2018年10月26日金曜日

秋深まる

午睡から覚め目の前にあった掌、肌理がよく見える。
粗く、見慣れない、自分のものとは思えない、中年の掌。
自分のものでないなら、その筋は誰か歩いた道かもしれない。微細な虫が歩いたかもしれない。
いや、やはりこれは自分の掌だ。四十回近い数の秋を過ごした掌だ。

2018年10月21日日曜日

モノレール

遊園地から最寄り駅まではモノレールが便利だ。遊園地に何をしに行ったかは、もう忘れたけれど、私はいま、モノレールに乗っている。
平日の昼間、モノレールは空いている。私と、知らないおじさんが一人。
おじさんは私の隣に座って話しかけてくる。なんてことのない世間話で、適当な相槌を打つ。
最寄り駅の空中に着いた。降りるときに、母が忘れた買い物バッグが先頭の座席にポツンと置かれていることに気が付いた。
かつて私が着ていた服で作った買い物バッグだから、母のものに間違いない。野菜や卵が入っている。遊園地はスーパーマーケットではないはずだが。
モノレールを降り、頼りない外階段を長々と降りると、最寄り駅の改札だ。
見上げるとモノレールの線路は消えている。
このまま実家に行き、買い物バッグを母に届けることにする。

2018年10月4日木曜日

爆音

ヘリコプターがひっきりなしに飛んでくる。
「うるさいなぁ」
と呟いたら、猫が大あくびしてから、ゴロゴロ言い出した。
猫のゴロゴロはどんどんクレッシェンドして、もっともっとクレッシェンドして、ついにヘリコプターの音をかき消すくらいの激しいゴロゴロになった。
どんなに爆音でも猫のゴロゴロは猫のゴロゴロで、眠い。
ヘリコプターの音は静かになったから、たぶんヘリコプターも眠たくなったんじゃないかな。ヘリコプターが居眠りしたらどうなるかは、知らないけど。

2018年9月28日金曜日

卵マンの襲来

親指の先がひどく痛む。
タマネギを切ると染みるし、鍋をかき回すと湯気に触れて痛い。
もちろん、物が当たっても痛い。
理由はわかっているのだ。
さっき、卵マン(そう名乗った)がやってきて、この卵型カプセル100個に疑似卵黄を入れてくれと頼まれたのだ。礼はたんとやると言うので引き受けた。
卵型カプセルを割り、疑似卵黄を入れて、割った卵型カプセルを嵌める。
この卵型カプセルがなかなかどうして、硬くて割れない。それで指を痛めたのだ。
疑似卵黄をあまりおいしそうではなかったが、卵マンは旨そうだったので、とっつかまえてオムレツにしてやろうと思ったのに、卵型カプセル100個を背負ってさっさと帰ってしまった。

2018年9月25日火曜日

雨の日のドライブ

 父に誘われて、土砂降りの雨の中、車に乗った。
 ワイパーが追い付かないほどの雨、どこに行こうというのだろう。
「こんな雨じゃないと見られないから」
 と言って、水たまりの雨水を酷く撥ねながら車は走る。
 着いたのは、大きな貯水池だった。水面に雨が激しく叩きつけられている。
 その水面、ところどころで、ポンっと一瞬、顔のようなものが現れ、沈んでいくのが見える。見えるような気がする。
「……あれは何?」
 父は
「子どもの頃から、死んだてるてる坊主だと、俺は思っていた」
 と言い、しばらく黙って眺めていた。
「帰るか」
「うん」
 家に着く頃には、雨が止み、日が差し始めていた。

2018年9月11日火曜日

寡黙な人

 いつもの喫茶店に行くと少女が働いている。年は13、14といったところだろうか。まだ慣れない様子で、引きつった顔でコーヒーを運んでいる。
「ありがとう、いただきます」
と言って受け取ったら、心底驚いた顔をして慌てて引っ込んでしまった。
 店主の親父によると、酷く無口なこの少女は、学校に行きたがらないそうで、家で膝を抱えてるよりマシだろうと店の手伝いをさせていると。店主の実の娘なのかどうかは聞きそびれた。
 慣れてくると、少女は私の読んでいる本を覗き込んでくるようになった。読み終わった本をやるとペコリとお辞儀をして、奥へ引っ込む。
 いつの間にか、店主の親父よりも旨いコーヒーを出すようになった。もう少女と呼べないほどに大人になったのに、声はまだ聞いたことがない。
 本は一冊も返してもらっていないが、律儀に感想文を手紙に書いて寄越す。手紙の少女は饒舌だ。どこに潜んでいるのだろうかと、声を探してやりたくなる。少し意地悪い気分で。

2018年9月4日火曜日

万年筆の要求

愛用している万年筆の調子が悪い。インクは十分にある。ペン先も乾いてもいない。
そういえば、近頃はメモを取るくらいしかしていなかった。手紙を書く、というような、まとまった文章を書く機会がなかったのだ。
それで機嫌を損ねたに違いない。以前にもそんなことがあった。もう8、9年前になるか。
そのときは、ご機嫌を取るのにずいぶん手間取ったものだ。本棚を眺め、一冊の本を出す。
短い小説を写すことにした。ゆっくり、力を入れ過ぎてはいけない。インクが出てこなくても焦らずに。
これで機嫌を直してくれるはずだ。