2025年8月29日金曜日

暮らしの140字小説32

八月某日、晴。近くの家に葡萄が生っていた。空家になって久しいらしく鬱蒼としているが葡萄は勝手に生えたものではないだろう。十年もこの道を日々歩いているのに初めて葡萄に目が留まった。一体、何を見て歩いてきたのだろう。葡萄は色付いている粒もまだ青いのもあった。伸びかけた手を引っ込める。

2025年8月19日火曜日

暮らしの140字小説31

八月某日、晴。夏は茄子。丸いの、白いのを焼いたり蒸したりして食う。今年はなかなか水茄子に出会えなかったのだが百貨店でやっと求めることができた。こちらは生で食う。切れ目を入れたら手で割いて、塩を振って洋橄欖の油を垂らして食う。他にも思い出深い夏の茄子があるのだが、八年食べていない。

2025年8月12日火曜日

暮らしの140字小説30

八月某日、雨のち晴。これまで包丁一本で暮らしてきたが、小さい包丁を台所に加えた。果物を食べるようになったからだ。一昨年の初秋、鼻を盗まれた。二週間ほどで鼻は戻ってきたが、鼻のない間も果物だけは変わらず美味しく食べられた。鼻を盗んだ泥棒は最近も暗中飛躍しているようだ。用心せねば。

2025年8月10日日曜日

暮らしの140字小説29

八月某日、ゲリラ豪雨。雷鳴と突風、斜めに打ち付ける大粒の雨。夕立ちと呼ぶには激しすぎる。しばらくすると嘘のように晴れ、青空が出てきた。ベランダに出て、熱い水蒸気を吸い込む。アパートが解体されてできた空き地は、雨のたびに緑を増やしている。どんどん増えろ。草花で覆い尽くしてしまえ。

2025年8月4日月曜日

印鈕の龍

遺品となったばかりの軟玉の印には龍の印鈕がある。精緻だがどこか頼りない龍。故人は書画をよくし、この印を使っているのも見た覚えがあるが、手にしてみると印面には何も彫られていない。書いたばかりの書に押せば、じわりと私の名が現れ、印鈕の龍はぐるり捻転し、雷が鳴り雨が降った。塩辛い雨だ。(140字)

和紙の精

和紙には白く小さな精霊が棲む。粗忽者の私は墨を磨り、筆を手に取ってからも忙しない。心を静めようと目を閉じた途端に手洗いに立つのも日常だ。勢いよく立ち上がり、机が揺れ、筆が転がり、墨が飛ぶ。和紙の精は墨の雫を捕まえ、雪のように白い紙にそっと落とし、幽玄な滲みを作って私を嘆息させる。(140字)