2010年6月3日木曜日

鏡越しの君

 鏡に向かう妻と会話するのが好きだ。髪を梳かし、肌を整え、化粧をする妻をぼんやりと眺めながら、とりとめのない話をするのは、恋人時代からの変わらぬ習慣である。
 時折、鏡の中の妻と目が合う。左右が入れ替わってほんの少し現実と違う妻の顔に、微笑まれたり、睨まれたりする。
 どういうわけか、鏡の中の妻は、違う方向を見て話していることもある。私とは目が合わないが、鏡越しに誰かを見て、「そうよね」などと言って微笑みかける。さりげなく見廻してみるが、もちろん誰も居ない。
 おまけに、私に対するよりずっと優しく、そして少し寂しそうな眼差しをするものだから、心中穏やかではない。私は嫉妬しているらしい。
 困ったことに、近頃の妻は、私を通り越した天井のあたりに話しかけることが多くなった。私はますます嫉妬する。妻は一体誰に語りかけているのだ。
 妻よりも早く起き出して、鏡台の前に座った。鏡に掛けられた布を捲る。私がかつて贈ったスカーフで作ったものだ。
 鏡を前に、私は己と対峙することができなかった。映っていないのだ。
 その代わり、天井のあたりに、苦笑いをしてふわりふわりと浮いている私が映っていた。
 そうか、妻は、ちゃんと私と話してくれていたのだ。
 そう合点したら、急速に眠たくなってきた。
 妻に寄り添って、もう一度眠ることにしよう。
 恐らく、もう二度と目覚めることはない。

ビーケーワン怪談大賞に出すための習作その1。
なかなか調子が出なくて、結局全部で六つも書いてしまったのことよ。