2020年7月13日月曜日

終わりの予感

青い鳥が電話機本体に飛び移る。目を合わせる。鳥は喋らない。
消えず見えずインクの旅券を持つ旅の者よ、聞こえているな」
受話器から聞こえるこの声は?
消えず見えずインクの旅券を持つ旅の者よ、受話器を消えず見えずインクに当てよ」
シャツを捲り上げ、消えず見えずインクのあたりに受話器を押し当てる。
「痛!」
一瞬だが強烈な痛みだった。何が起こっているのかよくわからないが、旅が終わる。終わらされることを確信し始める。
「消えず見えずインクの旅券を持つ旅の者よ、受話器を消えず見えずインクに当てよ」
次は腕にも当てろということらしい。もう一度痛みに耐えるための深呼吸をしてから受話器を腕に当てた。
「っく!」
ジュッと焼けるような音と匂いがした。匂い?(315字)

2020年6月26日金曜日

受話器を取るがよい

猛スピードで走らせておいて何を言うのかと思ったが、無理やり止まって、しゃがんだ。

目の前に、見たことのある艶やかな赤い電話があった。旅の始まりの赤い公衆電話。
「戻ってきたのか?」

けたたましい音に心臓が跳ね上がる。電話が鳴るのを聞いたのは生まれて初めてである。
「消えず見えずインクの旅券を持つ旅の者よ、受話器を取るがよい」
青い鳥が重々しい声で言った。

受話器というものがこんなに重いとは知らなかった。どちらが耳側かわからないが、取った時に上だったほうを耳に当てるほうが自然だろうと思い、そうした。
消えず見えずインクの旅券を持つ旅の者よ」
受話器から声が聞こえる。機械を通した独特の声でやや聞き取りにくいが、紛れもなく、肩に乗る青い鳥と同じ声だった。(321字)



2020年6月12日金曜日

時間に負けない速さで

朝だと思っていた太陽が西に傾き始めた。
突然時間が早回しになって、身体が振り回されるような感覚になる。
「急ぎましょう!」
穏やかな人が、机にしがみつきながら、きっぱりと言った。
「私が送ります」

砂浜に出た。
「全速力で走って。時間に負けないくらいに」

島を何周もした。こんなに速く走れたことはかつてなかった。今なら自己ベストタイムが出るだろう。この島の時間は当にならないが。
青い鳥の足が肩に食い込む。不思議と息は切れない。
島を一周するごとに穏やかな人の姿がぼやけていく。人の形ですらなくなって、残像のような、筋のようなものを認識するだけになった頃、声が聞こえた。
「しゃがんで!」(284字)

2020年5月22日金曜日

手書きだから

シャツを脱ぐ。左腕の内側。薄っすらとだが、それがあることがわかる。
「背中にもあるはず」というと穏やかな人が、ゆっくりと背中に回る。
ゆっくりとではあるが、動揺が伝わってきた。不可避の別れを悟ったのだろう。
細い指が背中をなぞる。
「日付とIDと街と、罪が……読めます」

どうやら背中のインクのほうがよく浮かび上がっているようだった。腕の内側は、判読できない。己で見えるほうは読めないというのは、何か理由があるのだろうかと勘繰ってしまう。

「IDを、書き留めて欲しい」
読めないIDカードと太ももに。若者の名前の隣に。
そういえば、穏やかな人にカードを見せたことはなかった。なんと、ちゃんと読めるという。
「それでも、書いて欲しい」
穏やかな人が書いたものは、読める。
「同じ文字なのに」と穏やかな人は笑う。少し寂しそうに笑う。
この字を見るだけで、いつでもここの暮らしを思い出すことができそうだ。

消えず見えるインクの旅券を持つ者あり! この者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
初めのうちゆっくり唱えていた青い鳥だが、だんだんと早口になってきた。(462字)

2020年5月17日日曜日

見逃せない印

声がよくなったのは、青い鳥も同じだった。美しく響く囀りを、青い鳥は聞かせてくれた。穏やかな人とともに聞くのは、とてもよい時間だった。

だが、少しずつ、素晴らしい時間にも疑問が湧いてくるのに気づき始めていた。暫くは気づかない付かぬふりをしていたが、このゆっくりゆっくりした時間と、この地下の安全な家、罪を背負った旅との乖離を無視できなくなってきた。

ここで旅を終わりにすることを何度も考えた。消えず見えずインクのことも、今なら有耶無耶にできそうに思えた。だが、そうはいかなかった。

消えず、見える、インクの、旅券を持つ者、あり! この者を、然るべき、儀式で、送る者は、おらぬか!」
青い鳥が叫ぶ。
消えず見えるインクの旅券を持つ者あり! この者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
穏やかな人が目を見開く。(346字)

2020年5月8日金曜日

よい声になる

急げば急ぐほど時間が速く過ぎてしまうというのは、頭では到底理解できないものの、体ではどこか合点がいく。
ゆっくりゆっくりしていると、本当にゆっくりと時間が過ぎるのは、もっと不可解だったが、心地のよいものだと気が付いてしまった。

穏やかな人とは、たくさん話をした。これまでの旅のこと、自分の罪のこと。
穏やかな人は、相槌も頷きもゆっくりで、笑みを浮かべるのも顔をしかめるのもゆっくりで、その整った眉や目が少しずつ変化していくさまに見惚れていると、穏やかな人はゆっくりと顔を赤くするのだった。

ゆっくりに慣れていくと、体もゆっくりになっていくようだった。心拍数も呼吸もゆっくりになって、爪や髪が伸びるのも遅くなった。

ゆっくりと落ち着いて話すのが常態となると、心なしか声も低くなった。穏やかな人は「よい声になった」と度々言うが、それを言われると声がうわずり、余計に恥ずかしくなるのだった。(387字)

2020年5月2日土曜日

香りに沈んだ船

 遠い昔、或いは、別の昔の話だ。
  ある島に不思議な木の欠片がいくつも流れ着いた。
  手に取ると羽のように軽いのに、水に入れると沈む。そして、懐に入れていると、人肌で温められた木片から、たとえようのない美しい香りが立ち上ってくるのだった。
  香り高いこの木片に魅せられた島の人々は、航海に出た。木片がどこからやってきたのか、どうしても知りたかったのだ。
  港から港へ、「この木の正体を知る人はおらぬか」と尋ねて回る。訊かれた人もまた、香り高い不思議な木から離れがたくなり、旅に加わった。小さな島から始まった航海はいつしか大所帯になっていた。
  あと犬一匹でも増えたら沈みそうなくらいに、船が人でいっぱいになる頃、木片とよく似た香りが漂い始める。船は香りのするほうへ進んだ。
  よく栄えた港だった。港町には、人が溢れるように住む建物があった。もっとも強く香るその建物に向かって、陸に上がってもなお、船は進み続けた。住民から「要塞」と呼ばれるその建物に、船は静かに飲み込まれた。

英訳版 a ship sunk in scent