2019年8月25日日曜日

予想と覚悟

かなり迷ったが、背の高い若者を信用してみることにした。
他に声を掛けてくれる人は現れそうになかったし、この触感の混乱が体力を著しく奪う予感があったからだ。
「父が薬を処方できます。一緒に家に来られますか?」
「お父上は……」
「父は医者で、これまでも多くの旅の人に薬を出しています。もちろん消えず見えずインクの人にも。心配しないで大丈夫です。法外なお金を取ることもしません」
若者は、こちらの心配事についてすべて説明してくれた。まっすぐにこちらを見て、そして少し微笑んで。

「立てますか? 腕につかまってください。気を付けて、少し痛い感触がします」
まだ幼さの気配が残る若者の身体に掴まると、たしかにトゲトゲした感触があった。だが、先に言ってもらったおかげか、安心感か、それほどの衝撃もなく立ち上がることができた。

若者は、実に有能は案内人だった。舗装が変わるところ、階段、階段の手すり。すべて感触を先に教えてくれた。少し予想と覚悟ができれば、それだけで衝撃が和らいだ。
その間に、青い鳥と若者の天道虫はずいぶん仲良くなっていた。青い鳥の胸に留まった天道虫は、立派なバッジのように輝いている。

2019年8月21日水曜日

薬を飲みますか

衝撃はあっても痛みはなかった。実際、ボールではなくて小さな天道虫なのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、あの衝撃で痛くないというのは、これまた混乱する状況だった。

天道虫は、こちらのまわりを一回りすると、背の高い若者の元へ飛んで行った。
若者と天道虫は友達のようだ。
「驚かせてすみません。この街は初めてなんですね?」
と、若者が話しかけてくれた。とても賢そうな雰囲気だ。
「おかげさまで、叫び声が治まりました。……この街は、見た目と感触がずいぶん違って混乱しています」
と答える。
「初めてここに来る人は、皆さんそう言います。慣れる人も多いのですが……やはり、かなり時間が掛かります。和らげる薬を飲む人もいます。飲みますか?」
その申し出にすぐに首肯できる者はいるだろうか。

2019年8月13日火曜日

叫びを終える方法

叫び声を掻き消すように青い鳥が低く響く声で唱えた。
消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内(あない)する者は挙手をせよ!」
身形のよい人と別れ、ポストに飛び込んだ時、あんなに小さくなったのに、いつの間にか元の大きさに、いや、もっと大きくなっているようだ。不思議と重さも感じず邪魔にもならない。
冷静に青い鳥の様子を観察してはいるが、まだ叫び続けている。こんな声で叫んだことはないから、止め方がわからない。

消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内する者は挙手をせよ!」
頓珍漢に古めかしく威張っているが、それがかえって頼もしかった。不安と混乱が、これ以上ないくらいに高まっていた。まだ、手にはスパゲッティをかき上げた感触が残る。
膝は? 耳は? 股間は? 一体どんな触り心地だというのだ。だが、もう他の身体の部位を触る勇気がない。

消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内する者は挙手をせよ!」
突然、背中にボールをぶつけられたような感触がした。叫び声は、止まった。
ボールだと思ったものは、天道虫だった。

2019年8月12日月曜日

茹でたてのスパゲッティ

「ワン!」と言わないのは何故だ……樹だからだ。どうして「ワン!」と言わないんだろう……樹だ……。
という自問自答を何回も繰り返す。座り込んで街路樹を撫でまわしている姿は、さぞ滑稽だろうということに気が付き、ようやく立ち上がったが、手に残る感触と目の前の樹がまだ結びつかない。

フラフラと今度は建物に近づく。少し古そうな揺らぎのある硝子の窓をそっと指で触る。冷たくて、硬い、硝子窓であるはずのそれが、今度こそ樹皮を触るような心地なのだった。見た目と触り心地がまるで一致しない。

はたと気が付いて、顔を撫でた。……芝生だ。
髪をかきあげると、ぬるりと茹でたてのスパゲッティを掴んだような感触がした。茹でたてのスパゲッティを手で掴んだことなどないのに。

「わああああああああああああああ」
いままで出したことのないような声を上げる。人々が一斉にこちらを見るのがわかったが、声が止まらなかった。

2019年8月3日土曜日

モジャモジャとわかったドンナモンジャ

肩の上のまだ小さい青い鳥を触ってみると、鋭いトゲを触ったような感触だった。思わず「痛ッ!」と言うのと同時に、青い鳥は「ギッ」とも「グッ」ともつかない、聞いたことのない声を出した。青い鳥も痛かったらしい。申し訳ないことをした。

柔らかな石畳の上で慎重に体勢を整え立ち上がった。見た目には立派な街並みだ。少し古風だが趣のある建物が並んでいる。だが、目に入る通りの感触ではないかもしれない。あのレンガや、そこの街路樹、散歩している犬。その飼い主の長い髪。いったいどんな触り心地なのだろうか。

そう思うと何にでも触りたくなって困る。好奇心というより、確かめないと不安という気持ちが強い。

ゆっくりと足の感触を確かめながら街路樹に近づく。樹皮は特別な感じはしない。カンフルの樹に似ているように思う。「ドンナモンジャ」と札がついている。文字は読めるようだ。恐る恐る触れると、犬でも撫でているような感触だった。反射的に一度手を引っ込めた後、ワシャワシャとそれこそ犬を撫でるように幹を撫でた。