2017年8月29日火曜日

八月二十九日 狂速度

今日の駅のエスカレーターは妙に速くないか? いつもと違うリズムで転びそうになる。
たどり着いた先の百貨店、今度のエスカレーターは超低速だった。苛苛しながら6階の文具売り場へ向かう。

だいぶ早いけれど、来年の手帳など見てから、超低速エスカレーターに乗って、地下の食料品店に行く。お弁当を持って、レジに並ぶとレジスターは超高速になっていて、レジ係が目を回して倒れていた。

みんな飛翔体のせい。

2017年8月20日日曜日

しっぽ

 飼い猫の姿が見えない。たぶんクローゼットの中で丸まって寝ているんだろう。俺の脱ぎ捨てたパジャマの上でぬくぬくとしているに違いない。
 クローゼットの戸を猫が自力で開けるようになったのは、生後八か月くらいのときで、俺は小学4年だった。
 それから十六年。服はいつも毛だらけだけれど構いもせず、猫は自由にクローゼットに出入りしている。近頃は、年のせいか暗くて静かなクローゼットを特に好んで寝床にしているようだ。
 老猫は、案の定クローゼットの中に……いたけれど、いなかっ た。しっぽはいたけれど、しっぽしかいなかった。
 しっぽに向かって「おーい、本体どこ行った?」と訊いてみると、しっぽは気忙しそうにパタパタと動いた。
 しばらくしっぽの様子を注視していたが、動くしっぽを見ていると催眠術にでも掛ったかのよ、う、にねむ……
 目を覚ますと、猫がこちらをじっと見ていた。
「どこに行ってたんだよ、しっぽだけ置いて! 一緒に連れていってやらなきゃ、かわいそうじゃないか」
 我ながら頓珍漢な説教を猫にする。
「よっこらしょ」とでも言いそうな様子で立ち上がった猫の下に、小学4年の夏休みに失くした自転車の鍵があるのは、何故なんだ?

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「もうすぐオトナの超短編」松本楽志選
兼題部門(テーマ超短編「此処と此処ではない何処か」)投稿作

2017年8月8日火曜日

ショートケーキ

 もう何年も、美しいままのショートケーキを見ていない。
 甘くなめらかな生クリーム。艶やかで真っ赤な苺。私は小さいころからショートケーキひとすじだった。たまにチョコレートケーキを選ぼうものなら「ああ、やっぱりショートケーキにすればよかった」と後悔する。
 ショートケーキ狂いの妻の機嫌を取るため、なのかどうかは知らないけれど、夫はせっせとショートケーキを買って帰ってくる。
 満面の笑みで夫が掲げる箱を見て、私はそっと溜息をつく。その箱は、既にひしゃげている。毎度毎度、どこをどうやって持ち運べば、こんな有様になるのだろう。
 私はとびきり丁寧に紅茶を淹れ、潰れたケーキの箱を開ける。もはや原型を留めていないショートケ ーキ。苺の汁で汚されたクリームは箱の壁面に飛び散り、フワフワのはずのスポンジ生地は崩壊し、固まっている。
 ケーキを皿に出すことも諦め、私と夫は顔を寄せ合い、夢中でケーキの残骸をほじくり、貪る。「おいしいね」と夫を見つめると、「また買ってくるよ」と耳元で囁かれた。


ガリレオ・ホラー超短編 大賞受賞 →選考結果と評
まんがの図書館ガリレオ発行 月刊ガリレオ新聞2017年8月号掲載

2017年8月7日月曜日

木星から来た不死鳥

夜の川面に金色の火花が広がる。不死鳥が舞い降りようとしているのだ。羽ばたきに合わせて火花が雨のように降り注ぎ、辺りが明るくなる。

不死鳥はついさっきまで、木星にいた。大きな木星の周りを優雅に飛ぶのは、不死鳥にとっても気分のよいことだった。

木星を巡ってからこの川に来るのが、地球の暦でもう十二年も続いている。毎年夏になるとどこからともなく呼ばれる気がする。川面に舞い降り、羽繕いなどして、また飛び立つ。それを川岸で見る大勢の人々が時に涙を流して喜ぶのだ。

不死鳥には、どうしてそんなに人々が喜ぶのか、理解できない。だが、木星の周りを飛ぶのとは違った心地よさを覚える。また次の夏、ここに来るのも悪くない。