叫び声に驚いて様子を見に来た妻が、どさりと倒れた。私は叫びながら読書中で、妻を抱き起こすことができない。よしんば、本を手放しても、とてもこの手で妻に触れる気など起こらないだろう。
古書店で一目惚れした『てのひら幽霊』なる本は、筆者も版元も聞いたことのない名であったが、趣向を凝らした美しい造本で、これぞ古書探求の醍醐味と、迷うことなく購入した。帰りがけ、店主が「お気をつけて」と小声で呟いたのは、気のせいではなかったようだ。
目を通した端から、文字が滲み、血となり、頁を濡らす。今すぐにでも目を閉じて本を放り出したいのに、それができない。
題名の通り、古今東西の短い幽霊話が次々と語られていく。どれもこれも凄惨な話だ。一話読むごとに、血が染み込んだ本は重くなり、主人公たる幽霊が出現する。幽霊が押し合い圧し合いしながら、好き放題に大声で恨み事を言う。私の叫び声と、幽霊共の「怨めしや」が狭い部屋に充満する。
腥い空気が濃くなった。血の滴となった文字は、紙面から溢れ出し、私のてのひらから手首まですっかり血みどろにした。
血に塗れた私の手指は、それでもなお間違いなく頁を繰る。夢中になって幽霊話を読み漁る。叫び声を上げながら。
ついに最後の一話となった。この一話を読み終えれば、解放されるはずだ。
早く早く。読み終えたら、血に穢れたこの手を洗い、妻を介抱するのだ。
頁の上にゆらりと立ち上った最後の幽霊が、手招きする。息を吸う間もなく上げ続けていた叫び声が、退く。
bk1怪談大賞用習作二つ目。
昨日アップしたのは、6月3日に移動しました。
何月何日に書いたか含めて記録するのがこのブログの役割。