2009年2月5日木曜日

春。芽生えの季節

「春だよ。悠介、起きて」
 乱暴に身体を揺すられている。そんなに急に起こすな。俺様は今、長い眠りから目覚めるのだ。恭しく起こせ。それから、春眠暁を覚えず、という言葉を教えてやらなきゃいかんな。
 薄目を開けると、飛び込んで来たのは春菜の心配そうな顔だった。こんなに近くで春菜の顔を見るのは一年振りだな。でも、ちょっと、唇近すぎだ……。
 今、俺のベッドを覗き込んでいる春菜は、隣の山岸さんの長女で、要するに幼なじみだ。俺とはぴったり四ヶ月違いの十六歳。ずっと一緒にいたから、春菜がかわいいかどうかなんて、よくわからない。ただ、近頃、クラスの奴に「春菜ちゃんを紹介しろよ」なんて言われると、ちょっと、いや、大分腹が立つ。

 どういうわけだか、俺は生まれつき冬眠をする。気温が低くなり、最低気温が五度を下回ったあたりから、身体が言うことを聞かなくなる。冬日、つまり最低気温が零度を下回ると、もう完全にアウト。問答無用に昏々と眠り続けることとなる。学校に行くなんてもってのほか、飯もトイレも無しに、ただひたすら眠り続ける。そんなわけで、日本海側に住んでいるくせに一度もスキーもスノボもしたことがないのが密かなコンプレックス。
 初めて俺が冬に眠りこけていた時、お袋は相当心配したらしい。いくら寝るのが仕事の赤ん坊でも、ミルクも飲まず、おしめを換える必要もなく、ただただ眠っているのだから、そりゃあ心配するのも当然だろう。おまけにその冬はやたら寒くて、ほとんど冬の間中寝ていたようだ。雪の中、眠る俺を抱きかかえて何軒も病院を回ったが、どこでも「寝る子は育つ」と一蹴されてしまったそうだ。身長が一八七センチもある今じゃ、笑い話だ。もちろんお袋は、すっかり俺の冬眠にも慣れて
「寒くなってきたわねえ。悠介、そろそろ寝ないの? あんたが寝てる間、食費が浮いて楽なのよね。どうせ雪降ろしも手伝わないんだから、寝るならさっさと寝ちゃいなさい」
 なんて酷いことを言いやがる。好きで寝てるんじゃない。息子の気、親知らず。
 赤ん坊の俺を目覚めさせたのも、春菜だったらしい。春菜の母さんが春菜を抱いたまま、ベビーベッドに眠る俺を覗き込むと、春菜は懸命に手を伸ばして俺に触ろうとしたそうだ。あんまり真剣なので、春菜の母さんは春菜をベビーベッドに降ろした。俺の隣に寝かされた春菜は、そっと手を伸ばし顔を触り……そして俺は初めての冬眠から目覚めた、というのが双方の親に何百回となく繰り返し聞かされた逸話、だ。
「まるで白雪姫のようだったわ。王子と姫の立場は反対だけどね」
 と二人の母親はうっとりと語る。そして、お袋が安堵のあまり号泣してしまったことをしみじみと振り返り、最後に一歳になるかならぬかの頃からぴったりと添い寝をし合った俺と春菜を笑うのがお決まり。近頃はこれを言われるのが妙に照れくさくて仕方がない。チラリと春菜の顔を見るが、母親たちと一緒になってけらけら可笑しそうに笑っているだけだ。俺が一人で気にしすぎなのか?

 つまり、春菜は欠かさず毎年、冬眠した俺を起こしに来る。そして今年も、春菜は俺を起こしに来てくれた。
「あ、目が開いた。おはよ、悠介」
「んー、春菜ぁ。今日は何月何日だ」
「三月五日。今年は暖かかった。やっぱり温暖化かなあ」
 五日か、よかった、春菜の誕生日に間に合った。今年は、どうしても誕生日にプレゼントを渡したかった。三月七日の春菜の誕生日、去年も一昨年も、おめでとうすら言えなかった。照れ隠しに俺は春菜の頭をぐしゃぐしゃ撫でる。こんな時の春菜の顔は、なんだかとても子供っぽい。
「なぁ、春菜。春菜はいつまで俺を起こしに来るつもりだ?」
「え? 悠介、わたしが来ないと起きないでしょ? それともまだ眠っていたかった? でも、気温もそんなに低くないし、今なら期末試験も間に合うし、数学、だいぶ進んじゃったけど。そうそう純くんから伝言があって」
「そうじゃなくて」
 強く言ったつもりはなかったが、起き抜けの低い声に春菜の顔が少し強ばった。
「そうじゃなくて。高校卒業しても、働くようになっても、都会で暮らすようになっても……おまえに恋人が出来たり、結婚したりしても、俺を起こしに来るのか? 春菜が起こしに来てくれなかったらと思うと、俺、本当のところ、怖いんだ」
 春菜はキョトンとした顔で俺の話を聞いていたが、すぐに頬を桜色に染めながら、だけどキッパリと言った。
「悠介、そんなこと心配していたの? 大丈夫!  わたしの恋人が悠介なら、わたしの旦那さんが悠介なら問題ない。ちゃんと毎年起こすから、悠介は安心して冬眠していいんだよ。……さ、お腹減ってるでしょ。おばさーん、悠介起きたよー」
 飯を食ったら、プレゼントを買いに行こう。指輪って、どこで買えるんだろう。俺はちょぴり溢れてきた涙を、欠伸のふりで誤魔化した。

第8回「電撃リトルリーグ」投稿作