2020年7月29日水曜日

一年に一通

「年に一通だけ」
心臓が跳ね上がる。
「年に一通だけ、便りを出せるようになった」
「旅がここで終わったのは、その制度変更があったためだ」
「年に一通だけ。そして、かつて消えず見えずインクの旅券を持っていた者は、生まれ育った町から離れられない」

それは、つまり??
あの立派な身形の人。旅の途中で自らの居場所を決めたあの人は?
「旅を途中で終えた者も、生まれ育った町へ戻される」
電話の向こうが答える。まるで脳内を読まれたようだ。
「そんな!」
思いがけず大きな声が出た。
手紙が書けないよりも、もっとずっと重い罰ではないのか!」
通りを歩く人に一斉に注目されるのがわかった。 

「そう、世界は変わりました。通信より移動の罪が重くなったのです」
聞き覚えのある声だった。(320字)

2020年7月25日土曜日

不変と変更

肌が焼ける匂いか? これは、パンケーキが焼ける匂いだ。腕はまだ痛い。
「かつて消えず見えずインクの旅券を持っていた者よ、聞こえているな」
青い鳥の声が話している。
「生まれ育ち長く暮らした町に戻ることが許された。罪の償いを終えたと認められた」
何か言わなければと思うが、うまく返事ができない。
「だが、以前と同じというわけにはいかないだろう」
「それはもう……気が付いている通り」
電話の向こうの声が変化する。これは、赤い鳥の声だ。
「何が変わり、何が変わらぬかは、我々も予想できない」
顏を上げると、赤い公衆電話に乗っているのは赤い鳥だった。
「久しぶり……」と呟くのに返事はなく、受話器の向こうの声は続ける。
「だが、変わったこともある」(309字)



2020年7月13日月曜日

終わりの予感

青い鳥が電話機本体に飛び移る。目を合わせる。鳥は喋らない。
消えず見えずインクの旅券を持つ旅の者よ、聞こえているな」
受話器から聞こえるこの声は?
消えず見えずインクの旅券を持つ旅の者よ、受話器を消えず見えずインクに当てよ」
シャツを捲り上げ、消えず見えずインクのあたりに受話器を押し当てる。
「痛!」
一瞬だが強烈な痛みだった。何が起こっているのかよくわからないが、旅が終わる。終わらされることを確信し始める。
「消えず見えずインクの旅券を持つ旅の者よ、受話器を消えず見えずインクに当てよ」
次は腕にも当てろということらしい。もう一度痛みに耐えるための深呼吸をしてから受話器を腕に当てた。
「っく!」
ジュッと焼けるような音と匂いがした。匂い?(315字)

2020年6月26日金曜日

受話器を取るがよい

猛スピードで走らせておいて何を言うのかと思ったが、無理やり止まって、しゃがんだ。

目の前に、見たことのある艶やかな赤い電話があった。旅の始まりの赤い公衆電話。
「戻ってきたのか?」

けたたましい音に心臓が跳ね上がる。電話が鳴るのを聞いたのは生まれて初めてである。
「消えず見えずインクの旅券を持つ旅の者よ、受話器を取るがよい」
青い鳥が重々しい声で言った。

受話器というものがこんなに重いとは知らなかった。どちらが耳側かわからないが、取った時に上だったほうを耳に当てるほうが自然だろうと思い、そうした。
消えず見えずインクの旅券を持つ旅の者よ」
受話器から声が聞こえる。機械を通した独特の声でやや聞き取りにくいが、紛れもなく、肩に乗る青い鳥と同じ声だった。(321字)



2020年6月12日金曜日

時間に負けない速さで

朝だと思っていた太陽が西に傾き始めた。
突然時間が早回しになって、身体が振り回されるような感覚になる。
「急ぎましょう!」
穏やかな人が、机にしがみつきながら、きっぱりと言った。
「私が送ります」

砂浜に出た。
「全速力で走って。時間に負けないくらいに」

島を何周もした。こんなに速く走れたことはかつてなかった。今なら自己ベストタイムが出るだろう。この島の時間は当にならないが。
青い鳥の足が肩に食い込む。不思議と息は切れない。
島を一周するごとに穏やかな人の姿がぼやけていく。人の形ですらなくなって、残像のような、筋のようなものを認識するだけになった頃、声が聞こえた。
「しゃがんで!」(284字)

2020年5月22日金曜日

手書きだから

シャツを脱ぐ。左腕の内側。薄っすらとだが、それがあることがわかる。
「背中にもあるはず」というと穏やかな人が、ゆっくりと背中に回る。
ゆっくりとではあるが、動揺が伝わってきた。不可避の別れを悟ったのだろう。
細い指が背中をなぞる。
「日付とIDと街と、罪が……読めます」

どうやら背中のインクのほうがよく浮かび上がっているようだった。腕の内側は、判読できない。己で見えるほうは読めないというのは、何か理由があるのだろうかと勘繰ってしまう。

「IDを、書き留めて欲しい」
読めないIDカードと太ももに。若者の名前の隣に。
そういえば、穏やかな人にカードを見せたことはなかった。なんと、ちゃんと読めるという。
「それでも、書いて欲しい」
穏やかな人が書いたものは、読める。
「同じ文字なのに」と穏やかな人は笑う。少し寂しそうに笑う。
この字を見るだけで、いつでもここの暮らしを思い出すことができそうだ。

消えず見えるインクの旅券を持つ者あり! この者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
初めのうちゆっくり唱えていた青い鳥だが、だんだんと早口になってきた。(462字)

2020年5月17日日曜日

見逃せない印

声がよくなったのは、青い鳥も同じだった。美しく響く囀りを、青い鳥は聞かせてくれた。穏やかな人とともに聞くのは、とてもよい時間だった。

だが、少しずつ、素晴らしい時間にも疑問が湧いてくるのに気づき始めていた。暫くは気づかない付かぬふりをしていたが、このゆっくりゆっくりした時間と、この地下の安全な家、罪を背負った旅との乖離を無視できなくなってきた。

ここで旅を終わりにすることを何度も考えた。消えず見えずインクのことも、今なら有耶無耶にできそうに思えた。だが、そうはいかなかった。

消えず、見える、インクの、旅券を持つ者、あり! この者を、然るべき、儀式で、送る者は、おらぬか!」
青い鳥が叫ぶ。
消えず見えるインクの旅券を持つ者あり! この者を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
穏やかな人が目を見開く。(346字)