2019年6月15日土曜日

罪と旅

言われてみれば、この身形のよい人は、罪が似合う。
「旅を終えたのはいつですか?」
「ここに腰を落ち着けて、十二年くらいになります」
小さな机に目をやる。よく磨かれた風合いのよい机だ。
「よい街に出会ったら、そこに住みたいとは思いますが……ひとところに落ち着いたら、また同じ罪を犯してしまいそうなのです」
「親や恋人がいたら、誘惑に駆られるかもしれませんが、年をとり、もうそんな親しい相手はいませんから」
立派な身形の人は、そう言って微笑んだけれど、親しい相手がいなくなれば罪を犯さずに済むだろうか。そんな自信はない。

その後も、立派な身形の人は、罪の重さや旅の思い出をたくさん話してくれた。罪は重く、旅の当初は強制的な転移を繰り返したそうだ。旅も長く、最低でも四年は旅をしなければならず、結局、五年に及んだという。

立派な身形の人は、数日間、泊めてくれた。毎晩、球体の湯の張った風呂に浸かり、ここまでの旅で疲れた身体と頭をほぐした。
四日目の朝、青い鳥の声で目が覚めた。
「消えず見えずインクの旅券を持つ者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
まだまだ知らない街がある。

2019年6月4日火曜日

鑑賞すべき涙

立派な身形の人は、聞き上手でもあった。洗いざらい話をした。青銅色の街、美しい人との情事、老ゼルコバの死。そして犯した罪のこと。罪の話をしてもいいのかどうか、一瞬迷ったのだが、止める暇もなく口から溢れた。

まだこんなに涙が出るのかと思うくらいに泣いた。流れる涙をそのままにしたら、転がった涙の球で足首まで埋まった。立派な身形の人は、用意もよかった。大盥を足元に置いてくれたのだ。「この街では、号泣する時は皆、これを用いるのです」と大真面目に言うのだった。

ようやく涙が枯れると、立派な身形の人は、大盥を持って庭に出た。夕陽で涙の球が輝く。さっきまで体内にあった水分を、こんな形でまじまじと見る機会がかつてあっただろうか。「この街では、こうやって、涙を鑑賞するのです。どうですか、悪くないでしょう?」と、また大真面目に言う。

「どうしてこんなによくしてくれるのですか」と尋ねる。
「以前、貴殿と同じ体験をしたからです」と、立派な身形の人は、腰のあたりを手でさすった。この人も、消えず見えずインクで旅した人だった。

2019年5月21日火曜日

遠慮する球体と液体

立派な身形の人は、想像通り、家も立派だった。
風呂を借りると、ビーズのような細かな球体の湯が溜まった湯船と、大きな穴のシャワーがあった。
恐る恐る湯船に浸かる。身体に触れたところからビーズの湯は液体に変わっていく。
ぐるぐると手足を動かしてみたが、全部が湯にはならなかった。どうしてもビーズの部分が残るのだ。
温かいビーズに埋もれているようであり、ゼリーに沈んだようであり、しばらく眼をつぶっていると、普通の湯に浸かっているのと変わらない気分にもなった。

シャワーは、湯船以上に不思議な体験だった。細かな球体の湯が降ってくるが、身体に触れた瞬間液体になり、流れていく。霰を浴びればさぞかし痛いだろうが、この街の球体の水は、痛くはない。
液体の湯と球体の湯がいまいち混ざりあわないまま、排水口に吸い込まれていく。流れる速度が異なるせいだろうと思うのだが、液体の湯と球体の湯は互いに少し遠慮しているようにも見えた。

不思議な風呂で、すっかり長くなってしまった。恐縮しながら出ると、立派な身形の人が笑顔で待っていた。
「温まりましたか? ああ、よかった。顔色もよくなった」

2019年5月12日日曜日

浄水と涙

氷とも違う、不思議な水の玉だった。口に入れた瞬間に水になった。
舌で水玉の感触を確かめたいと思うが、瞬時に水になってしまう。
「ずいぶんお疲れのようだ。……何か辛いことがあったようにお見受けします」
その人の話しぶりが、老ゼルコバに少し似ているような気がして、また涙が出そうになる。
「水は幾らでもありますから。賢い鳥さんもどうぞ」
と、次々と水の玉をくれた。鳥には、小さな水玉を。

「慣れない水、飲みにくかったでしょう?」
立派な身形の人だったが、気さくに隣に腰かけてきた。
「ここには液体がないのですか」
「いえいえ、浄水と涙だけです、こうして玉になってしまうのは。スープやお茶は、液体です。どうして浄水と涙だけなのか、研究者もずっと研究したままです。でも、意外と不便はありませんよ。水は口に入れば飲めるし、シャワーも慣れてしまえば気持ちのよいものです。どうですか? 我が家に来ませんか」
親切な人にすぐ出会える街は珍しい。幸運は幸運として受け取ろう。

2019年5月10日金曜日

固体では困る

液体が、結晶のようになってしまう街なのだろうか。
そんなのは困るではないか、水はどうする? 飲み水は? シャワーは?

「消えず見えずインクの旅券を持つ者に、飲み水を与える者はおらぬか!」
ずっと黙っていた青い鳥が突然叫んだ。確かに、泣き疲れて喉が渇いている。
青い鳥の声も少し枯れているようだ。

心にも体にも力が入らなかったから、 歩くのは諦めた。
青い鳥の声を聞いて、水を持ってくる人でも現れたら幸運だし、そうでなければもう少しここにいよう。

ベンチに座って、あたりを見渡す。涙が固まってしまったこと以外には、特に変わった様子はない。ここは、緑の多い公園のようだ。ケヤキの樹を見つけて、老ゼルコバを思い出し、また涙が溢れる。

ポロリと大きな涙粒を拾い上げる。透明で、光にかざすと輝き、本当にガラスのようだ。この街の雨がこんなふうに硬かったら困るではないか。

「涙はしょっぱいですから、これをどうぞ。喉が渇いているんでしょう?」
涙粒を観察していたら、透明な飴玉のようなものを差し出された。

2019年5月4日土曜日

涙の重さ

ぽっかりと体に穴が空いたようだった。喪失感というのは、この事を言うのだなと、嗚咽しながら、頭の端で冷静に分析していた。
なかなか泣き止むことができない。オニサルビアの君は、やはり近くにはいないようだった。老ゼルコバは、もちろんいない。白くサラサラと崩れていく様子を思い出し、また涙が溢れてくる。
涙が重い。こんなに泣くのは、大人になって初めてだから、涙の重さなんて忘れていた。

流れるままになっていた、ようやく涙や鼻水を手で拭った。
「痛っ」
細かな水晶のような、ガラスのような、透明な欠片が涙を拭いたはずの手のひらにびっしりついていた。

2019年4月29日月曜日

「さあ、樹にしがみついて。そう、抱きしめるように」
オニサルビアの君に手を握られた。冷たい手だった。
手を繋いだまま、ケヤキの巨木を二人で抱きしめた。繋がなかったほうの手と手は、全く届かなかった。それくらい、立派で大きな木だったのだ。

背中が温かい。老ゼルコバが後ろから抱きついてきたのだ。
ケヤキと老ゼルコバに挟まれて、静寂となった。
風も音も匂いもない。自分の息の音もすぐに吸い取られる。
背中の老ゼルコバの体温も感じられなくなった。
眠いような気がするが、いつもの眠さとは違う。「無」と呼ぶほうが近い気がする。

抱いたケヤキと老ゼルコバが、さらさらと崩れるのを、微かに感じた。身体の感触なのか、形而上の認識なのか、それもわからないが、老ゼルコバが「いなくなった」確かな実感だけはあった。