2010年7月29日木曜日

熱帯夜

へたくそな英語と蝉が輪唱している。
どちらもよく聞き取れないのは、もう微睡始めているからか、それとも暑さのせいか、はたまた青い渦巻きのせいか。今は午前一時。

2010年7月25日日曜日

夏の虫取り

扉が閉まる寸前、電車に飛び乗った男の子は、だれともなく「ごめんなさい」と頭を下げると、虫取り網を振り回し始めた。
おやおや、虫取りが楽しみで仕方ないのだなと思って見ていたが、どうも様子が違う。
彼は車内で本当に、虫を集めているのだった。
彼の網や、小さな指に捕らえられている間は私には何も見えなかったが、虫籠に放たれた途端に姿を現した。毛虫だ。ドドメ色した目玉だらけの毛虫。
それを男の子は涼しい顔で次々と捕まえているらしい。
「ヨシ、きれいになったぞ」
と独り言を言って、男の子は次の車両へ移って行った。ともかくこの車両にあの毛虫はいなくなったらしい。有難いことだ。

2010年7月22日木曜日

ゆうされば

まだ夏は始まったばかりだというのに、暑い。昨日からロクに外出もせず、ぬるいタオルケットをひたすら弄んでいた。
ふいに、豆腐屋のラッパが聞こえてきた。ずいぶん調子外れな「とーふぃ」だ。
ラッパがまずいからと言って豆腐の味も悪いとは限らぬ。夕飯に冷奴を付けようと、小銭入れとボウルを持って外へ出た。
「絹ごし一丁」
「あいよ」と応えたのは、まだ幼さの残る男だった。
「これは蝉時雨の氷水に放った豆腐だから、冷奴にぴったりだよ」
「蝉時雨の氷水? 喧しそうだな」
「ミンミン蝉やアブラ蝉じゃないから、大丈夫」
男は人懐っこい顔で笑った。

冷奴は蜩の声がした。そういえば、この夏はじめて聞く蜩だ。

2010年7月21日水曜日

かくれんぼ

 夕焼けが赤過ぎたのをよく憶えている。  かくれんぼの余韻が残っていた。きょろきょろとあたりを見廻し「あそこはかくれるのにちょうどよさそうだ」などと思いながら帰り道を急いでいた。
 そうして歩いているときに、空き地に穴を見つけたのだ。そこはよく遊ぶ空き地の一つで、どこにどんな草が生えているかまで知っている。そんな勝手知ったる遊び場に、大きな穴があったことに、僕は少なからず驚き、悔しさに似た感情が湧いた。
 穴はかくれるのに十分な大きさがある。そして、中に向けて小便でもしたくなるような穴だった。そう思ったら急に強い尿意が襲ってきた。
「中に入るなら、ションベンする前だ」
 股間を押さえながら穴の中にしゃがみ込む。ひんやりとして寒い。「漏れる!」慌てて立ち上がろうとしたが、動けない。小さなじいさんが、シャツを引っぱっているのだ。
「だれ?」
「おまいらのおとっつあんやおっかさんがガキん頃は、隠し坊主、なんて呼んでたな。おまいのおっかさん、血相変えておまいを探してら」
 見上げると、赤い空は消えていた。
「じゃあ、帰らなくちゃ。それに、ションベン漏れそうだ。離して」
「駄目駄目。この坊主とジャンケンで勝ったら、穴から出してやら」
 二十三回までは数えたけれど、その後はわからない。ようやくパーで勝って、ホッとしたら、盛大に小便を漏らした。
 ズボンを濡らして、空き地でぼんやり突っ立っているのを、隣のおじさんが見つけてくれたのは、夜の九時を過ぎていたそうだ。
「この空き地も、何遍も見に来たのだがねえ」と、大人たちが不思議そうに言っていたが、隠し坊主の事は言えなかった。

ビーケーワン怪談投稿作

覇王樹に靠れて

 枯れかけたサボテンをゴミ捨て場で拾ったのと時期を同じくして、恋人が出来た。
 バス停で具合を悪くしていた彼女を介抱したのが出逢いだった。期せずして、彼女とサボテンの世話を焼く生活が始まったのである。幸いなことに、彼女とサボテンは、足並みを揃えるように快方に向かった。
 彼女は、サボテンを心から愛でた。うちへ来ると、真っ先にサボテンに話しかけ、空模様を睨みながらベランダで日光浴をさせる。時々水をやる。自分がいない間の世話の仕方を細かく俺に指示する。
 サボテンに手を掛け過ぎるのは、よくないんじゃないか? と言うと「この子が喜んでいるのが、あなたにはわからないの?」とトゲのある声で非難された。
 サボテンが花を咲かせる頃、彼女は美しいと評判になった。しかし、友人から羨ましがられる毎に、俺の心は冷えていった。彼女の情の全てがサボテンに向いている。
 サボテンが元気ならば自分も元気でいられる、と彼女は信じ切っていた。サボテンに必死に話しかける彼女の髪を、心なく撫でる俺。その構図はどう考えても滑稽だ。まるで彼女を介してサボテンを撫でているようで、髪の毛が手のひらに刺さるような気すらする。痛い。
 サボテンが枯れたら、一心同体を自負する彼女はどうなるだろうか。
 試してみよう。黴だらけの浴室で熱湯に浸した。ベランダで踏みつけ、放置した。腐り始めたところで、生ごみの日に捨てた。
 サボテンが部屋から消えたことに気づくと、彼女はたちまち体調を崩した。
 半狂乱の彼女の額に最後のキスをして、病院行きのバスに放り込んだ。
 手を振り見送り、清々したと、顔が弛む。唇に、鋭い痛みが走った。サボテンの棘が刺さっている。

ビーケーワン怪談投稿作

トカゲの尻尾を踏んだ話

 靴底越しに感ずるトカゲの尻尾がやけに生々しい。尻尾を失くしたトカゲは一瞬恨めしそうにこちらを見上げ、しゅるしゅると植え込みの中に消えて行った。少し考えて、千切れた尻尾は持ち帰ることにした。
 尻尾は干からびることもなく、机の上に居る。時折ひゅるりと動くような気配があるが、たぶん目の錯覚だろう。
 ヤモリがよく来るようになった。窓に貼り付いている。はじめは一匹、二匹だったのが、いつのまにか増え、夥しい数のヤモリが毎晩、規則正しく並んで窓に貼り付く。流石に気味が悪い。しかし、ヤモリは家守、縁起は悪くないはずだ。
 とうとうトカゲがやってきて「尻尾を返して欲しい」と訴えた。
「もう新しい尻尾が生えているではないか」
「それとこれとは性質の異なる尻尾でして」云々かんぬん。
「それに、貴方もお困りでしょうから」トカゲは窓を見遣る。
「ヤモリのことか。ヤモリぐらいどうってことはない。噛まれるわけでもなし」
「ヤモリ? わたしはトカゲですが」
 要領を得ない。ともかく尻尾は返した。その晩からヤモリは来なくなった。
 休日、ヤモリの跡が残る窓を拭こうとして気が付いた。ヤモリだと思っていたものは、人の手だったようだ。道理でトカゲと話が通じない。

ビーケーワン怪談投稿作

無題

記憶装置の管轄外で起きた出来事を記録する。