙が出てきちゃったんだ」
 謝るとゆきはにっこりと笑ってくれるから、また涙が溢れてきて、顔を背けて鼻を啜った。
 去年は逢えなかった。雪が降らなかったからだ。一昨年とその前の年は逢えたけれども、四年前は逢えなかった。毎年というわけにはいかない。一月二十日に降り出すしんしんと静かな雪の晩にしか、僕はゆきに逢えない。

 十一歳だった一月二十日、幼なじみの悠紀は居なくなった。悠紀は母親が入浴しているほんの数十分の間に、居なくなった。父親は夜勤の日で不在の夜のことだった。
 風呂上りのまま表に飛び出してきた悠紀のお母さんが、真っ赤な顔で身体中から湯気を上げて悠紀の名前を叫んでいた姿を、僕は一生忘れることはないだろう。娘を呼ぶその声は、無情にもすべて雪に吸い取られた。本当に雪の多い夜だった。
 一週間ほど近所のおじさんやお兄さんたちが険しい顔で探し回った。結局、悠紀は見つからなかった。
 春になればひょっこり出てくるよ、と地区で一番年長のばあちゃんが目を真っ赤にして呟いた言葉に皆が期待したが、雪が解けてもやっぱり悠紀は帰ってこなかった。未だに手がかりも、遺体も何も見つかっていない。悠紀は、雪と一緒に解けてしまったんだ、と僕は思った。
 悠紀の両親は、居た堪れなくなったのか、形だけの葬儀を済ませると遠くの町へ引っ越していった。悠紀が帰ってくると最後まで信じていたばあちゃんも夏の終わりに死んで、近所の人も悠紀のことを口に出さなくなった。一年も経たないうちに誰もが、悠紀はまるではじめから存在すらしなかったような態度になったのが、許せなかった。
 悠紀を偲ぶことが出来るのは、僕だけだ。僕は白いうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて毎晩のように誓った。引っ越していく日に悠紀のお母さんがそっとうちを訪ねて来て、僕にくれたぬいぐるみだ。悠紀が可愛がっていたそのぬいぐるみは、何度も悠紀の部屋で見たことがあるものだった。その夜は、悠紀とよく似た悪戯っぽい瞳をしたそのうさぎのぬいぐるみを、泣きながら抱いて眠った。

 悠紀が居なくなってちょうど一年後の一月二十日の夜、去年と同じように雪が降った。僕は一人で外へ出て、掌に積もる雪を見詰めながら「ゆき……」と呟いたのだ。
「なあに? 一馬」
 聞き覚えのある声とともに現れた悠紀に、僕は心底驚いた。恐ろしくもあった。手を開いて放り出しそうになるのを、寸でのところで押し留まった。深呼吸して、もう一度、掌を覗き込んだ。悠紀は悠紀だけど、小さくて軽かった。
「本当に、悠紀? おれ、何かに化かされてない?」
「化かしてなんかいないよ。悠紀よりずっと小さいけれど、ゆきだよ」
 それを聞いて僕は、胸がいっぱいになった。ずっとずっと、逢いたかったのだ。
 悠紀に逢うことがあれば、たくさん言ってやりたいことがあった。
 皆、心配したんだぞ。どこに行っていたんだ。怪我はなかったか。怖い思いをしなかったか。
 けれども、悠紀の小さすぎるその姿は、違う世界の人であることをはっきりと物語っていた。今更、失踪したことを責め立てるのは躊躇われた。それでもやっぱり、訊きたいこともいっぱいあった。
 普段はどこにいるの。誰かと一緒に暮らしているの。どうして僕に逢えるの。……悠紀は死んだの。
 でも、言いたいことも、訊きたいことも、何ひとつ口に出せなかった。今僕にできることは、今のゆきを大切にすること。そう決めたら、ひとつだけ訊ねることができた。
「来年も、逢える?」
 ゆきは、きっぱりと答えた。
「雪が降ったら」

 ゆきに初めて逢った日のことをぼんやりと思い出しながら、僕は近い将来のことを語った。春になったら専門学校を卒業して、町に出ること。もうすぐ一人暮らしの準備を始めること。ゆきはちょっと寂しそうな声で言った。
「一馬、なんだか知らないお兄さんみたいだ。もう大人なんだよね。もうすぐ二十歳だもんね。いつまで経ってもゆきばっかり小さいままだ」
 ゆきに悠紀の頃の記憶がどれくらいあるのか、僕は知らない。ゆきが自分の話をすることはほとんどなかった。いつでも僕の近況を知りたがり、嬉しそうに聞いていた。だから、ゆきが僕に負い目を感じているとは、気付かなかった。僕はあの頃のままの悠紀の姿でいる、今のゆきを大切に思っているし、大好きなんだ。でも、それを口にしてよいのかどうか、わからない。
 黙っていると、ゆきは、ふっと優しい声になって言った。
「一馬、手が疲れたでしょう?  ほら……霜焼けになってる」
 ゆきは僕の指先をちろちろと舐める。その仕草は、十一歳のものとは思えなくて、姿は変わらずともちゃんと年齢を重ねているのではないかと思わずにはいられない。
「危ないよ、滑り墜ちる。おれは大丈夫だから」
 そう言った声は少し擦れていた。顔が赤いのは、寒さのせいではない。ゆきの唾液が赤くなった指に滲みるけれど、その痛みすらもこの小さな小さなゆきが幻ではない証だと思える。
「一馬の着てる綿入れ。あの日着ていたのと同じだよね。わたしがこっちに来た日。一馬がそれを着て、雪の中でわたしを探しているの、ずっと見てたよ。ごめんね、って思いながら」
 心臓がぎゅっと掴まれたような気がした。ゆきは、やっぱり悠紀でいた頃を覚えているのだ。
「誰かに呼ばれたわけじゃない。自分で来たの。間違って人間に生まれちゃったような気がしてた。ずっと、小さい時から。だから、自分の棲むべき場所に帰ろうと思ったの。一馬と離れ離れになることだけが、嫌だった」
 間違って人間に生まれちゃった、ってどういうことだ? ゆきは何者なんだ? ゆきは、悠紀であるときから人間ではないと自覚していたのか……。
「わたしは、幸せだと思う。本当に棲むべき場所がどこだか解ったから。時々だけど、一馬ともこうして、逢うことができる。抱きしめてもらうことは、ちょっとできないけどね」
 冗談めかしてゆきは言ったけれど、僕はその真っ直ぐな言葉にひどくたじろいだ。

 朝が近づいても、空は相変わらず雪を降らし続けている。もう何時間も同じ姿勢で、ゆきを両の掌で掬うように包んでいるから、すっかり凝った肩に雪が降り積もっている。とうに両腕は痺れを通り越して、感覚がない。
「そろそろ、帰るね。一馬、また来年も雪が降ったら、逢えるよ」
「うん」
「でもね、一馬はもう、ゆきに逢いに来ないと思う」
「え?」
 そんなことはない、きっと、必ず来年も、と言った時にはゆきの姿はなくなっていた。掌の中にはこんもりと積もった雪があるだけ。思わず空を見上げて叫んでいた。
「悠紀ー!」
――ありがとう、一馬。
 と聞こえたような気がして掌をもう一度見ると、掌の雪は跡形もなく消えていた。

ゆきのまち幻想文学賞投稿作

2009年1月11日日曜日

連鎖

仕舞い込まれたCD-ROMは、何故か急に自己主張したくなり、高速回転を始めた。
それを見て目が回ったアルバムは写真を吐き出し、過去を清算しようと試みる。
写真を浴びた手紙入れの箱は、腹に溜まった手紙の差出人と写真に写る人を照合しはじめ、差出人のうち二割が既に故人であることを知る。

2009年1月8日木曜日

お喋りな石

「ちょっと、そこの黒猫。尾のない猫よ、頼みがある」
呼び止められて黒猫は立ち止まるかどうか迷った。黒猫を呼び止めたのは、塀の上に落ちていた白い石だったからだ。あまりよい頼み事ではないに決まっている。
〔何用だ〕
「黒猫よ、月と懇意であるな。我が輩は月に用があるゆえ、月のところへ運んでくれ。我が輩はこの通り死の危機に直面しているために自力では辿りつけない」
石の癖にお喋りで、どこが死にそうなのか、さっぱりわからない。
〔断る〕
黒猫が再び歩きだそうとすると、石は言った。
「その瞳、お前は石を飲んだことがあるはずだ。だから、我が輩の声が聴こえる。人間に言葉が通じるのもまた、尻尾を切られたからであろう。どうだ、違うか」
黒猫は仕方なく白い石をくわえて、月と少女の元に向かった。
今度は飲み込まないようにしないとな、と黒猫は独りごちる。

変異さん

変異さんの人生はスリルとサスペンスに満ちている。
変異さんは、朝起きるとまず身体中を隈無く点検する。鏡も使う。
今日は点検するまでもなかった。全身毛だらけ、だったからだ。
「結構毛だらけ、猫灰だらけ」
今朝の変異さんは機嫌がよいらしい。
ともかく、こうして毎朝なにかしらの変異を起こしている。昨日と違ったところを見つけられないと焦る。左の尻っぺたの内側に小さなホクロが出ただけの時は、発見まで四時間掛かって、変異さんは半狂乱だった。
変異さんは、自分が男か女かも気にしない。長い時は四年ほど男だったが、八ヶ月間毎日男女を繰り返したこともあった。
色が白くなったり、黒くなったりもするし、背や体重も変わる。
変異さんのコンプレックスは、自分の容姿がない、ということだ。

2009年1月6日火曜日

沈思黙考

黒猫は考える猫である。だが口数は寡ない。
人間語は伝達と思想と表現に遣うものだ、と黒猫は考えた。
黒猫が伝達すれば、それは人間語となり、少女は理解する。
黒猫が表現すれば、それは鳴き声となり、少女の手の中で尻尾がくねる。
「ヌバタマ、大好き」
〔……にゃおん〕
一度くらい、鳴き声じゃなく人間語で表現したいものだ。
と、やはり黒猫は無言で考えている。

2009年1月5日月曜日

散歩前のしっぽ

尻尾を切られた黒猫は、夜にしか出歩かない。独りの散歩をしたい時は少女に気がつかれないようにそっと少女から離れるのだが、少女は勘がよい上に四六時中黒猫の尻尾を握りしめたままだから、大抵の場合気付かれてしまう。
何故なら、ヌバタマが散歩に出掛けたいと思うと、少女の手の中の尻尾もまた落ち着きなくぴくりぴくりと動いてしまうのだ。
まだまだ修行が足りないと苦笑いしながらも、そんな時の尻尾は月光に照らされ、黒い毛並みが艶やかに際立つから、黒猫は我ながら見惚れてしまう。

2009年1月3日土曜日

黒猫がしっぽを切られた話

黒猫は少女に尻尾を掴まれた時、逃げてもよかったのだ。だが、黒猫は逃げなかった。少女の手に掴まれた尻尾自身が、逃げることを拒んだ。尻尾は、愉しんでいた。愉快がっていた。黒猫は、愉快を初めて知った。
ハサミでパチンとやられた時も、尻尾は身をよじって笑っていたから、黒猫は少しヒゲが痒くなった。少女に頬擦りをして誤魔化したが、それが恥ずかしかったからと気付いたのは、しばらく後のことだ。

少女は、キナリというらしい。
「猫、名前は?」
〔ヌバタマ〕
「変な名前」
〔あんたもな〕

見上げると、少女よりも真剣な表情で、月がこちらを覗き込んでいた。

2009年1月1日木曜日

差し出された手や手

三度目の新月の晩、黒猫は兄弟たちが眠っている間に、旅立った。
人間たちが世話を焼いてくれるので、ひもじい思いをすることはなかったが、一ヶ所に留まることは嫌った。
ミルクを差出し、身体を撫でていった人間の手を、黒猫はすべて覚えている。
皺だらけの手からは歓びを、太い指からは哀しみを知った。
小さな手からは怒りを、細い指からは、切なさを感じた。
尻尾を掴んだ少女の手は、今までとは明らかに異なる手だった。

生まれた晩と次の晩

新月の夜に、黒猫は生まれた。黒い猫は兄弟のうち彼だけで、母猫は彼に「ヌバタマ」と名付ける。悪くない名前だ、と黒猫は思った。
黒猫は乳を十分に飲むと、自分とよく似た色の空を眺め、それから眠った。
目覚めると、昨日はなかったか細い月を見つけ、二度欠伸をする。