2019年4月29日月曜日

「さあ、樹にしがみついて。そう、抱きしめるように」
オニサルビアの君に手を握られた。冷たい手だった。
手を繋いだまま、ケヤキの巨木を二人で抱きしめた。繋がなかったほうの手と手は、全く届かなかった。それくらい、立派で大きな木だったのだ。

背中が温かい。老ゼルコバが後ろから抱きついてきたのだ。
ケヤキと老ゼルコバに挟まれて、静寂となった。
風も音も匂いもない。自分の息の音もすぐに吸い取られる。
背中の老ゼルコバの体温も感じられなくなった。
眠いような気がするが、いつもの眠さとは違う。「無」と呼ぶほうが近い気がする。

抱いたケヤキと老ゼルコバが、さらさらと崩れるのを、微かに感じた。身体の感触なのか、形而上の認識なのか、それもわからないが、老ゼルコバが「いなくなった」確かな実感だけはあった。

2019年4月22日月曜日

刻々と灰になる

「老ゼルコバ、二人は同じ街へ行けるの?」
オニサルビアの君が訊く。
「それは、誰にもわからない」
老ゼルコバは言った。
「さあ、そろそろ出発の時ですよ」
それが老ゼルコバの最期の時でもあると、オニサルビアの君は気が付いているだろうか。表情を窺ってみるが、気が付いていないように思えた。オニサルビアの君は、初めての転移で頭がいっぱいなのだ。

ケヤキの巨木も、肩の小さなケヤキも、見る見るうちに白っぽくなっている。そのまま灰になって崩れてしまいそうな色に。
「老ゼルコバ……」
なんと声を掛けていいのかわからず、言葉が続かない。老ゼルコバは「わかっている。黙っていなさい」と、オニサルビアにわからないくらいの小さな頷きと目配せで答えた。

さっき出会ったばかりの老ゼルコバだが、哀しみが溢れる。
我々の転移を手伝うことで命を終えることになる。寿命なのだろう。「役目」とも、老ゼルコバは言った。
でも、他人の命を奪うことのようにも思えて恐ろしくもあった。どう受け入れればよいのか、どう解釈すればよいのか、わからない。
「わからないままでよいのです」
老ゼルコバが、耳打ちするように言った。

2019年4月13日土曜日

「何もない」が在る

「老ゼルコバ!」
オニサルビアの君が低い声の主を見て言った。小さくて立派なケヤキの木を肩に生やした老いた人がいた。

「老ゼルコバ、無事だったのなら、どうして……ずっと姿を見せないから、街中の人が心配していたのに」
老ゼルコバは、それには答えなかった。どうやらこの街では有名な老人であるということはわかった。

ずいぶん長く歩いた。老ゼルコバの目指す先に、ケヤキの巨木があることに気が付いた。それは、老ゼルコバの肩のケヤキとそっくりの樹形であることは、一目瞭然だった。

ケヤキの木のまわりには何もなかった。草も花もなく、石も砂も土もなく、コンクリートもなかった。風も香りもない。オニサルビアの香りも飛べないようだ。

ただ、何もないが在り、ケヤキの巨木だけがあった。

「あなた方を送ることが、最後の役目です」と老ゼルコバは、静かに低く、そして確かな力強さで言った。
老ゼルコバは、おそらく、永い眠りが近いのだ。

2019年4月11日木曜日

低い声

オニサルビアの君と手を取り合って、外に出た。
「消えず見えずインクの旅券を持つ者、二名あり! この者共を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
青い鳥がよく通る低い声で言う。オニサルビアが香る。

「佳い花を、佳い鳥を」
と、挨拶してくれる人は時々あったが、鳥の呼び掛けに応える人はなかなか現れない。やはり二人というのは、難しいのかもしれない。

「消えず見えずインクの、旅券を持つ者、二名あり……この者共を然るべき儀式で送る者は、おらぬか」
さすがの青い鳥にも疲労の色が見えてきた。声に張りがなくなってきた。オニサルビアの君も、長い時間緊張したままだったせいで、相当疲れている。
「一度、家に戻りましょうか」
そう囁いたところだった。

「付いて来てください」
背後から声を掛けられた。青い鳥よりも更に低い声だった。

2019年4月9日火曜日

わからないがわからない

「旅に出なければならないのです」
オニサルビアの君は、重ねて言った。

もう何度も転移をしているが、他人を転移させたことはない。そもそも、転移を頼まれる事態など、想像もしたことがない。

どうやって転移が行われているのか、よくわからない。転移させてくれた人々は、どうしてそれが可能なのか。特別な能力があり、誰にでもできるわけではないように思っていたが、実際のところ、どうなのだろう。

旅をする者には、この肩の「鳥」のような通訳は必ず付くのだろうか。それもわからない。挽き肉を捏ねるような声をした美しい人には、何もいなかった。こちらから見えないだけだったのかもしれない。わからない。

旅をしているのに、旅のことがわかっていない。

「消えず見えずインクの旅券を持つ者、二名あり! この者共を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
青い鳥は、迷わず言った。まだ、この街を離れると決めたわけではないのだが、青い鳥がそう言うのなら、そうなのだ。


2019年4月8日月曜日

Go to the dogs

 犬は悩んでいる。ありったけの語彙を使い、悩みを説明しているのだが、なぜだろう、口から出てくるのは犬の吠える音だけ。
 深い孤独と、それについての考察を述べているというのに、これでは誰もわかっちゃくれない。あれやこれやと吠えてみるが、思考ばかりがどんどん進み、犬は混乱を極める。
 高尚に悩んでいるとも知らず、猫がやってきて、話しかけてくる。猫の話はいつだって、まとまりなく、とりとめもなく、そして話し終わらぬうちに去っていく。
 犬と犬の吠え声と犬の思考は乖離して、犬小屋に居ぬか、何処にも居ぬか。

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「サウンド超短編」投稿作
最優秀賞・峯岸可弥賞・タカスギシンタロ賞受賞

2019.4.6 超短編20周年記念イベント——広場・心臓・マッチ箱——にて、シライシケンさんの演奏に合わせ、朗読していただきました。

2019年4月5日金曜日

予想外の願い

クラリセージ尽くしの食事の後は、オイルを垂らした風呂にも入った。おかげか、ずいぶん気分がよくなった。

オニサルビアの君は、本棚から古びた写真集を取ってきて、見せてくれた。そこには、この街では決して見ることができない、獣や鳥がたくさん写っている。
それでオニサルビアの君は、青い鳥が「鳥」だとわかったのだ。

「頭で理解しようと思っても、どうしても、空想上の生物、お話の世界の生物だという感覚は抜けきれませんでした。この街の人にこの本を見せれば『空想の産物だ』とか『気は確かか?』と言われるだけです。青い鳥を一目見た時の驚きと喜びを、どう表せばいいでしょう」
青い鳥を見つめてオニサルビアの君は言う。

「この本はどこで見つけたのですか?」と問うと、「廃墟になった図書館の地下書庫で」とオニサルビアの君は言った。

夜になり、小さなベッドでオニサルビアの君と二人で眠った。青い鳥は肩を離れて、オニサルビアの花たちと甘く戯れていたようだった。

朝、クラリセージ尽くしの朝食を二人で取った。
突然、オニサルビアの君はスルスルと服を脱いだ。
「お願いがあるのです。どこかの街へ転移させてください」

青い鳥は、目を見開いて言った。
「消えず見えずインクの者、ここに二者あり!」
「消えず見えずインクの者、ここに二者あり!」


2019年4月3日水曜日

オニサルビアの館

「皆の衆、礼を言う!」
青い鳥は、ずいぶん立派そうに、大仰な挨拶をした。青い鳥に聞こえないように、そっと溜息をつく。

オニサルビアの君が「こちらへ」と手招きする。人々が付いて来てしまうのではないかと心配したが、大丈夫だった。
青い鳥が「皆の衆、ありがとう。佳い花を! 佳い鳥を!」と言い続けたからだ。絶妙なデクレッシェンドで音量を下げていき、ついに大通りから離れることができた。
青い鳥が、小さく疲れた声で「キュ」と鳴いたのがわかった。
大袈裟な言い回しは作戦なのか、青い鳥の元々なのか、分からなくなったが、感謝せねばなるまい。

オニサルビアの君の自宅に招かれた。ハーブが覆い茂るような家ではなく、簡素な、さっぱりとした小さな一軒家だった。ただ、乾燥したクラリセージだけはたくさん壁に吊り下げられていた。
「これは、もしかして……」
「そうです。ご覧になったように、この街の多くの人は、植物が肩から生えてしまうのです。その植物とともに生き、利用し、植物の香りに包まれて一生を過ごします」

振る舞われたのは、セージを香り付けに使った肉料理やハーブティーだった。肉は食用の形となってから他所から運ばれてくるものなので、この街の人々は動物をほとんど見たことがなく、興味も持たないのだという。それで青い鳥があのように恐れられたのだ。