2019年10月28日月曜日

鳥の警告

起き上がり、鳥籠の下の天鵞絨をめくってみた。
美しいマホガニーの文机だった。
ああ、ここで便箋を広げ、万年筆を走らせ、切手を舐めることができればどんなにいいだろう。
ほとんど意識なく、鳥籠を下ろそうとした。我に返ったのは、青い鳥が聞いたことのない声で鳴いたからだ。
「ギュイ! ギュイ! ギュイ!」
警告音だった。慌てて鳥籠から手を離すと、寝言を言った。
「ぴえずみえずインクのピッケを持つ者キュィ……」

ベッドに戻り、横になった。そういえば、天鵞絨もマホガニーも、触り心地におかしなところはなかった。
「薬が効いたのだ」
小さな声で言うと、途端に眠気が襲ってきた。
起きたら、きっとまた文机を触ってしまうだろう。触りたい。
安堵と放心の眠気に墜落する。(314字)

2019年10月22日火曜日

これが罰か

身体は疲れていたが、寝付けなかった。
まだ完全には薬が効いていないようで、ふかふかのはずの布団が、なんとなくヌルヌルするのもいけなかった。

青い鳥は鳥籠に居て、鳥らしくしていた。だが時折、不明瞭な寝言を言う。
「ぴえずみえずインクのピッケを持つ者キュィ……」
青い鳥はどこから来たのだろう。名前はあるのだろうか。
赤い鳥はどこから来て、どこへ行ったのだろう。長く一緒に居たのに、何もしてやれなかった。いや、これはきっと鳥の役目だから、礼とか感謝などは不要なのかもしれない。だが、心は休まらない。どの町のどの人にも、そして鳥たちにも、一方的に親切にしてもらうばかりで、何もできていない気がした。罪人なのだから、仕方がない? 罪人は礼も言えないのか!

酷く自罰的な気分だ。旅そのものよりも、堪えた。これが本当の罰のような気さえする。
誰でもいい。手紙を書きたかった。「お元気ですか」「いつもありがとう」と。

部屋に、小さな文机があることに気がついた。それは、美しい天鵞絨が掛けられ、鳥籠を載せるための台のふりをしている。(449字)

2019年10月17日木曜日

君の名は

どうにか薬を飲み終えてからも、はらはらと涙が止まらない。ずいぶん涙脆くなった。
いや、いろいろと刺激があり過ぎるのだ、この旅は。罪を償うためだから、それが当然ともいえる。

一方で、心身ともに刺激に晒され、疲労している中で、親切な人に数多く出会った。疲れた心と体は、やさしくされると途端に涙を出す仕組みになっているとしか思えない。そのやさしくしてくれた人々の名前も知らないなんて……と思うとまた涙が溢れる。思考の堂々巡りが止まらない。

「お嫌でなければ、空き部屋を使ってください」
若者が部屋に案内してくれた。立派なベッドと鳥籠のある部屋だった。
「いつまでいてもいいんですよ。父は何度も消えず見えずインクの旅の人を世話しているんです。長逗留の人は10ヶ月くらい居たそうですから」
「ありがとうございます……ところで、父上や貴方の名前を訊いても……」
若者は困ったような顔で笑いながら「おやすみなさい」と言って、部屋を出てしまった。

青い鳥は自らすすんで鳥籠に入り、眠ってしまった。仕方なくベッドに入る。(443字)

2019年10月3日木曜日

これも罰だ

粒子を感じる水だった。
二杯目は、薬と一緒に飲んだ。粉薬が水の中で翻弄されるのを口中に感じながら、飲み込んだ。

以前、水が球状になる街があった。涙が硝子ビーズのようになったあの街だ。あの街の水の玉は口に入れるとただの水になったが、この街の水は口に入れるとビーズのようだ。

若者と父上に、その街と水の玉の話をすると、非常に興味を持って聞いてくれた。
「いつか、その街に行ってみたいですねえ、父さん」
 父上と若者が同じ顔で頷き合う。
「しかし、消えず見えずインクの転移で行った街なので、場所も、名前も、知らないのです」
そう言ってから、愕然とした。

今まで行った街の名前、世話になった人の名前、ひとつも知らず、ひとつも知らされず、さして疑問に思うこともなく、ここまで転移を繰り返してきた。そういえば名前を訊かれたこともなかった。

これも「罰」なのだと気が付いた。
地名や名前を知れば「手紙」を書けるから。(406字)

2019年9月24日火曜日

緊張の水

若者と父上は、「三十年後の若者がいる」というくらいに、よく似ていた。
体格、雰囲気、話し方、仕草。親子にしても似すぎているのではないだろうか。
触感の混乱を忘れるほどに、二人のことを見比べてしまった。

「こちらの消えず見えずインクの旅の人が、触感の混乱が激しく困っていたのです」
と、若者が父上に説明してくれる。
父上に、この街の触り心地を詳しく訊かれた。時折、若者が助け船を出してくれ、大いに助かる。
いくつかの物を触り、触り心地を答える。
ゴムボール、ガラスのコップ、ぬいぐるみ等々。
どれも思いもよらない触り心地だ。

「確かに触感の混乱が強い。お辛かったですね。薬を出しましょう」
父上は処方箋を書き、薬を調合して戻ってきた。
「この街に来てから水を飲むのは?」
「初めてです」
「では、水だけ先に一口飲みましょう。驚くといけない」

かつて水を飲むのにこんなに緊張したことがあっただろうか。(384字)

2019年9月8日日曜日

柔らかな絨毯

若者の家が近づくと、天道虫は嬉しそうに飛び回り始めた。
天道虫の感情がわかるという経験は、初めてだ。感激していたら、せっかく若者が教えてくれたのに、地面の舗装が変わったことに気が付くのが遅れ、躓いた。
靴越しなのに、とても熱い地面だった。踏鞴を踏むような、千鳥足のような、けったいな足取りになってしまい、若者に掴まる力が強くなる。
「申し訳ない。この地面はとても熱いね」
「大丈夫ですよ。転ぶといけませんから、しっかり掴まってください。もうすぐです」
 
若者の家は、父上の開業する医院が併設で、タイルや硝子ブロックの外観がレトロで穏やかな雰囲気だった。
「今は休診の時間なので、家の玄関から入りましょう」
家の中は、毛足の長い絨毯だった。
「たぶん、この絨毯は、見た目通りの感触です」
その通りだった。ふんわりと柔らかい感触に、安心して、涙が出そうだ。(366字)

2019年8月25日日曜日

予想と覚悟

かなり迷ったが、背の高い若者を信用してみることにした。
他に声を掛けてくれる人は現れそうになかったし、この触感の混乱が体力を著しく奪う予感があったからだ。
「父が薬を処方できます。一緒に家に来られますか?」
「お父上は……」
「父は医者で、これまでも多くの旅の人に薬を出しています。もちろん消えず見えずインクの人にも。心配しないで大丈夫です。法外なお金を取ることもしません」
若者は、こちらの心配事についてすべて説明してくれた。まっすぐにこちらを見て、そして少し微笑んで。

「立てますか? 腕につかまってください。気を付けて、少し痛い感触がします」
まだ幼さの気配が残る若者の身体に掴まると、たしかにトゲトゲした感触があった。だが、先に言ってもらったおかげか、安心感か、それほどの衝撃もなく立ち上がることができた。

若者は、実に有能は案内人だった。舗装が変わるところ、階段、階段の手すり。すべて感触を先に教えてくれた。少し予想と覚悟ができれば、それだけで衝撃が和らいだ。
その間に、青い鳥と若者の天道虫はずいぶん仲良くなっていた。青い鳥の胸に留まった天道虫は、立派なバッジのように輝いている。(486字)