2010年6月13日日曜日

名取川

 名取川の辺に棲む翁は、昔話や民話や、その他たくさんの不思議な話の語り部として有名である。
 翁が有名なのは、その膨大な話の記憶量だけではない。なかなか人に語らぬことでも有名なのだ。大学の研究者、怪談やオカルト好きの者、テレビや雑誌の取材などで翁の元を訪れる者は多い。だが、実際に話を聞いて帰ってくる人間は、ごく僅かだった。
 翁は堅物でも偏屈でもない、気さくな老人である。相手が気に食わないからと門前払いをするわけではない。それは私自身、翁に逢ったのだから、断言できる。

 雑誌の取材を翁に申し入れた私は、翁の指定した日時に訪ねて行った。
 茶と菓子を持って現れた翁は、真っ先に私の名を訊いた。もちろん、取材を申し込んだ際にこちらの氏名や取材目的などは話をしてある。翁の表情には、なぜか悪戯小僧のような気色があった。
「改めまして、東京のX出版から参りま……」
 私は絶句した。自分の名前がわからないのである。嫌な汗が全身から噴き出した。ポケットを探り、名刺入れを取り出す。
 名刺は、名前の部分だけ墨を流したように滲んでいた。翁は私の名刺を覗き込んで、けけけけ、と笑った。
 真顔に戻った翁に、狂言の「名取川」を知っているか? と訊かれても、すっかり動転した私には、何のことやらわからない。川に名前を取られたのだと、翁は説明した。
 もう一度、川を渡れば、東京に帰るころには、名前も思い出すだろう。その代わり、ここでの出来事はほとんど覚えていないはずだからと、励まされ送り出された。
 そう、私はその日の出来事をよく覚えている。そして、未だに自分の氏名を思い出せないままだ。家族や友人に何度聞いても、覚えることが出来ない。

どっちかというと、「みちのく怪談」の没。
本文中にもあるように狂言の「名取川」を下敷きにしたようなような。