冬の山小屋は耳が喜ぶ。薪ストーブの、粗朶が燃え始める音、鋳鉄が伸びる音、薪が崩れる音。 夜、星々が歌っている。凍てつく寒さの中、硬質に輝く微かな音を捉えると耳は鋭敏になり、その調べを慎重に探る。が、旋律が聞こえ始めた途端、寒いのか恥ずかしいのか、耳は真っ赤になってしまうのだ。
2022年12月29日木曜日
2022年12月15日木曜日
#12月の星々 「調」投稿作
辞書が旅に出た。空になった定位置に書き置きがあった。難解な言葉が並んでいるのは流石だが筆記には不慣れとみえ、解読するのに苦労した。つまりは「語彙調査旅行」らしい。 辞書は元の定位置に収まらないほど厚くなって帰ってきた。新たに収録された言葉と出会うため、今度は私が辞書に潜る旅へ。
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予選通過
2022年12月14日水曜日
#12月の星々 「調」投稿作
このところチューニングが決まらない。よれよれのbフラット。楽器を温める。リードを替える。焦る。「それ、声変りじゃないか?」隣のテナーサックスからポンポンと肩を叩かれ「フぇ?」と掠れた声が出た。やっと始まった変声期と楽器の調子外れに関係があるとは思えないが、なぜだか気が楽になった。
2022年12月8日木曜日
#12月の星々 「調」投稿作
秋の間に色とりどりの落ち葉を呼んでおいた。星の形に切ってくれとせがむのもある。どんぐりと松ぼっくりも来た。もみの木がお待ちかねだ。落ち葉達を飛ばしてやると思い思いにぶら下がる。不思議と色調が揃う。松ぼっくり達はツリーの頂点を目指してのんびり競争中。二十四日までに決着がつくかしら。
2022年11月21日月曜日
#11月の星々 「保」投稿作
小法師が起き上がれなくなった。弥次郎兵衛は助けようとするが「おぬしのほうが均衡を保つのは難儀だ」と遠慮する。先刻まで二人でのんびりユラユラしていたのに。右目から涙が溢れ、体が傾く。そこへ木枯しが吹いたので、グラグラと大きく揺れて弥次郎兵衛も倒れた。枯れ葉が二人の上に舞い落ちる。
2022年11月10日木曜日
#11月の星々 「保」投稿作
白くてふわふわの卵が美しく装飾された保育器の中で眠っている。わたしが産んだのだ。こんなにやわらかなのに強烈な痛みを伴った。「本当に育つのかな……」哺乳類のはずのわたしが卵を産んだ理由はわからない。医者が言う。「初めに鼻が出てくるでしょう」夫は頷く。たまごがぽにょんと伸びをした。
2022年11月9日水曜日
#11月の星々 「保」投稿作
静寂の部屋に振子、大小の歯車、動かない鳩。そして大量の時計。「ここは何だ?」と聞くと「宇宙保時室。時間を見張っている」 「見張りを止めるとどうなる?」 「時は動きを止める」 「ウソつきめ」 時間泥棒ロボの背中から竜頭を引っこ抜いた。チクタク音、時が息を吹き返したのだ。鳩も飛び去った。
2022年11月7日月曜日
#11月の星々 「保」投稿作
極小カメレオンが揺れる葉の上でポーズを取る。完璧な保護色に満足しているが、葉が妙に不安定なのが気にいらない。 コノハウオは擽ったい。水流がおかしいと思っているが、それはカメレオンが動くせいだ。 カメレオンが水に落ちたのか、コノハウオが空中に飛び出したのか。見ていたのはお月さまだけ。
2022年11月2日水曜日
2022年10月26日水曜日
#10月の星々 「着」投稿作
「友達が月に行くんだ。宇宙飛行士になったんだよ」というと、月の人は苦い物を食べたような顔になった。「着陸の様子は生配信するってさ。月を歩く感触が楽しみだって」月の人は砂でも噛んだような顔をする。「月の感触は僕のほうがよく知っているんだけどね」頬を撫でると月の人はそっと息を吐いた。
2022年10月24日月曜日
#10月の星々 「着」投稿作
貴方は蝋燭だ。仏壇用の、箱入りの、ただの白い蝋燭だ。だが、貴方には火が灯らなかった。ライター、マッチ、隣の蝋燭からも着火を試みられ、その度に失敗し、箱に戻された。一本だけ箱に残され、引き出しの中で何十年も寂しく過ごしている。そんな貴方に千載一遇、今この家は放火犯に狙われている。
2022年10月22日土曜日
#10月の星々 「着」投稿作
立ち寄った古い喫茶店に黒電話があった。娘は初めて見るという。着信表示がないのは「怖っ!」だそうだ。「案外、誰からの電話かわかるものだよ」というと疑いの目。「お客様宛てに懐かしい人から掛かってくることがありますよ」と店主が言った途端、ベルが鳴り響く。娘が「おじいちゃん?」と呟いた。
2022年10月12日水曜日
#10月の星々 「着」投稿作
「よくご存知ね、浴衣をリメイクしたのよ」と、隣に座った御婦人に声を掛けられた。いや、先に声が出たのは私だ。綺麗なスカートに思わず「有松……」と呟いたのだ。祖母が有松絞りをよく着ていたこと、サイズが違い着られないことを話すと御婦人はウインクした。翌月、仕立て直された浴衣が届いた。
2022年10月5日水曜日
#10月の星々 「着」投稿作
ドローンが郵便配達するようになって久しい。それに対抗するかのように、手紙を紙飛行機にして飛ばす者が現れ始めた。紙飛行機に微小のエンジンだのAIだの取り付けるようだが、詳しくは知らない。時々、間違ったポストに着陸した恋文飛行機のせいで、ちょっとしたいざこざが生まれるのも当世風である。
2022年9月26日月曜日
#9月の星々 「実」投稿作
母は耳飾りを持って生まれた。センリョウの実のような小さな赤い飾りだ。耳飾りは、子供の頃は緑色だったらしい。母が恋を知ると色づき、父と出会うと真っ赤になり艶を増した。母の耳飾りは、いつも美しかった。父が亡くなってからは透明になり、今はロッキングチェアで寝る母の耳で静かに揺れている。
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三席受賞
星々 九月の星々結果発表
2022年9月16日金曜日
#9月の星々 「実」投稿作
虚と実の合間には、薄い皮がある。私はそれに穴を空ける。びりびりと破ることもあれば、針で突くだけのこともある。虚は怠そうに穴を通り、実へと流れ込む。多くの虚が流れると均衡を崩す。世が乱れ過ぎぬよう頃合いを見計らって膜の穴に薬を塗る。だが、最近は膜の治りが悪い。虚が空になりつつある。
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予選通過
#9月の星々 「実」投稿作
「柿の実から錆が出るのだ」と困り顔で言う。「干しても焼いても金気がする」と心底困った顔をする。「そんな柿、無理して食うことないだろ」と言えば、「食べないわけにはいかんのだ、爺さんの遺言で」 仕方なく柿の木の根元を掘ってみれば、錆びた古宇宙船が出てきた。爺さんが乗ってきた船だとさ。
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予選通過
2022年9月13日火曜日
2022年9月8日木曜日
2022年9月5日月曜日
#9月の星々 「実」投稿作
「クルトンがたくさん入ったスープを食べるのが夢でした」と料理教室の自己紹介で言うと、和やかだった雰囲気が変わった。食に関心が薄い家庭で育った私を見兼ねた叔父が外食に連れ出してくれた日、ポタージュのクルトンに私は感激したのだ。浮き実は少量と知ってからも、クルトンどっさりは譲れない。
2022年9月3日土曜日
#9月の星々 「実」投稿作
成功は唐突にやって来る。禁断の果実が生る樹を長年の研究により蘇らせ、初めて実った時、研究者は実験とは関係ない実務処理に追われていた。結実の瞬間を目にすることができなかった研究者は、ところ構わず当たり散らし、実に多くの機材を破壊し、衣服を脱ぎ捨て次々実る禁断の果実を貪り続けている。
2022年8月30日火曜日
2022年8月28日日曜日
2022年8月27日土曜日
2022年8月24日水曜日
2022年8月21日日曜日
2022年8月15日月曜日
#8月の星々 「遊」投稿作
向こうから歩いてくるおじさんの顔にモザイクが掛かっている。服装や髪、歩き方で初老の男性とわかる。そういえば私も今朝、初めて顔にモザイクを掛けたのだった。一番弱く。 個人情報保護も極まれり。今日から顔のモザイクは合法になった。公園で遊具にしがみつく子らの顔は、目鼻も判別できない。
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予選通過
2022年8月13日土曜日
①日記帳 ②宿雨 ③ひらく
日記帳をひらくと紙が湿っている。万年筆では滲むに違いないので今日も油性ボールペンで記す。「8月13日 雨。もう二晩降り続いている。宿雨とはいうが、雨の連泊は遠慮いただきたい。予約のお客様、四組キャンセル……連泊中の雨に宿泊費を払ってもらいたいくらいだが、どこに請求すればよいものか」
Twitter企画
#深夜の真剣140字60分一本勝負
@140onewrite さま
2022年8月11日木曜日
2022年8月7日日曜日
2022年8月6日土曜日
#8月の星々 「遊」投稿作
朝起きると飼い猫が小さい虎になっていた。早朝、餌をねだる声が低く聞こえたのは気のせいではなかった。虎と呼ぶには小さいが、猫と呼ぶのは憚られる、がっしりと太い脚。牙も大きい。猫は柄も性格も変わらず、遊び盛りのまま小虎になった。餌の量は十倍になったがエノコログサと毛玉ボールに夢中だ。
2022年8月1日月曜日
#8月の星々 「遊」投稿作
世界各地から届くおじさんからの手紙には、いつもヘンなハンコが捺してあった。 「何でハンコ捺すの?」 ――遊印。かっこいいだろ? 「なんて書いてあるの?」 ――大人になったら読めるようになるよ。 既に叔父の年齢を越えた。「秉燭夜遊」の通りに叔父は生きた。青田石を握ってみる。重く冷たい。
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予選通過
2022年7月31日日曜日
夏祭り #文披31題 day31
昔の話だ。子供好きの祖父は、祭になると余所の子でも構わず駄菓子や水ヨーヨーを買ってあげてしまうのだった。毎年のように祖父の前に現れ、綿飴をもらってペコリと一礼するとぴょんぴょん走っていった白狐の面の子は、本当にキツネの仔だったよ。
2022年7月30日土曜日
貼紙 #文披31題 day30
黄ばんで破れた「冷やし中華始めました」が窓にこびりついている。ここを通る人は、この店が今もやっているとは思いもしないだろう。冷やし中華を食べながら「貼り替えれば?」と聞くが、河童になってしまった店主は「でもなぁ」と、きゅうりを刻む。
2022年7月29日金曜日
揃える #文披31題 day29
脱ぎっぱなしのビーチサンダルを揃えなさいと毎日言われていたけれど、揃えてしまうと夏が終わってしまうような気がしていた。その感覚を親に説明する言葉は小学生の頃は持っていなかった。今は叱られる前に揃える。そうしないと夏が暴れるから。
2022年7月28日木曜日
しゅわしゅわ #文披31題 day28
お祭りで知り合った金魚が、水槽の水を炭酸水に替えてくれという。私は動揺して「身体に悪い」とか「どうせ炭酸はすぐ抜けてしまう」とか、色々と言った。金魚は「ご心配には及びません」という。今日も金魚と小さな泡たちは仲良く泳いでいる。
2022年7月27日水曜日
水鉄砲 #文披31題 day27
「最強のヤツもってきた!」と最年少五歳が大きな水鉄砲で参戦。身体に似合わぬ大きさの水鉄砲にかわいいやら可笑しいやら。いざ撃ち合いが始まると、でかいくせにチョロチョロと水を垂らすばかり。なぜか五歳児ご満悦。見事笑いを掻っ攫い優勝。
2022年7月26日火曜日
標本 #文披31題 day26
こんな蒸暑い雨の日が最適なんだ。重い湿気が、しっとりとした輝きを出す。もちろん陸の妖精は晴れた日がいい。キミのような水棲妖精ならではだ。これでよし。いつも剥がれた鱗を分けてくれてありがとう。お礼の蜜だ。人間に見つからない内にお帰り。
2022年7月25日月曜日
キラキラ #文披31題 day25
七夕飾りの残骸が散らばっていた。綺麗な紙やかわいらしい文字の短冊が破れ、汚れている。片付けたいが、拾ってゴミ箱に入れるのもなんとなく憚られた。「箒星に掃除を頼むといい」とピーナツ売りが教えてくれた。夜になったら、電話してみよう。
2022年7月24日日曜日
絶叫 #文披31題 day24
雷鳴が轟く。時々、妙な音が混じる。いや、音というより、声みたいだ。「雷にも怖いものはある」と老人が笑う。「ゴキブリ? ジェットコースター? 怒る先生?」それで言えばゴキブリだな、と老人は言う。その途端、目の端を黒いものが通り過ぎた。
2022年7月23日土曜日
ひまわり #文披31題 day23
昔の話だ。ひまわり畑で迷子になった。本当は、置き去りにされたのだと思う。暗くなってきて、私は蹲り、ひまわりたちに慰められながら眠った。目が覚めると真新しい黄色いタオルケットに包まって寝ていた。今年もひまわりにお礼を言いに行く。
2022年7月22日金曜日
メッセージ #文披31題 day22
引っ越した家には、毎日ポストに願い事や頼み事が書かれた短冊が入る。前の住人が拝み屋のようなことをしていたらしい。「こちら七夕の笹にあらず」とポストに貼り紙をしたら和歌が届くようになった。返歌したいが、相手がわからない。
2022年7月21日木曜日
短夜 #文披31題 day21
「髪が乾かないから」と言って、床に就こうとしない。私は布団の中から窓辺に座っている長い髪の人を見ていた。本当はもう髪は乾いているのだろう。のんびり夜風に当たっているようで、何か別のものを見ている顔だった。彼女に背を向けて目を閉じた。
2022年7月20日水曜日
入道雲 #文披31題 day20
よく晴れた夏の日だった。ある田舎の寺を訪ねる白いもこもこした者があった。「どういうわけか長年『入道』と呼ばれているが、きまりが悪い。形だけでも修行したい」和尚は笑って、白き者と寺を掃除し、並んで経を読み、スイカを食べ、青空に帰した。
2022年7月19日火曜日
氷 #文披31題 day19
昔の話だ。夏になるとかき氷屋が来た。一軒一軒「かき氷屋でござい」とステテコ姿のおじさんが玄関先に現れる。重そうなかき氷機を下ろし、大きな音を立てて回す。結構時間が掛かる。おじさんの汗が氷に入るのではとヒヤヒヤする。シロップが赤い。
2022年7月18日月曜日
群青 #文披31題 day18
2022年7月17日日曜日
その名前 #文披31題 day17
思い出せないものが増えた。年のせいかと思っていたが、そうではないと気が付いたのは、えーとニュースを読む人が「それが、ああして、あれになって、こうしました。以上、ナニをお伝えしました」と涼しい顔で言ったからだ。気楽になった。
2022年7月16日土曜日
#7月の星々 「放」投稿作
たくさんの街を見た。色の薄い街、猫が喋る街、風が美しい街、毎晩が満月の街……。人生の後半は旅の日記をまとめ、本を執筆するつもりだった。かつてない放浪記になるはずだった。 今、膨大な日記帳を前に困惑している。文字が読めないのだ。言語習得能力が奇妙に高かった若かりし自分を恨んでいる。
錆び #文披31題 day16
三輪車は何十年もここにある。元の色がわからないほどに朽ちているが、私は鮮やかな水色だったことを覚えている。私の三輪車だったのだ。幼児の数年間、乗り回し、ある日突然使わなくなって、そのままずっとそこにある。私は毎日、三輪車を一瞥する。
2022年7月14日木曜日
なみなみ #文披31題 day15
水が溢れそうなグラスがテーブルに置いてある。水面が動いている。「波と同じように動くんだ」と窓から海を眺めながらその人は言った。「嵐の夜は、テーブルがびしょびしょになるよ」と。グラスの水は減らないそうだ。こっそりこの水を啜りたい。
幽暗 #文披31題 day14
夕立ちが来そうだから雨戸を閉めてと言われた。どんよりした雲、重い空気、遠くの雷鳴。不穏な光景をしばし眺め、雨戸を閉める。じっとりと暗い部屋が心地よい。電気を付けてと言われたが、聞こえないふりをした。この暗さで、やっと地に足がつく。
2022年7月13日水曜日
切手 #文披31題 day13
古い机の引き出しが、不意に開いた。中には宛先宛名付きだが白紙の葉書がいくつも入っている。切手も貼ってあるが消印はない。住所はこの家のようで、ここじゃない。葉書の一枚に手紙を書くことにする。亡き祖父はどこでこの葉書を受け取るのだろう。
2022年7月12日火曜日
すいか #文披31題 day12
「うちのすいかを知らんかね?」と隣のおばあさんがやってきた。縁側で冷やしていたすいかが消えてしまったという。おばあさんと一緒に行方を探したら、サッカーボールに恋してゴロンゴロン転がっているスイカを発見、おばあさんはすいかを諦めた。
2022年7月10日日曜日
緑陰 #文披31題 day11
ログハウスの天窓から朝日が差し込む。眩しくて寝ていられないから、散歩に出た。日差しは強いが空気は乾いていて心地よい。木々の葉はうるさいほど緑だ。緑の声に誘われるままに歩いていると、突然、強い冷気を感じた。「ごめんごめん」と引き返す。
くらげ #文披31題 day10
なんだが全身がぷよぷよするので、湯を掬い上げてよく見れば、くらげだった。変な叫び声が出た。もう一度、風呂を沸かしたが、やっぱりくらげだった。あきらめた。刺すこともないようだし、温かく透明なくらげ風呂は、慣れてしまえば心地よい。
2022年7月9日土曜日
団扇 #文披31題 day9
実家の団扇はボロボロで、どうして薄汚い団扇を使わなければいけないのかと子供の頃は不満だった。ところが小学生のある日、同級生の家で団扇を借りてみて知ったのだ。普通の団扇はいくら扇いでも涼しくならない。オンボロ団扇は今も扇げば冷たい風。
2022年7月8日金曜日
さらさら #文披31題 day8
舟に作ってくれた手は節くれ立ってシミだらけだがやさしい。どうやら年寄りの男で、慣れた調子で一介の笹の葉を姿のよい舟に仕立ててくれた。
さぁ出発だ。せせらぎの水は冷たく、緑が増す心地。こんな清らかな水なら、流されるのも悪くない。
2022年7月7日木曜日
天の川 #文披31題 day7
近年、例の二人がやけに恥ずかしがりになり、年に一度の貴重な機会だというのに逢瀬を躊躇うようになった。事を重く見た天帝は『天の川の渡り方』という指南書を自ら執筆、二人に渡すことにしている。
2022年7月6日水曜日
筆 #文披31題 day6
その書家の書は、見る者を恍惚とさせる力があった。ある者は「眩い光を見た」といい、またある者は「麗しい香りがした」という。噂によれば、幻獣の尾の毛で作られた筆で書かれるという。それを信じた凡庸な書家たちは筆を捨て、幻獣探しに夢中だ。
2022年7月5日火曜日
線香花火 #文披31題 day5
「そっくりだ」と、あなたは線香花火と私を交互に見やる。私の浴衣の乱菊の柄と線香花火が似ていると言って聞かないのだ。「ほら、見てて……ピークが過ぎた瞬間が……ね?」
すると浴衣の菊がチカチカと燃え始めた。私は吐息と共に浴衣を脱ぐ。
2022年7月4日月曜日
滴る #文披31題 day4
市民プールの夜専門監視員である私に、ぼやけている子、光っている子、触れない子、浮いている子たちが「遊ぼ!」と集まる。
東の空が白くなった。水から上がり、まとめ髪をおろす。私の髪からぽたぽた落ちる水滴を「甘い甘い」と啜りに寄ってくる。
2022年7月3日日曜日
謎 #文披31題 day3
寄せて返す波の音をずっと聞いていると、なんだか言葉に聞こえてくると恋人が言った。「今なんて言ってる?」と訊くと、聞いたこともないような発音で何か呟いた。驚いて顔を見たが、夕日に照らされて表情がわからない。
2022年7月2日土曜日
金魚 #文披31題 day2
去年の夏、弟が掬った小さな金魚は、私のコードレスのイヤホンに棲むことにしたらしい。右耳。ビートに合わせて尾びれを震わせるから、ゆらゆら。右耳だけ、ゆらゆら。ときどき酔ってしまうので、弟に「今年も夏祭りに行こうね」と誘った。
2022年7月1日金曜日
#7月の星々 「放」投稿作
願い事を書いた短冊を夜空に放った。どうせひらひら落ちてくるんだろうと思ったが豈図らんや、ぐんぐん上昇していく。慌てたのは短冊が吊るされるはずだった笹の枝。葉を一斉に逆立てて、短冊を追い掛け目にも留まらぬ速さで飛んでいった。「ロケットだ!」と覚えたての字で短冊を書いた人がはしゃぐ。
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予選通過
黄昏 #文披31題 day1
西日があまりに暑いので太陽に氷水を差し出したら、あっという間に飲み干した。が、やっぱり暑いままなので、ならばさっさと沈んでもらおうとリヤカーに乗せて運ぶことにした。太陽を乗せて西に向かっていると、何故だかしんみりして、少し涙が出た。
2022年6月12日日曜日
鯨を撫でる(某氏邸と三日月の夜)
月光が弱いと、濡れた服がなかなか乾かない。鯨たちも小型化して、甘えてくる。長老鯨がやってきたので、望遠鏡の修理について相談した。素晴らしい古代レンズが見つかるとよいのだが。鯨たちを撫でていると、やっと服が乾いた。さて、屋敷に戻るとしよう。
植物室へ(某氏邸と三日月の夜)
植物室へ。夜行性植物たち、ごきげんよう。今夜も元気そうで何よりだ。走り回る小さな樹木。しきりに発光する草花たち。私の姿を見るやいなや、水浴びを所望するたくさんの苔玉。散水すると、大喜びで飛び跳ねる。おかげで私もびしょ濡れだ。
月の計測(某氏邸と三日月の夜)
壁に並ぶ正方形の窓。今晩この時刻は六番の窓の中心に三日月が収まっていなければならない。専用の定規で、三日月の位置を確かめると、0.2度ずれている。天文学者から月に気をつけるように言ってもらおう。最近、月は計算間違いが多いのだ。
屋敷へ(某氏邸と三日月の夜)
扉を開けると、けたたましい叫び声。古い蝶番とはいえ、こんなに絶叫されては堪らない。建具管理者に油を差しておくように命じるのと、扉に静かにするよう説得するのと、どちらが効果的だろうか。「静かにね」と言ってみると、扉ではなく床の軋みが鳴り止んだ。
2022年6月1日水曜日
誘惑
男は、「I国の家具商人です」と名乗った。
I 国には縁もゆかりもない。
「こちらのテーブルです。貴方は必ずお気に召すでしょう」
目立った生き物はいない。藻やプランクトンのような微小な生物が漂っている。光を当て、時が来れば、もしかしたらもっと大きな生き物が出てくるかもしれない。そんなふうに見えた。
2022年5月20日金曜日
情熱の舟
情熱の舟は、乗客の情熱を吸い取りながら進む。つまり人間の情熱が燃料というわけ。
情熱を吸い取られた人間は、舟を降りる頃には目の輝きは失われ、足取りもふわふわと覚束ない。が、一度乗ってみるとわかる。身も心もずいぶん軽くなるのだ。情熱は、身体に負担が大きい。身体だけじゃない。情熱に溢れた人間は何をしでかすかわからないような輩が多いではないか。情熱は、社会にも負担なのだ。
実際、情熱を吸い取り過ぎた舟は、瞬く間に朽ちていく。舟の残骸とともに川に流れた情熱は、やがて海に出て、蒸発し、雲になり、雨となり、人々に降り注ぐ。
2022年4月22日金曜日
指先アクロバティック
左手の小指、爪の伸びたところが、パキッと音を立てた。久しぶりの感触だ。そのまま指も縦に割れていき、一つ目の関節まで着た頃に薬指が割れ始める。じわじわと根本まで割れて2本になった左手薬指だが、結婚指輪には影響がない。
そうこうするうちに左手右手すべての指が2本に分かれて、つまり20本指となる。ひらひらと20の指を動かす。どれも違和感なく動かせる。ピアノも弾けるし、折り紙も折れる。
けれど、20本指は長持ちしない。せっかく2本に分かれた指は5分もしないうちに1本にくっついてしまう。今度は音もなく、あっという間に。指をめちゃくちゃに動かして抵抗してみても、甲斐はない。あっさりと10本指に戻ってしまう。
本当は20本の指で次々とあやとりをして見せて、あなたを惑わせたいのに。