立派な身形の人は、想像通り、家も立派だった。
風呂を借りると、ビーズのような細かな球体の湯が溜まった湯船と、大きな穴のシャワーがあった。
恐る恐る湯船に浸かる。身体に触れたところからビーズの湯は液体に変わっていく。
ぐるぐると手足を動かしてみたが、全部が湯にはならなかった。どうしてもビーズの部分が残るのだ。
温かいビーズに埋もれているようであり、ゼリーに沈んだようであり、しばらく眼をつぶっていると、普通の湯に浸かっているのと変わらない気分にもなった。
シャワーは、湯船以上に不思議な体験だった。細かな球体の湯が降ってくるが、身体に触れた瞬間液体になり、流れていく。霰を浴びればさぞかし痛いだろうが、この街の球体の水は、痛くはない。
液体の湯と球体の湯がいまいち混ざりあわないまま、排水口に吸い込まれていく。流れる速度が異なるせいだろうと思うのだが、液体の湯と球体の湯は互いに少し遠慮しているようにも見えた。
不思議な風呂で、すっかり長くなってしまった。恐縮しながら出ると、立派な身形の人が笑顔で待っていた。
「温まりましたか? ああ、よかった。顔色もよくなった」(474字)
2019年5月12日日曜日
浄水と涙
氷とも違う、不思議な水の玉だった。口に入れた瞬間に水になった。
舌で水玉の感触を確かめたいと思うが、瞬時に水になってしまう。
「ずいぶんお疲れのようだ。……何か辛いことがあったようにお見受けします」
その人の話しぶりが、老ゼルコバに少し似ているような気がして、また涙が出そうになる。
「水は幾らでもありますから。賢い鳥さんもどうぞ」
と、次々と水の玉をくれた。鳥には、小さな水玉を。
「慣れない水、飲みにくかったでしょう?」
立派な身形の人だったが、気さくに隣に腰かけてきた。
「ここには液体がないのですか」
「いえいえ、浄水と涙だけです、こうして玉になってしまうのは。スープやお茶は、液体です。どうして浄水と涙だけなのか、研究者もずっと研究したままです。でも、意外と不便はありませんよ。水は口に入れば飲めるし、シャワーも慣れてしまえば気持ちのよいものです。どうですか? 我が家に来ませんか」
親切な人にすぐ出会える街は珍しい。幸運は幸運として受け取ろう。(430字)
舌で水玉の感触を確かめたいと思うが、瞬時に水になってしまう。
「ずいぶんお疲れのようだ。……何か辛いことがあったようにお見受けします」
その人の話しぶりが、老ゼルコバに少し似ているような気がして、また涙が出そうになる。
「水は幾らでもありますから。賢い鳥さんもどうぞ」
と、次々と水の玉をくれた。鳥には、小さな水玉を。
「慣れない水、飲みにくかったでしょう?」
立派な身形の人だったが、気さくに隣に腰かけてきた。
「ここには液体がないのですか」
「いえいえ、浄水と涙だけです、こうして玉になってしまうのは。スープやお茶は、液体です。どうして浄水と涙だけなのか、研究者もずっと研究したままです。でも、意外と不便はありませんよ。水は口に入れば飲めるし、シャワーも慣れてしまえば気持ちのよいものです。どうですか? 我が家に来ませんか」
親切な人にすぐ出会える街は珍しい。幸運は幸運として受け取ろう。(430字)
2019年5月10日金曜日
固体では困る
液体が、結晶のようになってしまう街なのだろうか。
そんなのは困るではないか、水はどうする? 飲み水は? シャワーは?
「消えず見えずインクの旅券を持つ者に、飲み水を与える者はおらぬか!」
ずっと黙っていた青い鳥が突然叫んだ。確かに、泣き疲れて喉が渇いている。
青い鳥の声も少し枯れているようだ。
心にも体にも力が入らなかったから、 歩くのは諦めた。
青い鳥の声を聞いて、水を持ってくる人でも現れたら幸運だし、そうでなければもう少しここにいよう。
ベンチに座って、あたりを見渡す。涙が固まってしまったこと以外には、特に変わった様子はない。ここは、緑の多い公園のようだ。ケヤキの樹を見つけて、老ゼルコバを思い出し、また涙が溢れる。
ポロリと大きな涙粒を拾い上げる。透明で、光にかざすと輝き、本当にガラスのようだ。この街の雨がこんなふうに硬かったら困るではないか。
「涙はしょっぱいですから、これをどうぞ。喉が渇いているんでしょう?」
涙粒を観察していたら、透明な飴玉のようなものを差し出された。(452字)
そんなのは困るではないか、水はどうする? 飲み水は? シャワーは?
「消えず見えずインクの旅券を持つ者に、飲み水を与える者はおらぬか!」
ずっと黙っていた青い鳥が突然叫んだ。確かに、泣き疲れて喉が渇いている。
青い鳥の声も少し枯れているようだ。
心にも体にも力が入らなかったから、 歩くのは諦めた。
青い鳥の声を聞いて、水を持ってくる人でも現れたら幸運だし、そうでなければもう少しここにいよう。
ベンチに座って、あたりを見渡す。涙が固まってしまったこと以外には、特に変わった様子はない。ここは、緑の多い公園のようだ。ケヤキの樹を見つけて、老ゼルコバを思い出し、また涙が溢れる。
ポロリと大きな涙粒を拾い上げる。透明で、光にかざすと輝き、本当にガラスのようだ。この街の雨がこんなふうに硬かったら困るではないか。
「涙はしょっぱいですから、これをどうぞ。喉が渇いているんでしょう?」
涙粒を観察していたら、透明な飴玉のようなものを差し出された。(452字)
2019年5月4日土曜日
涙の重さ
ぽっかりと体に穴が空いたようだった。喪失感というのは、この事を言うのだなと、嗚咽しながら、頭の端で冷静に分析していた。
なかなか泣き止むことができない。オニサルビアの君は、やはり近くにはいないようだった。老ゼルコバは、もちろんいない。白くサラサラと崩れていく様子を思い出し、また涙が溢れてくる。
涙が重い。こんなに泣くのは、大人になって初めてだから、涙の重さなんて忘れていた。
流れるままになっていた、ようやく涙や鼻水を手で拭った。
「痛っ」
細かな水晶のような、ガラスのような、透明な欠片が涙を拭いたはずの手のひらにびっしりついていた。(264字)
2019年4月29日月曜日
無
「さあ、樹にしがみついて。そう、抱きしめるように」
オニサルビアの君に手を握られた。冷たい手だった。
手を繋いだまま、ケヤキの巨木を二人で抱きしめた。繋がなかったほうの手と手は、全く届かなかった。それくらい、立派で大きな木だったのだ。
背中が温かい。老ゼルコバが後ろから抱きついてきたのだ。
ケヤキと老ゼルコバに挟まれて、静寂となった。
風も音も匂いもない。自分の息の音もすぐに吸い取られる。
背中の老ゼルコバの体温も感じられなくなった。
眠いような気がするが、いつもの眠さとは違う。「無」と呼ぶほうが近い気がする。
抱いたケヤキと老ゼルコバが、さらさらと崩れるのを、微かに感じた。身体の感触なのか、形而上の認識なのか、それもわからないが、老ゼルコバが「いなくなった」確かな実感だけはあった。(338字)
オニサルビアの君に手を握られた。冷たい手だった。
手を繋いだまま、ケヤキの巨木を二人で抱きしめた。繋がなかったほうの手と手は、全く届かなかった。それくらい、立派で大きな木だったのだ。
背中が温かい。老ゼルコバが後ろから抱きついてきたのだ。
ケヤキと老ゼルコバに挟まれて、静寂となった。
風も音も匂いもない。自分の息の音もすぐに吸い取られる。
背中の老ゼルコバの体温も感じられなくなった。
眠いような気がするが、いつもの眠さとは違う。「無」と呼ぶほうが近い気がする。
抱いたケヤキと老ゼルコバが、さらさらと崩れるのを、微かに感じた。身体の感触なのか、形而上の認識なのか、それもわからないが、老ゼルコバが「いなくなった」確かな実感だけはあった。(338字)
2019年4月22日月曜日
刻々と灰になる
「老ゼルコバ、二人は同じ街へ行けるの?」
オニサルビアの君が訊く。
「それは、誰にもわからない」
老ゼルコバは言った。
「さあ、そろそろ出発の時ですよ」
それが老ゼルコバの最期の時でもあると、オニサルビアの君は気が付いているだろうか。表情を窺ってみるが、気が付いていないように思えた。オニサルビアの君は、初めての転移で頭がいっぱいなのだ。
ケヤキの巨木も、肩の小さなケヤキも、見る見るうちに白っぽくなっている。そのまま灰になって崩れてしまいそうな色に。
「老ゼルコバ……」
なんと声を掛けていいのかわからず、言葉が続かない。老ゼルコバは「わかっている。黙っていなさい」と、オニサルビアにわからないくらいの小さな頷きと目配せで答えた。
さっき出会ったばかりの老ゼルコバだが、哀しみが溢れる。
我々の転移を手伝うことで命を終えることになる。寿命なのだろう。「役目」とも、老ゼルコバは言った。
でも、他人の命を奪うことのようにも思えて恐ろしくもあった。どう受け入れればよいのか、どう解釈すればよいのか、わからない。
「わからないままでよいのです」
老ゼルコバが、耳打ちするように言った。(477字)
オニサルビアの君が訊く。
「それは、誰にもわからない」
老ゼルコバは言った。
「さあ、そろそろ出発の時ですよ」
それが老ゼルコバの最期の時でもあると、オニサルビアの君は気が付いているだろうか。表情を窺ってみるが、気が付いていないように思えた。オニサルビアの君は、初めての転移で頭がいっぱいなのだ。
ケヤキの巨木も、肩の小さなケヤキも、見る見るうちに白っぽくなっている。そのまま灰になって崩れてしまいそうな色に。
「老ゼルコバ……」
なんと声を掛けていいのかわからず、言葉が続かない。老ゼルコバは「わかっている。黙っていなさい」と、オニサルビアにわからないくらいの小さな頷きと目配せで答えた。
さっき出会ったばかりの老ゼルコバだが、哀しみが溢れる。
我々の転移を手伝うことで命を終えることになる。寿命なのだろう。「役目」とも、老ゼルコバは言った。
でも、他人の命を奪うことのようにも思えて恐ろしくもあった。どう受け入れればよいのか、どう解釈すればよいのか、わからない。
「わからないままでよいのです」
老ゼルコバが、耳打ちするように言った。(477字)
2019年4月13日土曜日
「何もない」が在る
「老ゼルコバ!」
オニサルビアの君が低い声の主を見て言った。小さくて立派なケヤキの木を肩に生やした老いた人がいた。
「老ゼルコバ、無事だったのなら、どうして……ずっと姿を見せないから、街中の人が心配していたのに」
老ゼルコバは、それには答えなかった。どうやらこの街では有名な老人であるということはわかった。
ずいぶん長く歩いた。老ゼルコバの目指す先に、ケヤキの巨木があることに気が付いた。それは、老ゼルコバの肩のケヤキとそっくりの樹形であることは、一目瞭然だった。
ケヤキの木のまわりには何もなかった。草も花もなく、石も砂も土もなく、コンクリートもなかった。風も香りもない。オニサルビアの香りも飛べないようだ。
ただ、何もないが在り、ケヤキの巨木だけがあった。
「あなた方を送ることが、最後の役目です」と老ゼルコバは、静かに低く、そして確かな力強さで言った。
老ゼルコバは、おそらく、永い眠りが近いのだ。(394字)
オニサルビアの君が低い声の主を見て言った。小さくて立派なケヤキの木を肩に生やした老いた人がいた。
「老ゼルコバ、無事だったのなら、どうして……ずっと姿を見せないから、街中の人が心配していたのに」
老ゼルコバは、それには答えなかった。どうやらこの街では有名な老人であるということはわかった。
ずいぶん長く歩いた。老ゼルコバの目指す先に、ケヤキの巨木があることに気が付いた。それは、老ゼルコバの肩のケヤキとそっくりの樹形であることは、一目瞭然だった。
ケヤキの木のまわりには何もなかった。草も花もなく、石も砂も土もなく、コンクリートもなかった。風も香りもない。オニサルビアの香りも飛べないようだ。
ただ、何もないが在り、ケヤキの巨木だけがあった。
「あなた方を送ることが、最後の役目です」と老ゼルコバは、静かに低く、そして確かな力強さで言った。
老ゼルコバは、おそらく、永い眠りが近いのだ。(394字)
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