ふんわりと、暖かい毛布に包まれたような心地がする。
このままこうしていたいと思ったけれど、それはあっという間に終わってしまった。
目を開けると、目の前は海だった。
波打ち際にいる驚きの前に、身体を点検した。
心地よかったとは言え、炎の中に入ったのだ。
火傷する暇は本当になかったようだ。
肌も服も、焦げ跡ひとつ見つからなかった。
肩に留まっている青い鳥もしげしげと見てみたが、無傷だ。青い鳥の美しさに初めて気が付いた気がする。こんなに輝く羽の持ち主だったのか……。
目の前の海も眩しすぎるほどの青い海。大きな波音。鳥も負けずに青さを主張している。
腕まくりをする。暑い。眩しい。ここは南の島なのだろうか。
「サングラスが欲しい」と呟くと、すかさず青い鳥が叫ぶ。
「消えず見えずインクの旅券を持つ者に、色眼鏡を与える者はおらぬか!」(354字)
2020年1月26日日曜日
火傷する暇
暖炉の中にあるのは、奇妙に赤い炎だった。薪が燃える音、匂い。ゆらめき。それは確かに炎だったが、色だけが、人工物のような赤だった。
初めて転移したときの電話ボックスの、鮮やかで真っ赤な電話を思い起させる赤だ。
「この赤は、見覚えがあります」
というと、若い家主は頷いた。委細承知、という顔だった。
青い鳥はもう叫んではいない。すぐにでも暖炉に飛び込みそうなくらいにうずうずしているが、こちらは暖炉の炎の中に入るのを躊躇う気持ちが抑えきれない。
「熱いんでしょうね。火傷しそうです」
と気弱に言うと
「その心配はいりませんよ。薬をやめて、時間も十分に経っただろうから……この炎の感触は、あなたにとって炎ではないはずです。それに、火傷する暇もなく転移が行われるので、痛くも痒くもなりません。大丈夫」
その「大丈夫」は本当に、確信に満ち、尚且つ笑顔の「大丈夫」だった。この先、この「大丈夫」を何度も思い返すだろう、と思った。
「では……ありがとうございました。お医者さん一家にもよろしくお伝えください」
若者の名をそっと思い返しながら、暖炉に足を踏み入れた。(465字)
初めて転移したときの電話ボックスの、鮮やかで真っ赤な電話を思い起させる赤だ。
「この赤は、見覚えがあります」
というと、若い家主は頷いた。委細承知、という顔だった。
青い鳥はもう叫んではいない。すぐにでも暖炉に飛び込みそうなくらいにうずうずしているが、こちらは暖炉の炎の中に入るのを躊躇う気持ちが抑えきれない。
「熱いんでしょうね。火傷しそうです」
と気弱に言うと
「その心配はいりませんよ。薬をやめて、時間も十分に経っただろうから……この炎の感触は、あなたにとって炎ではないはずです。それに、火傷する暇もなく転移が行われるので、痛くも痒くもなりません。大丈夫」
その「大丈夫」は本当に、確信に満ち、尚且つ笑顔の「大丈夫」だった。この先、この「大丈夫」を何度も思い返すだろう、と思った。
「では……ありがとうございました。お医者さん一家にもよろしくお伝えください」
若者の名をそっと思い返しながら、暖炉に足を踏み入れた。(465字)
2020年1月16日木曜日
小さくメモして
石畳を歩くような感触の芝生を歩き、赤い屋根の家に着く。
「消えず見えずインクの旅券を持つ者あり! この者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
ノックする前から青い鳥が叫んでいるので、家の主はケラケラと笑いながら出てきた。
「いらっしゃい!」
若者と同い年の友人なのだという。
「ペンを貸してくれませんか」
中に通されてすぐに言うと、一瞬顔を曇らせたが、すぐに事情を察したようだった。
「油性ペンがいいですよね」
どうしても忘れたくなかったから、自分のサイン入りカードと太ももに、小さくメモした。自分のサインは読めないのに、若者の名前は書けるのが、我ながら頓珍漢な気分だ。皮膚に走る油性ペンは、少し痛い。
「アイツの名前、よい名でしょう?」と赤い屋根の家の主が言う。声にならないように、口の中でその名を転がしてみた。本当に、いい名前だ。
「いいんですね。未練はありませんか」
「未練だらけです。でも、もうここには居られないと、わかってしまった」
こちらへどうぞ、と案内されたのは、立派な暖炉だった。(435字)
「消えず見えずインクの旅券を持つ者あり! この者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
ノックする前から青い鳥が叫んでいるので、家の主はケラケラと笑いながら出てきた。
「いらっしゃい!」
若者と同い年の友人なのだという。
「ペンを貸してくれませんか」
中に通されてすぐに言うと、一瞬顔を曇らせたが、すぐに事情を察したようだった。
「油性ペンがいいですよね」
どうしても忘れたくなかったから、自分のサイン入りカードと太ももに、小さくメモした。自分のサインは読めないのに、若者の名前は書けるのが、我ながら頓珍漢な気分だ。皮膚に走る油性ペンは、少し痛い。
「アイツの名前、よい名でしょう?」と赤い屋根の家の主が言う。声にならないように、口の中でその名を転がしてみた。本当に、いい名前だ。
「いいんですね。未練はありませんか」
「未練だらけです。でも、もうここには居られないと、わかってしまった」
こちらへどうぞ、と案内されたのは、立派な暖炉だった。(435字)
2020年1月14日火曜日
ハグ
「消えず見えずインクの旅券を持つ者あり! この者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
どんなに頼んでも青い鳥が唱え続けているので、食事の間は別室に移した。
低く響く鳥の声はわずかだが食堂にまで届き、最後の食事はそのたびに少しずつ冷めていくような心地がした。
翌日、若者の案内で町に出た。主治医からは勧められたが、最後の薬は断った。時とともに触感が変容していく。心地よいものではないが、感じておきたかった。落ち葉を拾うと、プラスチック片のように感じた。そっとポケットにしまった。読めない文字のサイン入りカードとともに。
「次の町かその次の町か……とにかく、いつかはIDがわかって、名前も思い出せたほうがいいと思うのです」
「もしかしたら、次の町に行ったら、カードのサインも読めるようになっているかもしれない」
「そうなったら教えてほしいけれど……手紙が無理なんだから、どうしようもない」
と若者の声には怒りが含まれていた。
「あの角を曲がって、赤い屋根の家に行ってください。……さようなら、どうぞお元気で」
不意に、若者に抱きつかれた。抱きしめ返すと、毛布のように暖かくやわらかかった。
「……」
耳元で囁かれたその名前を一生忘れないと決めた。(509字)
どんなに頼んでも青い鳥が唱え続けているので、食事の間は別室に移した。
低く響く鳥の声はわずかだが食堂にまで届き、最後の食事はそのたびに少しずつ冷めていくような心地がした。
翌日、若者の案内で町に出た。主治医からは勧められたが、最後の薬は断った。時とともに触感が変容していく。心地よいものではないが、感じておきたかった。落ち葉を拾うと、プラスチック片のように感じた。そっとポケットにしまった。読めない文字のサイン入りカードとともに。
「次の町かその次の町か……とにかく、いつかはIDがわかって、名前も思い出せたほうがいいと思うのです」
「もしかしたら、次の町に行ったら、カードのサインも読めるようになっているかもしれない」
「そうなったら教えてほしいけれど……手紙が無理なんだから、どうしようもない」
と若者の声には怒りが含まれていた。
「あの角を曲がって、赤い屋根の家に行ってください。……さようなら、どうぞお元気で」
不意に、若者に抱きつかれた。抱きしめ返すと、毛布のように暖かくやわらかかった。
「……」
耳元で囁かれたその名前を一生忘れないと決めた。(509字)
2020年1月7日火曜日
最後の晩餐をしよう
「消えず見えずインクの旅券を持つ者あり! この者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
久しぶりに聞く青い鳥は以前にも増して、威厳があった。
主治医も、その息子も、その有無を言わさぬ態度に圧倒されているように見えた。
「どうやら、お別れの時が近づいてきたようです」
青い鳥の堂々とした態度とは対照的に、小声になってしまった。
よくしてくれた家族に碌な礼もできず、名前も訊けず、自分の名前もわからないまま、ここを去らねばならぬのだ。
「転移させてくれる人に心当たりがあります」
と若者が言った。心なしか声が震えているような気がしたが、それについて何か言ったり考えたりすれば、たちまち涙が出てきそうなので、黙っていた。
「……明日、明日まで待ってもらえませんか。最後にもう一度家族で食事をしましょう」
そう言ってくれたのは、若者の父であるところの主治医である。彼は、青い鳥に懇願しているように見えた。(387字)
久しぶりに聞く青い鳥は以前にも増して、威厳があった。
主治医も、その息子も、その有無を言わさぬ態度に圧倒されているように見えた。
「どうやら、お別れの時が近づいてきたようです」
青い鳥の堂々とした態度とは対照的に、小声になってしまった。
よくしてくれた家族に碌な礼もできず、名前も訊けず、自分の名前もわからないまま、ここを去らねばならぬのだ。
「転移させてくれる人に心当たりがあります」
と若者が言った。心なしか声が震えているような気がしたが、それについて何か言ったり考えたりすれば、たちまち涙が出てきそうなので、黙っていた。
「……明日、明日まで待ってもらえませんか。最後にもう一度家族で食事をしましょう」
そう言ってくれたのは、若者の父であるところの主治医である。彼は、青い鳥に懇願しているように見えた。(387字)
2019年12月27日金曜日
長く小さく、深く大きく
モニターに映し出されたのは長く長く小さな小さな数字の羅列だった。
IDを照会するには、この数字をすべて写し、入力しなければならない。
もっと問題だったのは、小さな数字が、円形にびっしり書き込まれていることだった。
どこからどういう順序で写せばよいのか、わからないのだ。
背中の消えず見えずインクも同様だった。皆が、深く大きなため息をついた。
「これでは、ID照会するのは難しいですね」
若者も天道虫も、しょんぼりとしていた。
「擽ったい目に合わせてしまって、申し訳ない……」
どうか気にしないでほしいと、心から伝えた。
「最新の機器であれば、入力せず、画像から自動的に照会できるのですが、この町にはそこまでできる機械はないのです」
歯がゆそうに言う。何か思うところがあるのだろう。
この町やこの家族に甘えられる時間は、もうないのかもしれない。ふとそんな思いが沸いた途端に、青い鳥が叫んだ。(383)
IDを照会するには、この数字をすべて写し、入力しなければならない。
もっと問題だったのは、小さな数字が、円形にびっしり書き込まれていることだった。
どこからどういう順序で写せばよいのか、わからないのだ。
背中の消えず見えずインクも同様だった。皆が、深く大きなため息をついた。
「これでは、ID照会するのは難しいですね」
若者も天道虫も、しょんぼりとしていた。
「擽ったい目に合わせてしまって、申し訳ない……」
どうか気にしないでほしいと、心から伝えた。
「最新の機器であれば、入力せず、画像から自動的に照会できるのですが、この町にはそこまでできる機械はないのです」
歯がゆそうに言う。何か思うところがあるのだろう。
この町やこの家族に甘えられる時間は、もうないのかもしれない。ふとそんな思いが沸いた途端に、青い鳥が叫んだ。(383)
2019年12月14日土曜日
擽りの刑
「腕から行きましょう」
と、主治医はゴム手袋を手にしながら言った。
シャツを脱ぎ、左腕を差し出す。
「上腕の内側だったと思います」
スタンプを捺す白い服の男の様子を思い出しながら言った。
主治医の手が、左腕の内側を撫でていく。
「ひっ!」
思わず声が出た。擽ったい。
「動かないで」
主治医が硬い声音で言う。
「羽毛でくすぐられているようです……」
そばにいた若者が、掴まれと目配せする。手首を握ってしまったが、ずいぶん力を入れてしまう。あまりにも擽ったいので、緩められない。
こちらは苦痛に耐えながら笑い震え、若者の手首を握りしめる。
彼は強く握られた手首の痛みに顔を歪ませる。
「申し訳、ひゃっ! ない……」
一秒でも早く終わってほしい。
「ああ、ここだ」
モニターにスタンプが映し出された。(330字)
と、主治医はゴム手袋を手にしながら言った。
シャツを脱ぎ、左腕を差し出す。
「上腕の内側だったと思います」
スタンプを捺す白い服の男の様子を思い出しながら言った。
主治医の手が、左腕の内側を撫でていく。
「ひっ!」
思わず声が出た。擽ったい。
「動かないで」
主治医が硬い声音で言う。
「羽毛でくすぐられているようです……」
そばにいた若者が、掴まれと目配せする。手首を握ってしまったが、ずいぶん力を入れてしまう。あまりにも擽ったいので、緩められない。
こちらは苦痛に耐えながら笑い震え、若者の手首を握りしめる。
彼は強く握られた手首の痛みに顔を歪ませる。
「申し訳、ひゃっ! ない……」
一秒でも早く終わってほしい。
「ああ、ここだ」
モニターにスタンプが映し出された。(330字)
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