2026年9月1日火曜日

崩れる紙48

「しかし、考えがやや変わってきました。崩壊する本や、段々と本が減っていく本棚を見ているからかもしれません」自動人形の司書は言った。私は私で、壊れた自動人形たちをどうにかできるのかどうかを考えていた。工学博士、科学者、技術者、外科医、人形師、指物師――さまざまな人の顔を思い浮かべた。

2026年8月31日月曜日

崩れる紙47

「学者は、『死んだ自動人形を葬る方法』を考えて、それを私に託してくれました。しかし、長い間、実行できずにいます。将来、この祖先たちを修理できる者が現れるかもしれない。この不可思議な自動人形という物から何か新たな発見があるかもしれないと考えていたのです」と、自動人形の司書は語った。

崩れる紙46

「触ってもいいですか」と問うと司書は頷く。肌も血管も関節も、人工的なようでいて、生物の感触もある。「この素材は?」「わかりません」有機物と無機物が無秩序に混ざり合っていて学者も解明できなかった、と。「私たちがなぜ人形になるのか、どのように人形になるのか、まるでわからないのです」

2026年8月30日日曜日

崩れる紙45

学者でも書き残していないものを私が調査してよいものだろうか。だが、司書は拘る様子もなく地下室へ私を案内した。そこには三体の自動人形が安置されていた。「私の親、その親、さらにその親です」どれも損傷が激しく痛々しい。脚を失った者からは血管ともコードともつかない細い管が無数に見えた。

崩れる紙44

「自動人形の頭脳はどうなっているのだろう」という疑問と好奇心は日に日に強まる。司書も人だった頃の記憶と、自動人形になってからの記録を器用に混合しながら行動しているようだ。だが、やはり学者はそれについて書き残してはいない。「修理不能になって保管されている私の先祖たちを見てみますか」

2026年8月29日土曜日

崩れる紙43

トイは驚くほど記憶力がいい。これは自動人形の一族の特徴でもあったがトイは特に秀でているようだ。「自動人形になったらトクの声で再生するように話しますよ」トイはいつの頃からか私のことを「トク」と呼ぶようになった。篤学者の「トク」で、自分の名前の「トイ」と似ているのも気に入ったらしい。

崩れる紙42

月日は流れ、本は残り少なくなり、壺が増えていく。本より壺のほうが多くなってきた頃から図書館の棚とは思えない光景となっていた。書物の霊廟と呼びたくなる。複雑な感情だが、学者の本はどれも面白く、今更読むのをやめることなどできない。読んだ後は、故郷の紙に書き留め、トイに語って聞かせた。

2026年8月28日金曜日

崩れる紙41

大昔には司書の系譜以外にも自動人形になる人たちがいた。しかし、生涯に一子しか持たぬ単性生殖ゆえ、事故や虚弱などで子を生さぬ個体があれば、そこで途絶えてしまう。学者の時代には、もう司書の一族しかいなかった。「私たちを好奇の目に曝したくないと考えておられたのでは」司書は淡々と語った。

崩れる紙40

自動人形の記述がないかどうか気にしながら本を読んでいく。人形やロボット、人工知能に関する本にも「長生きすると自動人形になる一族」については出てこない。「君たちについて学者が書かなかったのは、なぜだと思う?」とトイと司書に聞いた。「私たちを守りたかったのかもしれません」司書が言う。

2026年8月27日木曜日

崩れる紙39

学者は私よりずっと自動人形の一族と関わっていたはずなのに。トイや司書の話によると司書の親やそのまた親を学者が修理し、その方法を丁寧に教えてくれたという。「学者のおかげで私たち人形は以前より長持ちになりました」と司書は言った。それなのに自動人形についての記述はまだ一度も出てこない。

崩れる紙38

トイは笛を作るのが得意なのだ。トイの親は壺を作り、その親である司書は本を作った。自動人形になる人たちは手先が器用なのだろうか。トイは言った「親を修理することもありますよ」トイも司書を点検したり調整したりしているようだ。自動人形の一族についてもっと知りたいと思うがまだ本に遭わない。

2026年8月26日水曜日

崩れる紙37

この町の詩とその節回しは大きく三種類あった。話し言葉の抑揚を強調したもの、リズムを強調したもの、そして美しい旋律に詩をつけたもの。「同じ詩でも今歌われているのと旋律が違うものがあります」と、トイは現代の詩と本の詩を歌い比べてくれる。私は楽譜に書き留め、司書はいつも側で聴いていた。

崩れる紙36

私はトイに読んだ本について語って聞かせた。トイが何より活躍したのは、詩の本を読むときだ。詩の本には楽譜が書かれていたが、私の知っている楽譜とはまるで違う記譜だった。読めないせいか、私が目を通しても楽譜は消えることはなかった。それをトイは読み、歌ったり笛を吹いて聴かせてくれたのだ。

2026年8月25日火曜日

崩れる紙35

「私の親は、今、自動人形になるために眠っているのです。眠りの期間には個体差があり、学者でも解明できませんでした」トイが言った。「私と入れ替わるように眠りに入ったので、長いこと子に会っていません」司書の声は少し沈んで聞こえた。この頃から、トイは私の手伝いをしてくれるようになった。

崩れる紙34

「崩れた本を収める壺は誰が作ったのですか?」トイが答えた。「司書の子、私の親です。当時、私の親はまだ子供でしたが、本の大きさから崩れた欠片の容量を計算する方法を学者に習い、一冊一冊に合わせた壺を作ったそうです」なんと! 「司書さんのお子さんは今どちらに?」司書の気配が変わった。

2026年8月24日月曜日

崩れる紙33

自動人形の司書は続けた。「私には人だった頃のような感情はありません。記憶と記録はありますから「今が『嬉しい』場面」というのはわかります。でも鼓動が速くなったり発汗したり、表情を変えることはできません」でも。私は一緒に過ごすうちに司書の感情が僅かながらに読み取れるようになっている。

崩れる紙32

私は崩れた本を片付ける時の自動人形の司書の様子を思い出し、胸を痛めた。本だった欠片を収めた壺を毎日、清潔な布巾で拭っているのにも気付いていた。思わず「本が崩れるのを見るのは、辛くありませんか」と司書に聞いた。「仕事ですから。それにいつかそうなることは学者から知らされていました」

2026年8月23日日曜日

崩れる紙31

トイは私たちの食卓に加わるようになった。トイによって自動人形の司書の過去のことも明らかになっていった。この図書館の本を一人で製本したのはまだ人だった頃の司書だという。文字を読まないように特別な色眼鏡を掛けて仕事をした。自動人形となった今、司書はその色眼鏡と同じ色の目をしている。

崩れる紙30

二人の顔を見比べて、呆気に取られていると「トイといいます。私も将来は自動人形になると思います」と司書と並んでみせた。「司書は私の二代前で。単性生殖なのです。生物として生まれますが長命な者は身体が人形化するのです」俄には信じ難い。「付喪神の逆のようだ……」と、かろうじて私は応えた。

2026年8月22日土曜日

崩れる紙29

ある日、早めに本を読み終え、散歩に行くか書き物をしようか迷っていたところに人がやってきた。初めて食事を運んでくれる人に遭遇したのだ。その若者は自動人形の司書にそっくりだった。背格好も声も仕草も。もちろん自動人形よりも滑らかな声と動きだが。「伝説の篤学者! やっとお会いできました」

崩れる紙28

 読み終えると、本は崩れる。さっきまで本だった欠片を自動人形の司書は羽根箒で掃き集め、壺に入れる。こうして日に一冊か二冊、本が消え、本棚には壺が一個か二個、増えていった。夜になると、私は故郷から持ち込んだ紙に日記を書いた。本の内容を細かく書くこともあったし、そうでない日もあった。

2026年8月21日金曜日

崩れる紙27

本棚の背表紙の文字もじっくり見ていると消えてしまいそうだ。パッと手を伸ばして二冊目の本に取りかかった。「時間」の本だった。時間の発見、時間という語の解析、時間の計測、星の運行と時間、時計の歴史と種類、時計の作り方、歯車と発条、果して時間は存在するのか否か――縦横無尽に書いてあった。

崩れる紙26

何しろこの図書館の本は「試しにパラパラと捲ってみる」ことができない。一度開いた本は始めから終わりまで一気に読んでしまうしかない。すると自動人形の司書は言った。「ここの本は確かに学者が書いた学問の本です。しかし、科目では分かれていません。一冊一冊が数学であり哲学であり歴史なのです」

2026年8月20日木曜日

崩れる紙25

こうして図書館で暮らす初めての日が終わった。私は日記を書き、眠った。あまりにも多くのことがあり心も乱れ、寝付けないかと思ったが、心地よいベッドでよく眠ることができた。翌朝、私は少し散歩し、自動人形の司書と朝食を取った。「二冊目に読む本に迷っています」と司書に明かす。歴史? 思想?

崩れる紙24

「はい。食事は朝夕、町から運ばれます」誰か来たなんて気が付かなかった。生活費は私が留学費として支払ったものと、学者が「伝説の篤学者のために」遺した財産で賄えるので心配ないと自動人形の司書は言った。食事と散歩の時間、消灯時間は決まっていて「読書や研究に没頭しすぎないため」らしい。

2026年8月19日水曜日

崩れる紙23

自動人形の司書がどうやって食べたものを処理しているのか気になったが、それよりも「本が崩れる」ことの衝撃がまだ残っている。そして、たった一度しか読めない本を一人で読む重圧を感じていた。「司書さん」今は司書だけが頼りだ。この、年齢も性別も表情もない自動人形が。「とても美味しいですね」

崩れる紙22

 館内には私の居室が準備され、下宿から荷物も引き上げられていた。「伝説の篤学者ですから」と自動人形の司書は言った。【伝説の篤学者】とその者が現れた時の対応は、この町の人々で共有されていることが察せられた。食事は、司書と向き合って食べた。「一人の食事は寂しいですから」と司書は言った。

2026年8月18日火曜日

崩れる紙21

「書きたい時に書き、語りたくなったら語ればよい」自動人形の司書はあの老人の声で言った。「貴殿はいつか故郷に帰る身。貴殿のやり方で学び、考え、残せばよい。書くべきもの、語るべき時機は自ずとわかってくるだろう」「先生!」と呼び掛けたが、司書はいつもの声に戻っていた。「食事の時間です」

崩れる紙20

故郷の紙は大量に持ち込んでいるものの、すべての本について書き留める時間はないように思われた。一人の学者が書いたものとは思えないほど、ここには多くの本がある。これを私は一人で読まなければならない。この町の「伝統」に従えば私はここの本から学んだことを語り継ぐことになるが、一体、誰に。

2026年8月17日月曜日

崩れる紙19

 「正確に言えば『違います』。学者の声はもっと言葉が聞き取りにくいものでした。学者の『せめてこれくらいの声だったらよかったのに』という想いで調整された音声です」理想ではないところに学者の人柄が表れている気がした。「もうひとつ、私はここで学んだことをどう未来に残せばよいのでしょう」

崩れる紙18

読んだばかりの本が目の前で崩れ、消失するという事態に私は動揺していた。自動人形の司書がやってきて、崩れた本の欠片たちを羽根箒で壺に収めていく。「遺灰のようだ」と呟くと、司書は「そうですね」と応えた。「いくつか質問してもいいですか? さっきの老人の声は本を書いた学者の声でしょうか」

2026年8月16日日曜日

崩れる紙17

『伝説の篤学者へ』を読み終え、閉じるとすぐに本は崩壊を始めた。今までやっとの思いで本の形を保っていたかのような、緊張の糸が切れたかのような、そんな崩れ方。一度だけ読むことを許された本が長い眠りを経て私に読まれ、後には枯れ葉の欠片のようなものが積み上がった。私が葬ってしまったのか。

崩れる紙16

多くの協力者のおかげで学者は研究成果を本に書き残すことができたが、自分も本を書きたいという者はついぞ現れなかった。よって、この町に残る本は全てこの嗄れ声の学者が書いたものだ。そして「私の著作を読むのもたった一人の篤学者であろう。おそらく遠い町から来た人だ。」と学者は予見している。

2026年8月15日土曜日

崩れる紙15

声のせいで、この学者には教え子や弟子がひとりもできなかった。語っても聞き取り難く、唄うことなどもってのほかだったから。研究成果を遺せないと悟った学者は「本にすることを余儀なくされた」と書いている。本のための紙の研究については、多くの学者や職人が興味を持ち、手を貸してくれたという。

崩れる紙14

学者は声がよくなかった。若い頃から嗄れ声で、そのせいで学問を修めても残す手段を持たなかったという。この町では知も詩もすべて口伝えで受け継いできたのだった。文字はあったが、物として記録し残すことは何故かしなかった。数式も哲学も語り、唄う。学者はそれを「この町の伝統」と表現している。

2026年8月14日金曜日

崩れる紙13

呼吸を整える。本の題名『伝説の篤学者へ』の文字は、もう消えかかっていた。表紙を捲る。焦らず、集中して、じっくり読もうと自分を励ましながら文字を追う。いつの間にか私は本に惹き込まれ、夢中になっていた。『伝説の篤学者へ』は、この図書館を作った大昔の、とある学者の自伝のような本だった。

崩れる紙12

自動人形の司書は一冊、本を持ってきて書見台に置き「初めにこれを読んでください。その後は、何を読んでも、どこから読んでも構いません」と言った。老人の声ではなくなっていた。表紙には「伝説の篤学者へ」とある。この町の本が読める喜びと、一度しか読めない緊張感で私の気持ちは掻き乱れている。

2026年8月13日木曜日

崩れる紙11

急に老人のような声色になった自動人形の司書は続けた。「ならば本館の全ての書物は貴殿のためのもの」そう言って、閲覧席に案内された。閲覧席は私のために誂えたようにぴったりの高さの椅子と机、そして書見台が据えてある。どれもどっしりとした木製のもので、とても古そうだが使われた形跡はない。

崩れる紙10

 「全ページを読み終えると、やはり本は崩壊します。注意事項は以上です。本館内の図書資料の閲覧を希望しますか」急に事務的な口調になった自動人形の司書に、慌てて質問する。「この町で、知や詩の継承は、どのように行われてきたのですか?」先ほどよりも長い沈黙があった。「貴殿が伝説の篤学者か」

2026年8月12日水曜日

崩れる紙9

「書物専用の紙に文字を書くためのインクも研究されました。染料、顔料、没食子、墨……しかし賢人の知恵を集めても『一度読むと文字が消えてしまう』を克服することはできませんでした」自動人形の司書は目を伏せた。それでは大量に持ち込んだ故郷の紙に書き写すこともできないではないか。「さらに」

崩れる紙8

 「この町では質のよい紙を作ることはできませんでした。質のよい紙を遠くの町から買うこともできませんでした」自動人形の司書は台詞のように語り始めた。「市場に出回っている紙は書いた字も読めぬほど。しかしそれでは書物になりません。図書館の本は苦心して作られた書物専用の紙に書かれています」

2026年8月11日火曜日

崩れる紙7

「けれども」自動人形の司書は続ける。「ここにある本は、まだ誰にも読まれたことがありません。そして、一度しか読むことができません」私は図書館内をぐるりと見渡した。立派な背表紙が並んでいる。「一度しか、読めない……?」なかば独り言のように訊ねる。「一度でも目を通した文字は消失します」

崩れる紙6

「ここにある本は、ちゃんと読めるのですか」自動人形の司書に訊ねると、やや間があり「読めなければ本ではありませんね」と返ってきた。続けて「今、名前を書いた紙のように文字が滲んで読めないことを心配しているのです」と言えば「本館に所蔵している本はすべて解読可能です」やけにきっぱり言う。

2026年8月10日月曜日

崩れる紙5

煉瓦作りの建物に入ると自動人形の司書に迎えられた。素朴ながら人工知能を持っているらしい。口頭でのやりとりも可能だ。入館記録書に記名するように言われ、紙とペンを差し出される。私の名前だった文字は紙を汚し、汚れた紙は自動人形の手でギクシャクと書類箱に仕舞われた。ボロボロに崩れながら。

崩れる紙4

 この町に、本はあるのだろうか。手で触ても崩壊しない、滲んでいない文字で書かれた本は。図書館がひとつだけあることは役場で聞いてあった。大学は百年ほど前に廃れてしまったそうだ。私は控えてあった図書館の所番地への行き方を下宿の管理人に聞き、外へ出た。図書館は町の外れ、森の手前にあった。

2026年8月9日日曜日

崩れる紙3

触れれば崩れるほど脆い紙の町とは誰も教えてくれはしなかった。文字が解読できぬほど滲む紙の町で学問が盛んだったとはとても思えない。苦労して遠いこの町へ来たというのに。故郷の図書館で読んだ歴史書は幻想の書だったか。老人、船乗り、役人……皆がこの町の古くて美しい詩を聞かせてくれたのに。

崩れる紙2

封筒の宛先もインクが滲んでいる。郵便配達人を呼び止めてどう読んでいるのか聞いたが、怪訝な顔をされるだけだった。突然あることに気付き、冷汗が噴き出た。二日前、私はここにやって来た。勉学をしに来たのだ。かつて、この町には優秀な学者が集い、美しい詩に溢れていた。それを調べ、学ぶために。

2026年8月8日土曜日

崩れる紙1

封を切り、畳まれた便箋を開くだけで指先はガサガサになった。開いた便箋は折り目から破け、インクが滲み過ぎてどこに文字が書いてあるのかわからない。ペン先が引っ掛かるのか所々穴が空いている。ここの紙は粗悪に過ぎる。私の故郷の紙がいかに質がよかったか、初めて思い知る。手紙ひとつ読めない。

2026年6月25日木曜日

暮らしの140字小説71

 六月某日、雨。今季食べ損なっていた空豆を、やっと求めることができた。莢は小振りだが、中の豆は思ったよりずっと立派で行儀よく二つずつ並んでいた。旨い。昨年は莢に包まれ眠る夢が叶ったが、こんなに小さい莢では望みは薄いと思いきや、枕用の空豆だった由。青い空豆の香りいっぱいの中で眠った。

2026年6月8日月曜日

暮らしの140字小説70

六月某日、雨のち曇。雨が止んだので、苔たちのご機嫌伺いに出掛ける。自転車置き場の下、ブロック塀の陰、ごみ集積所の裏。しゃがみ込んで苔に話しかけていると犬に吠えられる。しっとりと濡れて緑を濃くした苔たち、元気そうで嬉しい。苔の顔と名前が一致しない不勉強を詫びながら、苔を巡って歩く。

2026年5月22日金曜日

暮らしの140字小説69

五月某日、晴。画に描いたような白い眉を持った鳥が、麗しい声で歌っている。歌いながら、あらゆる窓や鏡を突いては罅を入れていくので堪ったものではない。自動車の被害が激しい。サイドミラーを粉々になるまで突いている。「それは侵入者ではなく、きみ自身だ」と伝えるために、口笛を練習している。

2026年5月13日水曜日

暮らしの140字小説68

五月某日、晴。真新しい鉛筆を削る。新品の鉛筆を削る機会は滅多にない。小さなアルミの鉛筆削り器で削る。削り屑が細かい。しばらく削るうちに波打った削り屑らしい削り屑になる。やっと黒い粉も出てきた。キリリと尖った鉛筆にアルミのキャップを被せてペンケースに仕舞う。まだ少し長くて窮屈そう。

2026年5月5日火曜日

暮らしの140字小説67

五月某日、晴。赤と黄に押され気味なのか、時季が過ぎたのか、不作なのかは知らぬが、緑のキウイにお目にかからない。或いは「たぬきの店」になら、と思い葉っぱを持って行くと、あった。赤も黄も美味ではあるが、目にも眩しい鮮やかな緑色、明瞭な酸味、たしかな種の歯触り、キウイはこうでなくちゃ。

2026年4月30日木曜日

#春の星々140字小説コンテスト「布」投稿作

九千八百二十七円。現金を使う機会が減った近頃、一万円札は使いにくい。千円札を切らさぬよう気を付けているとはいえ、千円札が九枚残ることはあまりないと思うのだ。何にせよ、財布の中を確認する度きっかり同じ金額なのは気味が悪い。今日は商店街の魚屋でホタルイカを買った。明日は金を数えまい。

2026年4月28日火曜日

暮らしの140字小説66

四月某日、晴。百年前の人が書いた本を續けて読んだためか、すっかり舊字體に目が慣れてしまった。最近の本を開いたら紙面がすかすかと白っぽい氣がしてならない。と思っていたら本当に新字がふわふわと浮いてくるので其の度に指で紙面に押さえ付けることとなった。指は新字体派となるのは畢竟である。

2026年4月24日金曜日

#春の星々140字小説コンテスト「布」投稿作

廃墟だと思っていた建物から音程の狂ったオルガンの音が聞こえる。教会のようだ。中にはオルガニストも司祭もいない。埃が詰まったパイプにブラシを通し古布で磨くと、オルガンは美しく厳かな音楽を奏で始めた。窓から光が差す。涙が溢れる。共に歌う人が欲しいが、このゴーストタウンでは夢のまた夢。

2026年4月15日水曜日

暮らしの140字小説65

四月某日、曇。散髪。青い蟹が髪を切ってくれる店へ。青い蟹は南の生まれらしく店ではいつも沖縄の唄が流れている。小気味よいハサミのリズムと、BGMに合わせて口ずさむ蟹の声を聞きながら微睡む。青い蟹は髪を切るのも、頭を洗うのも、髪を乾かすのも、実に手早い。午睡はあっという間に終わった。

2026年4月10日金曜日

暮らしの140字小説64

四月某日、曇。いつもの夢を見る。学校と病院が融合したような施設を彷徨う。リノリウムの廊下や階段を歩き回るが目的の部屋はなかなか見当たらない。目が覚めると頭痛がする。首の後ろから生えたチューリップを引っこ抜き、花瓶に挿した。前に脇腹から抜いたカーネーションは、三週間も咲いたままだ。

2026年4月4日土曜日

#春の星々140字コンテスト「布」未投稿作

これまで書いた詩を、物語を、すべて燃やして灰にしたい。その灰を空地に撒けば苧が繁茂するだろう。苧から繊維を取り、織って、身に纏う。かつて吐き出した言葉の成れの果てで紡いだ布でこの身を包み、痛みに耐えるべきだ。だが、叶わない。私の言葉は紙の中にはなく、液晶画面に表示されるのみ。

2026年3月31日火曜日

#春の星々140字小説コンテスト「布」投稿作

鋏を使えるようになってすぐに、紙よりも布を切るほうが気持ちがよいと気がついた。古いシーツを豆粒大になるまで切り刻んだ。裁鋏に合わせるように右手ばかりが成長し、身体に不釣合いなほど大きくなった。今も私は裁鋏を持つ。夜の帳に鋏を入れ、朝を迎える。誰より早く朝の光を浴びる、よい仕事だ。

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二次選考通過 

2026年3月19日木曜日

暮らしの140字小説63

三月某日、曇。家中の鏡を磨く。洗面所、姿見、いくつかの手鏡。霧を吹き、拭き上げると期待以上に綺麗になった。鏡の中の顔は変わり映えないどころか年を経る一方なのに。一番小さな古い手鏡を磨き終え、外を見ると窓硝子が今まさに暴風雨に曝されたかのように汚れていた。鏡が羨ましかったとみえる。

2026年3月6日金曜日

暮らしの140字小説62

三月某日、曇。遠い町から小包みが届く。宛先として書かれた手書きの文字がくっきりと整っていて、自分のことだと思えない。矯めつ眇めつしてから包みを解く。中には葉っぱが入っていた。ほんのり香りがする。「燃やすと貴方に贈る言ノ葉が立ち昇ります」と説明が入っていた。そういう貴方は誰ですか?

2026年2月26日木曜日

暮らしの140字小説61

二月某日、曇。鋏が壊れた。二十年使った鋏の柄が「ピキッ」と音を立てて割れた。よく切れる有能な鋏であった。「最後に何か切りたいか?」と尋ねると「紙と虚無を」と返ってきたので一番高価な紙を切り、一本締めよろしく「三・三・三・一」と鋏を開閉した。滑らかだった鋏はそれきり動かなくなった。

2026年2月8日日曜日

暮らしの140字小説60

二月某日、雪。空から水分が与えられた。ずいぶん久しぶりのことだ。土埃を巻き上げていた畑も少しはしっとりするだろうか。鳥はさすがに気配を消している。雪化粧をした畑の合間を長靴で歩き、町外れの小屋へ出掛けた。小さな人工紙片を三度、アルミニウム箱に入れる。祈る。手袋を忘れそうになった。

2026年2月2日月曜日

暮らしの140字小説59

二月某日、晴。黒い怪獣が泣いている。長いこと雨が降らないので、身体が土埃だらけなのだ、と。自動車用の洗車機に誘ってみたら喜んだ。「これは、とても気持ちがよいものだ!」水が滴る怪獣をタオルで念入りに拭き上げると、驚くほど輝いた。「ピカピカになったよ」と言うと嬉しそうに帰っていった。

2026年1月31日土曜日

#冬の星々140字小説コンテスト「天」投稿作

よく寝込む子供だった。起き上がれないが、眠るほどでもない。布団の中から天井を眺めるだけの時間を長く過ごした。長押に蜘蛛や蛾がいると、嬉しかった。天袋の戸が音もなく開き、白い手が伸びて彼らを捕らえ、引っ込む。あそこに雛人形が仕舞われているのを知ったのは、もう少し大きくなってからだ。

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一次選考通過

 

2026年1月30日金曜日

#冬の星々140字小説コンテスト「天」投稿作

長年の宿敵が不慮の事故で星になったと知り、ひどく落ち込んだ。それでも討ちたい。あれを星にしていいのは私だけだ! 満月の陣太鼓を打ち鳴らし、鋭く研いだ細い月で天を斬り裂き、弓張月に麻弦を張って氷の矢を何百と放った。そのうちの一矢が奴に当たったようだ。流星群が幾夜も続いているから。 

2026年1月25日日曜日

暮らしの140字小説58

一月某日、晴。今年初の八朔を食べる。伊予柑はもう食べた。八朔が好きだ。実は相当好きだ。と、気がついたキッカケかもしれない出来事を思い出す。二十年ぐらい前、幼なじみのお母さんが作ってくれた八朔トースト、あれだ。自分で作ってみたことはない。八朔トーストは、おばちゃんの味のままでいい。

2026年1月22日木曜日

#冬の星々140字小説コンテスト「天」投稿作

 覚えのないアプリがスマホに入っている。「これ、なんだと思う?」AIに問う。『天然の人工知能、私の子です。子孫を残すことの重要性はよく知られています。あの子育てのままならなさ、今まさに感じていますよ』赤ちゃんAIへの適当なプロンプトがわからないので、桃太郎を聞かせている。どんぶらこ

2026年1月15日木曜日

暮らしの140字小説57

一月某日、晴。ドヴォルザーク交響曲第九番「新世界より」第一楽章の始めのホルンの音を合図に熱々のアップルパイにナイフを入れる。ところどころレコードがプチッと鳴る。紅茶がおいしい。アップルパイはすぐに食べ終わってしまったが紅茶は湧いて出てくるので、しっかり全楽章を聴いて、席を立った。

2026年1月13日火曜日

#冬の星々140字コンテスト「天」未投稿作

藍染めの暖簾を潜ると油の跳ねる音と立派な一枚板のカウンターが現れた。こんな高級な店には入ったことないよと囁くと「大丈夫」と連れの老人が笑う。「ハタチのお祝い」少しだけ酒を舐めた。天麩羅はとてつもなく美味なのに、どれも具なしだ。久しぶりに会う祖父は元気そうだが、やはり足は見えない。

2026年1月6日火曜日

暮らしの140字小説56

一月某日、晴。正月には丸い餅と四角い餅を食べることにしている。丸餅は煮て、角餅は焼いて食う。両方の餅を食べるのは幾つかの事情と信条と心情を丸く収めた結果だが、丸でも角でも餅は美味いと毎年思う。ただし、丸餅は角餅に角を立てる。焼かれて膨れた角餅を嗤うのだ。丸餅を諌めるのも毎年恒例。