2019年10月17日木曜日

君の名は

どうにか薬を飲み終えてからも、はらはらと涙が止まらない。ずいぶん涙脆くなった。
いや、いろいろと刺激があり過ぎるのだ、この旅は。罪を償うためだから、それが当然ともいえる。

一方で、心身ともに刺激に晒され、疲労している中で、親切な人に数多く出会った。疲れた心と体は、やさしくされると途端に涙を出す仕組みになっているとしか思えない。そのやさしくしてくれた人々の名前も知らないなんて……と思うとまた涙が溢れる。思考の堂々巡りが止まらない。

「お嫌でなければ、空き部屋を使ってください」
若者が部屋に案内してくれた。立派なベッドと鳥籠のある部屋だった。
「いつまでいてもいいんですよ。父は何度も消えず見えずインクの旅の人を世話しているんです。長逗留の人は10ヶ月くらい居たそうですから」
「ありがとうございます……ところで、父上や貴方の名前を訊いても……」
若者は困ったような顔で笑いながら「おやすみなさい」と言って、部屋を出てしまった。

青い鳥は自らすすんで鳥籠に入り、眠ってしまった。仕方なくベッドに入る。

2019年10月3日木曜日

これも罰だ

粒子を感じる水だった。
二杯目は、薬と一緒に飲んだ。粉薬が水の中で翻弄されるのを口中に感じながら、飲み込んだ。

以前、水が球状になる街があった。涙が硝子ビーズのようになったあの街だ。あの街の水の玉は口に入れるとただの水になったが、この街の水は口に入れるとビーズのようだ。

若者と父上に、その街と水の玉の話をすると、非常に興味を持って聞いてくれた。
「いつか、その街に行ってみたいですねえ、父さん」
 父上と若者が同じ顔で頷き合う。
しかし、消えず見えずインクの転移で行った街なので、場所も、名前も、知らないのです」
そう言ってから、愕然とした。

今まで行った街の名前、世話になった人の名前、ひとつも知らず、ひとつも知らされず、さして疑問に思うこともなく、ここまで転移を繰り返してきた。そういえば名前を訊かれたこともなかった。

これも「罰」なのだと気が付いた。
地名や名前を知れば「手紙」を書けるから。

2019年9月24日火曜日

緊張の水

若者と父上は、「三十年後の若者がいる」というくらいに、よく似ていた。
体格、雰囲気、話し方、仕草。親子にしても似すぎているのではないだろうか。
触感の混乱を忘れるほどに、二人のことを見比べてしまった。

「こちらの消えず見えずインクの旅の人が、触感の混乱が激しく困っていたのです」
と、若者が父上に説明してくれる。
父上に、この街の触り心地を詳しく訊かれた。時折、若者が助け船を出してくれ、大いに助かる。
いくつかの物を触り、触り心地を答える。
ゴムボール、ガラスのコップ、ぬいぐるみ等々。
どれも思いもよらない触り心地だ。

「確かに触感の混乱が強い。お辛かったですね。薬を出しましょう」
父上は処方箋を書き、薬を調合して戻ってきた。
「この街に来てから水を飲むのは?」
「初めてです」
「では、水だけ先に一口飲みましょう。驚くといけない」

かつて水を飲むのにこんなに緊張したことがあっただろうか。

2019年9月8日日曜日

柔らかな絨毯

若者の家が近づくと、天道虫は嬉しそうに飛び回り始めた。
天道虫の感情がわかるという経験は、初めてだ。感激していたら、せっかく若者が教えてくれたのに、地面の舗装が変わったことに気が付くのが遅れ、躓いた。
靴越しなのに、とても熱い地面だった。踏鞴を踏むような、千鳥足のような、けったいな足取りになってしまい、若者に掴まる力が強くなる。
「申し訳ない。この地面はとても熱いね」
「大丈夫ですよ。転ぶといけませんから、しっかり掴まってください。もうすぐです」
 
若者の家は、父上の開業する医院が併設で、タイルや硝子ブロックの外観がレトロで穏やかな雰囲気だった。
「今は休診の時間なので、家の玄関から入りましょう」
家の中は、毛足の長い絨毯だった。
「たぶん、この絨毯は、見た目通りの感触です」
その通りだった。ふんわりと柔らかい感触に、安心して、涙が出そうだ。

2019年8月25日日曜日

予想と覚悟

かなり迷ったが、背の高い若者を信用してみることにした。
他に声を掛けてくれる人は現れそうになかったし、この触感の混乱が体力を著しく奪う予感があったからだ。
「父が薬を処方できます。一緒に家に来られますか?」
「お父上は……」
「父は医者で、これまでも多くの旅の人に薬を出しています。もちろん消えず見えずインクの人にも。心配しないで大丈夫です。法外なお金を取ることもしません」
若者は、こちらの心配事についてすべて説明してくれた。まっすぐにこちらを見て、そして少し微笑んで。

「立てますか? 腕につかまってください。気を付けて、少し痛い感触がします」
まだ幼さの気配が残る若者の身体に掴まると、たしかにトゲトゲした感触があった。だが、先に言ってもらったおかげか、安心感か、それほどの衝撃もなく立ち上がることができた。

若者は、実に有能は案内人だった。舗装が変わるところ、階段、階段の手すり。すべて感触を先に教えてくれた。少し予想と覚悟ができれば、それだけで衝撃が和らいだ。
その間に、青い鳥と若者の天道虫はずいぶん仲良くなっていた。青い鳥の胸に留まった天道虫は、立派なバッジのように輝いている。

2019年8月21日水曜日

薬を飲みますか

衝撃はあっても痛みはなかった。実際、ボールではなくて小さな天道虫なのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、あの衝撃で痛くないというのは、これまた混乱する状況だった。

天道虫は、こちらのまわりを一回りすると、背の高い若者の元へ飛んで行った。
若者と天道虫は友達のようだ。
「驚かせてすみません。この街は初めてなんですね?」
と、若者が話しかけてくれた。とても賢そうな雰囲気だ。
「おかげさまで、叫び声が治まりました。……この街は、見た目と感触がずいぶん違って混乱しています」
と答える。
「初めてここに来る人は、皆さんそう言います。慣れる人も多いのですが……やはり、かなり時間が掛かります。和らげる薬を飲む人もいます。飲みますか?」
その申し出にすぐに首肯できる者はいるだろうか。

2019年8月13日火曜日

叫びを終える方法

叫び声を掻き消すように青い鳥が低く響く声で唱えた。
消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内(あない)する者は挙手をせよ!」
身形のよい人と別れ、ポストに飛び込んだ時、あんなに小さくなったのに、いつの間にか元の大きさに、いや、もっと大きくなっているようだ。不思議と重さも感じず邪魔にもならない。
冷静に青い鳥の様子を観察してはいるが、まだ叫び続けている。こんな声で叫んだことはないから、止め方がわからない。

消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内する者は挙手をせよ!」
頓珍漢に古めかしく威張っているが、それがかえって頼もしかった。不安と混乱が、これ以上ないくらいに高まっていた。まだ、手にはスパゲッティをかき上げた感触が残る。
膝は? 耳は? 股間は? 一体どんな触り心地だというのだ。だが、もう他の身体の部位を触る勇気がない。

消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内する者は挙手をせよ!」
突然、背中にボールをぶつけられたような感触がした。叫び声は、止まった。
ボールだと思ったものは、天道虫だった。