2019年7月29日月曜日

優しい石畳

気が付くと墜落の真っ最中であった。こんなに危険な転移は今までなかった。
どんどん地面が近づいてくる。石畳の模様がはっきり見えてくる。青い鳥は助けてくれるのだろうか、鳥なのだから。いや、ポストに入る時に小さくなってしまったから。大きさが戻っているかもしれない。ああ、もう駄目だ。

ぽよん

石畳と思った地面は、柔らかいゴムのような感触だった。トランポリンの、もっと柔らかなところに落ちたような感触だった。優しく、そっと地面に受け止められたような気がした。
しかし、見た目はどう見ても石畳で、触り心地と見た目の乖離が激しい。落ちたままの体勢で、地面を撫でたり押したり何度もしてみた。
ここは、見た目と感触が異なる街なのだろうと思うのだが、混乱が収まらない。

青い鳥は、ポストに入った時よりは少しだけ大きくなっていた。(349字)

2019年7月21日日曜日

懐かしく切ない音

小鳥となった青い鳥が肩を離れ、投函口に足を掛けてもう一度言った。
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
歌うような声だった。
「どうか達者で」
立派な身形の人がそう言って、手を差し出してくれた。握手したその手は、温かくやわらかだった。この手で、ペンを持ち、手紙を書き、そして罪を問われたのだ。
互いに同じようなことを考えたらしく、握り合う手をしばらく見、そして目が合い、少し笑った。
小さくなった青い鳥が投函口に吸い込まれた。「コトン」と手紙が落ちるのと同じ音がして、切ないような甘い気持ちが身体に湧きあがって困る。手紙が自分の手を離れた音。
「本当に親切にしていただきました。お元気……」
言い終わらないうちに、視界が暗くなった。

立派な身形の人と別れるのはつらかった。老ゼルコバとの別れとはまた違う感情だった。
できれば、いつかもう一度会いたい。会えるだろうか。(381字)

2019年7月18日木曜日

何一つ残っていない宝物

「大丈夫ですか?」
立派な身形の人に問われて「ええ」と答えるのがやっとだった。立派な身形の人も顔色はあまりよくない。
便箋、万年筆、封筒、切手。すべてが宝物だった。
離れて暮らす家族、友人、そして恋人。愛しい人たちの顔を思い浮かべながらペンを走らせる時間も……。それはこの立派な身形の人も同じに違いなかった。
だが、ある日、手紙を送ることが禁じられた。何故だかは知らない。知りたくもない。

「身近な人に送る大切な手紙だけを書いていれば、五年も旅をせずに済んだかもしれません。ある人を告発する内容の文書を送らなければなりませんでした。それが罪を重くしたのです」
この立派な身形の人は、おそらく何か重要な仕事や任務に就いていたのだろうと思いを馳せた。

「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
青い鳥は高らかに三度宣言したが、その声はデクレッシェンドしていった。小さくなる声とともに、青い鳥は青い小鳥になっていった。
「青い鳥? どういうことだ」(469字)

2019年6月30日日曜日

ポストは赤い

 街には、大小の噴水が多くあった。大小の水の球が美しく整列しながら、噴き上がり、飛び跳ね、落下していく。見事なものだ。どのような技術と調整なのだろう。きっとこの街の技術者や職人ならではの知恵や経験があるに違いない。
 噴水には、それぞれ名前が付いているのだと立派な身形の人が教えてくれた。「夏の夕陽と兎の涙」とか「午後二時における虹の発生」とか、そんな名前だ。どのような理由や由来でそんな名前が付いたのかを想像するのは、とても愉快だった。
「さあ。もうすぐ、着きます」
少し硬い声で、立派な身形の人は言った。
前方に、赤い箱が立っているのが見えた瞬間、心臓が飛び跳ねた。
この街でも、ポストは、赤い、のか。(296字)

2019年6月25日火曜日

重罪人に栗鼠

「消えず見えずインクの旅券を持つ者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
立派な身形の人が朝食の準備をしたり、身支度を手伝ってくれている間も青い鳥は叫び続けた。
「煩くて、申し訳ない」
「いいんですよ。この鳥は役目をきっちり果たすよい鳥ではありませんか」
そして、また立派な身形の人の旅の思い出を訊いた。
「途中で交代したんです、赤い鳥から青い鳥に。この鳥のような、旅の供はいましたか?
「もちろん、居ましたよ。こんなに大きくはなかったし、口数は少なかったけれど」
と言って、壁の絵画を指差した。栗鼠の絵だ。可愛らしくも自信に満ちた顔をしていた。
「文字を読み書きする栗鼠でした。同じように、何度か代替わりしました。絵は最後の栗鼠です」
やはり通訳のような役割をしていたらしい。立派な尻尾を筆のようにして文字を書き、言葉や文字の違う街の人々との交流を助けてくれたという。
「栗鼠は、罪の重い者に与えられたようです」
それはそうだろう。

「さて、そろそろお別れですね。転移できる場所までご案内します。少し遠いですが、最後にこの街を見ながら歩きましょう。そして……少し覚悟しなければなりません」(483字)

2019年6月15日土曜日

罪と旅

言われてみれば、この身形のよい人は、罪が似合う。
「旅を終えたのはいつですか?」
「ここに腰を落ち着けて、十二年くらいになります」
小さな机に目をやる。よく磨かれた風合いのよい机だ。
「よい街に出会ったら、そこに住みたいとは思いますが……ひとところに落ち着いたら、また同じ罪を犯してしまいそうなのです」
「親や恋人がいたら、誘惑に駆られるかもしれませんが、年をとり、もうそんな親しい相手はいませんから」
立派な身形の人は、そう言って微笑んだけれど、親しい相手がいなくなれば罪を犯さずに済むだろうか。そんな自信はない。

その後も、立派な身形の人は、罪の重さや旅の思い出をたくさん話してくれた。罪は重く、旅の当初は強制的な転移を繰り返したそうだ。旅も長く、最低でも四年は旅をしなければならず、結局、五年に及んだという。

立派な身形の人は、数日間、泊めてくれた。毎晩、球体の湯の張った風呂に浸かり、ここまでの旅で疲れた身体と頭をほぐした。
四日目の朝、青い鳥の声で目が覚めた。
「消えず見えずインクの旅券を持つ者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
まだまだ知らない街がある。(474字)

2019年6月4日火曜日

鑑賞すべき涙

立派な身形の人は、聞き上手でもあった。洗いざらい話をした。青銅色の街、美しい人との情事、老ゼルコバの死。そして犯した罪のこと。罪の話をしてもいいのかどうか、一瞬迷ったのだが、止める暇もなく口から溢れた。

まだこんなに涙が出るのかと思うくらいに泣いた。流れる涙をそのままにしたら、転がった涙の球で足首まで埋まった。立派な身形の人は、用意もよかった。大盥を足元に置いてくれたのだ。「この街では、号泣する時は皆、これを用いるのです」と大真面目に言うのだった。

ようやく涙が枯れると、立派な身形の人は、大盥を持って庭に出た。夕陽で涙の球が輝く。さっきまで体内にあった水分を、こんな形でまじまじと見る機会がかつてあっただろうか。「この街では、こうやって、涙を鑑賞するのです。どうですか、悪くないでしょう?」と、また大真面目に言う。

「どうしてこんなによくしてくれるのですか」と尋ねる。
「以前、貴殿と同じ体験をしたからです」と、立派な身形の人は、腰のあたりを手でさすった。この人も、消えず見えずインクで旅した人だった。(450字)