2019年1月31日木曜日

交響的断絶

振り払っても湧いてくる思考を連れて歩き回っていたら、音楽ホールと思われる大きな建物が現れた。
この奇怪な音の街にどんな音楽があるというのだろう。
近づいてみると、ちょうどコンサートが開かれるところだという。
気分転換にはちょうどいいかもしれない。

ホールの座席は、とても座り心地が良い。舞台もよく見える。立派なホールだ。
楽団員が楽器を抱えて入ってきた。
ヴァイオリン、ビオラ、コントラバス……クラリネット、フルート……トランペット、トローンボーン、ホルン……シンバル、ティンパニー、……
一つひとつ確かめたが、見知らぬ楽器や奇妙な楽器は見当たらない。

演奏が始まった。ティンパニーが激しい水音を鳴らす。滝のようだ。
続いて、金管楽器が雄々しく叫ぶ。肉食獣の声で。
シンバルが激しく叩かれると、座席が揺れるほどの雷鳴が響いた。

2019年1月30日水曜日

戸惑いの痺れ

美しい人は、おそらく目を覚ましていたと思うが、引き留められることはなかった。
赤い鳥を肩に乗せ、喧噪の街へ出た。
今日も天気はよく、そして耳に入る音はとんでもない。
だが、雑音が、考え事にはちょうどよかった。

美しい人との交わりを回想する。互いの消えず見えずインクに触れあった時の甘い痺れを思い出す。
転移の能力を人体に添付する消えず見えずインク。それだけだと思っていた。あんな官能的な感覚を引き出す作用があるとは。

いや、あの人が美しかったからだ。消えず見えずインクは関係ない。
いやいや、やはり、消えず見えずインクの仕業だ。そうでなければ、あのような感覚はあり得ない。
次の街でも、また、出会えるだろうか……同じインクを肌に持つ人に。

危険な考えだと知りながら、そんな思いがどうしても湧いてくる。

2019年1月29日火曜日

衣衣の別れ

金属のフォークとナイフが食器にぶつかる音は、木製のそれにしか聞こえなかった。
初めはちぐはぐに感じたが、次第に心地よくなっていく。
久しぶりに、酒を飲んだ。躊躇したが、美しい人が「大丈夫ですよ」と言うので、飲んだ。
背中の消えず見えずインクのあたりが疼くような気がしたのは、たぶん心理的なものだ。

温かい食べ物と、久しぶりの酒で、知らぬ間に眠っていたようだった。食事の前にも長く眠ったはずなのに。
眠る美しい人の顔が、目前にあった。
唇が触れそうなほど近くても、やはり美しかった。
いや。そうだ。眠りに落ちる前に、この唇には実際に触れたのだ。

この人に、気を許し過ぎたかもしれない。
旅の終了は、自ら決定してよいことになっているが、やはり、まだ早いのではないか。
床に落ちた服を集める。おおよそ服とは思えぬ、衝撃音がした。
一部始終を見ていたであろう赤い鳥は、じっとそれを聞いている。

2019年1月27日日曜日

言葉の向こう

「まさか、貴方が……」
美しい人は、ほんの一瞬だけ、少し寂しそうに笑った。
「この街には、長く滞在しているのですか?」
「ええ、四度の『転移』でこの街に来ました。それから、二年ほどこの街に居ます」
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方は、二度の転移を完遂された!」と、赤い鳥が代わりに叫んだ。完遂という言葉はおかしい気もしたが。


「そうです、この街はまだ二つ目で、なにが何やらわからないことが多すぎる。前の街では色彩が狂いました。ここでは耳が変になったようです。貴方は何か変調をきたしませんでしたか?」
久しぶりにまとまった量を喋った気がする。声がおかしく聞こえるのは、この街のせいだけではないかもしれない。
「そうですね、そういう旅なのです、我々が課せられたのは」
美しい人は、多くを語らない。語れないのかもしれない。
「食事を用意してあります。一緒に如何ですか?」
と、美しい人の部屋に招かれた。
 

2019年1月26日土曜日

訳知り顔の訳

一体どれくらい眠ったのだろう。
起き上がって、もう一度シャワーを浴びた。ティンパニーの水音を聞きながら「本当の水音ってどんな音だっただろうか」と思っていることに気がつく。
適応したのか、元の街を離れてからの時間が長くなってきた証拠なのか。

着替えたところを見計らったように、ノックが聞こえた。知っている扉を叩く音とは違う気もしたが、ノックだとわかった。
「よく眠れましたか?」
部屋に入ってきた美しい人は、やはり美しかった。肉を捏ねるような声も変わりなかったが、それがこの人に相応しい声だと思った。
「ありがとうございます。……貴方は一体?」
色々と具体的に訊きたいことがあったはずなのに、不躾な質問が真っ先に出てきてしまった。己の口を恥じる。
美しい人は、まったく気にする様子もなく、黙って腕を伸ばし、ポケットから懐中時計を出して、腕にかざした。
「これは……」
この、うっすらと浮かび上がる文様のようなものは
「そう『消えず見えずインク』です」

2019年1月25日金曜日

心地よい不快な声

「静かな場所にご案内しましょう」と、声を掛けられた。
ハッとするほど美しい人だったが、ひき肉を捏ねるような声だった。

小さなビルの一室に案内された。古いホテルの客室のようだ。
ベッドと小さなテーブル。シャワールームもある。十分過ぎるほどの部屋だ。
ティンパニーの水音のシャワーを浴びた。身体はさっぱりしたが、まだ頭は音に混乱してズキズキと痛む。

「よく眠ってください、前の街でも、元の街でも、ほとんど寝ていないのでしょう?」
と、美しい人は訳知り顔で言った。不快なはずの声が温かく心に染み渡る。
「ぐっすりと眠れば、この街の音にも少し慣れるはずです。何時間でも、何日でもこの部屋をお使いください」
多くの訊きたいことがあったが、もう瞼は閉じかけていた。
「隣の部屋にいますから、心配しないで……」

2019年1月22日火曜日

奇なる音声

吹いているはずのメロディーではない音がする。
おおよそ口笛とは思えない金属を擦ったような、細く掠れた音。 
そういえば、口笛だけではない。石畳の通りを歩くこの足は、確かに硬い石を感じているのに、靴音はポップコーンが弾けているようだ。
振り向いて、出てきた噴水を見る。知っている水音ではない。ええっとこれは、そうだ、ティンパニーに似ている。

この街は音が違うのだと気が付いた途端に、明るく爽やかに見えていた街の様子が歪んでいった。
 「助けてくれ、頭が痛い!」
絞り出した声は、古いラジオから聞こえるようだった。
 「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方は、頭痛を訴えている!」
 赤い鳥の声だけ、前の街よりも美しい。

2019年1月19日土曜日

特技の喪失

どこまで落ちても地面にぶつかることはなく、ふいに持ち上がる感覚がした。
そして全身が濡れる感覚の後、一瞬、意識が遠のいた。

「風呂にでも出たか」と思って体を持ち上げ、あたりを見回すと、どうやら噴水から噴き出したらしいとわかった。見上げるほど高く水が吹き上がっている。
赤い鳥はやっぱり肩にいた。一緒に飛び降りた人は、いなかった。

噴水の池を出て、歩き始めた。よく晴れて暖かい。乾いた風が心地よく、濡れた身体もあっという間に気にならなくなった。
前の街と違って、色彩がおかしいということはなかった。少し雰囲気は違うけれど、住んでいた街とそれほど違うようには感じない。

人々の容姿にも、大きな違和感はない。少し拍子抜けする。
口笛を吹いた。あまりにも気持ちがよい街なのだ。スキップするのは気が引けたが、口笛くらいならいいだろう。
だが、どうも、うまく吹けない。口笛は得意だったはずなのに。

2019年1月18日金曜日

誓いの墜落

ただただ、街を見下ろしていた。寒々しいと思っていた街が、こんなにも鮮やかだったとは。
すれ違う人、スープをごちそうしてくれた夫婦に、謝りたくなった。もっと笑顔で受け答えすべきだったように思ったのだ。次の場所では、きっと。そこがどんなに暗く寂しいところでも。
「行きますか?」
との言葉に頷いた。精一杯の笑顔で。
その人は服をまくり上げ、背中の消えず見えずインクを剥き出しにすると、後ろから抱きしめてきた。少し驚くが、撫でられた時以上に温かく、どこか安心した。そういえばこんな風に人と触れ合うのはずいぶん久しぶりだったのだ。

そして、そのまま飛び降りた。
ビルの谷間を墜落していくと、また街は青銅色になったけれど、もう寒くはなかった。

2019年1月15日火曜日

驚くべき光景

その人は、左腕を手に取り、消えず見えずインクのあたりを確認した。
それからシャツをめくりあげて、背中の消えず見えずインクをそっと撫でた。

背中がみるみるうちに温かくなり、冷えていた心も溶けていくようだった。
肩に止まった赤い鳥は、沈黙している。
こちらにどうぞ、という仕草をするので、付いていった。
ビルのひとつに入り、エレベーターに乗った。長い長い上昇だった。

屋上に出、その景色に息を呑んだ。見下ろす街が、青銅色ではなかったからだ。
実にカラフルな街並みが、眼下に広がっていた。ジェリービーンズのような街並みが眩しくて、目が痛いほどだ。
「次の街に行きますか?」と、その人は言った。赤い鳥を介さず、言葉が聞き取れた。
「……こんな色だったんですね、本当は。もう少し眺めていたい」
呟くと、その人はニッコリ笑った。

2019年1月11日金曜日

明るさは希望か

「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
繰り返し赤い鳥が朗々と啼いているが、それらしき人は現れない。
「もう、いい。少し静かにしたい」と呟くが、赤い鳥はお構いなしのようだ。
この街に出てきたときの鳥籠にも行ってみたが、「もう役目は終えた」と言わんばかりの朽ち果てようだった。青銅色はその憂いを強くし、鳥籠のつなぎ目は緩み、今にも崩れそうだ。

そういえば、いままで同じ通りばかり歩いている。東西南北はよくわからないが、この通りを直角に貫く道を歩いてみることにした。
角を曲がると、ビルも道も青銅色に違いなかったが、何故か少し景色が明るく見える。
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
二十三回目の赤い鳥の台詞に、前を歩く人がこちらを振り返った。この街の人にしては、頬が赤い。

2019年1月5日土曜日

決意より先に

夫婦に礼を言い、赤い鳥を肩に載せて外に出た。左腕の消えず見えずインクのあたりをさする。
ここにしばらく留まるか、どこかへ行くか、まだ決められない。少しこの景色に慣れてみたいとも思うし、もうこんな青銅色の街は懲り懲りだとも思う。

しばらくあてもなく歩いた。足音が響く。この街の人と全く違う足音を立てて歩いていると、酷く惨めなような、不安なような気持ちに襲われた。
さっき食べたばかりのスープの温かさは、心からも身体からも消えて、冷めきった。空を見上げると、青銅色の雲がぽっかりと浮かんでいる。大きく息を吸った。
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
赤い鳥が大音量で啼いた。

2019年1月4日金曜日

見慣れない者を見慣れ始める

青銅色のスープとパンは、温かくはあったが、味はよくわからなかった。
よくわからなかったけれど、寒かったし、空腹だったし、不味くはなかったから、心底ありがたかった。
たぶん、この町では、ほかの家へ行っても、高級レストランへ行っても、やっぱりこんな朽ちかけた青緑色した食事が出てくるのだろうと思う。

「御馳走様でした。助かりました」
と、頭を下げる。すかさず、赤い鳥が「消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方は『馳走になった』と仰っている!」と歌うように言った。
夫婦は満足そうに頷いた。少し、この見慣れぬ容貌の人の表情がわかるようになってきた気がする。

2019年1月3日木曜日

万物の色相

その男女は、笑顔で何事か言うている。今まで聞いたことのある言葉とは似ても似つかない音声だった。錆びた歯車が軋むような発音だが、男女が親切で穏やかな人柄だろうということはわかり、安堵する。しかし、たとえ十年この町に留まっても、挨拶すらできるようになるとは思えない。

鳥は、どうやらこちらの言葉は訳してくれるが、向こうの言葉は訳してくれないらしい。
一方的に要望を喋り、赤い鳥が高らかに宣言するのを繰り返した。

二人は青銅色のビルの地下へと案内してくれた。
暖かい部屋だったが、何もかもが青銅色だった。家具も、壁も。
皿も、スプーンも。スープも、パンも。
赤い鳥だけが、赤かった。