振り払っても湧いてくる思考を連れて歩き回っていたら、音楽ホールと思われる大きな建物が現れた。
この奇怪な音の街にどんな音楽があるというのだろう。
近づいてみると、ちょうどコンサートが開かれるところだという。
気分転換にはちょうどいいかもしれない。
ホールの座席は、とても座り心地が良い。舞台もよく見える。立派なホールだ。
楽団員が楽器を抱えて入ってきた。
ヴァイオリン、ビオラ、コントラバス……クラリネット、フルート……トランペット、トローンボーン、ホルン……シンバル、ティンパニー、……
一つひとつ確かめたが、見知らぬ楽器や奇妙な楽器は見当たらない。
演奏が始まった。ティンパニーが激しい水音を鳴らす。滝のようだ。
続いて、金管楽器が雄々しく叫ぶ。肉食獣の声で。
シンバルが激しく叩かれると、座席が揺れるほどの雷鳴が響いた。
2019年1月30日水曜日
戸惑いの痺れ
美しい人は、おそらく目を覚ましていたと思うが、引き留められることはなかった。
赤い鳥を肩に乗せ、喧噪の街へ出た。
今日も天気はよく、そして耳に入る音はとんでもない。
だが、雑音が、考え事にはちょうどよかった。
美しい人との交わりを回想する。互いの消えず見えずインクに触れあった時の甘い痺れを思い出す。
転移の能力を人体に添付する消えず見えずインク。それだけだと思っていた。あんな官能的な感覚を引き出す作用があるとは。
いや、あの人が美しかったからだ。消えず見えずインクは関係ない。
いやいや、やはり、消えず見えずインクの仕業だ。そうでなければ、あのような感覚はあり得ない。
次の街でも、また、出会えるだろうか……同じインクを肌に持つ人に。
危険な考えだと知りながら、そんな思いがどうしても湧いてくる。
赤い鳥を肩に乗せ、喧噪の街へ出た。
今日も天気はよく、そして耳に入る音はとんでもない。
だが、雑音が、考え事にはちょうどよかった。
美しい人との交わりを回想する。互いの消えず見えずインクに触れあった時の甘い痺れを思い出す。
転移の能力を人体に添付する消えず見えずインク。それだけだと思っていた。あんな官能的な感覚を引き出す作用があるとは。
いや、あの人が美しかったからだ。消えず見えずインクは関係ない。
いやいや、やはり、消えず見えずインクの仕業だ。そうでなければ、あのような感覚はあり得ない。
次の街でも、また、出会えるだろうか……同じインクを肌に持つ人に。
危険な考えだと知りながら、そんな思いがどうしても湧いてくる。
2019年1月29日火曜日
衣衣の別れ
金属のフォークとナイフが食器にぶつかる音は、木製のそれにしか聞こえなかった。
初めはちぐはぐに感じたが、次第に心地よくなっていく。
久しぶりに、酒を飲んだ。躊躇したが、美しい人が「大丈夫ですよ」と言うので、飲んだ。
背中の消えず見えずインクのあたりが疼くような気がしたのは、たぶん心理的なものだ。
温かい食べ物と、久しぶりの酒で、知らぬ間に眠っていたようだった。食事の前にも長く眠ったはずなのに。
眠る美しい人の顔が、目前にあった。
唇が触れそうなほど近くても、やはり美しかった。
いや。そうだ。眠りに落ちる前に、この唇には実際に触れたのだ。
この人に、気を許し過ぎたかもしれない。
旅の終了は、自ら決定してよいことになっているが、やはり、まだ早いのではないか。
床に落ちた服を集める。おおよそ服とは思えぬ、衝撃音がした。
一部始終を見ていたであろう赤い鳥は、じっとそれを聞いている。
初めはちぐはぐに感じたが、次第に心地よくなっていく。
久しぶりに、酒を飲んだ。躊躇したが、美しい人が「大丈夫ですよ」と言うので、飲んだ。
背中の消えず見えずインクのあたりが疼くような気がしたのは、たぶん心理的なものだ。
温かい食べ物と、久しぶりの酒で、知らぬ間に眠っていたようだった。食事の前にも長く眠ったはずなのに。
眠る美しい人の顔が、目前にあった。
唇が触れそうなほど近くても、やはり美しかった。
いや。そうだ。眠りに落ちる前に、この唇には実際に触れたのだ。
この人に、気を許し過ぎたかもしれない。
旅の終了は、自ら決定してよいことになっているが、やはり、まだ早いのではないか。
床に落ちた服を集める。おおよそ服とは思えぬ、衝撃音がした。
一部始終を見ていたであろう赤い鳥は、じっとそれを聞いている。
2019年1月27日日曜日
言葉の向こう
「まさか、貴方が……」
美しい人は、ほんの一瞬だけ、少し寂しそうに笑った。
「この街には、長く滞在しているのですか?」
「ええ、四度の『転移』でこの街に来ました。それから、二年ほどこの街に居ます」
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方は、二度の転移を完遂された!」と、赤い鳥が代わりに叫んだ。完遂という言葉はおかしい気もしたが。
「そうです、この街はまだ二つ目で、なにが何やらわからないことが多すぎる。前の街では色彩が狂いました。ここでは耳が変になったようです。貴方は何か変調をきたしませんでしたか?」
久しぶりにまとまった量を喋った気がする。声がおかしく聞こえるのは、この街のせいだけではないかもしれない。
「そうですね、そういう旅なのです、我々が課せられたのは」
美しい人は、多くを語らない。語れないのかもしれない。
「食事を用意してあります。一緒に如何ですか?」
と、美しい人の部屋に招かれた。
美しい人は、ほんの一瞬だけ、少し寂しそうに笑った。
「この街には、長く滞在しているのですか?」
「ええ、四度の『転移』でこの街に来ました。それから、二年ほどこの街に居ます」
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方は、二度の転移を完遂された!」と、赤い鳥が代わりに叫んだ。完遂という言葉はおかしい気もしたが。
「そうです、この街はまだ二つ目で、なにが何やらわからないことが多すぎる。前の街では色彩が狂いました。ここでは耳が変になったようです。貴方は何か変調をきたしませんでしたか?」
久しぶりにまとまった量を喋った気がする。声がおかしく聞こえるのは、この街のせいだけではないかもしれない。
「そうですね、そういう旅なのです、我々が課せられたのは」
美しい人は、多くを語らない。語れないのかもしれない。
「食事を用意してあります。一緒に如何ですか?」
と、美しい人の部屋に招かれた。
2019年1月26日土曜日
訳知り顔の訳
一体どれくらい眠ったのだろう。
起き上がって、もう一度シャワーを浴びた。ティンパニーの水音を聞きながら「本当の水音ってどんな音だっただろうか」と思っていることに気がつく。
適応したのか、元の街を離れてからの時間が長くなってきた証拠なのか。
着替えたところを見計らったように、ノックが聞こえた。知っている扉を叩く音とは違う気もしたが、ノックだとわかった。
「よく眠れましたか?」
部屋に入ってきた美しい人は、やはり美しかった。肉を捏ねるような声も変わりなかったが、それがこの人に相応しい声だと思った。
「ありがとうございます。……貴方は一体?」
色々と具体的に訊きたいことがあったはずなのに、不躾な質問が真っ先に出てきてしまった。己の口を恥じる。
美しい人は、まったく気にする様子もなく、黙って腕を伸ばし、ポケットから懐中時計を出して、腕にかざした。
「これは……」
この、うっすらと浮かび上がる文様のようなものは
「そう『消えず見えずインク』です」
起き上がって、もう一度シャワーを浴びた。ティンパニーの水音を聞きながら「本当の水音ってどんな音だっただろうか」と思っていることに気がつく。
適応したのか、元の街を離れてからの時間が長くなってきた証拠なのか。
着替えたところを見計らったように、ノックが聞こえた。知っている扉を叩く音とは違う気もしたが、ノックだとわかった。
「よく眠れましたか?」
部屋に入ってきた美しい人は、やはり美しかった。肉を捏ねるような声も変わりなかったが、それがこの人に相応しい声だと思った。
「ありがとうございます。……貴方は一体?」
色々と具体的に訊きたいことがあったはずなのに、不躾な質問が真っ先に出てきてしまった。己の口を恥じる。
美しい人は、まったく気にする様子もなく、黙って腕を伸ばし、ポケットから懐中時計を出して、腕にかざした。
「これは……」
この、うっすらと浮かび上がる文様のようなものは
「そう『消えず見えずインク』です」
2019年1月25日金曜日
心地よい不快な声
「静かな場所にご案内しましょう」と、声を掛けられた。
ハッとするほど美しい人だったが、ひき肉を捏ねるような声だった。
小さなビルの一室に案内された。古いホテルの客室のようだ。
ベッドと小さなテーブル。シャワールームもある。十分過ぎるほどの部屋だ。
ティンパニーの水音のシャワーを浴びた。身体はさっぱりしたが、まだ頭は音に混乱してズキズキと痛む。
「よく眠ってください、前の街でも、元の街でも、ほとんど寝ていないのでしょう?」
と、美しい人は訳知り顔で言った。不快なはずの声が温かく心に染み渡る。
「ぐっすりと眠れば、この街の音にも少し慣れるはずです。何時間でも、何日でもこの部屋をお使いください」
多くの訊きたいことがあったが、もう瞼は閉じかけていた。
「隣の部屋にいますから、心配しないで……」
ハッとするほど美しい人だったが、ひき肉を捏ねるような声だった。
小さなビルの一室に案内された。古いホテルの客室のようだ。
ベッドと小さなテーブル。シャワールームもある。十分過ぎるほどの部屋だ。
ティンパニーの水音のシャワーを浴びた。身体はさっぱりしたが、まだ頭は音に混乱してズキズキと痛む。
「よく眠ってください、前の街でも、元の街でも、ほとんど寝ていないのでしょう?」
と、美しい人は訳知り顔で言った。不快なはずの声が温かく心に染み渡る。
「ぐっすりと眠れば、この街の音にも少し慣れるはずです。何時間でも、何日でもこの部屋をお使いください」
多くの訊きたいことがあったが、もう瞼は閉じかけていた。
「隣の部屋にいますから、心配しないで……」
2019年1月22日火曜日
奇なる音声
吹いているはずのメロディーではない音がする。
おおよそ口笛とは思えない金属を擦ったような、細く掠れた音。
そういえば、口笛だけではない。石畳の通りを歩くこの足は、確かに硬い石を感じているのに、靴音はポップコーンが弾けているようだ。
振り向いて、出てきた噴水を見る。知っている水音ではない。ええっとこれは、そうだ、ティンパニーに似ている。
この街は音が違うのだと気が付いた途端に、明るく爽やかに見えていた街の様子が歪んでいった。
「助けてくれ、頭が痛い!」
絞り出した声は、古いラジオから聞こえるようだった。
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方は、頭痛を訴えている!」
赤い鳥の声だけ、前の街よりも美しい。
おおよそ口笛とは思えない金属を擦ったような、細く掠れた音。
そういえば、口笛だけではない。石畳の通りを歩くこの足は、確かに硬い石を感じているのに、靴音はポップコーンが弾けているようだ。
振り向いて、出てきた噴水を見る。知っている水音ではない。ええっとこれは、そうだ、ティンパニーに似ている。
この街は音が違うのだと気が付いた途端に、明るく爽やかに見えていた街の様子が歪んでいった。
「助けてくれ、頭が痛い!」
絞り出した声は、古いラジオから聞こえるようだった。
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方は、頭痛を訴えている!」
赤い鳥の声だけ、前の街よりも美しい。
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