2020年4月19日日曜日

糸のように細いお茶

この家に何日滞在したと数えるのは困難である。
時計はあるが、秒針のリズムはおそろしく速い。
こちらがゆっくりと呼吸し、ゆっくりと動くと、秒針もゆっくりになるのだった。
それが「そう見える」だけなのか、時間が実際に伸び縮みしているのか、考えるのはやめにした。

速度をコントロールできなかった当初、何もかもがあっという間だった。
だが、ゆっくり動くこと、ゆっくり話すことを覚えてからは、体感と実際の一日の差は小さくなっていった。

お茶も糸のように細く注ぐことができるようになった。
青い鳥は悠長で鷹揚になり、青い羽はますます美しく輝いた。

2020年4月13日月曜日

暮らしの知恵

「ずっと、ここに、住んでいる者は、ごく、当たり前に、速度を、変えています」
穏やかな人は、ゆっくり、ゆっくり、お茶を注いだ。糸のように細く、お茶がカップに注がれている。
「こうして、ゆっくり、話したり、ゆっくり、動くことで、調整、しているのです」

 外的な速度と、内的な速度
 受動的な速度と、自発的な速度
というような言葉を思い浮かべる。

「バランスを、取ろうと、しているのですね」
「はい。ただ……それが、科学的に、正しいこと、なのかは、わかりません。習慣、のような、文化、のような、暮らしの知恵、のような、そういう類の、もの、です」

穏やかな人はスッと表情を変えた。
「例えばこうして早く喋ることだってできるのです。しかし一日中この速度で話していると一日が瞬く間に終わってしまうのです。ほら外を御覧なさい」

地下の家にぽかりと開いた天窓に、青い鳥が混乱した頃に昇った太陽は既になく、月が素早く横切った。

2020年4月11日土曜日

ただ速いわけではなく

席を勧められるよりも早く、問い質すように聞いてしまった。
「この、島の、ことを、説明するのは、難しいのです」
穏やかな人は少しだけ困った顔で言った。

「青い鳥は、自分の、声が、追いかけて、聞こえてくるのが、不思議、だったようです。そして、興奮、しすぎたのだと、思います」
そういうと、青い鳥も、目を覚まして、肩に乗ってきた。しっかりと掴まれた感触に安堵する。

話しているうちに、気持ちも落ち着いたのか、ゆっくりと話せるようになってくる。
「時間が、速い、のでしょうか。音速、波、太陽……でも、ただ速い、だけ、ではない、ような気が、します」

穏やかな人は言った。
「そうですね。ただ、速い、というわけではなくて、伸び縮みする、と言ったほうが、よい、かもしれません」

2020年4月5日日曜日

神様

  焙煎する前に準備をしながら「きみたちはイタリアンローストにするよ」と声を掛けてから始める。すると「我々は真っ黒になってしまうのだな」「悪くはないな」「いや、シティーローストがよかった」などと声が聞こえてくる。
 それから、ブラジルだとかコロンビアだとか、故郷の思い出話が始まるのがお決まりだ。
 珈琲が饒舌なのは、「生豆」の段階だ。焙煎が終わる頃にはすっかりおとなしくなる。炒り終えたコーヒー豆が喋っていたら、喫茶店は、五月蠅くて仕方がないだろう。
 だが、かつて一度だけ、いや、一粒だけ、焙煎が終わってもしゃべり続ける豆がいた。「皆、黙ってしまったが、どうしたことか」「焦げたからだろうか」「ここはどこか」
 その一粒は、自宅へ持って帰って瓶に入れて、なんとなく思い立って神棚に置いた。
 朝、出掛けに神棚を拝むと、時々ぼやきが聞こえる。「すっかり焦げてしまった」と。そんな日は、焙煎がうまくいくのだ。

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「珈琲の超短編」井上雅彦賞(大賞)受賞