2016年7月23日土曜日

ひょんの木

 祖父はその木を「ひょんの木」と呼んでいた。ひょんなこと、としか言いようのない出来事だった。6歳のある日、祖父の家の庭で遊んでいた私は躓いて、地面に手をついた。そこには、くっきりと私の手形がついた。
 そして、その手型の通りの幹を持った木が、そこに生えた。私が大きくなるのと同じく、幹も太くなった。
 気味が悪くて、祖父に頼んで何度も伐採した。根本近くで切っても、すぐに枝葉を伸ばした。
 伐採した切り口は、私の手とぴったり合わさる。それは、もっと気味が悪いことであった。そのうち伐採を頼むことはしなくなった。
 私は、祖父の家を譲り受け、ひょんの木と共に過ごすことになった。祖父の年をとうに越え、足元にも自信がなくなってきた。
 そして、ひょんの木の傍らで、また躓いた。ひょんなことである。6歳のときと違ったのは、手を付いたのは地面ではなく木であったことだ。
 ひょんの木は私の体重を支えきれず、乾いた音を立てて、折れた。私はひょんの木と共倒れになり、声も出せず、青い空を見上げている。

2016年7月22日金曜日

七月二十二日 クロワッサン売り切れ

どうしてもクロワッサンが食べたくて、パン屋を5軒巡ったが、どこもかしこも売り切れなのだ、クロワッサンだけが。
あんぱんも、チョココロネも、クリームパンも、メロンパンもあるのに、クロワッサンだけ売り切れ。
「どうしてでしょうねえ」
「今日はモンスター日和だからかもしれません」
「モンスターはクロワッサンを食うのですか」
「いや、私もよくは知らないんですけれど」
と、店の人やほかの客と言葉を交わしたが、まったくもってよくわからない。
6軒目のパン屋で、潰れたクロワッサンをようやくゲットできた。美味かった。

2016年7月2日土曜日

七月二日 エスカレーター男

エスカレーターを動かすおじさんは、普段は見えないところで働いているはずなのだが、蒸し暑い週末の夕暮れ、エスカレーターもエスカレーターを動かすおじさんも油断していたらしい。
大型スーパーのニ階で、おじさんは黙々と上りエスカレーターの下段で手すりを回している。人々が怪訝な顔でおじさんの横を通り過ぎる。
「見えてますよ」と小さく呟いたが、おじさんの耳には届かなかったようだ。

2016年6月23日木曜日

六月二十三日 おいしい悲劇

アンチョビが顔面に飛んできた。ベトベトになった顔を23回洗ったが、匂いはまだ取れない。

2016年6月13日月曜日

六月十三日 梅雨とキノコ

正しい梅雨の日の商店街。ひときわ大きな傘を持ち歩く人がいた。が、少し奇妙だ。大きな傘を持つのは大柄な人が多かろうと思うのに、その大きな傘は私よりずいぶん低い位置を動いているのだ。歩みもゆっくりである。
私はその大きな傘にだんだんと近づき、追いつき、追い越した。追い越し際にチラリと大きな傘の主に目をやると、小さな婆さんであった。
そして、婆さんが歩くたび、傘の内側から、ブワッと赤い粉が僅かに吹き出すのだった。
その胞子を吸い込んでいいのか、悪いのか、一瞬逡巡し、大きく息を吸ってみた。 なんの匂いもしなかった。

2016年5月14日土曜日

五月十四日 花の杖

大きな鉢植えの入ったビニール袋を杖にして歩くお婆さん。鉢植えには、色とりどりの花が咲き乱れている。コツンコツンと、鉢植えを支えにゆっくり歩いている。
お婆さんの頭上でポッと花が咲き、ふんわりと落ちていく。一歩一花。お婆さんの杖(の鉢植え)も、ますます花盛りだ。
落ちた花を辿れば、お婆さんがどこから来たのかわかるだろうと思ったが、駅前の花屋に着いただけだった。

2016年5月10日火曜日

五月十日 駅前の道端で入れ歯を拾った話

老人Y氏に聞いた話。ある日、Y氏は駅前の道端に入れ歯が落ちているのを見つけた。
Y氏は自身も歯で苦労しているから、「落とした人はさぞ困っているだろう」と、ちり紙に包んで拾って、交番に届けることにした。すると、入れ歯が突然「警察はやめてくれ!!」と喚きだしたそうだ。
Y氏は、入れ歯に負けない大声で説教をしながら交番へ向かった。お巡りさんは、迷惑そうに入れ歯の遺失物届けの手続きをしていたそうだが、その頃には入れ歯はすっかり大人しくなって、自白でもしそうな様子だったという。