2017年5月2日火曜日

五月二日 冷蔵庫の次元

 明日から旅に出るので、冷蔵庫をできるだけ空っぽにしなければならない。ネギ、トマト、焼きそば……いろいろと残っていたはずである。
 ところが、開いた冷蔵庫は何も入っていなかった。調味料も飲み物もなくなっていた。
野菜室も、冷凍庫も。ただ冷気が出てくるだけである。私は、開けっ放しの冷蔵庫を前に、しばらく動けずにいた。
 すると、冷蔵庫はピーピーとやかましい音を立て始めた。扉が開けっ放しになって一分経過すると警告音を発するのである。我に返った私は扉を閉め、そして深呼吸してもう一度開ける。
 見慣れた我が家の冷蔵庫……のような気はする。 調味料も、ネギもトマトもある。が、何かがおかしい。
 うんうん唸っていると、また冷蔵庫はピーピー言い出した。扉を閉める。開ける。空っぽ。閉める。開ける。何かが違う。閉める。
 結局、冷蔵庫と神経衰弱を四回やってやっとひとつ判ったことは、 少しずつトマトが大きくなっているということだった。もう少し続けよう。

2017年4月24日月曜日

ポケットの中で魔法をかけて

エプロンのポケットに小さなボールが三つ。
ボールはフェルトで出来ていて、ひとつは青くて、ひとつは緑で、ひとつは白。
青いのと緑のは、羊製だけれども、白いのは猫製だ。
猫製の白いボールに魔法をかける。たいした魔法ではない。
よく握って、形を整えて、「ちちんぷいぷい」。
「ちちんぷいぷい」は別に言わなくてもいい。言ったほうが魔法っぽいというだけ。
ただし、これはポケットの中で行わなければならない。見てはだめ。見せてもだめ。
うまく魔法がかかったら、忽ち猫が飛んでくる。そう、空を飛んでくる。
同じ魔法を、青いのと緑のにかけると大変だ。羊が海を泳いできたり、森を運んできたりするから。

2017年4月3日月曜日

四月三日 銀座にアップルパイを食べに行った話

気になる画廊が二つあったので、銀座に出かけた。
一つ目の画廊は展示物が三つしかなくて、二つ目の画廊は、照明が切れていて何も見えなかった。
なんだか腑に落ちないが、どうしようもない。空腹を覚えたので、木村家の上の喫茶室でアップルパイを食べた。それなりにおいしいアップルパイだった。
アップルパイを食べに銀座に行ったのだ、と思うことにする。往復で千円掛ったけれど。

2017年3月17日金曜日

かわき、ざわめき、まがまがし

 手押しポンプをいくら押しても、耳障りな金属の軋みが聞こえるだけだ。
「もう、その井戸は枯れているよ」と、兄が言う。もう三十回くらい言っている。
「わかってるよ」と、これも三十回くらい答えている。
 兄の口調は一回目も三十回目ものんびりしたものだったけれど、私は自分の声がだんだんと刺々しくなっていることに気が付いている。
 日が沈んでも、私は手押しポンプを押し続けていた。もちろん水は一滴も出ない。
 けれどポンプを押したときの軋んだ音は、少し、ほんの少しずつ変わってきている。確かに。痛みに耐えるような、大勢の人たちの声。
「もう、その井戸は枯れているよ」兄の声が、ほんの少し震え始める。
「わかっているよ」私は声が弾むのを抑えられない。


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500文字の心臓 第154回タイトル競作 
〇10 △1 正選王


実に7年ぶりの投稿、10年ぶり二回目の正選王

2017年3月15日水曜日

三月十五日 時計

朝早く起きて、何者かに飯を食わせると、また布団に戻る。
何者かが毛むくじゃらになって顔に乗るので、こそばゆい。何度も目を覚ます。まだ7時だ。今日はどこに行く用事もない。おまけに寒い。好きなだけ寝ていてよいのだ。まだ7時だ。まだ7時だ。まだ7時だ……?
ここでようやく時計が狂っていることを疑う。
腕時計を見る。スマートフォンを見る。壁掛け時計を見る。
全部違う時刻の顔をして澄ましている。

2017年3月11日土曜日

三月十一日 昼寝

どうにも具合が悪いのは春のせいとして、暑苦しく寝苦しいのは何事だろう。
首元になにか巻かれている。マフラーにしては重たくて、暖かすぎる。
振り払おうとしたが、重たくて振り払えなかった。
思い切って起き上がったら、なんだかウニャウニャ言っている毛玉が落ちていた。

2017年3月4日土曜日

三月四日 ぐるり

新しくできたという雑貨屋を探しに行った。今日は定休日だということは承知していたが、どんな店か偵察してみようという魂胆である。雑貨屋には怪しい店や妖しい店があるからに。

「森林薬局」のところを曲がって、裏道へ入る。そうチラシに書いてあったので、「森林薬局」のところを曲がって、裏道へ入る。裏道を入ったところに「いがらし歯科医院」があった。覚えやすい。ここを目印としよう。
「いがらし歯科医院」のところを通り過ぎると、また「森林薬局」があった。ここには「しらがい歯科医院」がある。「白貝」珍しい名前だ。裏道へ入る。

キョロキョロ見回しながら歩くが、雑貨屋らしきものはない。ただの裏道だ。そのまま裏道を歩くと大通りに出た。左を向くと「森林薬局」。

これは、妖しいほうの雑貨屋のようだ。