2010年1月30日土曜日

はかなげな<哲学の道>

 空色の飛行機のモビールを手に、少年は一人で歩いている。
 哲学の道は桜が満開で、こんなにもよいお天気の午後なのに、
 そこを歩くのは私と少年しかいないようだ。石の道が奏でるリズムの違う足音が二つ、重なったり、離れたりするのを私は心地よく聞いていた。
 少年の持つ飛行機のモビールの空色は、桜の中でよく映えていた。少年の歩みに合わせて、三つの華奢な飛行機がひらりひらりと風に遊ぶ。
 銀閣寺方面に歩いて、また戻ってくるつもりだった。往復で四キロメートルほど、年寄りには相当な運動になる。だが、少年と少年のモビールと別れるのが惜しくて、しばらく付いていきたいような気持ちになっていた。
「おじいさんもお散歩?」
 そんな私の胸中を察したわけではなかろうが、少年に声を掛けられ不覚にも舞い上がってしまった。
「あ、あぁ。そんなところだ」
「今日は静かだね。こんなに桜がきれいなのに、おじいさんとぼくしかいないよ」
 少年は人懐っこい顔で私を覗き込んでくる。
「おじいさんはどこまで行くの? 一緒に歩いてもいいですか」
 いいですか、のところだけ急に改まった口調になったのが可笑しい。私はもちろん、と応えた。
 哲学の道はこんなに長かっただろうか。ぼんやりとした不安がよぎる。しかし、子供を持ったことがない私には、少年と歩く時間は味わったことのない愛おしさでいっぱいだった。いつまでもこんな時間が続けばよいとさえ感じた。時折、小走りになったり、ベンチに座りったりしながら歩く少年に合わせて、私も歩む。哲学の道は子供の足ではずいぶん長いのだ、と言い訳しながら。
「きれいな飛行機だね」
 と少年が持つモビールに目を遣りながら話し掛ける。
「お兄ちゃんたちの飛行機なんだ。いつも一緒に散歩するの」
 呟くような小さな声を掻き消すように、突如、三台の飛行機が低空に現れた。幼い頃の忌まわしい記憶を呼び起こす恐ろしい音。黒過ぎる飛行機の影……。目蓋をきつく閉じて飛行機が去るのを待つ。
 飛行機が去り、目を開けると少年の姿はなかった。さっきまで私と少年しかいなかったのに、花見をしながら散歩している人がちらほらと見える。赤ん坊を抱いた女、手を繋いでゆっくりと歩く老夫婦。穏やかな疎水の流れが桜の花びらを運ぶ。見慣れた哲 学の道の風景だ。