2019年1月19日土曜日

特技の喪失

どこまで落ちても地面にぶつかることはなく、ふいに持ち上がる感覚がした。
そして全身が濡れる感覚の後、一瞬、意識が遠のいた。

「風呂にでも出たか」と思って体を持ち上げ、あたりを見回すと、どうやら噴水から噴き出したらしいとわかった。見上げるほど高く水が吹き上がっている。
赤い鳥はやっぱり肩にいた。一緒に飛び降りた人は、いなかった。

噴水の池を出て、歩き始めた。よく晴れて暖かい。乾いた風が心地よく、濡れた身体もあっという間に気にならなくなった。
前の街と違って、色彩がおかしいということはなかった。少し雰囲気は違うけれど、住んでいた街とそれほど違うようには感じない。

人々の容姿にも、大きな違和感はない。少し拍子抜けする。
口笛を吹いた。あまりにも気持ちがよい街なのだ。スキップするのは気が引けたが、口笛くらいならいいだろう。
だが、どうも、うまく吹けない。口笛は得意だったはずなのに。

2019年1月18日金曜日

誓いの墜落

ただただ、街を見下ろしていた。寒々しいと思っていた街が、こんなにも鮮やかだったとは。
すれ違う人、スープをごちそうしてくれた夫婦に、謝りたくなった。もっと笑顔で受け答えすべきだったように思ったのだ。次の場所では、きっと。そこがどんなに暗く寂しいところでも。
「行きますか?」
との言葉に頷いた。精一杯の笑顔で。
その人は服をまくり上げ、背中の消えず見えずインクを剥き出しにすると、後ろから抱きしめてきた。少し驚くが、撫でられた時以上に温かく、どこか安心した。そういえばこんな風に人と触れ合うのはずいぶん久しぶりだったのだ。

そして、そのまま飛び降りた。
ビルの谷間を墜落していくと、また街は青銅色になったけれど、もう寒くはなかった。

2019年1月15日火曜日

驚くべき光景

その人は、左腕を手に取り、消えず見えずインクのあたりを確認した。
それからシャツをめくりあげて、背中の消えず見えずインクをそっと撫でた。

背中がみるみるうちに温かくなり、冷えていた心も溶けていくようだった。
肩に止まった赤い鳥は、沈黙している。
こちらにどうぞ、という仕草をするので、付いていった。
ビルのひとつに入り、エレベーターに乗った。長い長い上昇だった。

屋上に出、その景色に息を呑んだ。見下ろす街が、青銅色ではなかったからだ。
実にカラフルな街並みが、眼下に広がっていた。ジェリービーンズのような街並みが眩しくて、目が痛いほどだ。
「次の街に行きますか?」と、その人は言った。赤い鳥を介さず、言葉が聞き取れた。
「……こんな色だったんですね、本当は。もう少し眺めていたい」
呟くと、その人はニッコリ笑った。

2019年1月11日金曜日

明るさは希望か

「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
繰り返し赤い鳥が朗々と啼いているが、それらしき人は現れない。
「もう、いい。少し静かにしたい」と呟くが、赤い鳥はお構いなしのようだ。
この街に出てきたときの鳥籠にも行ってみたが、「もう役目は終えた」と言わんばかりの朽ち果てようだった。青銅色はその憂いを強くし、鳥籠のつなぎ目は緩み、今にも崩れそうだ。

そういえば、いままで同じ通りばかり歩いている。東西南北はよくわからないが、この通りを直角に貫く道を歩いてみることにした。
角を曲がると、ビルも道も青銅色に違いなかったが、何故か少し景色が明るく見える。
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
二十三回目の赤い鳥の台詞に、前を歩く人がこちらを振り返った。この街の人にしては、頬が赤い。

2019年1月5日土曜日

決意より先に

夫婦に礼を言い、赤い鳥を肩に載せて外に出た。左腕の消えず見えずインクのあたりをさする。
ここにしばらく留まるか、どこかへ行くか、まだ決められない。少しこの景色に慣れてみたいとも思うし、もうこんな青銅色の街は懲り懲りだとも思う。

しばらくあてもなく歩いた。足音が響く。この街の人と全く違う足音を立てて歩いていると、酷く惨めなような、不安なような気持ちに襲われた。
さっき食べたばかりのスープの温かさは、心からも身体からも消えて、冷めきった。空を見上げると、青銅色の雲がぽっかりと浮かんでいる。大きく息を吸った。
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
赤い鳥が大音量で啼いた。

2019年1月4日金曜日

見慣れない者を見慣れ始める

青銅色のスープとパンは、温かくはあったが、味はよくわからなかった。
よくわからなかったけれど、寒かったし、空腹だったし、不味くはなかったから、心底ありがたかった。
たぶん、この町では、ほかの家へ行っても、高級レストランへ行っても、やっぱりこんな朽ちかけた青緑色した食事が出てくるのだろうと思う。

「御馳走様でした。助かりました」
と、頭を下げる。すかさず、赤い鳥が「消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方は『馳走になった』と仰っている!」と歌うように言った。
夫婦は満足そうに頷いた。少し、この見慣れぬ容貌の人の表情がわかるようになってきた気がする。

2019年1月3日木曜日

万物の色相

その男女は、笑顔で何事か言うている。今まで聞いたことのある言葉とは似ても似つかない音声だった。錆びた歯車が軋むような発音だが、男女が親切で穏やかな人柄だろうということはわかり、安堵する。しかし、たとえ十年この町に留まっても、挨拶すらできるようになるとは思えない。

鳥は、どうやらこちらの言葉は訳してくれるが、向こうの言葉は訳してくれないらしい。
一方的に要望を喋り、赤い鳥が高らかに宣言するのを繰り返した。

二人は青銅色のビルの地下へと案内してくれた。
暖かい部屋だったが、何もかもが青銅色だった。家具も、壁も。
皿も、スプーンも。スープも、パンも。
赤い鳥だけが、赤かった。