2010年12月29日水曜日

黒猫を射ち落とした話

「星の欠片をピストルに込めてみな。美味いものができるぞ。こうして話しているだけで、涎が出てくるようだ」
喫茶店で隣になった老人が嗄声で囁いた。ポケットの中には、拾ったばかりの星が入っている。金平糖型で、握りこぶしくらいの星が。
「……何を撃つといいでしょうね。一番おいしいのは」
「そりゃあ、決まっているだろ、黒猫だよ」
早速、しっぽのない黒猫に逢ったけれども、そういえばピストルなんて持っていない。
代わりにパチンコで黒猫を射つことにした。
星も黒猫も嫌がるかと思えば、そうでもない。おとなしく射たれるのを待っている。
パチンコなんて子供の頃から下手だったから、四度目にしてようやく黒猫に命中した。
パシッと黒猫に星の欠片があたり、黒猫はふにゃりと塀から落ち、星の欠片は失速して転がった。黒猫は鼾を三回かいた後、去っていった。
星はもう輝かない。口に放り込んだ。美味い。
ただ、それを言葉にしたら、黒猫に当たった星の味、としか言いようがない。

2010年12月24日金曜日

A TWILIGHT EPISODE

明け方前のサンタクロースは、大変に急いでいた。毎年のことだけれども。
ようやく最後の子供にプレゼントを配り(中身は「キツツキが啄いた木の突付きカス」だ)。
家を出て、ほっとしたのも束の間、サンタクロースはサーチライトのようなものでパッと照らされた。まずい!
思わず顔を背けたが、騒がしくなる様子はない。そっと明かりの源をたどると、金平糖型の輝く物体が転がっていた。
ああ、星か。
星を老トナカイの角に引っ掛け、サンタクロースはそりに乗り込む。
朝焼けに照らされるサンタクロースたちの姿を、星の光が隠してくれるはずだ。

2010年12月22日水曜日

煙突から投げこまれた話

今夜の月は赤い。お月さまが酔っているせいだ。
仕方なく、背負って月まで送って行くことにした。
重たくて難儀していたら、サンタクロースに出会ったので、手伝ってもらった。
赤い月とサンタクロース。赤いセーターでも着てくればよかった。
ようよう月を送り届けると、「やあ!ありがとう。恩に着るよ」と、お月さまに背中を叩かれ、落っこちた。
いつものようにベッドに落ちるかと思っていたら、煙突だった。
ここは、サンタクロースが一軒目に訪れる予定だった家の煙突だそうだ。
「月のおせっかいはいつも迷惑なんだ」と、サンタクロースは笑っている。あまり迷惑しているようには見えない。
サンタクロースはまだプレゼントを置いていけないそうだ。そういう決まりらしい。
せっかくなので、子供たちの枕元に星の欠片を置いて帰った。

2010年12月20日月曜日

THE MOONRIDERS

16歳になったばかりの少年はある夜、自分が月を乗り回して宇宙を駆ける夢を見たのだ。
翌日、少年は、貯金でスクーターを買った。
少年は、街で「あの子は暴走族になった」と揶揄されたが、少年は暴走などしているつもりはないから、そう言われると、とても困る。
いつでも月を乗り回してもいいように稽古しているだけなのだ。

「いつか月に乗りたいなあ」
キラキラと目を輝かせて月を見上げる少年と、傍らでぽかんとしているお月さまの顔を交互に見比べてしまう。
「月は乗り物ではない」と、お月様が今にも言い出しそうなので、ポケットの中にあった星をひとつ、少年にプレゼントした。
金平糖型の角が一番尖っているのを選んだ。

スズキコージさんの個展、「スズキコージのSEX&ARABIC CITY展」に行ってきました。
タイトルの連作は、セクシーっていうか、そのまんまです。えろす。
ほかにも小ぶりの作品がたくさんあって、すごくかわいかった。
お値段も、ちょっと奮発すれば買えそうな値段でした。

丁度ご本人がいらっしゃって、少しお話できました。
吉祥寺のイラストレーション展も皆に勧めておくように言われたので、宣伝します(笑)。

「スズキコージのSEX&ARABIC CITY展」
【日時】
12.13(月)~25(土)
11:00~19:00(期間中無休・最終日17時まで)
【会場】
ゑいじう
新宿区荒木町22-38
TEL 03-3356-0098

「スズキコージイラストレーション展」
【日時】
12.14(火)~30(木) 10:30~19:30 無休
【会場】
APPLE HOUSE 2F ギャラリィ吉祥寺

2010年12月15日水曜日

無題

蚤のピケが飛び立ったあと、急いで駅に向かうと「ウォッチ、ウォッチ、ウォッチ」と言いながら階段を昇るおじさんがいる。おじさんは時計を落としながら階段を昇る。階段は終わらない。時計が落ちる。

月のサーカス

今夜はお月さまがいないな、と思いながら月を見上げる。
月にブランコを掛けて、とんぼ返りながら漕いでいるお月さまがいた。
世界一の空中ブランコ乗りも、この月のブランコには驚くに違いない。
しばらく見物していたが、雲がかかって見えなくなった。
お月さまの跡継ぎになったら、あれをやらなければならないのだろうか。

無題

「おれは蚤のピケ。ジャンプすごいぜ」そう言って蚤のピケは飛んで行った。見上げると、空が蝨出している。もうこんな時間だ。

無題

羊を数えてたら、羊の毛に棲む蚤のピケがやってきた。どうしよう。

2010年12月13日月曜日

電燈の下をへんなものが通った話

電燈の下をへんなものが通るが、誰に聞いてもそんなものはない、というので眼医者に行った。
医者は首を傾げるばかりで、「これをあげましょう。診療代はいりません」と
いって、金平糖型のものをくれた。
それは机に並んだ星たちよりは、少し小さいので星なのかどうかはよくわからない。

だが、電燈の下を通るへんなものは増えていき、いよいよ鬱陶しいと思っていると
金平糖型のものは、もっと小さく、いびつになっていたのだった。
しばらくして、欠片しかないくらいに減ってしまう頃になって、ようやく電燈の下をへんなものを、星が捕まえて食べるようになった。
星たちの食欲は旺盛で、数分もしないうちに、へんなものはなくなった。
好い医者に出会ったものだ。

2010年12月9日木曜日

かたつむりの旋律

僕の耳は聞こえすぎる。防音ヘッドホンを片時も外すことができないくらいに。
だから、囁き声の美しい子としか、友達になれない。

小さなメロディが聞こえたような気がしたのだ。
もっとよく聴きたくて、思い切って防音ヘッドホンを外した。轟音を掻き分け、細い絹糸のような、あのメロディを探す。
そのメロディは、紫陽花から聞こえていた。

「つまり、紫陽花の葉は、オルゴールのシリンダーみたいなもんさね」
と、かたつむりは言う。
「じゃあ、キミの殻をリズミカルに叩くドラマーは誰?」
「はて……? そんな音か聴こえるのかい?」
昨日の雨の残り香の仕業かもしれない。
「また聴かせてね」
ヘッドホンをしていないせいで、頭が痛くなり始めていた。帰らなくちゃ。
「おぅ、いつでもおいで」
帰り道、ちょっとだけヘッドホンが邪魔に感じた。

脳内亭さんの心臓タイトル案の案をお借りしました。

拍手コメント、ありがとうございます、雲梯さん(……)
ほんとだ、ひらがな……多そうで、多くないような?(笑)
心地よい漢字ひらがなバランスは、人によって違うのでしょうねぇ。難しいな。

2010年12月7日火曜日

踊るベーカリー

その小さなパン屋では、何もかもが踊っている。
店主もパンも、レジスターもトングも。店の奥を覗けば、オーブンもボウルも、粉も卵も踊っている。
愉快なことが好きな私は、パンを買う時には必ずその店に行く。味も悪くない。
ちょっとおかしなことといえば、何もかもが楽しげに踊っているというのに、店内が全くの無音だということくらいだ。店主のステップにも、レジスターのボタンにも、割れる卵にも、音がない。
店を出ると、音を確かめたくて、いつもスキップをしてしまう。

2010年12月3日金曜日

ココアのいたずら

ミルクパンで丁寧にココアを温めていたら、星がひとつ飛び込んでしまった。
慌てて取り出して、何事もなかったふりをして、友達に出したら、いたくお気に召したらしい。
うちに来る度に「ココアを作ってくれ」と頼まれるので、こっそり机の上の星をひとつ、鍋で泳がせる。
実際、ココアはやけにおいしくなるのだが、どういうわけだか星に訊いても、ココアに訊いても、教えてはくれない。

2010年12月1日水曜日

THE MOONMAN

そういえば、お月さまは、いつからお月さまなんだろう。
「さて、もうずいぶん昔のことだからなぁ。そろそろ引退してもいいかもしれない」
引退したら、月はどうなるんだ。
「もちろん、後継者を選ぶ。例えば、君とか」
その日、家に帰ってから長いこと、机に並んだ星たちを見つめていた。
星たちは、やけに静かだった。

2010年11月27日土曜日

月をあげる人

お月さまが深刻そうな顔をしているので理由を尋ねると「帰れなくなった」という。
「かぐや姫に相談したら、きっと笑われますね」
さっぱりわけがわからない、という顔をする。かぐや姫には逢ったことがないのだろうか。
ともかく、月が帰れないのは困る。どうしたらいいか聞いてみると、少し考えたあとで、ロープで引っ張り上げて欲しいと頼まれた。
コウモリに叩かれた。

月の蓋を明けて、街を見下ろすと、お月さまが手を振っている。
青いロープを下ろすと、お月さまはそれにしがみついた。
ロープを引っ張る。案外軽いので、勢いよく引き上げた。

次に逢った時に「こないだは、どうして帰れなくなったのですか」と訊いた。
「転んで膝を擦りむいたのだ」
と、ズボンをたくし上げて膝を見せてきた。
小さな小さなかさぶたがひとつ。

2010年11月26日金曜日

水道へ突き落された話

月から街を眺めていたら、「オウ! 久しぶりだな!」と背中をドンと叩かれた。
そのはずみで月から落っこちた。
いつものとおり、そのうち家のベッドに転がるのだろうと思っていたが、洗面所の蛇口から出てきた。
水に押し流されている間どうやって息をしていたのかも、背中を叩いた久しぶりの人が誰だったかも、わからないままだ。

2010年11月23日火曜日

はたして月へ行けたか

アイスクリームを食べながら男がぼやく。「月に行きたい。どうしたらいい?」
とりあえず、そこにいる月に蹴飛ばされておけば?
と、指差したら、「人を指差すなんて、行儀が悪い」とお月さまに叱られた。
男はどうにか蹴飛ばされようと色々にお月さまの機嫌を取っているが、お月さまはまるで相手にしていない。
そこにやってきた流星が勢いよく男にぶつかり、男は飛んでいってしまった。
しまった。月に行きたい理由を聞いておけばよかった。
しばらく歩くと、男が食べていたアイスクリームが道に落ちていたが、ちっとも溶けていなかった。

2010年11月21日日曜日

星におそわれた話

夜道を歩いていたら、目隠しをされて「だぁれだ?」と言われる。
しばらく黙っていると目隠しが外れ、流星の背中が見えた。
せっかちな奴だ。

五千五秒物語では語り手に「僕」と言わせてない(はず)。
途中で気がついて以来、使わないようにしているのだが、これが結構難しい。

2010年11月19日金曜日

星でパンをこしらえた話

夜中、明日食べるパンがないことに気が付いた。
明日は、パン屋が休みなのだ。
困ったなぁ、と思っていたら、お月さまが「星でパンを作ればいい」と言う。
朝起きて、机の上に並んだ星のうち、一番旨そうに見えたものを、卸金でガリガリ卸した。
ほんの少し卸しただけで、ボールが星の粉で山盛になったので、それを捏ねて、丸めて、火を入れたオーブンに入れた。
オーブンが、なんだか眩しい。本当に星でパンなどこしらえて大丈夫なのだろうか。
芳ばしい香りが漂ってきたら、近所中のノラネコがパンの味見をしにきたので、たくさん作ったのに、ひとかけらしか残らなかった。

2010年11月17日水曜日

自分を落としてしまった話

どういう経緯だったかわからないけれども、とにかく月の蓋を上げて、街を見下ろしている時だった。
ふいに、顔にベタっと蝙蝠が張り付いて(その時は蝙蝠だとはわからなかったけれど)、驚き、振り払おうとして、月の縁にしがみついていた手を離してしまった。
月の外に転がり落ちるのではなく、中に落ちてしまった。
月は深く、深く、どんどん落ちた。
落ちて落ちて、それでも落ちて、途中で流星に助けられた。
だから、月の底がどうなっているのかを知ることはできなかったのだ。

2010年11月14日日曜日

むかしばなしの落書き(一寸法師)

ある家の家宝として伝わる「一寸法師の刀」は、ボタン付けによく使われている。

2010年11月13日土曜日

ガス燈とつかみ合いをした話

現役のガス燈が一つだけ残っていると聞いて見に行った。
ガス燈はポツンと一人で儚い炎を揺らしている。
ガス燈が電灯を嫌うそうで、周りには他に街灯が全くない。
暗い住宅地の夜道に一つだけのガス燈。なんだかちょっと怖いような景色だ。
そう思っていたのが声に出ていたらしく、ガス燈の炎がメラメラと燃え上がった。
風が吹いて炎を煽る。
「落ち着いて、火事になってしまう」
すると、お前が怒らせたんだと言わんばかりに、ガス燈がつかみかかってきた。
そこに大風が吹いてガス燈は、フッと消えてしまった。
それきりガス燈はうんともすんとも言わなくなった。
とっくの昔にガス燈用のガス管は閉められ、ガスは通っていなかったそうだ。

2010年11月9日火曜日

星? 花火?

花火を見に、河原へ出掛けた。
間近で見る花火は、あまりにも巨大で、空が全部、花火で埋め尽くされる。
ぱらりと落ちて来るものがあるので、てっきり花火の玉の燃え擦だと思ったが、よく見れば金平糖形でほのかに光っているのだ。焦げた跡が残っている。
星よりは小さく、半分もない。
花火大会が終わってから、河原を歩き拾い集めたら、両手に山盛りになった。
そういえば、花火大会だというのに、河原には他に誰もいない。

2010年11月4日木曜日

TOUR DE CHAT-NOIR

建設中の塔に、しっぽを切ってやった黒猫が引っ掛かって下りられなくなったらしい。
しっぽもないのに、どうやって引っ掛かったのだろうか。わからない。
ともかく流星(黒猫に絡まったあの流星だ)が、助けに行けとうるさく言う。
どうやって助けられるのだろう。見上げても黒猫なんか見えやしない。
ぼんやり塔を見上げていたら、お月さまがやってきた。投げ飛ばされたのかもしれない。
月の蓋を開け、身を乗り出し、いつのまにか塔を見下ろしていた。
黒猫が甘えた声で鳴きながらこちらを見上げるが、月から手を伸ばしても届かない。突き落とされたかもしれない。
しっぽを切ってやった黒猫を抱いて、ベッドで寝ていた。黒猫の抱き心地は悪くない。

2010年11月1日月曜日

AN INCIDENT IN THE CONCERT

恋人が楽しみにしていた、マリンバのコンサートに出掛けた。
開演のブザーが鳴り、照明が落ちる。幕が開く。
けれども舞台は明るくならない。
演奏が始まる。
マリンバの音に合わせて、ぴょこぴょこと光の玉が跳ねている。
よくよく見れば、どこかで見たことがあるような光る金平糖……星のマレットだった。
演奏者は、よくも星たちを手懐けてマレットにしたものだ。
感心したのも束の間、そのうち星は好き放題に跳ねだした。
それでも、なかなかよい演奏だ。星たちは気持よさそうに跳ね、どこから飛んできたのか数も増え、舞台はすっかり明るい。満点の星舞台だ。
諦めたのか、はなからそのつもりなのかわからないけれど、演奏者は柄だけになったマレットをベルトに差し、マリンバの前で寝転がって、ぐっすりと眠ってしまった。

楽器の出てくる話を書くのは、とても楽しい。そしてなんだか嬉しい。
十代の前半の5年ちょっと、人生全体から見れば短い期間だけれど、楽器を吹いていた日々があったからこそ、楽しく書けるんですなぁ。

2010年10月29日金曜日

星を食べた話

巨大な金平糖だと思いながら、星を食べてみたことがなかった。
見た目が金平糖なら、味も金平糖に違いない。どれから味見しようか。
机の上の星たちが、ふるっと震えたような気がしたが、容赦はしない。
右から二番目の星にかじりついたが、駄目だった。全く歯が立たない。舐めても味はしなかった。
試しに茹でてみた。
変わらない。
今度は冷凍した。
変わらない。
「どうしたら星を食べることができるんだろう?」
お月さまにそうぼやいたら、食べていたかき氷を差し出された。
「食べて見れば?」
星は、削ると食べられるそうだ。
味は、金平糖というより、タマゴボーロだ。

2010年10月27日水曜日

箒星を獲りに行った話

お月さまに「箒星を獲りに行ってほしい」と、地図と日時の書かれたメモを渡された。
一体全体、箒星はどうやって獲ればいいんだろうか。きっとそれはとてつもなく速い。虫取り網なんか振り回しても、捕まえることはできやしないに決まっている。
机の上の星たちが、「塵取り!」と笑った。
ブリキの塵取りと、ラムネの空き瓶を持って、いざ、箒星を獲りに、丘へ!
夜空に高く掲げた塵取りが、月に照らされ、なんだか眩しい。

2010年10月25日月曜日

月光密造者

星が誘拐された。星なんぞかどわかして、どうしようというのだろう。
あれは「密造者」の手だったと、無事だった星たちが呟いていた。
何を密造するんだ。
「決まってる、月光だ」
でも、星の光では月光は作れない。お日さまの光をお月さまが嗅ぐから、月光になる。
「そう、所詮、偽物さ」
偽物の月光で何を?
「高く売るんだよ、あいつらに。もうすぐハロウィンだから」
あいつら? ハロウィン?
「オバケ」
質問に答えてくれた声はそれきり聞こえなくなった。
翌日、誘拐された星は、机に戻っていた。

2010年10月22日金曜日

雨を射ち止めた話

毎晩毎晩、ひどい雨が降っていた。昼間は天気予報どおりの天気なのに、夜になると決まって雨が降るのだった。
お月さまはびしょ濡れで、屋内に入ってもびしょ濡れだから、お月さまだと気づかれてしまう。ポケットに入ろうと、ブランケットを被ろうと、とにかくびしょ濡れなのだった。
「雨がやまないと、おちおち遊びに来られない」
なんだ、お月さまは地上に用事があるわけではないのか、遊びに来ているだけなんだな。と、妙なことに感心するが、ともかくこう雨ばかりでは敵わない。
「雨に恨まれるようなことでもしましたか?」
聞くと、お月さまは以前、雨雲にぶつかってコブを作ったことがあるという。恨むならこっちのほうだと、ひとりで怒り始めた。
「雨雲め、バーン!!」
お月さまは手でピストルの真似をした。
それを見て、引き出しに小さな鉄砲があることを思い出した。水鉄砲だ。
そこに、古いローズウォーター(誰のものだろう?)を入れて、夜空に向かって射ってみた。
「バーン」
雨粒たちは恍惚となり、やがて雨は止んだ。

瓢箪堂のお題倉庫を、ちょっと追加しました。

なげいて帰った者

チャイムが鳴り、玄関に出ると、老いた猫がいた。「ちょっといいか」
部屋にあげ、ミルクを出すと「温めろ」という。
ほんの少しだけ温めて出すと「熱い」という。
この老猫にはしっぽがない。昔昔、鋏で切られた話を延々と語って聞かせる。
声が枯れるとミルクを舐め、同じ話を三度ずつした。
帰るときに老猫はこうなげいた。
「近頃のしっぽがない猫ときたら、実にだらしない。きっとしっぽを切った人間が軟弱だったのだ、そうに違いない」
知らんぷりで老猫を見送る。

2010年10月18日月曜日

ポケットの中の月

お月さまが「明日の晩は、ポケットに入れてくれ」などというのだ。
明日は新月だから。
お月さまはそういうけれど、それならば街に来なければよいのに。
「理由を聞きましょう」
と言うと、お月さまはもじもじし始めた。
「逢いたい……いや、見たいものがあるのだ。どうしても、明日の晩でなければ」
次の晩、どういう仕業かわからないが、巧い事ズボンのポケットに収まったお月さまはモゾモゾと動くからくすぐったい。
「ちゃんと行きますから、おとなしくしていて下さい」
そう言いながら着いたのは、月下美人の花畑だった。いくつもの白く大きな芳しい花が、月のない夜に輝いている。
ポケットの中のお月さまも身を乗り出して輝く。外に出て大丈夫なのだろうか。思わずズボンのポケットを押さえる。月光が漏れないように。
深呼吸したら、あまりの芳香に気を失ったから、その後、お月さまがどうしたのか、わからない。

2010年10月14日木曜日

霧にだまされた話

一歩進むごとに霧が濃くなるようだ。家を出た時には、乾いた夜空だったのに。
まっすぐ歩いているのかもわからなくなってくる。もういい、霧の深いほうへ歩こう。
しっぽのない黒猫がふわふわと飛んでいる。
すぐ前を歩く女の人はスカートが捲れあがっているが、尻がない。
「そうだ、明日はハンバーグを食べよう」
指をパチンと鳴らしたその瞬間、霧が晴れた。
黒猫はカナブンだし、前を歩く女の人は、髪の薄い小父さんだった。

2010年10月9日土曜日

キスした人

「キスしてもいいですか?」
夜の散歩中、どこから現れたのか、目の前にきれいな女の人がいて、そんなことを言う。
「キスしてもいいですか?」
こちらが「イヤです」と答えても、キスをしてくるかもしれない、そんな表情。
「あの、キスをするのはいいのですけど、なぜキスをしたいのですか?」
彼女の話は、どうにも要領を得ない。いろいろと聞き出した話をまとめると、流星にぶつかった時に唇を奪われてしまったので、どうせならちゃんとキスをしてみたい、そういうことらしいのだ。
「それは、もっと、あなたが好きな人とするのがいいと思うのです。通りすがりの男なんかじゃなくて」
「だって、あなたはお月さまでしょう?」
ああ、この人は、見ていたのだ、押し出されて月から街を見下ろしていた時のことを。
「いや、違うのです。あれはちょっとした事故でした。本当のお月さまはこの人です」
ちょうどよくお月さまが通ったので、彼女に差し出すと、ためらいもなくキスをした。
それはあまりにもうっとりとしたキスだったので、夜空は慌てて雲で月を隠した。

再三お知らせしている豆本カーニバルが、明後日11日に迫りました。
出展者のブースのほかに、展示コーナーがありまして、そこで出展者のレア豆本や、コレクターズアイテムが並びます。
私は、「豆本はじめまして展」の時に一度だけ展示した「赤裸々」をこのコーナーに出します。それを主催の田中栞さんのブログで紹介していただきました。
記事中に出てくる細川書店というのは、戦後すぐの物のない時期に瀟洒な本を出していた出版社。もったいないお言葉で、ちょっとドキドキしています。

2010年9月26日日曜日

押し出された話

夢の中で夢に押し出された。
「何故、出ていかなければならない? ここが誰の夢だと思っているんだ?」
背中をぐいぐい押されながら叫んだけれど、夢には届かない。
抵抗しても、ぐぐぐ、ぐぐぐ、と押し出される。
ふいに軽くなって、眠りから覚めたのかと思いきや、月の蓋を開けて街を見下ろしていたのだった。

2010年9月24日金曜日

はねとばされた話

夜道とはいえ、ずいぶん暗い道だ。吸い込まれそうに黒い道路を歩く。歩き慣れた道だが、こんな闇のような道だっただろうか。
そういえば、足元がふわふわする。アスファルトの感触ではないぞ、これは。
それに、なんだかずいぶん背が高くなった気分……なんて悠長なことは行っていられない! 空中だ。屋根の高さを歩いているのだ。では、歩いているこの道は、一体何だ?

そう思ったら、道がめくれあがってバチンと飛ばされた。
尻餅を付いて見上げたら、巨大なコウモリが月夜に羽ばたいていた。どうやらあのコウモリの上を歩いていたらしい。
もう少し空中散歩を楽しみたかった気もする。

超汗かきで超寒がりなわたくしめには、今年は七分袖の服を着る機会がない予感がします。
月曜日に風邪引き、火曜日に病院に行きました。
鼻水はどこからくるの?

2010年9月22日水曜日

突きとばされた話

ドシンと何かが背中に当たったと思ったら、そこは夜空だった。三日月が近くにあったので、慌ててしがみつくと、蓋が開いてお月さまの顔がひょっこり出てきた。
「助けてください」
「流星がまともに衝突したな?」
月から乗り出したお月さまに、ドシンと突きとばされた。そこはベッドの上だったから、その夜はそのまま眠った。
翌日、鏡で背中を見てみたら、赤い跡が四つ残っている。どちらが流星の手形で、どちらがお月さまの手形かは、わからない。

2010年9月20日月曜日

黒猫のしっぽを切った話

夜の散歩中、例によって流星が脇を掠めていった。
しばらく歩いていると、前方にさっきの流星が地面すれすれをゆっくり飛んでいるのが見える。
流星の奴、具合でも悪いのかと近づけば、黒猫のしっぽに絡まって動けなくなっていたのだった。
その姿があんまり可笑しいので笑ったら、流星にも黒猫にも怒られた。
流星をしっぽから外そうと試みるが、どうやっても取れない。
流星が「しっぽごと切れ!」という。驚いたことに黒猫も同意した。仕方ない、家に鋏を取りに帰ろう。

待ちかねていた流星と黒猫に鋏を見せて「本当に切るんだね?」と確認する。早くしろと流星がせがむので、パチンとしっぽを切ると、流星はしっぽを付けたまま疾走し、黒猫も身が軽くなったと言わんばかりに、ふわふわと空中を歩いて去っていった。

2010年9月17日金曜日

SOMETHING BLACK

黒いものが欲しい、とお月さまが言うので、黒いペンを渡したら「それは違う」と言う。
黒いサングラスを渡しても、黒い傘を渡しても、黒い靴を渡しても、「それもちょっと違う。悪くはないが」
結局、黒いブランケットを渡したら「これだ、これだ」と、喜んで頭から被り、町を歩き始めた。ついでに黒い靴を履いて、黒い傘をさして。
それは夜の町でも随分おかしな格好だったので、町行く人々は相当不審そうな顔でお月さまを見た。
家に帰り、カレンダーを見て、気がついた。今夜は新月だったのだ。

2010年9月15日水曜日

明日のデート

大切な指輪を失ってしまった。
飼い犬に訊いてみると「蟻が運んで行った」。
蟻の巣に「指輪を返して」と囁いた。
蟻は「甘い匂いがしたのに、食べられないから、捨てた。多分、蜘蛛が持っていったよ」。
町中の蜘蛛の巣を捜した。ようやく見つけたのはマツダさんの家の門扉だった。蜘蛛の巣に、指輪が輝いていた。
「蜘蛛、私の指輪を返して」
「代わりにこれよりも、もっと綺麗でもっとピカピカしたものをくれたら、返してやる」
私は恋人に相談した。「蜘蛛が指輪を返してくれないの」
「それじゃあ、もう一度蜘蛛に返してってお願いしにいこう」
というわけで、明日、私は恋人と手をつないでマツダさんちの門扉に行く。
ポケットにはビー玉と王冠とパチンコ玉。蜘蛛はどれを気に入るのかしら。
とても楽しみ。

2010年9月14日火曜日

IT'S NOTHING ELSE

夜道を歩く。両側はブロック塀で、アスファルトの道路には「止まれ」も書かれていないから、ただ歩く。街灯はない。
夜空を見上げる。月は出ていない。
ポケットの中の星が光るから、どうにか足元が見える。いくら歩いてもどこにも辿りつかない。
ただ星だけがあるから、歩き続ける。

新しいコンテンツを作りました。毎度の通り、ブログだけど。
瓢箪堂紙字引
自分のための資料です。

2010年9月10日金曜日

ある晩の出来事

星たちが眩しくて目が覚めた。
今夜はどうしても眠りたいのだ。黒い布を星たちの上に被せて、ベッドに戻る。

闇が怖いと、星たちが泣く。

2010年9月8日水曜日

月光鬼語

満月の夜、「月夜が見たい」と机の上の星たちが騒ぐので、網に入れて散歩に出た。
何故だか街灯がことごとく消えていたが、明るい満月と大喜びの星が目一杯に輝くので、足元に不安はなく、むしろ眩しく感じたくらいだ。
しばらく歩くと「鬼が来た」「鬼が来る」と星たちがひそひそ言い出した。
斯くして鬼が現れたのだが、自分と変わらぬくらいの背格好で背広を着た鬼だった。
恐ろしい姿ではなかったが、なんとなく星の入った網をセーターの中に隠しておいた。
「今晩は、よい月夜ですね」
と鬼は言った。街灯が震えあがるのがわかった。
「えぇ、いい月です」
鬼は何事もなく去ったが、結局、星をセーターに隠したまま家に帰った。
巨大な金平糖の角が腹に当たる。
鬼の角は、夜空に突き刺さるほど長く、剣のように鋭かった。

2010年9月5日日曜日

A CHILDREN`S SONG

真夜中のシーソーに男の子が一人。
「おやすみ お星さま、おやすみ お月さま チントン カントン テッテコプー」
へんてこな調子で歌っている。
もっとへんてこなことに、男の子は一人なのに、ギッタンバッコン、シーソーが動いているのだ。
近づいて見れば、男の子の向かいには金平糖が一つ。あまり光っていない。
「子供は寝る時間だ。おうちはどこだい?」
「あっち」
男の子の指差す先には、月があった。
おやおや、お月さまを探しに行かなくてはならないようだ。
男の子を肩車し、光り具合のよくない星をポケットに突っ込み、歩く。
「お月さま、やーい。チントン カントン テッテコプー」
二人でそう歌ったら、月の蓋が、開いた。

2010年9月3日金曜日

A PUZZLE

机の上に並べた星の順番が入れ替わっている。
左から拾った順に並べてあったはずなのに、大きい順になっていたり、意図のわからない並びになっていたりする。
それをお月さまにボヤいたら、「あぁ、それは『よくくっつく順』だ」という。
試しにくっつけてみたら、ピッタリ合わさって、金平糖が棍棒になってしまった。
今度お月さまに会ったら「星が外れない」とボヤかなくてはならない。

2010年9月1日水曜日

A MEMORY

朝起きると、机の上の金平糖が四つになっていた。
最初に拾った星。それからぶつかってきた流星。倉庫の影で見つけた星。もう1つは?
「夢の中で拾った星」
倉庫の影で見つけた星が面倒そうに呟いた。
まさか?
一生懸命に夢の記憶を辿ったけれど、缶切りを探していたことしか思い出せなかった。多分、桃の缶詰を食べたかったのだ。
そんな夢のいつどこで、星を拾ったのだろう。

2010年8月31日火曜日

無題

闇化学な靄に関する注意報が発令された。鰓呼吸推奨。

お月さまとケンカした話

「あ、こないだはタバコをありがとうございました。美味しくて、つい灰まで食べちゃいました」
月から出てくる人にばったり出会った。
「え、灰を食べたって。なんてことをしたんだ!」
お月さまは、さっと表情を強ばらせた。
(彼が本来の意味で「お月さま」かどうかはわからないが便宜上そう呼ぶことにする。ちなみに、「お月さま」とか「お月さん」とか呼びかけると、彼は普通に返事をするのだ。)
「食べちゃいけなかったんですか?」
「タバコの灰を食べる奴がどこにいる?」
お月さまに胸ぐらを掴まれる。
「食べるなって言ってくれればよかったのに」
「タバコの灰を食べる奴がどこにいる?」
お月さまに突き飛ばされる。
「だって美味しかったんですよ。甘くって」
「タバコの灰を食べる奴がどこにいる?」
お月さまはポケット灰皿を取り出して、灰をつまんで口に放り込む。

2010年8月29日日曜日

月とシガレット

「歩きタバコはいけないよ」と掴んだ男の腕が、存外に軽くて、パッと力を弛める。顔を見れば、ハテどこかで見たことがあるような気がするが思い出せない。
男は「申し訳ない」と謝り、そのタバコを一本くれた。
タバコは喫まないと断ったが、まぁまぁと押し切られる。
家に帰り、月を眺めながら、そのタバコに火を着けると、桃のような甘い煙が立った。
しばらくすると、月の蓋が開いて、人が入って行くのが見えた。紛れもなくタバコをくれた人である。
皿に落ちた灰は、砂糖のように甘かったので、全部舐めた。

2010年8月27日金曜日

無題

数十年の時を経て、書物が呼吸を始める。長い間じっと堪えていた本の吐息を、今、吸った。

2010年8月26日木曜日

ある夜倉庫のかげで聞いた話

またしても、巨大な金平糖が落っこちているのを見つけた。もう使われていない古い倉庫の敷地内、伸びきった雑草の隙間から、ぺかぺかとやたらに煌めいている。
あれも星なのであろう。家の机にいる奴を拾ってから、どうも星づいているようだ。
フェンスを乗り越え、近付いていくと、なにやら声が聞こえてきた。
「これじゃミイラ取りがミイラになっちまう」
「ああ、もう駄目だ。緊急自体発生。行方不明星救出作戦、失敗」
手のひら載せた星は、そりゃもう明るくて、街灯が怖じ気付くほど明るくて。

五千五秒を書き始めてから、拍手が増えました。
ご愛読感謝キャンペーン……は思いつきませんので、がんばって書きます。

過去の「×千×秒物語」は右のカテゴリーからどうぞ。
人気があったのは、三千三秒かなー。少年と月の話。
自分では、四千四秒に思い入れがあります。少女と月の話。

そういえば、今回はまだあんまりお月さん出てないやね。星ばっかり(笑)。

2010年8月24日火曜日

ハーモニカを盗まれた話

ハーモニカをポケットに入れている理由は、明解だ。「吹きたくなったらいつでも吹けるように」
例えば燕尾服でもハーモニカをポケットに入れるだろう。もっとも燕尾服にハーモニカが入るポケットがあるのかどうかは、知らないが。
とにかくツバメのヒナが可愛かったから、その気持ちをハーモニカに乗せたかった。ところがポケットにハーモニカがない。
慌てて家に帰ってそこらじゅうを探してもない。
机の上で、金平糖みたいな星の奴がニヤニヤと光るので、あぁ昨日、流星とぶつかった時に盗まれたのだなと、合点した。

2010年8月20日金曜日

無題

黄色いスニーカーがぴょこたんぴょこたん踊るので足が痛い。

2010年8月19日木曜日

流星と格闘した話

あの巨大な金平糖(星らしいのだが、未だ確証は得ていない)を拾ってからというもの、流星とやらによく出会うようになった。彼らは夜空を瞬く間に駆け抜けるが、地上でも同じだ。
机に向かって手紙を書いているときや、道を歩いているときや、恋人とキスをしようとしているときにまで、頬や腕を掠めていく。おまけに鋭利な刃物でスッと切ったような傷がつくのだ。
捕まえてやろうと待ち構えても、いつ飛んでくるかわからない。ア痛ッと思った時には去った後。
ところが今しがた、蚊が一匹脛にとまっているのを叩き潰したところに、ちょうど流星がそこを通り過ぎたらしいのだ。
手の中で、白く光る金平糖のような物体が暴れている。先に拾ったものより少し小さい。潰れた蚊がへばりついて大変不愉快そうだ。
手の中にあるというのに、飛び続けようとするものだから、振り回されている。力一杯握り締め、腕を抱え込んでもまだ暴れる。
電信柱にぶつかりながら、もう隣町まで飛ばされた。

書きやすいタイトルと書きにくいタイトルが、決まってきます。
この少し後、英語のタイトルが三回来るのだけど、そこがまず山場だ。

2010年8月18日水曜日

投石事件

河原で拾った石ころがない。代わりに巨大な金平糖のような星が、眩しいくらいに輝いていた。
「おまえが石ころを追い出したのだな」
そういうと、星は七色に光った。まったくけしからん星である。
石ころは窓から放り投げてやったと星が言うので(口は利かないが、そんな気配がしたのだ)外に出てみれば、河原で拾った石ころとそっくりな巨石がゴロゴロと転がっていて、車が立ち往生していた。

2010年8月17日火曜日

星をひろった話

巨大な金平糖をひろったのだ。ところが舐めてみてもちっとも甘くない。金平糖ではないようだ。
がっかりしながら、すれ違う人に一々「これは何ですかね?」と尋ねれば、一様に「星ではないですかね?」と答える。
誰に訊いてもそう答えが返ってくるのだから、星なのかもしれない。星だという気がしてきた。
家に持って帰って机に置いたら、先に拾った河原の石ころを苛めるので、よくよく叱り付けておいた。

2010年8月15日日曜日

月から出た人

「月には蓋が付いていたか?」
今度、宇宙飛行士に会ったら訊いてみようと思いながら、一部始終をぼんやり眺めていた。
生憎、宇宙飛行士の知り合いは居ないのだが。

数ヶ月迷っていたのだけど、原点に返る意味で。「五千五秒物語」開始します。まだどんなものになるかわからないけれど「四千四秒」ほどはっきりしたキャラクターものにはならないと思う。たぶん。

私は稲垣足穂ならびに『一千一秒物語』に心酔しているわけではない。よしんば、そうだとしたら、こんなことはしない。
模倣や二次創作をしたいわけでもない。そう見えることはあるかもしれないが。

『一千一秒物語』は「気付き」だった。
それまで短い話といえばきちんと構築されたショートショートしか知らず、そのようなものを自分で書くことはできないと思っていた。
一千一秒を読んで、こんなに短くてこんなに変な話を書いてもよいんだ、と容された気がした。その場で「こういう話をぽつぽつ書きながら年を取ろう」と思った。日記のように書いていけば、60代で10000作になる、と。

2010年8月11日水曜日

無題

大音響の虫の声が、津波のように迫りくる。逃げ場がない。

2010年8月10日火曜日

魂消る通り

魂消る通り商店街の入口は、鳥居のような形をしている。
鳥居の向こうに肉屋とか果物屋とか洋品店とか文具店が並んでいる。
たくさんの人たちがその鳥居を潜って商店街に入っていくけれど、ぼくはまだ魂消る通り商店街には一度も行ったことがない。
だってさ、商店街に向かう人の姿は、鳥居を潜った途端に見えなくなっちゃうんだもの。
ぼくは魂消る通り商店街の鳥居の前を歩くたび、実際、たまげてしまうんだ。

2010年8月8日日曜日

食われた記憶

博学なM氏は、重い事典を抱えて歩き続ける。
道行く人に、ものを尋ねられることが多いM氏だが、事典を開くことはない。全て記憶しているからだ。
ところが先日、うっかりヤギに事典を幾頁か食べられてから、調子がおかしい。
破れた頁にあった事項を、すっかり忘れてしまったのだ。
悪い事に、その頁はMのページで、M氏の先祖についての項があったものだから、M氏は自分の名前も忘れたままに、歩き続けている。

共鳴

打ち上げ花火の音につられてじりじりと蝉が騒ぐ。
負けじと「たまやー」と叫んでみたら、赤子が泣いた。
赤子がいよいよ大声でなくので、犬が遠吠える。
そこに、だまらっしゃいと言わんばかりの大花火が一発。
腹にズドンと響いたと思ったら、闇の中にいた。
もう何も聞こえない。

2010年7月29日木曜日

熱帯夜

へたくそな英語と蝉が輪唱している。
どちらもよく聞き取れないのは、もう微睡始めているからか、それとも暑さのせいか、はたまた青い渦巻きのせいか。今は午前一時。

2010年7月25日日曜日

夏の虫取り

扉が閉まる寸前、電車に飛び乗った男の子は、だれともなく「ごめんなさい」と頭を下げると、虫取り網を振り回し始めた。
おやおや、虫取りが楽しみで仕方ないのだなと思って見ていたが、どうも様子が違う。
彼は車内で本当に、虫を集めているのだった。
彼の網や、小さな指に捕らえられている間は私には何も見えなかったが、虫籠に放たれた途端に姿を現した。毛虫だ。ドドメ色した目玉だらけの毛虫。
それを男の子は涼しい顔で次々と捕まえているらしい。
「ヨシ、きれいになったぞ」
と独り言を言って、男の子は次の車両へ移って行った。ともかくこの車両にあの毛虫はいなくなったらしい。有難いことだ。

2010年7月22日木曜日

ゆうされば

まだ夏は始まったばかりだというのに、暑い。昨日からロクに外出もせず、ぬるいタオルケットをひたすら弄んでいた。
ふいに、豆腐屋のラッパが聞こえてきた。ずいぶん調子外れな「とーふぃ」だ。
ラッパがまずいからと言って豆腐の味も悪いとは限らぬ。夕飯に冷奴を付けようと、小銭入れとボウルを持って外へ出た。
「絹ごし一丁」
「あいよ」と応えたのは、まだ幼さの残る男だった。
「これは蝉時雨の氷水に放った豆腐だから、冷奴にぴったりだよ」
「蝉時雨の氷水? 喧しそうだな」
「ミンミン蝉やアブラ蝉じゃないから、大丈夫」
男は人懐っこい顔で笑った。

冷奴は蜩の声がした。そういえば、この夏はじめて聞く蜩だ。

2010年7月21日水曜日

かくれんぼ

 夕焼けが赤過ぎたのをよく憶えている。  かくれんぼの余韻が残っていた。きょろきょろとあたりを見廻し「あそこはかくれるのにちょうどよさそうだ」などと思いながら帰り道を急いでいた。
 そうして歩いているときに、空き地に穴を見つけたのだ。そこはよく遊ぶ空き地の一つで、どこにどんな草が生えているかまで知っている。そんな勝手知ったる遊び場に、大きな穴があったことに、僕は少なからず驚き、悔しさに似た感情が湧いた。
 穴はかくれるのに十分な大きさがある。そして、中に向けて小便でもしたくなるような穴だった。そう思ったら急に強い尿意が襲ってきた。
「中に入るなら、ションベンする前だ」
 股間を押さえながら穴の中にしゃがみ込む。ひんやりとして寒い。「漏れる!」慌てて立ち上がろうとしたが、動けない。小さなじいさんが、シャツを引っぱっているのだ。
「だれ?」
「おまいらのおとっつあんやおっかさんがガキん頃は、隠し坊主、なんて呼んでたな。おまいのおっかさん、血相変えておまいを探してら」
 見上げると、赤い空は消えていた。
「じゃあ、帰らなくちゃ。それに、ションベン漏れそうだ。離して」
「駄目駄目。この坊主とジャンケンで勝ったら、穴から出してやら」
 二十三回までは数えたけれど、その後はわからない。ようやくパーで勝って、ホッとしたら、盛大に小便を漏らした。
 ズボンを濡らして、空き地でぼんやり突っ立っているのを、隣のおじさんが見つけてくれたのは、夜の九時を過ぎていたそうだ。
「この空き地も、何遍も見に来たのだがねえ」と、大人たちが不思議そうに言っていたが、隠し坊主の事は言えなかった。

ビーケーワン怪談投稿作

覇王樹に靠れて

 枯れかけたサボテンをゴミ捨て場で拾ったのと時期を同じくして、恋人が出来た。
 バス停で具合を悪くしていた彼女を介抱したのが出逢いだった。期せずして、彼女とサボテンの世話を焼く生活が始まったのである。幸いなことに、彼女とサボテンは、足並みを揃えるように快方に向かった。
 彼女は、サボテンを心から愛でた。うちへ来ると、真っ先にサボテンに話しかけ、空模様を睨みながらベランダで日光浴をさせる。時々水をやる。自分がいない間の世話の仕方を細かく俺に指示する。
 サボテンに手を掛け過ぎるのは、よくないんじゃないか? と言うと「この子が喜んでいるのが、あなたにはわからないの?」とトゲのある声で非難された。
 サボテンが花を咲かせる頃、彼女は美しいと評判になった。しかし、友人から羨ましがられる毎に、俺の心は冷えていった。彼女の情の全てがサボテンに向いている。
 サボテンが元気ならば自分も元気でいられる、と彼女は信じ切っていた。サボテンに必死に話しかける彼女の髪を、心なく撫でる俺。その構図はどう考えても滑稽だ。まるで彼女を介してサボテンを撫でているようで、髪の毛が手のひらに刺さるような気すらする。痛い。
 サボテンが枯れたら、一心同体を自負する彼女はどうなるだろうか。
 試してみよう。黴だらけの浴室で熱湯に浸した。ベランダで踏みつけ、放置した。腐り始めたところで、生ごみの日に捨てた。
 サボテンが部屋から消えたことに気づくと、彼女はたちまち体調を崩した。
 半狂乱の彼女の額に最後のキスをして、病院行きのバスに放り込んだ。
 手を振り見送り、清々したと、顔が弛む。唇に、鋭い痛みが走った。サボテンの棘が刺さっている。

ビーケーワン怪談投稿作

トカゲの尻尾を踏んだ話

 靴底越しに感ずるトカゲの尻尾がやけに生々しい。尻尾を失くしたトカゲは一瞬恨めしそうにこちらを見上げ、しゅるしゅると植え込みの中に消えて行った。少し考えて、千切れた尻尾は持ち帰ることにした。
 尻尾は干からびることもなく、机の上に居る。時折ひゅるりと動くような気配があるが、たぶん目の錯覚だろう。
 ヤモリがよく来るようになった。窓に貼り付いている。はじめは一匹、二匹だったのが、いつのまにか増え、夥しい数のヤモリが毎晩、規則正しく並んで窓に貼り付く。流石に気味が悪い。しかし、ヤモリは家守、縁起は悪くないはずだ。
 とうとうトカゲがやってきて「尻尾を返して欲しい」と訴えた。
「もう新しい尻尾が生えているではないか」
「それとこれとは性質の異なる尻尾でして」云々かんぬん。
「それに、貴方もお困りでしょうから」トカゲは窓を見遣る。
「ヤモリのことか。ヤモリぐらいどうってことはない。噛まれるわけでもなし」
「ヤモリ? わたしはトカゲですが」
 要領を得ない。ともかく尻尾は返した。その晩からヤモリは来なくなった。
 休日、ヤモリの跡が残る窓を拭こうとして気が付いた。ヤモリだと思っていたものは、人の手だったようだ。道理でトカゲと話が通じない。

ビーケーワン怪談投稿作

無題

記憶装置の管轄外で起きた出来事を記録する。

2010年7月20日火曜日

無題

鴉の足音で目覚める。

2010年7月17日土曜日

チェロに抱かれた女の子

真っ赤なチェロケースが女の子を抱いて歩いている。いや、チェロケースを背負った女の子が歩いている。
どうしても、女の子がチェロに抱きかかえられているようにしか見えない。この子がチェロを弾くんだろうか。それを想像したら、可笑しいような、いじましいような気持ちになって、顔が綻んだ。
それを目ざとく見つけられてしまったらしい。
「おじさん、わたしみたいなチビがチェロを弾くなんてって、バカにしたでしょ?」
見知らぬおじさんに頬っぺたを膨らませながら突っ掛かる女の子を見て、もっと笑ってしまう。
「今夜、コンサートなの。聴きに来て。ちゃんとバイオリン持って来てね」
これは参った。おじさんがバイオリン弾きだと、どうしてわかった?
「内緒。とにかく来てね」女の子がずいと差し出したチケットを受け取る。

夕刻、コンサート前に女の子の楽屋を訪ねた。そこに女の子は居らず、蓋の開いたチェロケースだけがあった。
無用心だな、楽器の側を離れる時は、気をつけないと。
近付き楽器を覗き込むと、懐かしい音色で話しかけられた。
かつて、憧れていたひとが演奏していたチェロだったのだ。
「彼女は元気かな?」
チェロの答えは「ノー」だった。女の子は、彼女の忘れ形見だと、チェロは奏でた。
赤いワンピースでおめかしをして戻ってきた女の子に彼女の面影を見出だしながら、レクイエムをやろう、と持ち掛けると、女の子は「もうバレちゃったね」と、笑った。

2010年7月15日木曜日

恋文

黄色の蝶がうろうろしているのだ。
ひらひらではなく、うろうろと。
「もしや、所番地がわからないのか」
案の定、ポストの周りを飛び回り一つ一つ確認しているようだ。
恋文は無事届くだろうか。 


ルナールの『博物誌』が元です。

2010年7月12日月曜日

紙のホクロ

小さな黒点がコピー用紙に付いている。
爪で引っ掻いても、消しゴムで擦っても取れないので、諦めた。これはホクロなんだろう。
そうしてもう一度見れば、なかなかチャーミングなのだ。
ちょうど「。」と重なっている。くてん、としてかわいらしい。

前回の記事の日、お腹を壊して、翌日には高熱を出し、まだ寝たり起きたりしております。
お粥と、スポーツドリンクと、水ようかんで生命維持をしているだよ。
水ようかんは、3種類食べたけども、値段が高いほうが美味しいのだな。
と言っても、98円から198円の話なんだけど。

2010年7月7日水曜日

七月七日 願い事

とうとう、ウサギを全身つるつるにしてしまった。
「はやく毛が生えますように」と剃刀負けして赤くなったところをくるくる撫でるウサギがいじらしくて困ったが、もうウサギの毛に用事はない。

2010年7月4日日曜日

踏切にて

遮断機が降りる。もう終電は過ぎたはずなのに。
線路を渡らないと帰ることができない。
遮断機を潜って渡ろうか。
そう思った途端に、電車が近づいてきた。目の前を走り抜けたのは、随分昔に廃止となった旧型の電車だった。子供の頃によく乗っていたから、三十年ほど前の車両だ。
遮断機が上がる。あの電車はどこに行くのだろうか。
昔の記憶が蘇る。若かった父や母、毎日遊んだ友達。ランドセルの傷。
あの電車に乗るにはどうしたらいいのだろう。

豆本フェスタが終わったら、豆本作りは一休み……と思っていたのだけれど、そうならない空模様。

無題

新聞が降る夜

2010年7月2日金曜日

守護神、悄然とす

ファイレ島に棲みたる老いた人のやることなすこと、腹黒い。
風のない日は、棕櫚の木にしゅらしゅしゅ昇り、しょんぼり古址を眺めている。 


There was an Old Person of Phila,
Whose conduct was scroobious and wily;
He rushed up a Palm,
When the weather was calm,
And observed all the ruins of Phila. 

エドワード・リア 『ナンセンスの絵本』より

2010年6月29日火曜日

意馬心猿

馬耳東風なベーシングのおっちゃんは、
ある日、全力疾走する愛馬に跨ったまま、帰ってこなかった。 


There was an Old Person of Basing,
Whose presence of mind was amazing;
He purchased a steed,
Which he rode at full speed,
And escaped from the people of Basing.

エドワード・リア 『ナンセンスの絵本』より

2010年6月27日日曜日

ビー玉

陸橋に向けてかざしたビー玉に映る電車の速度は、思ったよりゆっくりだった。
キラキラと曲面を走る電車は、僕の行きたいところに連れて行ってくれるような気がするのだけれど、ビー玉の中に入る方法が、わからない。

2010年6月26日土曜日

無題

For No One のポールの歌声の触り心地は、ライナスの毛布に似ている。どちらも触ったことはない。

2010年6月22日火曜日

むかしばなしの落書き(浦島太郎)

「我こそが浦島太郎に助けられた亀の直系子孫である」と名乗る海亀が後を絶たない。

2010年6月20日日曜日

むかしばなしの落書き(かぐや姫)

月に掛かった雲を食べたら、かぐや姫に酷く怒られた。
着替えの最中だったようだ。

2010年6月17日木曜日

染まる

青い紫陽花の中に、ぽつんと白い紫陽花を見つけた。あら、染まり損なったのかしら、と思ったら「いいえ、白く染まったのです」と声がした。振り返ると、まばゆい白髪の少女がいる。

2010年6月16日水曜日

無題

郵便ポスト氏に「同じところに突っ立ていたら退屈だろう? 散歩はどうかい?」と誘ったが、断られる。

2010年6月15日火曜日

六月十五日夏の後で

ここ最近、ウサギからチョキチョキと毛を切り取って貰っていたから、とうとうハゲが全身に拡がってしまった。流石に申し訳なくて謝ったら「気にするな」と言う。
「羊みたいにまた伸びるかね?」と尋ねたら、「羊に訊いてみる」と出て行った。
ところが、三十分もしないうちに帰ってきた。
「やっぱり、夏が終わってから、訊きに行く」
私もそれでいいと思う。

2010年6月14日月曜日

雨の日の散歩

まず傘が大切だ。赤橙黄緑青藍紫。七色の傘から今日の色を選ばなければいけない。
もちろん、揃いの長靴も。
今日は赤い傘と赤い長靴。暗い雨の中でも眩しい、ぴかぴかに明るい赤だ。
唄いながら歩くと、おかしな人だと思われるので、それはしない。

濡れた花は美しい。
水溜りは時々落ちて出られなくなるので、気を付ける。
道でミミズが寝ていたら、声を掛ける。
雨の日の散歩は実に忙しい。

無題

ミミズのオッサンと大勢遭う。夏が近い。

2010年6月13日日曜日

清潔な私

自分と母親以外の全ての生き物は、清潔だと思っていた。
男の子とかたんぽぽとかキリンになれたら、どんなに清潔だろう。
願いは突然叶うものだ。或る朝、目覚めると私は植物園の向日葵になっていた。ナントカっていう貴重な種類の向日葵であるところの私は、栄養と必要な細菌やプランクトンを計算し、配合された土に植えられ、清浄な水を決まった時間に決まった量を与えられ、分刻みで管理された温度の中、枯れずに生きていく。
太陽の方向もわからず、毎日時計だけを眺めている。
不潔な存在だったあの頃よりは、幸せ。自分が汚いと思わないのは、幸せ。何も楽しくはないけれど。
まだ午後四時二十八分だ。

名取川

 名取川の辺に棲む翁は、昔話や民話や、その他たくさんの不思議な話の語り部として有名である。
 翁が有名なのは、その膨大な話の記憶量だけではない。なかなか人に語らぬことでも有名なのだ。大学の研究者、怪談やオカルト好きの者、テレビや雑誌の取材などで翁の元を訪れる者は多い。だが、実際に話を聞いて帰ってくる人間は、ごく僅かだった。
 翁は堅物でも偏屈でもない、気さくな老人である。相手が気に食わないからと門前払いをするわけではない。それは私自身、翁に逢ったのだから、断言できる。

 雑誌の取材を翁に申し入れた私は、翁の指定した日時に訪ねて行った。
 茶と菓子を持って現れた翁は、真っ先に私の名を訊いた。もちろん、取材を申し込んだ際にこちらの氏名や取材目的などは話をしてある。翁の表情には、なぜか悪戯小僧のような気色があった。
「改めまして、東京のX出版から参りま……」
 私は絶句した。自分の名前がわからないのである。嫌な汗が全身から噴き出した。ポケットを探り、名刺入れを取り出す。
 名刺は、名前の部分だけ墨を流したように滲んでいた。翁は私の名刺を覗き込んで、けけけけ、と笑った。
 真顔に戻った翁に、狂言の「名取川」を知っているか? と訊かれても、すっかり動転した私には、何のことやらわからない。川に名前を取られたのだと、翁は説明した。
 もう一度、川を渡れば、東京に帰るころには、名前も思い出すだろう。その代わり、ここでの出来事はほとんど覚えていないはずだからと、励まされ送り出された。
 そう、私はその日の出来事をよく覚えている。そして、未だに自分の氏名を思い出せないままだ。家族や友人に何度聞いても、覚えることが出来ない。

どっちかというと、「みちのく怪談」の没。
本文中にもあるように狂言の「名取川」を下敷きにしたようなような。

2010年6月10日木曜日

阿鼻叫喚

 叫び声に驚いて様子を見に来た妻が、どさりと倒れた。私は叫びながら読書中で、妻を抱き起こすことができない。よしんば、本を手放しても、とてもこの手で妻に触れる気など起こらないだろう。
 古書店で一目惚れした『てのひら幽霊』なる本は、筆者も版元も聞いたことのない名であったが、趣向を凝らした美しい造本で、これぞ古書探求の醍醐味と、迷うことなく購入した。帰りがけ、店主が「お気をつけて」と小声で呟いたのは、気のせいではなかったようだ。
 目を通した端から、文字が滲み、血となり、頁を濡らす。今すぐにでも目を閉じて本を放り出したいのに、それができない。
 題名の通り、古今東西の短い幽霊話が次々と語られていく。どれもこれも凄惨な話だ。一話読むごとに、血が染み込んだ本は重くなり、主人公たる幽霊が出現する。幽霊が押し合い圧し合いしながら、好き放題に大声で恨み事を言う。私の叫び声と、幽霊共の「怨めしや」が狭い部屋に充満する。
 腥い空気が濃くなった。血の滴となった文字は、紙面から溢れ出し、私のてのひらから手首まですっかり血みどろにした。
 血に塗れた私の手指は、それでもなお間違いなく頁を繰る。夢中になって幽霊話を読み漁る。叫び声を上げながら。
 ついに最後の一話となった。この一話を読み終えれば、解放されるはずだ。
 早く早く。読み終えたら、血に穢れたこの手を洗い、妻を介抱するのだ。
 頁の上にゆらりと立ち上った最後の幽霊が、手招きする。息を吸う間もなく上げ続けていた叫び声が、退く。

bk1怪談大賞用習作二つ目。
昨日アップしたのは、6月3日に移動しました。
何月何日に書いたか含めて記録するのがこのブログの役割。

2010年6月8日火曜日

六月八日 ゾウのおならについての考察

ゾウは、「横になるときについついおならをしてしまう」と言っていた。
どうしてなのか、ゾウ自身よくわからないらしい。私も考えてみたが、ゾウではないのでわからない。
ならば真似をしてみようと思ったけれど、ベッドに潜りながら都合よく放屁するなんて器用なことはできなかった。
ところが、ついさっき思い出したのだ、ウサギが「どっこらしょ」と言う時、十回に七回は同時に「ブゥ!」と音がすることを。
これでゾウのおならも「どっこらしょ」であるという仮説ができた。
ちなみにゾウのおならは、「ブロロロロロ」だ。

2010年6月3日木曜日

鏡越しの君

 鏡に向かう妻と会話するのが好きだ。髪を梳かし、肌を整え、化粧をする妻をぼんやりと眺めながら、とりとめのない話をするのは、恋人時代からの変わらぬ習慣である。
 時折、鏡の中の妻と目が合う。左右が入れ替わってほんの少し現実と違う妻の顔に、微笑まれたり、睨まれたりする。
 どういうわけか、鏡の中の妻は、違う方向を見て話していることもある。私とは目が合わないが、鏡越しに誰かを見て、「そうよね」などと言って微笑みかける。さりげなく見廻してみるが、もちろん誰も居ない。
 おまけに、私に対するよりずっと優しく、そして少し寂しそうな眼差しをするものだから、心中穏やかではない。私は嫉妬しているらしい。
 困ったことに、近頃の妻は、私を通り越した天井のあたりに話しかけることが多くなった。私はますます嫉妬する。妻は一体誰に語りかけているのだ。
 妻よりも早く起き出して、鏡台の前に座った。鏡に掛けられた布を捲る。私がかつて贈ったスカーフで作ったものだ。
 鏡を前に、私は己と対峙することができなかった。映っていないのだ。
 その代わり、天井のあたりに、苦笑いをしてふわりふわりと浮いている私が映っていた。
 そうか、妻は、ちゃんと私と話してくれていたのだ。
 そう合点したら、急速に眠たくなってきた。
 妻に寄り添って、もう一度眠ることにしよう。
 恐らく、もう二度と目覚めることはない。

ビーケーワン怪談大賞に出すための習作その1。
なかなか調子が出なくて、結局全部で六つも書いてしまったのことよ。

2010年5月30日日曜日

その日、目が覚めてからメロンパンを食べるまでの出来事

サイレンみたいな目覚まし時計で、飛び起きる。時刻は6時45分。いつもと変わらぬ朝ではない。
メロンパンが強烈に食べたくなったのだ。
朝食は、トーストとヨーグルトとコーヒー。トーストにはジャムをたっぷり付けて食べる。たまにトーストするのが面倒なことがあって、そんな日のためにシリアルのストックがある。丁寧に焼けないなら、トーストなんか食べないほうがマシだ。つまり我が家にメロンパンはない。
メロンパンへの衝動は一層激しい。仕方がない。通勤途中でメロンパンを買おう。
いそいそと出勤の支度を整えコンビニへ向かう。途中三回水溜まりに填まった。晴れているのに。
コンビニに入ると「いらっしゃいませ」と元気な声が降ってきた。店員はキリンだった。天井を突き破っているから頭は見えない。
僕はメロンパンと缶コーヒーと小銭をレジに置いた。お釣が要らないように。
キリンが「ありがとうございまぁす」と言うので、メロンパンと缶コーヒーだけ持って、コンビニを後にした。また三回水溜まりに填まった。
駅のホームにはヤギが列を作っていた。ヤギを押しやりながら、ホームのベンチに腰掛ける。やっとメロンパンが食べられる。涎が垂れ始めていた。が、もう少しだけ我慢してコーヒーを一口。
プルタブを開けるとヤギが一斉にこちらを見たから、コーヒーが甘い。ようやくメロンパンだ。メロンパンを欲してからもう23分も経ってしまった。いつもの電車が来るまで、18分。たっぷり時間はある。
メロンパンを齧ったその瞬間、ヤギが一斉にホームに飛び起きりて線路を歩き出した。
ヤギもいなくなったホームでたった一人、メロンパンを食べる。あれ程に欲していたのに、たいして美味しくない。賞味期限が二年前の今日だ。

2010年5月25日火曜日

無題

真夜中の霧雨が、街灯の光を朧にする。夜に浮かぶ若葉の緑が、眩しい。

2010年5月21日金曜日

雨に踊れば

 傘が重い。ぐいぐいと引っ張られる。
 これが台風だったら強風のせいだと言えるのだが、今夜は小糠雨、音もたてずに細かい雨が降り続いている。
 傘はどんどん重くなる。この間、新調したばかりの常盤色をした大きな傘だ。重さなど気にせず選んだのが、失敗だったか。
 差しているのが面倒になって、ふっと腕の力を緩めると、(行ってもいい?)と声が聞こえた。
「どこに行くんだ?」
(えっとね、念仏踊り)
 念仏踊り、だと?
 傘は上下に跳ねながら俺を引っぱって行く。
 ええい、ままよ。どこへでも連れて行け。それにしてもルックスの割に、子供っぽい傘だな、コイツ。新品だからか?
 雨は相変わらずで、足音までも吸い取られたように静かだ。おれは、浮かれた傘に操られ、間抜けなステップを踏みながら細かい雨の中を進む。
 
 たくさんの傘が、踊り狂っていた。
 傘は、おれを振りほどいて、一目散に傘の踊りの輪へ入っていく。
 踊る傘は実にさまざまだった。ビニール傘も、和傘も蝙蝠傘も、入り乱れて踊っている。けれど、ほとんどが壊れたり、年季の入った古い傘で、真新しい常盤色の傘は、ずいぶん浮いた存在だ。それなのに、おれの傘は骨だけになった傘や、厳めしい蛇の目に促され、どんどん踊りの輪の中心へ入っていく。
 閉じたり開いたり、くるくる回って、傘が踊る。大勢の傘が、おれの傘に合わせて、踊る。やがて、無言だった雨が念仏を唱え始め、傘たちの踊りは一体となる。
 おれは、傘たちの踊りに目を奪われていた。細かな雨が体中を濡らし、髪の毛から水滴が落ちるのも気にせず、立ち尽くしていた。

 ようやくおれの手に戻ってきた傘は、興奮冷めやらぬ様子で、いろいろと話を始めた。
(あそこはね、昔昔、傘屋だったの。じいさんが、ひとりで傘を作っていたんだ)
(じいさんはすごく頑固でね。でも、じいさんの張った傘は、とても長持ちだったんだ)
(さっき踊っていた傘は、みんなじいさんの傘か、その生まれ変わりなの)
(でね、今夜はじいさんの祥月命日)
「なあ、おまえひとりだけチビだったろう? 本当はまだ付喪神にはなれない年なんじゃないのか?」
(うん、でもね。ついこの間まで、こんな顔だった)
 傘は「ばあ」と、あっかんべえをして見せた。蜘蛛やらゴキブリやら小鬼をぶら下げ、舌をだらりと垂らした、巨大なオンボロ傘が立ちはだかる。
 腰を抜かしたおれは、からからと大声で笑うお化け傘に引き摺られて、家に帰った。

「へんぐえ‐茜‐」掲載作

無題

私の頚にグリースを注して。アルトサックスのケースに入ってるから。

2010年5月20日木曜日

増殖する愛

湿度の高い日が続いていた。植え込みの根元には、どこからともなくキノコが出現している。
換気の悪い私の部屋は、きっとカビだらけになっているはずだ。今度晴れたら家具を動かして掃除をしなければならない。
そんなことを考えながら、図書館に行ったら、図書館の職員たちが頭を抱えていた。図書館の蔵書が、みな恋愛小説になってしまったという。
私は恋愛小説は好まない。今日は金融の本を探しに来たのだ。
経済の棚を見上げると『愛で儲ける』『トキメキ株式』などという本が並んでいた。
「焼却処分を検討中です」との貼り紙を図書館長が溜息混じりに次々と壁に貼りつけていく。
これだから梅雨は困る。

2010年5月19日水曜日

木星の縞、消失

消えた一筋を捜すため、ゼウスの娘は旅支度を始める。 

2010年5月17日月曜日

ポンコツ船の沈没

カディス湾の老人は、女と見れば助け船。
我が娘に手を差し出したら、海にまっさかさまに落っこちた。
ついでに、地獄に落っこちた。 


There was an Old Person of Cadiz,
Who was always polite to all ladies;
But in handing his daughter,
He fell into the water,
Which drowned that Old Person of Cadiz.

エドワード・リア『ナンセンスの絵本』

2010年5月13日木曜日

父への貢物

マルセイユに棲みたる老父のため、
暗緑色のベールを被った娘たちが、
めいめいアンコウを獲ってきた。
丸ごと皿に乗っけて差し出せば、
マルセイユの父さんは大喜びで丸飲みする。 


There was an Old Man of Marseilles,
Whose daughters wore bottle-green veils;
They caught several Fish,
Which they put in a dish,
And sent to their Pa' at Marseilles.

エドワード・リア『ナンセンスの絵本』

アンコウにするかマンボウにするか迷った。

2010年5月12日水曜日

無題

「血の海に糸が垂れて、ギロチンがたくさん」
「おねむり薬100錠飲んだら綺麗に死ねる?」
「凍死ってどうかな」
と、屈託のない笑顔で少女が問う。

2010年5月10日月曜日

千代紙

千代紙の切り屑は蝶々になるものだと思い込んでいたけれど、そうではなかった。
本当かどうかわからないけれど、梅雨を連れてくるらしい。そういえば、紫陽花によく似ている。

2010年5月8日土曜日

無題

タイムラインは歌うよ。

2010年5月5日水曜日

飛行船群の襲来

プシケは、その日も電線を見上げながらトボトボと町中を歩いていた。それが彼の仕事であるからだ。傷ついた電線を見つけたらゲシュトットさんに報告する、というのがプシケの仕事だ。
その日は珍しく、傷ついた電線は一ヶ所も見つかっていなかった。プシケは少し退屈しながら上を見て歩いていた。
そんなプシケの視界に、白い楕円形の物体が入った。
「飛行船だ」
プシケは小さな声で言った。
飛行船は、一機ではなかった。青空に飛行船が犇めき、のんびり飛んでいた。すぐにプシケの視界は、飛行船で埋め尽くされた。
白い飛行船が眩しくて、電線が見えない。今日の仕事は切り上げだ、とプシケは決めた。サラミを買って帰ろう。
しかしゲシュトットさんに観察続行不能の理由を報告せねばならない。
プシケは日誌にこう記した。
「飛行船群の襲来につき」ゲシュトットさんはきっとカンカンに怒るだろう。けれど、何も嘘は書いていないさ。
プシケは、もう一度、空を見上げた。飛行船群はゆっくりゆっくり、東へ進んでいるようだ。

2010年5月3日月曜日

無題

猫が一匹、足りません。

2010年4月30日金曜日

宝物

「宝物は全部、私の中に大事にしまってあるの」
僕の彼女はよくそんな話をする。やせっぽちなくせにお腹がぷっくり出ている。幼女のような美しい彼女。
僕はそのお腹をやさしく撫でながら「いいだろ?」と囁いた。
小さく頷いたのを確認して、彼女の全身にキスを浴びせ、太腿からとろけた股間へ指を這わせた。
「え?」
彼女の中に、異物を感じ、引っ張り出す。彼女が甘い吐息で「イヤ」と言う。
「百点満点のテスト」
「どうしてこんなものが?」
「宝物だから。ずっと大事にしたいから」
宝物は次から次へと出てきた。死んだペットの首輪、初めて買った小説、綺麗な水晶玉……。子供の時大事にしていたという人形を引き出した時、とうとう僕はトイレへ駆け込んだ。
「ねぇ、来て?」
と彼女は潤んだ目で言った。「今一番の宝物をしまわなくちゃ」
僕はもうすっかりその気をなくしていたが、それは全く関係がないようだった。
彼女にとって、僕は保管すべき宝物でしかないのだ。こうして僕は彼女に呑み込まれる。

2010年4月29日木曜日

無題

今宵、十六夜月は煌煌、茶は茉莉花。

2010年4月26日月曜日

のみ

蚤のみを飲み続けよ。

無題

旅行鞄はよいな。旅に行く時だけ目覚めて、あとは天袋で眠っていればよいのだもの。

2010年4月25日日曜日

最後の楽団

街で一番の高層ビルでのコンサート。この拍手が消えたら、楽団は解散する。

火山灰に埋もれた街に、弦楽器は生きづらい。まして管楽器なんて。
ヴァイオリニストは演奏中しばしば弓に付いた灰を拭った。
楽団の解散を報せるファンファーレを鳴らすために、トランペッターは三回も楽器を分解して灰を洗い流さなければならなかった。
観客はそれを見て、楽団の解散が避けようのない現実だと悟る。

洗浄を終えたトランペットがファンファーレを射つ。観客はファンファーレの圧力を身体いっぱいに感じ、これが最後の音楽なのだと涙する。

2010年4月21日水曜日

無題

ピーコックグリーンの傘を右手に、新聞紙に包まれたカーネーションを左手に、雨の夜道を早足で歩く。
カーネーションは雨に濡れて泣いているように見えた。

2010年4月18日日曜日

沈殿都市

この都市は一年に10cmの速さで沈んでいる。
ふかふかの火山灰の上に建てられたビル、ビル、ビル。
10cmというのは「火山が沈黙していた場合」だ。火山が爆発して灰が降れば、この限りではない。
よその町からは「どうしてそんなところに街を作るんだい?」と訊かれるが、
「ここが我々にとって心地よい場所だからだ」としか応えようがない。
「どうしてビルが倒れないんだい?」とも訊かれれば
「火山灰に垂直に沈むよう計算されつくしているからだ」と答える。倒壊の恐れは、ほとんどない。
今年はまたずいぶんと火山灰が降った。
我々は既に地上にいるよりも火山灰に埋もれている時間が長くなった。
近頃は、息をすると苦しい。我々の子は、空気を呼吸する必要がなくなるであろう。そうあるべきと、我々の親は望み、この都市を作った。

この都市が沈みゆくのを刮目せよ。我々は、地球の澱となる。

いさやん
砂場しゃん
あきよさん
三里さん

2010年4月17日土曜日

無題

ネパールの高地にあるイランへ旅行に行った。山小屋の歯磨き粉が非常に不味かった。……という夢を見た。

2010年4月15日木曜日

古城に棲む人

男は姿を失った。透明人間になったのである。
それに伴い男の妻は、耳と鼻が著しく発達した。夫の姿や行動を捉えるべく、足音や衣擦れ、体臭の変化を逃さぬようにした結果だった。
姿の見えない夫に、犬のような耳と鼻を持った妻、夫妻が世間から疎まれるのに時間は掛からない。
二人は、人里離れた古い城に移り住み、毎夜ダンスを踊っている。

無題

世の中がイヤになったり、耳になったり、年になったり、実に忙しい。

2010年4月13日火曜日

無題

わかっちゃいたけど、ウサギはいつだっておとなしくしてはくれない。暴れるから、部屋中に毛が舞っている。

2010年4月12日月曜日

老いた月

月は皺だらけの顔をしかめながら、夜の都会を眺める。
湾に映る顔が揺れるのは、波のせいだけではない。

建設中のタワーはどんどんと高くなり、完成すれば月の鼻先を掠めることは確実となった。
ビルの明かりは、年々冷たいものになっていく。
もう自力で毎夜空に昇るのは大変になっている。
そろそろ、ゼンマイ式に変えてもらわなくてはならないだろう。

2010年4月11日日曜日

無題

夜の川は、夜より夜らしさを湛えている。

2010年4月7日水曜日

読書の残骸

祖父が死んで、初めて書斎に足を踏み入れた。
生きているうちは決して入ることを許されなかった祖父の書斎。
一度入ってみたいと熱望していたその部屋は、想像以上に広かった。家の他の部屋とは明らかに異空間だ。祖父の匂いが充ち、重厚な本棚が僕を見下ろす。
床には本が散乱していた。開きかかったままの本も多かった。調べ物の途中だっただろうか? でも、ずいぶん乱雑だ。いつもきちんとしていた祖父の仕業とは思えない。
僕は、転がったままの本を一冊取り上げて、パラパラと捲る。所々にしか文字が残っていない。そういえば、祖父は本を読むことを「本を食べる」と言っていた。
他の本も多くは文字が残っていなかった。この部屋の本を、どれだけ祖父は食べたのだろう。
僕は手当たり次第、本を捲った。何百冊も手に取った。
どの本もスカスカだった。それは、養分を吸い取られた土を思わせた。
もうここに本はないのだ。あるのは、読書の残骸だけだ。僕はそう確信した後も、本を捲ることを止めなかった。

いさやん

あきよさん

2010年4月6日火曜日

月面楽団

ひょんなことから、月面にアコーディオンが着地した。
月のウサギは早速それを伸び縮みさせる。
ふとした拍子に、月面にカスタネットが墜落した。月のウサギは早速それを手中に収める。
どういうわけだか、こうして月に多種多様な楽器が集まったので、月のウサギたちは楽団を作ることにした。
ちょっと困ったことに、せっかくの演奏は、当のウサギたちにも聞こえないのだけれども。

2010年4月5日月曜日

ゆらりゆらら

ちょっと海で眠りたくなった。海藻になるか海月になるか、考える。
「どっちがいいかな」
「海月は、起こしに行くのが大変だから、海藻にして」
と、恋人に言われた。
それもそうだ。海月はどこに行くかわからない。昆布になって、波に揺られて眠ろうと思う。おやすみなさい。

三里さん
あきよさん
いさやん
砂場さん

2010年4月1日木曜日

東京以外全部集合

東京以外の道府県が初めて全部集まって、東京の噂話をしていた。
主に、東京に行った時のそれぞれの思い出話である。
「東京ドームが」「スカイツリーが」「おいしいお店が」「裏原宿が」「お台場が」
そろそろお開きということになって、一斉に帰ったのだけれども、どうも帰り道を間違えた県がいくつかあるらしく、人間どもは翌年から大騒ぎで地図の書き換えをしなければならなかった。
地球儀からカーナビまで全部更新。

2010年3月30日火曜日

痛薬

毎日一回、寝る前に。
パパが飲めと言う薬は、真っ赤なカプセルで、どうしてそれを飲まなくちゃいけないのかわからない。だって、それを飲むと酷く身体が痛むから。
「時には痛みも必要だ」とパパが言う。
薬って痛みを和らげるものじゃないの? と言う私の問いかけに、パパは答える。もう十分痛い。引き裂かれてるのに。
赤いカプセルを飲むのを拒むことはできない。手足が動かないから。違う。赤いカプセルがおいしいから。

家族旅行に行ったので、その時にとった写真を
花の写真は、はなまちどり
猫の写真は、名前はまだないネコサイト
他の写真は、ブログ
にアップしました。

2010年3月26日金曜日

黄緑のリボン

生まれて初めてもらった「プレゼント」には黄緑のリボンが掛けてあった。
赤ん坊はそれが大層気に入ったので、いつも口に咥え、手にからげ、決して離さなかった。

かつて赤ん坊だった子供は、それを髪の毛に毎日結びつけていた。
乱暴な男の子に「キタネエ」と引っぱられ奪われると、大変な剣幕で怒り、殴りかかり、取り返した。

かつて子供だった大人は、仕事を始めるようになっても相変わらずお下げ髪に色褪せ垢じみたリボンをつけていた。「もっと清潔なリボンにすればよいのに。僕が買ってあげるから」と言い寄った男の手をうっとおしそうに払いのけ、鏡でいそいそとお下げ髪を直した。

かつて大人だった老人は、もう寝たきりだ。最後の力を振り絞って医者に頼む。
「黄緑のリボンで私を絞め殺して」
けれど、医者は黄緑のリボンを見つけることができない。老人の髪の毛には、ボロボロにほつれた灰色の紐がぶら下がっているだけ。

2010年3月23日火曜日

間違い街角

町工場に向かう途中、曲がる街角を間違ったので、元来た道を引き換えしたらまた曲がる街角を間違える。
その度に、真知子さんとまったりしたり、街並みが変わったり、待ちぼうけを食らったり、待合室を探したりするから、まぁあながち間違いではないのかもしれない。まさかね。

いさやん
あきよさん
三里さん

2010年3月20日土曜日

しっぽ

 大事なしっぽが行方不明になった。どうにも落ち着かない。
 風呂場にもない。
 食器棚にもない。
 テレビの裏、抽き出しの中も見た。しっぽだけに、おしりがそわそわする。
 外へ出た。駅までの道を注意深く歩く。
 植え込みに手を突っ込む。やや、この感触は! ……なんだ、野良猫か。
 とうとう駅に着いてしまった。電車に乗り込む。車窓からしっぽを探す。他の乗客も、真剣な目付きで外を眺めている。皆、しっぽが行方不明なのだろうか。同情する。
 線路沿いの看板すべてに、しっぽが取り付いている。どれが私の大事なしっぽなのか、とんと見分けが付かぬまま、最果ての地に辿り着いた。

********************
500文字の心臓 第93回タイトル競作投稿作
×1

見えた光景3枚を張り付けただけという……(笑)。
たぶん『いとしのロベルタ』佐々木マキ の影響がある。
深読みすると(そこまで深読みしなくても)エロい絵本です。(でも子供用)

砂場さんと両想いだった~。
二年生!二年生!(?)

2010年3月18日木曜日

献血

新しい腕時計が馴染まない。誕生日に貰った腕時計だ。
いくら調節してもきつく、左腕が次第に重くなってくる。
家に帰り、腕時計を外した瞬間に深い溜息が出た。
八重歯が印象的な女の顔を思う。誕生日プレゼントなど貰う義理などない相手だ。何故、こんな高価なものをくれたのかわからない。
痛む左手首を擦りながら、気が付いた。歯形が付いている。プレゼントをやっていたのは俺のほうだったようだ。

うーん、時計である意味が薄いな。まぁいいや。時々吸血ものを書いている気かする。いくつあるんだろう。

さて。本日、懸恋は…(数え中)…たぶん8歳になりました。びっくりびっくり。
相変わらず向上心が欠落しておりますが、ともかく呑気に書き続けようと思っております。

私も歳を重ねました。そろそろ己の醜さをぽへぇーと観察したいです。

2010年3月16日火曜日

腹時計

何を思ったか、飼い犬が目覚まし時計を飲み込んでしまった。
お腹を壊すだろうと思ったが、そんな気配はまるでない。獣医は笑って「ここに時計があります」とレントゲン写真を指差し、「きちんと動いていますよ」と聴診器でチクタクを聞かせるのだった。
我が家のたった一つの目覚まし時計をお前は飲み込んでしまったのだ、明日から俺はどうやって起きればいいんだと、懇々と説教を垂れてみたが、飼い犬は尻尾を振ってご機嫌だ。
俺はふて寝し、目覚めたのは、いつもの起床時間だった。飼い犬の腹の中で、目覚ましが鳴ったのだ。
俺は飼い犬に目覚ましを止めるよう頼んだが、飼い犬は機嫌よく尻尾を振るだけ。思わず頭をペシッとやったら、目覚ましは鳴り止んだ。

無題

紙吹雪と桜吹雪を戦わせるか。

2010年3月15日月曜日

踏切にて

僕の家の近くには、踏切がある。本当に小さな路線だから、電車が通ることは少ない。
僕は、毎日踏切で遊ぶ。
遮断機が居眠りするからだ。(遮断機も警報器も僕のおじいちゃんより古い)
警報器が弱々しく鳴り始めると、僕は遮断機を叩き起こす。すると、遮断機は震えながらゆっくりと降りてくる。
僕は運転士さんと車掌さんに手を振る。

あきよさん
三里さん

2010年3月9日火曜日

空中花

赤ちゃんが泣いている。
おじいさんが、ひょいと飛び上がって、何かを掴む。
もう一回、おじいさんは、ひょいと飛び上がった。

あ、空中花だ。
おじいさんは、宙に漂う花を捕まえたのだ。
見たことはあるけれど、触れる人は初めてだ。
空中花は、そこら中にあるものだけど、誰もが見えるわけではない。僕も時々見えるだけだ。
おじいさんが手にした空中花は、みるみるくっきりしていく。
泣いている赤ちゃんには黄色い花を。
赤ちゃんをあやすお母さんには赤い花を。
おじいさんは二人に空中花を渡すと、スキップしながら去っていった。
花の香りを残して。

あきよさん
いさやん
砂場しゃん
三里さん

2010年3月5日金曜日

不響輪音

知恵の輪が、それぞれ好き勝手な歌を歌っている。はやく解かなくちゃ!

↑短い話にする予定じゃなかったのだが……。
あきよさん
いさやん
砂場しゃん
三里さん


マンスリーとーぶに赤井都さんの記事。がちゃぽんの話題も。
東向島珈琲店で豆本がちゃぽん稼働中です。
これはうれしい記事だ。

2010年2月27日土曜日

やさしい時計

目覚まし時計は毎朝きっかり午前7時に僕を起こしてくれるものと信じていた。様子がおかしくなったのは月曜日からだ。
月曜日、目覚ましが鳴って、カーテンを開けるとお日さまは高かった。
火曜日、目覚ましが鳴って、カーテンを開けると夕日が眩しかった。
水曜日、目覚ましは鳴らなかった。
木曜日、目覚ましは鳴らなかった。僕は電池を取り換えた。
金曜日、目覚まし時計は寝室になかった。冷蔵庫の中にいた。

僕は冷蔵庫の中で背を向けている目覚まし時計に話し掛けた。
「何故、起こしてくれないんだ?」
「だって、きみがあんまり気持ちよさそうに寝ているから。きみ、最近とても疲れているだろう?」
心優しいこの目覚まし時計を、僕はどうしたらいいだろう?

2010年2月25日木曜日

レジスタンス

ハンカチを丸めてポケットに突っ込んでいるのかと思ったら、「時計なんだ」だってさ。
そんなふうに丸めたら、時計、怒るだろ? って言ったけど、彼は相変わらず、時計を丸めてポケットに入れる。
ついに時計は、ポケットの中で暴れて、目覚まし時計なんかじゃないくせに、朝の5時55分きっかりにギャーギャーと大騒ぎを始め、彼は毎朝早起きになった。

大丈夫、書いてる本人もわけわかってない(笑)。

2010年2月24日水曜日

無題

電車と高所に怯えながら、陸橋の線路を渡る。
夥しく赤すぎる鳥居。
親切な女は狐に憑かれてた。
従妹だと思ってたら子猫だった。

2010年2月23日火曜日

寝息

恋人が時計の中で眠ることを知ったのは、いつだっただろうか。
「狭くない?」
と、つい何度も訊いてしまう。
彼が眠るのは、古くて、壊れた螺子式の懐中時計。
どうやって入るのかは、見せてくれない。
「ちょっと目を瞑っていて」
顔を背けて、ぎゅっと目を瞑る。
まもなく、秒針が動き出す音が聞こえる。
チクタクが一秒より少し長いのは、彼の寝息だから。
私は、時計に長くて細い鎖を付けた。首に掛け、時計を胸に抱き、眠る。
深く深く、眠る。

2010年2月18日木曜日

うたかたの舞

小さな硝子に閉じ込められ、レーナは睫毛を動かすこともできない。一体どれくらいの時が経ったのか知らずに。
レーナは砂時計の砂とともにある。人の手によって、限られた短い時を流れる。
レーナは小さな体をやわらかに回転させながら、流れる砂の中を舞う。何度も舞う。
レーナの記憶は、それが過去なのか未来なのか、わからない。
砂時計が返される瞬間まで、レーナは生きずに生きていく。

2010年2月17日水曜日

無題

まだ煙も出てないのに消火器持って歩いていたら、骨折り損のくたびれ儲け。クタビレを売った金でカタビラを買ったら、重たくてくたびれた。クタビレは売らずにズクナシになる。めでたしめでたし

2010年2月16日火曜日

ラムレーズン同盟

海賊たちを、褐色の薄い布を纏った踊り子たちが歓ばせる。
逞しい腕に絡みつく魅惑の芳香、やわらかく噛めば甘く弾ける。
ほんの僅かに酸味が感じられるならば、それはかつて瑞々しい果実だった頃の名残だろう。
海賊たちよ、踊り子が気に入ったかい?
握手をしよう。同盟だ。調印は必要ない。
踊り子たちよ、踊りはもう仕舞いだ。タルトやアイスクリームのベッドで眠りなさい。



2010年2月15日月曜日

無題

大変だ、大量の仔鹿に車を乗っ取られる!

2010年2月13日土曜日

無題

兎の毛皮を洗浄。

2010年2月12日金曜日

偽物の世界

僕は或日、気が付いたのだ。
この世界は全て、僕を貶めるためのものだと。
母は宇宙人で、父はクローン人間だ。
鏡は綺麗事しか映さないし、友達は偽善をプログラムされている。
大好きだと勘違いしていた音楽は洗脳用の音でしかない。

食べ物がまずいのは、試験管の中で作られたからだ!
日の光があたたかくないのは、打ち上げられた人工の太陽だからだ!
これで、産まれてから抱いていた違和感のすべてが腑に落ちた。

いまや僕が信じられるのは、僕が書いた小説の中の世界だけだ。
友達に読ませたら、ある者は「素敵なおとぎ話だ」と言い、別の者は「SFだ」と微笑んだ。
「ありがとう」。
彼らの背中をぽんぽんと叩く。僕の背中と同じ、小さな螺子を探る。
あきよさん
いさやん
砂場しゃん
三里さん



2010年2月9日火曜日

さびしい海で泳いでいると、女の子が砂浜を一人で歩いているが見えた。うろうろと、砂を足でいじってみたり波間を覗きこんだりしている。
僕はもう少し泳いでいたかったけれど、陸に上がって聞いてみた。
「何か探しているの?」
海水が耳に入ってしまったのだろう、自分の声がくぐもっている。
「時計を失くしてしまったの」

女の子の時計は見つからなかった。僕たちは、夕日が沈むのを眺めてから、さよならした。

翌朝になっても、耳の水は抜けていなかった。こんなことは初めてだ。僕は潜水は下手だけれど、耳抜きは得意なのだ。
耳の中で水がぴちゃんぴちゃんと小さく波打つのがわかる。どうにも煩わしいので、ベッドから起き上がることができない。目を開けていることもできず、かといって眠るでもなく、耳の中の水のことばかりを気にしていた。
そうしているうちに、ぴちゃんぴちゃんが、チクタク、になった。

もう一度、海に行ったら女の子に逢えるだろうか。
あの子ならきっと、僕の耳の中の時計を取り出せるはずだ。

2010年2月8日月曜日

ばぁちゃんが死んだ後、荷物を片付けていたら、台所の大きな甕に、多量の腕時計が入っていた。
梅干しが入っているとばかり思った甕に、そんなものが入っていると知り、少なからず驚く。
時計は全て止まっているようだが、時折何かの拍子で「カチ」と音がする。背中を急に叩かれたかのようにギクリとする。
一体、ばぁちゃんはこの夥しい時計をどうやって手にいれたのだろう。いくらばぁちゃんが大往生だったからといっても、生涯に使った腕時計だけでは、こんな数にはなるまい。そもそも、ばぁちゃんが腕時計をしている姿を思い出せないではないか。
恐る恐る、ひとつ腕時計を持ち上げてみると、梅干しの匂いがした。

六本木ヒルズ、森美術館「医学と芸術展」を見てきた。
洋の東西を問わず、胎児と骸骨への興味は並々ならぬのだな。

象牙の小さな人体模型と、河鍋暁斎の骸骨がユーモラスで、特に気に入った。

古い時代の症例写真や術後写真なども少しあった。
私も赤ん坊のときに大きな外科手術を受けたので、子供の頃は毎年のように手術跡の写真を撮られていたのだけど、あれはまだどこかに資料として残っているんだろうか。一度も見たことないなぁ。

なかなか盛りだくさんで、こんな内容ゆえ刺激的な展示物もあり、最後のほうは「うぃー、お腹いっぱいー」だったのだけれど、ゆとりあるディスプレイで、土曜の午後にも関わらず見やすかった。

2010年2月7日日曜日

無題

夜道。電柱の下に、何かしゃがみ込んでいるものがある。それの正体は、なんてことない、ただの大きな雪玉である。だが、見る度に汚れ、縮んでいくそれは、雪だるまの末路を見るより何故か哀しい。

2010年2月6日土曜日

無題

ホームから線路を眺めていると、雲が太陽の前を通り過ぎるのがよくわかる。線路を走るように影が伸び、縮むのを不規則に繰り返している。

来年咲く花

幼稚園に入ったばかりの妹が熱心にどろんこ遊びをしている。まだきれいな砂場遊びの道具を持ち出して、庭にしゃがみこんでいる。
いつもは「どろんこ遊びはおててが汚くなるから、イヤなの」と澄ました顔で言うのに、どうしたことだろう。妹は、憎たらしいほど子供らしくないのだ。
「何して遊んでいるの?」
「お花をうえたの」
へえ、花か。
「何の花?」
「わからない。きいろい花」
「いつ咲くの?」
「らいねん」
まだ文字の書けぬ妹にせがまれて、私は「来年咲く花」と書いたプレートを庭の一角に刺した。

芽が出て、茎が伸びて、つぼみが膨らむ。妹は先月、初潮を迎えた。
「やっと咲くのね、この花」
「ううん、来年よ」
妹は澄ました顔でそう言った。
私が書いた「来年咲く花」のプレートは、奇妙に新しいままだ。

あきよさん
いさやん
砂場しゃん
武田のお方
三里さん


読み比べてみたり。(呼び名の五十音順)
(リンクがいやんだったら、言ってね)

2010年2月3日水曜日

しっぽの次

どういうわけか、白くてふわふわなしっぽが生えたので、懐中時計はそのうち四本の足が生えて歩けるようになるかもしれない、と思っているのだが、短い針が三十周してもまだ足が生える兆候はない。



2010年2月2日火曜日

おやすみなさい

壁掛け時計のチクタク音が気に障って仕方がない。眠れずにイライラする。
電池を外すとまた時刻を合わせるのが手間だ。
壁から外してタオルに包み押し入れに入れたけれど、駄目だった。耳をそばだてるまでもなく、やはりチクタクチクタク音がする。

ところが、君が泊まりに来た夜、思わぬ現象が起きた。
君の寝息と時計の音が、近寄ったり離れたり、合わさったり崩れたり。
それが何故だか心地よく、聞いているうちに、ぐっすりと眠っていた。

以来、時計の音だけでもよく眠れる。

2010年1月30日土曜日

はかなげな<哲学の道>

 空色の飛行機のモビールを手に、少年は一人で歩いている。
 哲学の道は桜が満開で、こんなにもよいお天気の午後なのに、
 そこを歩くのは私と少年しかいないようだ。石の道が奏でるリズムの違う足音が二つ、重なったり、離れたりするのを私は心地よく聞いていた。
 少年の持つ飛行機のモビールの空色は、桜の中でよく映えていた。少年の歩みに合わせて、三つの華奢な飛行機がひらりひらりと風に遊ぶ。
 銀閣寺方面に歩いて、また戻ってくるつもりだった。往復で四キロメートルほど、年寄りには相当な運動になる。だが、少年と少年のモビールと別れるのが惜しくて、しばらく付いていきたいような気持ちになっていた。
「おじいさんもお散歩?」
 そんな私の胸中を察したわけではなかろうが、少年に声を掛けられ不覚にも舞い上がってしまった。
「あ、あぁ。そんなところだ」
「今日は静かだね。こんなに桜がきれいなのに、おじいさんとぼくしかいないよ」
 少年は人懐っこい顔で私を覗き込んでくる。
「おじいさんはどこまで行くの? 一緒に歩いてもいいですか」
 いいですか、のところだけ急に改まった口調になったのが可笑しい。私はもちろん、と応えた。
 哲学の道はこんなに長かっただろうか。ぼんやりとした不安がよぎる。しかし、子供を持ったことがない私には、少年と歩く時間は味わったことのない愛おしさでいっぱいだった。いつまでもこんな時間が続けばよいとさえ感じた。時折、小走りになったり、ベンチに座りったりしながら歩く少年に合わせて、私も歩む。哲学の道は子供の足ではずいぶん長いのだ、と言い訳しながら。
「きれいな飛行機だね」
 と少年が持つモビールに目を遣りながら話し掛ける。
「お兄ちゃんたちの飛行機なんだ。いつも一緒に散歩するの」
 呟くような小さな声を掻き消すように、突如、三台の飛行機が低空に現れた。幼い頃の忌まわしい記憶を呼び起こす恐ろしい音。黒過ぎる飛行機の影……。目蓋をきつく閉じて飛行機が去るのを待つ。
 飛行機が去り、目を開けると少年の姿はなかった。さっきまで私と少年しかいなかったのに、花見をしながら散歩している人がちらほらと見える。赤ん坊を抱いた女、手を繋いでゆっくりと歩く老夫婦。穏やかな疎水の流れが桜の花びらを運ぶ。見慣れた哲 学の道の風景だ。

戻ル橋<一条戻り橋>

 あの時、一条戻橋で遊んだのは、式神だったかもしれぬ。
 そんなことを思いながら、清明神社に向かっていた。
 清明神社の前に架かる橋には逸話が多く残るそうだ。しかし、それを知ったのはもっと後のことだ。あの時、私はまだほんの十歳の少年だった。

 旅行中、ここで迷子になった。清明神社を詣でている間に両親とはぐれ、周囲を歩き回っていた。今思うと妙なことだ。清明神社は迷子になるほど込み入ってもいなければ、広いわけでもない。
 いつのまにか、戻橋の前に自分と同じくらいの背格好の子供が立っていた。
「迷っておるな」
 迷子になっているのを悟られたことが恥ずかしく、また苛立たしくもある。だが、うまい言い訳が思いつかず観念した。
「うん」
「ならば、ここで遊ばないか」
 ついて来い、というので子供の後ろについて橋を渡り始めると、目の前で子供が消えた。そのまま渡り切って振り返ると、子供はすぐ後ろに立っていた。
「ちゃんとついて来ぬか」
「だって、消えちゃったじゃないか」
 では手を繋いで渡ろう、という。白い手だった。
 橋を渡り切ると、知らない景色が広がっていた。だが、どこがどう違うと説明できない。
 大勢の子供が周りに集まってくる。身体を触られ、くすぐったくて笑った。
 鬼ごっこやかくれんぼ、他愛もない遊びをした。神社だけが変わらずそこにあり、迷うことなく走り回った。子供たちはみな地面を浮きながら走る。私はそれを不審に思わなかった。少し羨ましかっただけ。
 あんなに迷っていたというのに、知った土地のように遊び回っていることのほうが不思議だった。そうだ。父や母を捜しているのだ。両親も私を捜しているだろう。太陽がちっとも傾こうとしないのも不思議だった。
「そろそろ戻りたい」
 子供らは一斉に意地悪そうな声で言った。
「戻る場所があるのか」
 私は泣き出した。本当は迷子になったと気がついた時から泣きたかったのだ。
 私は一人で戻橋を渡り始めた。「お父さーん、お母さーん」と叫びながら。
 父母は、橋の向こうにいた。息子がなぜ泣いているのかとんと判らぬ、といった顔で。

 三十年振りの一条戻橋は、架け替えられていた。
「今日は、迷ってはおらぬな」
 自分だけ大人になってしまったように感じて、なぜだか恥ずかしい。
「何をして遊ぶか」
 と子供は言う。ずっと待っていてくれたのかと思うと胸が一杯になるが、あそこは時の流れが尋常ではなかったと思い直す。
「もう、かくれんぼは勘弁してくれよ」

ニルヴァーナ<本法寺>

 空飛ぶ絨毯を追いかけている。こんなに大きな絨毯が宙を浮いているのに、歩く人も、車も、誰も気が付いていないみたい。上を向いて走るわたしに、時々不審そうな視線が刺さるのがわかる。「お嬢ちゃん、迷子かな」なんて言う人もいたけれど、わたしは目いっぱい首を横に振って、また空飛ぶ絨毯を追いかける。

 絨毯には、大勢の人と、へんてこな動物たちが乗っていた。真っ白で鼻の長いゾウのようなもの、皺くちゃなラクダのようなもの、青い毛をしたライオンのようなもの、それからたくさんの鳥たち。人も動物も鳥も、静かに涙を流している。

 絨毯に乗りたい。とっても大きな空飛ぶ絨毯だもの、子供がもう一人乗るくらい、きっと簡単なはず。
 ついに白いゾウのような動物が、わたしに気が付いた。小走りのまま、じっと見つめる。「乗せておやりなさい」と、どこからか声がすると、ゾウはぐぐぐぐと鼻を長く伸ばし、わたしの身体を抱き上げた。絨毯に乗っている感触はなかった。体重がなくなってしまったかのように、ただ浮いていた。そして、なぜか皆と同じように涙を流していた。声も出さずに、しゃくりあげることもなく、涙だけが流れ落ちる。そんなことは、初めてだった。

 乗っている人や動物たちは、みんな中心を向いて涙を流している。そういえば絨毯の真ん中はぽっかりと何もなく、誰もいない。何もないほうを向いて、たくさんの人や動物が涙を流している。ずいぶんおかしな光景だと頭ではわかっているのに、わたしも同じように泣いている。白い花びらが、何もない真ん中にふわりと舞い落ちた。

 御所の脇を通り過ぎ、右へ曲がった。信号をいくつか通り過ぎたところで、お寺に入って行った。境内に入るとゆっくりと下降し、散策しているかのように飛ぶ。大きな塔の側と、丸い小さな池がある庭を通った。桜が咲き始めている。白い花びらは、桜の花だったのだ。もうすぐ、わたしは四年生になる。弟は一年生だ。あ、弟。わたしは弟をどこに置いてきてしまったのだろう。

 突然、急上昇が始まった。寺や桜の木が、次第に小さくなっていく。それでも上がり続け、息が苦しくなり、ついに目の前が真っ暗になった。

 わたしは空調の効いた静かな建物の中にいた。右手でバルコニーのような手すりにしがみついて、左手で弟の手を握っていた。そして、大きな大きな絵を見ていた。見上げても見切れないほど大きな絵の中には、さっきまで傍にいた、ゾウやラクダやライオンのような動物達がいた。空飛ぶ絨毯では何もなかった真ん中には、お釈迦様が横たわっている。
「夢だったのかな」
 と呟くと
「そうではない。あなたは涅槃に立ち会ったのです」
 と声が聞こえた。

 絵の中のゾウの白い鼻が、ぐぐっと伸びた気がした。


※大きな絵:紙本著色仏涅槃図 長谷川等伯筆

第一回ノベルなび大賞 「ニルヴァーナ」遠藤徹・ソフトバンクモバイル賞受賞

2010年1月27日水曜日

僕の時計

僕が初めて腕時計を手にしたのは、六歳の誕生日のことだ。
空色のかわいらしい腕時計だった。子供用だけど、おもちゃではなくて、おじいちゃんが時計店に連れて行ってくれて買ってくれたものだ。
その時の僕はまだ腕がひょろっと細かったから、時計店のおじさんは、バンドに穴を増やしてくれた。
「よし、これでぴったりだ」
とおじさんは時計と僕の顔を見ながら、満足そうに頷いた。
「おまえの人生はこの時計が見守ってくれるはずだ」
おじいちゃんは帰り道にそう言った。ちょっと聞いたことのないような、少し低い怖い声だった。
「うん」
と応えるのが精いっぱいだった。

それ以来、ぼくはずっとずっとこの空色の腕時計を使っている。何度も何度も電池を取り換えた。ランドセルもグローブもあっという間にボロボロにしてしまったけれど、時計だけは大事に使った。
もう僕は大きくなって、この小さな腕時計のバンドは手首より短くなってしまった。
時計屋に連れて行ってくれたおじいちゃんもこの前、死んだ。
僕は腕時計をポケットに入れている。これからも、僕の時間を刻むのは、この空色の時計しかいない。

森銑三『物いふ小箱』を読みはじめた。
いくつかはとりわけ短く、超短篇な予感。
先日読み終わった種村季弘編の『日本怪談集下』にいくつか収録されているのが気になって、図書館で借りてきた。

古切手を筆頭に、小さくて色とりどりなものを集めて並べて愛でる性癖があるのだが、好いたらしい超短篇と出逢った時の興奮は、これに近い。
脳内に、書棚に、お気に入りの超短篇を標本のように並べたい。
時々、並べ替すのもまた、一興。


あ、お題増やしたよ、いさやん(名指しかよ)。
やっぱり漢字が多い。お題作りにも自分の癖って出るな。
「時計」シリーズに飽いたら、自分でも書いてみようかな。

2010年1月24日日曜日

鼓動

深い海の底から発見された石像は老人の姿をしていたが、その皺の多さに似合わず、白く滑らかな肌をしていた。
発掘に携わった人々は、老人を丁重に陸地へ案内し、身体を清めた。
老人の身体を磨いていた者の一人が、呟いた。
「鼓動が聞こえる」
皆が老人の左胸に耳を寄せる。確かに、鼓動が聞こえるのだった。
時限爆弾かもしれない、なぜなら老人は数千年の眠りから覚めたにしては美しすぎる。そう言う者もいたが、多くの人々は冷静だった。老人を精密に検査することにした。

X線やCT検査の結果、老人の胸には、時計が埋められていることが判った。
長い年月の間に時計が動き続けることができた理由は謎のままだ。老人の胸に手を入れて、時計の螺子を巻くことなど誰もできない。

謎は謎のまま、老人は美術館で暮らすこととなった。老人の小さな鼓動が響くよう、反響のよい部屋が造られた。海底を思わせる青い床の部屋だ。

2010年1月21日木曜日

タイムマシーン

庭先で、夥しい数の時計を分解している人がいる。
「そんなに時計を壊して面白いかい」
「いやいや、壊しているんじゃない、これからタイムマシーンを作るのさ」
その人は、よっぽど時間を掛けて時計を分解した後、延々と壊した時計を組み立てている。
「やぁ、タイムマシーンは完成しそうかい?」
「いやいや、もう出来ているよ。僕は君にとって明日の僕さ」
なんだかよくわからないけれど、翌日からその人は行方不明になった。

2010年1月20日水曜日

道理

壁掛け時計の調子がおかしいので、電池が切れたのかしらん、と裏板を外したら小さな人が寝ていて、歯車が動かないのだった。

2010年1月18日月曜日

羅漢

腕時計をした羅漢さんを見つけた。
姿や表情が大雑把なのに、時計だけが細かい彫刻だった。思わず覗き込む。
六時三十分、と読めた。夕方なのか、朝なのか。どちらにしろ憂いを帯びた時刻だ。
左手首を睨んだ姿で静止し、長い年月をかけて風化していく羅漢さん。
石で出来たその時計もまた、確かに時を刻んでいる。

2010年1月15日金曜日

世界の秩序

「なぁ、シシ。その時計が壊れてることは、お前さんもわかっているんだろ?」
少年は、強い癖のある髪の毛がライオンのように逆立っていて、それゆえシシと徒名されていた。
シシは賢くなく、学校にも通っていないようだった。俺は昼飯を食う公園でシシを見つけると、よく話しかけた。言葉はあまり発しないが、憎めない愛嬌があった。
そのシシが、ここ数日、一心不乱に壊れた時計のネジを巻き続けている。

最初に時計を持ってきた日、俺はいつものようにシシに声を掛けた。
「おぅ、シシ。いいもの持ってるな。ちょっと見せてみろ、大丈夫、取りゃしないよ。……壊れてるじゃねぇか。ま、おもちゃにするなら、壊れてたっていいか。で、この時計、どうしたんだ? 貰ったのかい?」
すると、シシは
「落ちてた」
とだけ答えた。
シシは以来、ネジを巻いたまま。

十日も経った頃だろうか、シシがなんだか小さくなっているような気がした。もともと子供だが、もっと子供になっているように見えたのだ。
「なぁ、シシ。お前、なんかおかしいぞ。どっか具合悪いとこないか? 熱はないのか? お父ちゃんたちも心配してるだろ。もうこの時計で遊ぶのはよせよ。おっちゃんが新しいおもちゃを買ってやるから、な?」
俺がいくら言ってもシシはネジを巻くのを止めず、日毎に幼くなっていった。

ついにシシは三つくらいの子供になってしまった。
「シシ、シシ。頼むから止してくれ。このままじゃ赤ん坊になっちまう」
不図、シシは顔を上げた。「おっちゃん。おれ、だいじょうぶ。これでおしまい」
俺はシシがこんなに明瞭に話すのを初めて聞いた。
三歳のシシが語るところによると、なんでもシシは生まれ出るタイミングを大幅に間違えたらしい。それはあってはならぬことで、世界の秩序を乱すことなのだと理解したシシは、極力人と交わりを避け、どこかに存在するはずの「本来に戻るための時計」を探し続けていたというのだ。
「おっちゃんも、ほんとうは、まだ八歳」
シシは、にっこりと微笑み、時計を俺に握らせる。



2010年1月11日月曜日

大好きだった人たち

両手両足に腕時計をした人がいる。
彼の四人の祖父母の形見なのだそうだ。
時計はいずれも壊れているのだが、時々思い出したようにチクタク、と動くことがある。
そんな時、彼は、祖父母の匂いや、皺やシミだらけの手をありありと思い出して、おんおんと人目も憚らずに涙を流すのだ。

2010年1月9日土曜日

もっと長い夜に

君が腕時計を外してスーツのポケットに入れたら、キスの合図。
抱きすくめられながら、私はポケットの中に手を入れる。
腕時計に「魔法」を掛けるのだ。手探りで竜頭を見つけると、引っ張ったり、くるくる回したり、軽く爪で弾いたり。
腕から外されて、気を抜いていた君の腕時計は、多いに混乱しているはずだ。『まだ零時ですよ。 いいえ、まだまだ二十二時でした……?』
君は「夜は長いよ」なんて囁くけれど、いつだって瞬く間に明けてしまう。だから、「長い夜になるため」の小さないたずら。

今日は、ちょっと毛色の違ったものが書けた。エロが足りない?謝ります。ごめんなさい。


豆本なんかを作っているから、さぞや器用な人だろうと思われがちだが、不器用だ。そしてどんくさい。
湯たんぽに、蛇口から湯を入れるだけで、なんでこんなにびしょびしょになるんだ……。

2010年1月8日金曜日

アストロン

その時計店には、文字盤しか売っていなかった。
店の中には、籠がひとつあって、その中に腕時計の文字盤が、ざらざらと入っている。それだけ。
「僕は腕時計が欲しいんです」
店主は、
「まあ、とにかく気に入るのをお探しなさい」
と、諭すようなことを言う。
僕は仕方なく、籠の中を漁り、細いラインが並ぶ白地の文字盤を選んだ。
「ほぅ、若いの、これは随分と由緒あるものだよ。ちょっと長旅になるが、大丈夫かい。いや、心配はいらない。そうだねぇ、四分くらいかな。向こうでは四十年だけれどね。時計が君に自己紹介をしたくてウズウズしているよ」
店主に渡した文字盤は、いつの間にかベルトもクォーツもついていた。
「さぁ、腕に嵌めて。ぴったりじゃないか。よく似合うよ。ほら、針が動き出した」
見ると、秒針が反対回りに動いている。これは、一体どういうことだ。
「時間旅行だ。この時計が見てきたものを、そっくり見てくる旅だよ」
店主の声が、ぐるぐると渦巻いて遠くなった。

タイトルの「アストロン」は、初のクォーツ腕時計(セイコー製)の名前です。
実は、書いてからクォーツ時計について軽く調べて、アストロンを知ったのだけど、1969年の12月発売らしい。本当に40年だった(驚)ので、こりゃ使わない手はないとタイトルにした次第。

2010年1月6日水曜日

この町のシンボル

町で一番高い塔の天辺についた時計は働きもので、一度も狂ったことはなかった。
町に暮らす誰もが塔に時計がついていることを知っているのに、塔は高く、時計は小さかったので、どんなに目のよい人でも時計を読むことはできなかった。
ある時、町を大きな地震が襲う。塔は、ゆさゆさと揺れ、ポキリと折れてしまった。
瓦礫の中から顔を出す時計。町の人や猫や犬が集まってきた。皆、塔の時計を見るのは初めてなのだ。
瓦礫は片付けられずにそのまま残った。もちろん時計もだ。文字盤が傷だらけになったけれど、時計は狂わずに動いている。
人や猫や犬は、瓦礫に埋もれた時計を見下ろし、時刻を確認して、満足する。
時計も、ようやく本来の仕事が出来て満足する。
この町のシンボルはかつて塔だった瓦礫と、そこに埋もれている正確な時計だ。

2010年1月4日月曜日

占いの館

占い師は、小柄な品の良い老婦人で、さっぱりとしたブラウスにカーディガンを着ていた。私が持っていた幾つかの占い師のイメージとは大きくかけ離れた、やさしそうなおばあさんだった。
占い師の傍らには大きな水晶のクラスターがある。中には小さな懐中時計が埋まっていた。後から埋め込んだようには思えない。
私が覗き込むように時計を見ていると「あら、よく気がついたわね」と占い師は微笑んだ。
「この時計が止まる時、それは私は占いを止める時。もうずいぶん前から遅れていて、すっかり時間は狂っているのに、なかなか止まらないのよ。もう120年も経ってしまった。この時計が止まらないと、私は死ぬ事もできないの」
私が驚きを隠せぬまま占い師を見つめると、占い師は「さ、始めましょう」と見慣れぬカードや羅針盤のような道具を取り出した。
カードを操る指先や、まじないを唱える小さな声が心地よい。
カチリと音がして、占い師の声が止まる。傍らの水晶が曇る。
水晶が曇ったせいでよく見えないけれど、おそらく時計が止まったのだろう、と理解する。
たちまち占い師は砂のように崩れ、後には白い骸骨と曇った水晶と、結果を聞き損なった占いが残った。
私は曇った水晶クラスターを抱えて、占いの館を後にした。
水晶を割ったら時計の螺旋を巻くことができるかもしれない、と考えながら、家路を急ぐ。

2010年1月3日日曜日

時計屋の一番古い時計の話

時計屋のおじさんの仕事は、毎朝商品の時計をやわらかい布で軽く磨くことから始まる。
腕時計も目覚まし時計も、壁掛け時計もカラクリ時計も、おじさんは一つ一つやさしく埃を拭い、時間を正確に合わせていく。
おじさんの時計合わせは秒針まできっちりするから、正午になったその瞬間、店中の時計の針が真上を向く。けれど、かならず二秒遅れる時計がある。時々、三秒遅れることもある。
たとえおじさんが二秒進めて時計を合わせても、正午には二秒遅れる、そんな呑気な時計なのだ。
その時計は、おじさんのひいじいさんの頃から店に出ている時計で、要するに売れ残りだ。
店で一番古いその時計は、もはや骨董に近い品物だけれども、他の時計と同じように値札がついていて、いつ売れてもよいように澄まして並んでいる。
どうしても二秒遅れてしまうのは、秒針を作った職人がほんの少し、のんびり屋だったから。
だから、ちょっと売れ残ったくらいは気にしない。なにしろ一番忙しいはずの秒針がのんびり屋なのだから。それだけの話さ。

システム手帳の中身を新しい年のものに入れ替えた。
手帳の整理をするたびに、入れっぱなしになっているハタチ前後の頃に撮ったプリクラをどうしようか迷う。結局、いつも捨てられない……。
プリクラ発生期?の頃に高校生だったので、プリ帳なんぞを作っている級友も大勢いたけれど、私は興味がなかった。
なもんで、残っているのは10枚もないんだけれど、少ないがゆえにそれなりに思い出もあったりして、どうにも処分する踏切りがつかない。困ったもんだ。

2010年1月2日土曜日

哲学する時計の話

 この古びたゼンマイ式の時計は、実際ずいぶん精緻な造りで、大変によい時計なのだが、主人がずぼらなせいで時を刻まぬ時間のほうが長い。
 時を刻めぬ時間、この老時計は考え事をしている。
『時計なのに時を刻まず、その間にも時は過ぎゆく。』
 老時計は、ずぼらな主人の手に渡ったがために、己の存在について深く悩んでいたのだ。
『吾刻む、故に吾在り。』
 しかし、主人が気まぐれに慌ただしくゼンマイを巻くせいで、せっかくの思考は歯車の回転に巻き込まれ、砕けてしまう。
 昨夜、主人は珍しく一月一日午前零時に時計を合わせた。歯車が動き出す。
 しばしの間、老時計は無心になる。

おみくじは大吉でした。