2017年3月17日金曜日

かわき、ざわめき、まがまがし

 手押しポンプをいくら押しても、耳障りな金属の軋みが聞こえるだけだ。
「もう、その井戸は枯れているよ」と、兄が言う。もう三十回くらい言っている。
「わかってるよ」と、これも三十回くらい答えている。
 兄の口調は一回目も三十回目ものんびりしたものだったけれど、私は自分の声がだんだんと刺々しくなっていることに気が付いている。
 日が沈んでも、私は手押しポンプを押し続けていた。もちろん水は一滴も出ない。
 けれどポンプを押したときの軋んだ音は、少し、ほんの少しずつ変わってきている。確かに。痛みに耐えるような、大勢の人たちの声。
「もう、その井戸は枯れているよ」兄の声が、ほんの少し震え始める。
「わかっているよ」私は声が弾むのを抑えられない。


********************
500文字の心臓 第154回タイトル競作 
〇10 △1 正選王


実に7年ぶりの投稿、10年ぶり二回目の正選王

2017年3月15日水曜日

三月十五日 時計

朝早く起きて、何者かに飯を食わせると、また布団に戻る。
何者かが毛むくじゃらになって顔に乗るので、こそばゆい。何度も目を覚ます。まだ7時だ。今日はどこに行く用事もない。おまけに寒い。好きなだけ寝ていてよいのだ。まだ7時だ。まだ7時だ。まだ7時だ……?
ここでようやく時計が狂っていることを疑う。
腕時計を見る。スマートフォンを見る。壁掛け時計を見る。
全部違う時刻の顔をして澄ましている。

2017年3月11日土曜日

三月十一日 昼寝

どうにも具合が悪いのは春のせいとして、暑苦しく寝苦しいのは何事だろう。
首元になにか巻かれている。マフラーにしては重たくて、暖かすぎる。
振り払おうとしたが、重たくて振り払えなかった。
思い切って起き上がったら、なんだかウニャウニャ言っている毛玉が落ちていた。

2017年3月4日土曜日

三月四日 ぐるり

新しくできたという雑貨屋を探しに行った。今日は定休日だということは承知していたが、どんな店か偵察してみようという魂胆である。雑貨屋には怪しい店や妖しい店があるからに。

「森林薬局」のところを曲がって、裏道へ入る。そうチラシに書いてあったので、「森林薬局」のところを曲がって、裏道へ入る。裏道を入ったところに「いがらし歯科医院」があった。覚えやすい。ここを目印としよう。
「いがらし歯科医院」のところを通り過ぎると、また「森林薬局」があった。ここには「しらがい歯科医院」がある。「白貝」珍しい名前だ。裏道へ入る。

キョロキョロ見回しながら歩くが、雑貨屋らしきものはない。ただの裏道だ。そのまま裏道を歩くと大通りに出た。左を向くと「森林薬局」。

これは、妖しいほうの雑貨屋のようだ。

2017年2月25日土曜日

二月二十五日 行列

ハンバーグ定食を食べるつもりがロースカツ定食になったのは、洋食屋に大行列ができていたからだ。
洋食屋をあっさり諦めて(腹が減って、その場に座り込みたくなるほどだったから)、向かい和定食屋に駆け込んだ。
和定食屋に客は誰もおらず、店の親父はブラウン管(ビデオデッキ付きの!)のテレビでニュースを見ていた。私は座るや否や「ロースカツ定食!」と言い、親父は奥に向かって「ロース一丁」と言って、カツを揚げ始める。揚げ油の匂いと音で、腹の虫が10匹増えた。

まもなく、副菜が山ほど付いたロースカツ定食がやってきた。
無我夢中で食べ、先ほどの倒れ込むような空腹とは打って変わって、寝転びたくなるような満腹の身体を抱えて勘定を済ますと、いつの間にか店内は客で一杯で、店の外にまで並んでいた。
向かいの洋食屋にはもう行列はなくなっていて、窓から中を覗うと、客はひとりもいないのだった。

2017年2月18日土曜日

二月十八日 クドーさんちの黒猫

クドーさんちには出窓があって、ときどき黒猫が鎮座ましましている。
大きくて、最初に見たときは置物かと思うほどジッとしていた。

久々にお目に掛かる。こちらに気が付かなかったようで、立ち止まってじっと見ていたら、「ハッ」とこちらを見返した。
そして、クドーさんちの黒猫は、大あくびをして、青い煙をもくもくと吐いたのだ。

私は驚いて後退る。窓越しなのだから、青い煙を吸い込む心配はなさそうだったけれど。
気を落ち着けて、もう一度、クドーさんちの出窓を見たら、今度は大きな白猫がいた。私の着ていた黒いコートも真っ白になっていた。

2017年2月12日日曜日

二月十二日 黒い王

昨夜、黒い王が好んだという酒を飲んだ。
黒くて、ローストした香りの中に、甘い果実を感ずる。ねっとりとした酒であった。アルコール度数は極めて高い。 わずかしか飲まなかったにも関わらず、浮遊感に取り込まれる。

おかげで、今日は一日、黒い王の幻影とともにあった。黒い王は一切の光を弾かない王冠をしていることがわかった。私はその闇のような王冠に触れてみたくて、何度も手を伸ばすのだが、そのたびにするりと王は消えてしまう。

日が暮れると、黒い王は本当に消えた。