2025年8月4日月曜日

印鈕の龍

遺品となったばかりの軟玉の印には龍の印鈕がある。精緻だがどこか頼りない龍。故人は書画をよくし、この印を使っているのも見た覚えがあるが、手にしてみると印面には何も彫られていない。書いたばかりの書に押せば、じわりと私の名が現れ、印鈕の龍はぐるり捻転し、雷が鳴り雨が降った。塩辛い雨だ。(140字)

和紙の精

和紙には白く小さな精霊が棲む。粗忽者の私は墨を磨り、筆を手に取ってからも忙しない。心を静めようと目を閉じた途端に手洗いに立つのも日常だ。勢いよく立ち上がり、机が揺れ、筆が転がり、墨が飛ぶ。和紙の精は墨の雫を捕まえ、雪のように白い紙にそっと落とし、幽玄な滲みを作って私を嘆息させる。(140字)

2025年7月22日火曜日

暮らしの140字小説28

七月某日、快晴。東京都世田谷区内にて、この夏はじめてのミンミンゼミを聞く。昔、たくさん蝉の抜け殻を集めて出迎えてくれた人がいた。連れ立って探しに出掛けたこともあった。抜け殻を採った公園は、ここからそう遠くない。久しぶりに濃厚な緑の夏の東京に会えた。懐かしさのあまり、空を仰ぎ見る。

2025年7月20日日曜日

暮らしの140字小説27

七月某日、晴。午後、南西の空はきっぱりと二色に分かれている。白というには灰色で、灰色というには白過ぎるふわふわは、その質感に相応しくない直線を作り、どこまでも遠い青を真っ直ぐ遮っているのだった。目指すなら、どちらにしよう。質感を伴う真っ直ぐな灰白か、光が届かぬほど永久に続く青か。

2025年7月11日金曜日

暮らしの140字小説26

七月某日、曇。鳥たちがよく鳴いている。雉鳩、鶯、烏、時々たぶん尾長。それぞれが気ままに話しているようだ。鶯はずいぶん長いこと気持ちよさそうに歌っているし、烏たちは遠くまでよく届く声で何事かを話している。この雉鳩は妙にせっかちな鳴き方をする。そんなに慌てなくてもよいのだよ、と呟く。(140字)

2025年7月10日木曜日

暮らしの140字小説25

七月某日、曇のち雨。残っていた茄子とオクラを小鍋で煮る。甘さ控えめの煮物にする。落し蓋があったほうがよさそうだが、鍋より落し蓋のほうが大きい。適当に紙を切ったら鍋の寸法にぴったりだった。調理器具たちから喝采があがる。普段は言うことを聞かないくせに。静粛に! ほら、やっぱり焦げた。(140字)

2025年7月8日火曜日

暮らしの140字小説24

七月某日、快晴。駅前を歩いていると何かを蹴っ飛ばした。黒い小さな何かが勢いよく滑っていく。追いついて見ると小判型の簡素な機器であった。拾い上げ開いてみれば「372」の表示。まだ幾らも歩かぬうちに飼い主とはぐれてしまったと思しき万歩計にゴメンと謝って、近くのベンチの真ん中に座らせた。(140字)