2018年9月28日金曜日

卵マンの襲来

親指の先がひどく痛む。
タマネギを切ると染みるし、鍋をかき回すと湯気に触れて痛い。
もちろん、物が当たっても痛い。
理由はわかっているのだ。
さっき、卵マン(そう名乗った)がやってきて、この卵型カプセル100個に疑似卵黄を入れてくれと頼まれたのだ。礼はたんとやると言うので引き受けた。
卵型カプセルを割り、疑似卵黄を入れて、割った卵型カプセルを嵌める。
この卵型カプセルがなかなかどうして、硬くて割れない。それで指を痛めたのだ。
疑似卵黄をあまりおいしそうではなかったが、卵マンは旨そうだったので、とっつかまえてオムレツにしてやろうと思ったのに、卵型カプセル100個を背負ってさっさと帰ってしまった。

2018年9月25日火曜日

雨の日のドライブ

 父に誘われて、土砂降りの雨の中、車に乗った。
 ワイパーが追い付かないほどの雨、どこに行こうというのだろう。
「こんな雨じゃないと見られないから」
 と言って、水たまりの雨水を酷く撥ねながら車は走る。
 着いたのは、大きな貯水池だった。水面に雨が激しく叩きつけられている。
 その水面、ところどころで、ポンっと一瞬、顔のようなものが現れ、沈んでいくのが見える。見えるような気がする。
「……あれは何?」
 父は
「子どもの頃から、死んだてるてる坊主だと、俺は思っていた」
 と言い、しばらく黙って眺めていた。
「帰るか」
「うん」
 家に着く頃には、雨が止み、日が差し始めていた。

2018年9月11日火曜日

寡黙な人

 いつもの喫茶店に行くと少女が働いている。年は13、14といったところだろうか。まだ慣れない様子で、引きつった顔でコーヒーを運んでいる。
「ありがとう、いただきます」
と言って受け取ったら、心底驚いた顔をして慌てて引っ込んでしまった。
 店主の親父によると、酷く無口なこの少女は、学校に行きたがらないそうで、家で膝を抱えてるよりマシだろうと店の手伝いをさせていると。店主の実の娘なのかどうかは聞きそびれた。
 慣れてくると、少女は私の読んでいる本を覗き込んでくるようになった。読み終わった本をやるとペコリとお辞儀をして、奥へ引っ込む。
 いつの間にか、店主の親父よりも旨いコーヒーを出すようになった。もう少女と呼べないほどに大人になったのに、声はまだ聞いたことがない。
 本は一冊も返してもらっていないが、律儀に感想文を手紙に書いて寄越す。手紙の少女は饒舌だ。どこに潜んでいるのだろうかと、声を探してやりたくなる。少し意地悪い気分で。

2018年9月4日火曜日

万年筆の要求

愛用している万年筆の調子が悪い。インクは十分にある。ペン先も乾いてもいない。
そういえば、近頃はメモを取るくらいしかしていなかった。手紙を書く、というような、まとまった文章を書く機会がなかったのだ。
それで機嫌を損ねたに違いない。以前にもそんなことがあった。もう8、9年前になるか。
そのときは、ご機嫌を取るのにずいぶん手間取ったものだ。本棚を眺め、一冊の本を出す。
短い小説を写すことにした。ゆっくり、力を入れ過ぎてはいけない。インクが出てこなくても焦らずに。
これで機嫌を直してくれるはずだ。