2020年5月22日金曜日

手書きだから

シャツを脱ぐ。左腕の内側。薄っすらとだが、それがあることがわかる。
「背中にもあるはず」というと穏やかな人が、ゆっくりと背中に回る。
ゆっくりとではあるが、動揺が伝わってきた。不可避の別れを悟ったのだろう。
細い指が背中をなぞる。
「日付とIDと街と、罪が……読めます」

どうやら背中のインクのほうがよく浮かび上がっているようだった。腕の内側は、判読できない。己で見えるほうは読めないというのは、何か理由があるのだろうかと勘繰ってしまう。

「IDを、書き留めて欲しい」
読めないIDカードと太ももに。若者の名前の隣に。
そういえば、穏やかな人にカードを見せたことはなかった。なんと、ちゃんと読めるという。
「それでも、書いて欲しい」
穏やかな人が書いたものは、読める。
「同じ文字なのに」と穏やかな人は笑う。少し寂しそうに笑う。
この字を見るだけで、いつでもここの暮らしを思い出すことができそうだ。

消えず見えるインクの旅券を持つ者あり! この者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
初めのうちゆっくり唱えていた青い鳥だが、だんだんと早口になってきた。(462字)

2020年5月17日日曜日

見逃せない印

声がよくなったのは、青い鳥も同じだった。美しく響く囀りを、青い鳥は聞かせてくれた。穏やかな人とともに聞くのは、とてもよい時間だった。

だが、少しずつ、素晴らしい時間にも疑問が湧いてくるのに気づき始めていた。暫くは気づかない付かぬふりをしていたが、このゆっくりゆっくりした時間と、この地下の安全な家、罪を背負った旅との乖離を無視できなくなってきた。

ここで旅を終わりにすることを何度も考えた。消えず見えずインクのことも、今なら有耶無耶にできそうに思えた。だが、そうはいかなかった。

消えず、見える、インクの、旅券を持つ者、あり! この者を、然るべき、儀式で、送る者は、おらぬか!」
青い鳥が叫ぶ。
消えず見えるインクの旅券を持つ者あり! この者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
穏やかな人が目を見開く。(346字)

2020年5月8日金曜日

よい声になる

急げば急ぐほど時間が速く過ぎてしまうというのは、頭では到底理解できないものの、体ではどこか合点がいく。
ゆっくりゆっくりしていると、本当にゆっくりと時間が過ぎるのは、もっと不可解だったが、心地のよいものだと気が付いてしまった。

穏やかな人とは、たくさん話をした。これまでの旅のこと、自分の罪のこと。
穏やかな人は、相槌も頷きもゆっくりで、笑みを浮かべるのも顔をしかめるのもゆっくりで、その整った眉や目が少しずつ変化していくさまに見惚れていると、穏やかな人はゆっくりと顔を赤くするのだった。

ゆっくりに慣れていくと、体もゆっくりになっていくようだった。心拍数も呼吸もゆっくりになって、爪や髪が伸びるのも遅くなった。

ゆっくりと落ち着いて話すのが常態となると、心なしか声も低くなった。穏やかな人は「よい声になった」と度々言うが、それを言われると声がうわずり、余計に恥ずかしくなるのだった。(387字)

2020年5月2日土曜日

香りに沈んだ船

 遠い昔、或いは、別の昔の話だ。
  ある島に不思議な木の欠片がいくつも流れ着いた。
  手に取ると羽のように軽いのに、水に入れると沈む。そして、懐に入れていると、人肌で温められた木片から、たとえようのない美しい香りが立ち上ってくるのだった。
  香り高いこの木片に魅せられた島の人々は、航海に出た。木片がどこからやってきたのか、どうしても知りたかったのだ。
  港から港へ、「この木の正体を知る人はおらぬか」と尋ねて回る。訊かれた人もまた、香り高い不思議な木から離れがたくなり、旅に加わった。小さな島から始まった航海はいつしか大所帯になっていた。
  あと犬一匹でも増えたら沈みそうなくらいに、船が人でいっぱいになる頃、木片とよく似た香りが漂い始める。船は香りのするほうへ進んだ。
  よく栄えた港だった。港町には、人が溢れるように住む建物があった。もっとも強く香るその建物に向かって、陸に上がってもなお、船は進み続けた。住民から「要塞」と呼ばれるその建物に、船は静かに飲み込まれた。

英訳版 a ship sunk in scent

2020年4月19日日曜日

糸のように細いお茶

この家に何日滞在したと数えるのは困難である。
時計はあるが、秒針のリズムはおそろしく速い。
こちらがゆっくりと呼吸し、ゆっくりと動くと、秒針もゆっくりになるのだった。
それが「そう見える」だけなのか、時間が実際に伸び縮みしているのか、考えるのはやめにした。

速度をコントロールできなかった当初、何もかもがあっという間だった。
だが、ゆっくり動くこと、ゆっくり話すことを覚えてからは、体感と実際の一日の差は小さくなっていった。

お茶も糸のように細く注ぐことができるようになった。
青い鳥は悠長で鷹揚になり、青い羽はますます美しく輝いた。(260字)

2020年4月13日月曜日

暮らしの知恵

「ずっと、ここに、住んでいる者は、ごく、当たり前に、速度を、変えています」
穏やかな人は、ゆっくり、ゆっくり、お茶を注いだ。糸のように細く、お茶がカップに注がれている。
「こうして、ゆっくり、話したり、ゆっくり、動くことで、調整、しているのです」

 外的な速度と、内的な速度
 受動的な速度と、自発的な速度
というような言葉を思い浮かべる。

「バランスを、取ろうと、しているのですね」
「はい。ただ……それが、科学的に、正しいこと、なのかは、わかりません。習慣、のような、文化、のような、暮らしの知恵、のような、そういう類の、もの、です」

穏やかな人はスッと表情を変えた。
「例えばこうして早く喋ることだってできるのです。しかし一日中この速度で話していると一日が瞬く間に終わってしまうのです。ほら外を御覧なさい」

地下の家にぽかりと開いた天窓に、青い鳥が混乱した頃に昇った太陽は既になく、月が素早く横切った。(392字)

2020年4月11日土曜日

ただ速いわけではなく

席を勧められるよりも早く、問い質すように聞いてしまった。
「この、島の、ことを、説明するのは、難しいのです」
穏やかな人は少しだけ困った顔で言った。

「青い鳥は、自分の、声が、追いかけて、聞こえてくるのが、不思議、だったようです。そして、興奮、しすぎたのだと、思います」
そういうと、青い鳥も、目を覚まして、肩に乗ってきた。しっかりと掴まれた感触に安堵する。

話しているうちに、気持ちも落ち着いたのか、ゆっくりと話せるようになってくる。
「時間が、速い、のでしょうか。音速、波、太陽……でも、ただ速い、だけ、ではない、ような気が、します」

穏やかな人は言った。
「そうですね。ただ、速い、というわけではなくて、伸び縮みする、と言ったほうが、よい、かもしれません」(323字)