2009年3月31日火曜日

海底便り

受話器越しのきみの声は思ったよりもくっきり聞こえて、少し鼓動が早くなる。目覚めちゃだめ。
「きみはどこから電話しているの? ……ぼくは夢の中なんだ」
「ぼくは海の中から。大きなガラスのコップを沈めてね、その中で今、きみの声を聞いている。とてもよく聞こえるよ」
海の底にいるきみを想う。コップの中にいるきみを想う。
なんて美しいんだろう。目覚めちゃだめ。
「こうして話していたら、すぐに酸素が、なくなっちゃう」
「そんなの構いやしない。だって、きみは夢の中なんだろう? きみの夢の中の海の底のガラスの中のぼく、さ」
「だけど」
「ガラスにヒビが入ったよ。水圧ってすごいんだね。だんだんと亀裂が伸びていく。きれいだ。きみも」

(300字)

2009年3月29日日曜日

運河の家

僕が生まれたのは、運河の交差点に建つ石造りの家だった。
産婆さんは、東の町からボートを漕いで一人でやってきた。
南の町からはやってきたのはエンジン付きの小型船。粉ミルクの缶をたっぷり積んで。
西からは、装飾を施した船で高級洋品店のオーナーがやってきた。産まれたての僕を採寸するために。
北の町からは、僕のおじいちゃんとおばあちゃんが、水上タクシーに乗ってやってきた。チップはずいぶん弾んだそうだ。
僕の家は大小の船に四方を取り囲まれて、運河を行く船みんなに注目された。運河が渋滞すれば、隣の国もその隣の国も困ってしまう、わかるでしょ?
だから、母さんは産まれたばかりの僕を抱いて東西南北の窓の前に立たなければいけなかった。
「赤ちゃんが産まれたの! よろしくね!」
って。
十一歳になった僕は、毎日東西南北の窓に入れ代わり立ち、運河を行く人たちの伝言係をやっている。
「北の町の水門が故障中だよ」
「南の町は桜が咲いたってさ」
「東の町にサーカスが来てるんだって」
「西の町の科学者が、お嫁さん募集中らしい」
たぶん僕は、こうやって水と船と雲を見ながら、一生を終えるのだ、父さんがそうだったように。

(484字)

2009年3月26日木曜日

三月二十六日 昔の話

前はどんな感じだったっけ?
思い出そうとしてみるが、そもそも相手が違うのだ、比べものにならない。

(47字)

2009年3月25日水曜日

雨の夜の留守番

たとえば黒猫がじっと蹲って静かに過ごしたい夜、それは大概雨の晩であるのだが、そんな夜でも少女は黒猫の尻尾を掴んで出掛けてしまう。
少女は玉虫色の傘を左手で差し、尻尾を右手に掴み雨の町へスキップしそうな勢いで出ていく。
少女は玉虫色の傘をとても気に入っていたが、時々傘を差すのを止めてしまうらしい。おそらく、傘を放り出してブランコに乗ったり、傘を差すには狭すぎる路地に入っていったりするのだろう。
そのたびに、屋内でうとうとと過ごしているはず黒猫は身震いして尻尾を濡らす雨水を振るい飛ばす。
〔尻尾は実に繊細なのだ、とキナリに言ってやらなければ〕
と人間語で呟くが、笑顔で帰ってくる少女を見ると、つい言いそびれる。

(301字)

2009年3月24日火曜日

月のレクイエム

南国の波は白い砂浜をひたすらに撫で続ける。
月が近い。満月は実に球体だった。

膝を抱えて海を眺める私の傍らに、少年が現れた。
「夜遅くに一人で……」
少年の横顔を伺うと、それは恐らく問題にならない心配であることがわかった。
少年の瞳は黄色い。波と全く同じ呼吸で、細い肩が僅かに上下していた。
少年は突然こちらに向き直り、囁くように言った。
「さぁ、おやすみの時間だ」

私はイエローの瞳に見つめられ、唇を柔らかく吸われ、砂浜に横たえられた。

月がいよいよ近い。手を伸ばしたけれど、触れたのかどうか判然としないままに、私は眠りに堕ちる。

(257字)

2009年3月23日月曜日

ヌバタマの安堵

強い風でヒゲがあちこちにひっぱられる。
キナリの長くて細い髪はもっとあちこちににひっぱられて、そのまま風に連れて行かれるのではないかと思うほどだった。

風はピタリと静まった。
けれど、キナリの髪はぐちゃぐちゃに絡み合ったまま垂れ下がって、顔を塞いでいた。
手で解こうと苦心したが、余計に事態を悪化させるだけだった。
キナリはついにあきらめたのか、公園のベンチに座り込む。猫の手も舌も、人間の異様に長い毛は梳くことは不可能だ。膝の上に乗ってキナリを見上げる。髪に隠れて表情はよくわからない。

「キナリ!どうしたんだい、その頭は? 流星と取っ組み合いをしてもそんな髪の毛にはならないよ」
チョット・バカリーが現れたらキナリは泣き出した。顔に垂れた髪が涙と鼻水で濡れていく。
「泣かないで、キナリ、僕が解いてあげるから」
チョット・バカリーはキナリを抱き上げ膝に乗せ、コルネットを扱うよりももっと優しくキナリの髪に指を入れた。
少しづつ見えてきたキナリの顔は、穏やかな笑顔だった。

(426字)

2009年3月22日日曜日

泳ぐ髪

湖に飛び込むと、身体中の毛穴に澄んだ水が染み渡る。
わたしが泳ぐと髪も一本一本泳ぐみたいに水流に乗る。
深く潜る。息は苦しくならない。わたしは小さい時、魚になりたかった。

「素裸のまま泳ぐのは止めろよ」
と不機嫌な様子でケイは言う。昔はケイのほうが泳ぎはうまかったのに、いつのまにかわたしはケイよりも長く深く泳ぐようになっていた。そして、ケイは湖に入らなくなった。けれど、わたしは湖で泳ぐのを止めることはできない。

ケイは今、わたしが脱ぎ散らかした服を守るように、わたしが上がってくるのを待っているだろう。

水が暗くなってきた。日が落ちてきたのだ。
ケイはまた心配そうにしているに違いない。
遅い、と責められると、わたしはうまく謝れない。だってケイが勝手にわたしを待っているんだもの。
でも、ケイが濡れた髪を結なおしてくれるのは、嬉しい。ケイの大きな手が頭を撫で、髪を梳くと、なぜか鼓動が早くなる。だから、湖から出た時にケイがいないのは、嫌だ。

「ケイ」
と水の中から呼び掛けてみる。
少し冷えてきた水が心地よくて、またわたしは少し深く潜る。

(459字)