2006年7月31日月曜日

評論家だった死体

細かい刺繍が施された布が友人だった死体の顔に掛けてある。
「白い布じゃないんだな」
と言うと死体の妻は頷いた。
「死んでからも弁じ続けてたの。どうにか黙らせようと、口に綿を入れたり、首を絞めたりしたんだけど、この方法がいいと勧められて」
そっと刺繍布をめくると、死体の口から言葉が飛び出して来た。
もはやそれは友の声ではなく、体内に溜まっていた思考の残響だった。
まだまだ溢れてくる言葉を抑えつけるように布を掛けた。


*繍*

2006年7月30日日曜日

変化の過程

はじめに縮んだのは髪だった。予想通り天然パーマのようになった。新しい髪形を楽しむ余裕があった。
次に縮んだのは爪だった。爪の縮んだ指は見た目も異様で、物を掴みにくくなった。真っ赤なマニキュアを爪のない指先まで無理矢理塗った。
その後は膣だった。締まりがいいと喜ぶ輩がいたが、間もなくそんな呑気なことは言えなくなった。経血が出て来なくなったのである。伸びないそこに指を入れ、叫びながら血液を掻き出した。
それからは速かった。身体全体が縮めば、こちらのものだ。
こうして三ケ月かけて私は無事に妖精になった。

*縮*

2006年7月29日土曜日

雑巾を巡る旅

縫い目を見て、すぐに姉のものだとわかった。姉が縫った雑巾には筆跡のような曖昧だが確固たる特徴があった。
姉の雑巾は、いつの間にかあちこちで使われていた。どのような経緯で人様に渡ったのか今となってはわからないが、全国どこに行っても姉の雑巾を見つけた。汚れもよく落ち、丈夫で長持ちすると必ず言われる。誇らしげに教えてくださる雑巾の持ち主に、私は苦笑を隠せない。
実際長持ちするのだ、20年も使い続ける雑巾がどこにあるのか。
一針づつに失恋の痛みと怨みを込め続けた姉さん。あなたは一体いくつの恋をしてきたんだ?
五十ニ枚目の雑巾を手、天に問い掛ける。

*縫*

2006年7月27日木曜日

切れるもの

鼻緒が擦れて、血が滲んだ。下駄なんか履いて長い時間歩くからだ。歩かせるからだ。
「歩けん」
彼はしゃがみこんで、私の左足に顔を近づけた。
「血が出てる」
「だから歩けない。痛い」
本当はそれほど痛くなかった。負ぶってくれやしないかと、少し期待している。
だけど彼は、親指と人差し指の間をペロペロと舐めだした。
なんだか彼の頭を殴りたくなった。殴ってやろうかどうしようか、考えているうちに、足の傷はすっかり治ってしまった。
私の足が治ると、今度は下駄を舐めだした。切れた鼻緒もペロペロと舐めて、すっかり直してしまった。おまえの涎は何で出来ているのだ。
「汗と血の味がした」
ニヤリと笑う。今度こそ本気で殴りたい。

*緒*

2006年7月24日月曜日

夜に鳴く蝉

夜に鳴く蝉に縄を付け、引き廻す。
街灯たちは嘲笑う。
小便を垂れ流す蝉。
お前さんがチビるのを見たくて、街灯たちは偽りの明るさで誘惑してるのさ。知らなかったろう、気の毒だけど。
と呟いてみても、辱められた蝉には聞こえない。
僕は蝉にちょっぴり同情しながら、今夜も蝉を縄にかける。

*縄*

2006年7月22日土曜日

リボン

夜中にお菓子を食べたくなると、私はお菓子の箱にリボンを縛り付ける。封印。
そのためのリボンは買い溜めてある。すべて気に入って買ったものだ。

今日はクッキーが食べたい。クッキーの青い箱に映える黄色いリボンをきつく箱に縛り、結び目を整える。
がんじがらめにされたクッキーの箱を眺めて一時間。
私は結局、その緊縛を解く。クッキーを貧り食べた後に、今度は自分の喉の封印を試みる。

*縛*

2006年7月20日木曜日

雨を降らせに行く娘

晴れの日が続くと娘はフイと旅に出る。初めて出て行ったのは中学校に入って間もなくのことだった。
「雨が降らないから、ちょっと行ってくる」
どこに行くのか、いつ帰るのか、学校はどうするのか、誘拐されやしないか。引き留めも聞かずに呆気なく出て行った。一人娘が戯言を言ってリュックも背負わず出て行って、私はこれ以上ないくらいに動揺した。
雨が降った翌日には必ず帰ってくるとわかってからは、ずいぶん気楽に送り出せるようになった。
「ねぇ、どうやって雨を降らすの?」
と眠っている娘に聞いてみた。起きている時には絶対に教えてくれないから。
「雲を絞るんだ。雑巾みたいに」
そういえば、雨を降らせて帰ってきた娘の手のひらはいつも真っ赤だ。
今年の大掃除は、拭き掃除をやらせよう。

*絞*

2006年7月19日水曜日

天の綺羅

「綺羅星が邪魔なのよ」
と姫が言う。
夜空に輝く無数の星、美しいではありませんか。
「闇こそ美しいのよ!夜は闇でなければならない。綺羅星を制すにはどうしたらよいかしら」
姫は絹という絹を集め、途方もなく大きな薄織物作らせた。
「綺羅星を綺羅ですっかり包み取ります」
いってらっしゃいませ。
姫が天に旅立った後、ますます夜はキラキラと明るくなった。

*綺*

2006年7月18日火曜日

甘い糸

紺色の座布団に座ると、いつもむずむずとお腹がすく。
お尻の穴から舌が出てくるんじゃないかと思うくらいに身体の芯から腹が減るのだ。
チョコレートより羊羹が食べたい。
頭は羊羹で一杯になり、お尻はむずむずと座布団を舐めようとする。
「紺色だと思うからお腹が減るんだ。藍色だと思いなさい」とおばあちゃんが囁く。

*紺*

2006年7月14日金曜日

象の赤ん坊

それは更紗のスカートだった。
そのスカートを履いた途端、下腹部に違和感を覚えた。
スカートを突き破るように手を股に突っ込むと、ヌルヌルした物が手に触れた。
引っ張り出すと馬の赤ん坊だった。
スカートは破れていない。
十分も経たないうちにまた違和感を感じて、またスカートを突き破って手を入れた。
鯨の赤ん坊だった。
そうやって、羊とマントヒヒとキリンの赤ん坊が出て来たが、一番欲しかった象の赤ん坊は出て来なかった。

*紗*

2006年7月11日火曜日

鬱血

「大嫌いな人と離れられないためのおまじない」
と言って、彼女は紫の糸を小指にきつく巻いた。
血がとまり、指先が青白い。巻かれた糸に隠れた部分は、糸と同じような紫色になっていくだろうと想像した。
「結んで」
と言われて、僕は糸の端と端を持つ。冷たい小指に結び目を作った。片方の端は、まだ長い糸が残っている。
「じゃあ、あなたの番。私が結ぶから小指だして」
だんだんと小指が冷たくなってきた。

*結*

2006年7月10日月曜日

オダリスク

絵の中の娼婦は、ベッドの上で横になり、煽情的なポーズを繰り返している。
足を組み替え、羽根で乳房を撫で、熱い眼差しでこちらを見る。
それは確かに刺激的だったけれども、アングルの描いた絵では僕の好きな桃のような臀部が見えない。

*絵*

2006年7月8日土曜日

紋様の役目

右の肩甲骨の辺りに、雪輪紋の入れ墨があった。
入れ墨のある女の子は初めてで驚いたけれど、それはとても彼女に合っていた。
そっと舐めると、冷たい。本当に雪を舐めているみたいに。
あたためたくて舐め続けたら、彼女は溶けてしまった。

*紋*

2006年7月7日金曜日

彼女はいつもシルクの服を着ていたから、わたしは「おきぬさん」と呼んでいた。本当の名前は「千恵子」だった。
おきぬさんはずいぶん年寄りなのに、穏やかな顔をしているのを見たことがない。厳しくて鋭い顔、油断のない顔だった。わたしの周りにいた他のお年寄りたちは、もっと優しかったし温かかったのに。
「どうだい? この服いいだろう?絹で出来てるからね、上等で綺麗でしょう? あんたにわかるかねぇ」と服を自慢する時でさえ、おきぬさんの目付きは険しかった。
その理由がわかったのはおきぬさんが死んだ時だった。おきぬさんが息を引き取ると、寝間着はたちまち蚕になった。蚕がおきぬさんの身体を這い回っていた。
蚕は時間が経つごとに増えていき、火葬の時には棺の蓋が持ち上がるほどだった。
「おきぬさんはね、お洒落で絹を着ていたんだけど、蚕の命も一緒に着ていたんだよね。絹を着るのは辛いって一度だけ言ってたよ」
と、おきぬさんの姪にあたるという人が教えてくれた。
そこまでして絹を着続けたおきぬさんの気持ちを、わたしはまだわかりそうにない。

*絹*

2006年7月5日水曜日

イトコトバ

妹は話すのが極度に苦手な子供だった。ひとりで何時間も無言のまま人形遊びをするような子だった。
十二才の時、彼女は糸を紡ぐことを覚えた。
糸車を廻すと、妹は饒舌になった。
彼女は何も喋らない。糸車が喋るのだ。
糸車の助けを借りて初めて言葉を紡ぐことができりようになった妹は、どんどん糸を紡いだ。部屋は糸で一杯になったけれど、妹の気持ちがそのまま現れた糸は、売ることができない。太かったり細かったり、強かったり細かったり、品物にはならないのだ。
「お姉ちゃん。あのね、」
妹の糸車の声がして私は振り向く。
妹は糸と言葉を紡ぎ続ける。

*紡*

2006年7月4日火曜日

安らぎ

「剃刀を持ってないから」と姉さんは紙で手首にキズをつけた。
僅かに滲み出る血を、さっき刃物にした紙で吸い取った。
姉さんはそれを見ると、満足そうな顔で横になる。
僕は寝息をしばらく聞いた後、血を吸った紙を握って布団に潜る。
血をちょっと舐める。

*紙*

2006年7月3日月曜日

もつれる

「あ……もつれちゃった」
と少女が困った顔をする。糸が指に絡まっている。
「何をしてたの?」
「赤い糸と青い糸を混ぜて、青い糸と黄色い糸を混ぜて……」
「紫や緑にしたかったんだね?」
糸たちは、少女の企みをよく承知していた。
勇んでお互いを馴染ませようとしたものだから、もつれ合い、どす黒くなった。
「解いてやろうか?」
糸は僕の言葉に拒絶して、ますますきつくもつれた。少女の指に血が滲む。

*糸*

2006年7月2日日曜日

深い川

フローライトの結晶の中に川が流れている。流れの速い深い川。
僕はじっとそれを見ていた。
水の音が聞こえる。瞬きすると覗いていた川が目の前を流れていた。ここは、一瞬前には、手に持っていた結晶の、中だ。
結晶を持っていた左手には、何もない。
「外から見てたでしょ?」淡いピンクの女の子がいた。
ここが結晶の中だと、確信せざるを得ない。
「この川に見とれていたんだ。力強くてカッコイイ」
「じゃあ、川に入れば」
ピンクの女の子は僕の背中を押した。
瞬きをすると、僕は右手にフローライトを握っていた。
覗いても川はもう流れていない。