衝撃はあっても痛みはなかった。実際、ボールではなくて小さな天道虫なのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、あの衝撃で痛くないというのは、これまた混乱する状況だった。
天道虫は、こちらのまわりを一回りすると、背の高い若者の元へ飛んで行った。
若者と天道虫は友達のようだ。
「驚かせてすみません。この街は初めてなんですね?」
と、若者が話しかけてくれた。とても賢そうな雰囲気だ。
「おかげさまで、叫び声が治まりました。……この街は、見た目と感触がずいぶん違って混乱しています」
と答える。
「初めてここに来る人は、皆さんそう言います。慣れる人も多いのですが……やはり、かなり時間が掛かります。和らげる薬を飲む人もいます。飲みますか?」
その申し出にすぐに首肯できる者はいるだろうか。(333字)
2019年8月13日火曜日
叫びを終える方法
叫び声を掻き消すように青い鳥が低く響く声で唱えた。
「消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内(あない)する者は挙手をせよ!」
身形のよい人と別れ、ポストに飛び込んだ時、あんなに小さくなったのに、いつの間にか元の大きさに、いや、もっと大きくなっているようだ。不思議と重さも感じず邪魔にもならない。
冷静に青い鳥の様子を観察してはいるが、まだ叫び続けている。こんな声で叫んだことはないから、止め方がわからない。
「消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内する者は挙手をせよ!」
頓珍漢に古めかしく威張っているが、それがかえって頼もしかった。不安と混乱が、これ以上ないくらいに高まっていた。まだ、手にはスパゲッティをかき上げた感触が残る。
膝は? 耳は? 股間は? 一体どんな触り心地だというのだ。だが、もう他の身体の部位を触る勇気がない。
「消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内する者は挙手をせよ!」
突然、背中にボールをぶつけられたような感触がした。叫び声は、止まった。
ボールだと思ったものは、天道虫だった。(457字)
「消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内(あない)する者は挙手をせよ!」
身形のよい人と別れ、ポストに飛び込んだ時、あんなに小さくなったのに、いつの間にか元の大きさに、いや、もっと大きくなっているようだ。不思議と重さも感じず邪魔にもならない。
冷静に青い鳥の様子を観察してはいるが、まだ叫び続けている。こんな声で叫んだことはないから、止め方がわからない。
「消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内する者は挙手をせよ!」
頓珍漢に古めかしく威張っているが、それがかえって頼もしかった。不安と混乱が、これ以上ないくらいに高まっていた。まだ、手にはスパゲッティをかき上げた感触が残る。
膝は? 耳は? 股間は? 一体どんな触り心地だというのだ。だが、もう他の身体の部位を触る勇気がない。
「消えず見えずインクの旅券を持つ者に、この街を案内する者は挙手をせよ!」
突然、背中にボールをぶつけられたような感触がした。叫び声は、止まった。
ボールだと思ったものは、天道虫だった。(457字)
2019年8月12日月曜日
茹でたてのスパゲッティ
「ワン!」と言わないのは何故だ……樹だからだ。どうして「ワン!」と言わないんだろう……樹だ……。
という自問自答を何回も繰り返す。座り込んで街路樹を撫でまわしている姿は、さぞ滑稽だろうということに気が付き、ようやく立ち上がったが、手に残る感触と目の前の樹がまだ結びつかない。
フラフラと今度は建物に近づく。少し古そうな揺らぎのある硝子の窓をそっと指で触る。冷たくて、硬い、硝子窓であるはずのそれが、今度こそ樹皮を触るような心地なのだった。見た目と触り心地がまるで一致しない。
はたと気が付いて、顔を撫でた。……芝生だ。
髪をかきあげると、ぬるりと茹でたてのスパゲッティを掴んだような感触がした。茹でたてのスパゲッティを手で掴んだことなどないのに。
「わああああああああああああああ」
いままで出したことのないような声を上げる。人々が一斉にこちらを見るのがわかったが、声が止まらなかった。(387字)
という自問自答を何回も繰り返す。座り込んで街路樹を撫でまわしている姿は、さぞ滑稽だろうということに気が付き、ようやく立ち上がったが、手に残る感触と目の前の樹がまだ結びつかない。
フラフラと今度は建物に近づく。少し古そうな揺らぎのある硝子の窓をそっと指で触る。冷たくて、硬い、硝子窓であるはずのそれが、今度こそ樹皮を触るような心地なのだった。見た目と触り心地がまるで一致しない。
はたと気が付いて、顔を撫でた。……芝生だ。
髪をかきあげると、ぬるりと茹でたてのスパゲッティを掴んだような感触がした。茹でたてのスパゲッティを手で掴んだことなどないのに。
「わああああああああああああああ」
いままで出したことのないような声を上げる。人々が一斉にこちらを見るのがわかったが、声が止まらなかった。(387字)
2019年8月3日土曜日
モジャモジャとわかったドンナモンジャ
肩の上のまだ小さい青い鳥を触ってみると、鋭いトゲを触ったような感触だった。思わず「痛ッ!」と言うのと同時に、青い鳥は「ギッ」とも「グッ」ともつかない、聞いたことのない声を出した。青い鳥も痛かったらしい。申し訳ないことをした。
柔らかな石畳の上で慎重に体勢を整え立ち上がった。見た目には立派な街並みだ。少し古風だが趣のある建物が並んでいる。だが、目に入る通りの感触ではないかもしれない。あのレンガや、そこの街路樹、散歩している犬。その飼い主の長い髪。いったいどんな触り心地なのだろうか。
そう思うと何にでも触りたくなって困る。好奇心というより、確かめないと不安という気持ちが強い。
ゆっくりと足の感触を確かめながら街路樹に近づく。樹皮は特別な感じはしない。カンフルの樹に似ているように思う。「ドンナモンジャ」と札がついている。文字は読めるようだ。恐る恐る触れると、犬でも撫でているような感触だった。反射的に一度手を引っ込めた後、ワシャワシャとそれこそ犬を撫でるように幹を撫でた。(435字)
柔らかな石畳の上で慎重に体勢を整え立ち上がった。見た目には立派な街並みだ。少し古風だが趣のある建物が並んでいる。だが、目に入る通りの感触ではないかもしれない。あのレンガや、そこの街路樹、散歩している犬。その飼い主の長い髪。いったいどんな触り心地なのだろうか。
そう思うと何にでも触りたくなって困る。好奇心というより、確かめないと不安という気持ちが強い。
ゆっくりと足の感触を確かめながら街路樹に近づく。樹皮は特別な感じはしない。カンフルの樹に似ているように思う。「ドンナモンジャ」と札がついている。文字は読めるようだ。恐る恐る触れると、犬でも撫でているような感触だった。反射的に一度手を引っ込めた後、ワシャワシャとそれこそ犬を撫でるように幹を撫でた。(435字)
2019年7月29日月曜日
優しい石畳
気が付くと墜落の真っ最中であった。こんなに危険な転移は今までなかった。
どんどん地面が近づいてくる。石畳の模様がはっきり見えてくる。青い鳥は助けてくれるのだろうか、鳥なのだから。いや、ポストに入る時に小さくなってしまったから。大きさが戻っているかもしれない。ああ、もう駄目だ。
ぽよん
石畳と思った地面は、柔らかいゴムのような感触だった。トランポリンの、もっと柔らかなところに落ちたような感触だった。優しく、そっと地面に受け止められたような気がした。
しかし、見た目はどう見ても石畳で、触り心地と見た目の乖離が激しい。落ちたままの体勢で、地面を撫でたり押したり何度もしてみた。
ここは、見た目と感触が異なる街なのだろうと思うのだが、混乱が収まらない。
青い鳥は、ポストに入った時よりは少しだけ大きくなっていた。(349字)
どんどん地面が近づいてくる。石畳の模様がはっきり見えてくる。青い鳥は助けてくれるのだろうか、鳥なのだから。いや、ポストに入る時に小さくなってしまったから。大きさが戻っているかもしれない。ああ、もう駄目だ。
ぽよん
石畳と思った地面は、柔らかいゴムのような感触だった。トランポリンの、もっと柔らかなところに落ちたような感触だった。優しく、そっと地面に受け止められたような気がした。
しかし、見た目はどう見ても石畳で、触り心地と見た目の乖離が激しい。落ちたままの体勢で、地面を撫でたり押したり何度もしてみた。
ここは、見た目と感触が異なる街なのだろうと思うのだが、混乱が収まらない。
青い鳥は、ポストに入った時よりは少しだけ大きくなっていた。(349字)
2019年7月21日日曜日
懐かしく切ない音
小鳥となった青い鳥が肩を離れ、投函口に足を掛けてもう一度言った。
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
歌うような声だった。
「どうか達者で」
立派な身形の人がそう言って、手を差し出してくれた。握手したその手は、温かくやわらかだった。この手で、ペンを持ち、手紙を書き、そして罪を問われたのだ。
互いに同じようなことを考えたらしく、握り合う手をしばらく見、そして目が合い、少し笑った。
小さくなった青い鳥が投函口に吸い込まれた。「コトン」と手紙が落ちるのと同じ音がして、切ないような甘い気持ちが身体に湧きあがって困る。手紙が自分の手を離れた音。
「本当に親切にしていただきました。お元気……」
言い終わらないうちに、視界が暗くなった。
立派な身形の人と別れるのはつらかった。老ゼルコバとの別れとはまた違う感情だった。
できれば、いつかもう一度会いたい。会えるだろうか。(381字)
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
歌うような声だった。
「どうか達者で」
立派な身形の人がそう言って、手を差し出してくれた。握手したその手は、温かくやわらかだった。この手で、ペンを持ち、手紙を書き、そして罪を問われたのだ。
互いに同じようなことを考えたらしく、握り合う手をしばらく見、そして目が合い、少し笑った。
小さくなった青い鳥が投函口に吸い込まれた。「コトン」と手紙が落ちるのと同じ音がして、切ないような甘い気持ちが身体に湧きあがって困る。手紙が自分の手を離れた音。
「本当に親切にしていただきました。お元気……」
言い終わらないうちに、視界が暗くなった。
立派な身形の人と別れるのはつらかった。老ゼルコバとの別れとはまた違う感情だった。
できれば、いつかもう一度会いたい。会えるだろうか。(381字)
2019年7月18日木曜日
何一つ残っていない宝物
「大丈夫ですか?」
立派な身形の人に問われて「ええ」と答えるのがやっとだった。立派な身形の人も顔色はあまりよくない。
便箋、万年筆、封筒、切手。すべてが宝物だった。
離れて暮らす家族、友人、そして恋人。愛しい人たちの顔を思い浮かべながらペンを走らせる時間も……。それはこの立派な身形の人も同じに違いなかった。
だが、ある日、手紙を送ることが禁じられた。何故だかは知らない。知りたくもない。
「身近な人に送る大切な手紙だけを書いていれば、五年も旅をせずに済んだかもしれません。ある人を告発する内容の文書を送らなければなりませんでした。それが罪を重くしたのです」
この立派な身形の人は、おそらく何か重要な仕事や任務に就いていたのだろうと思いを馳せた。
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
青い鳥は高らかに三度宣言したが、その声はデクレッシェンドしていった。小さくなる声とともに、青い鳥は青い小鳥になっていった。
「青い鳥? どういうことだ」(469字)
立派な身形の人に問われて「ええ」と答えるのがやっとだった。立派な身形の人も顔色はあまりよくない。
便箋、万年筆、封筒、切手。すべてが宝物だった。
離れて暮らす家族、友人、そして恋人。愛しい人たちの顔を思い浮かべながらペンを走らせる時間も……。それはこの立派な身形の人も同じに違いなかった。
だが、ある日、手紙を送ることが禁じられた。何故だかは知らない。知りたくもない。
「身近な人に送る大切な手紙だけを書いていれば、五年も旅をせずに済んだかもしれません。ある人を告発する内容の文書を送らなければなりませんでした。それが罪を重くしたのです」
この立派な身形の人は、おそらく何か重要な仕事や任務に就いていたのだろうと思いを馳せた。
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
「今より、消えず見えずインクの旅券を持つ者を送る!」
青い鳥は高らかに三度宣言したが、その声はデクレッシェンドしていった。小さくなる声とともに、青い鳥は青い小鳥になっていった。
「青い鳥? どういうことだ」(469字)
登録:
投稿 (Atom)