超短編
学者は声がよくなかった。若い頃から嗄れ声で、そのせいで学問を修めても残す手段を持たなかったという。この町では知も詩もすべて口伝えで受け継いできたのだった。文字はあったが、物として記録し残すことは何故かしなかった。数式も哲学も語り、唄う。学者はそれを「この町の伝統」と表現している。
呼吸を整える。本の題名『伝説の篤学者へ』の文字は、もう消えかかっていた。表紙を捲る。焦らず、集中して、じっくり読もうと自分を励ましながら文字を追う。いつの間にか私は本に惹き込まれ、夢中になっていた。『伝説の篤学者へ』は、この図書館を作った大昔の、とある学者の自伝のような本だった。
自動人形の司書は一冊、本を持ってきて書見台に置き「初めにこれを読んでください。その後は、何を読んでも、どこから読んでも構いません」と言った。老人の声ではなくなっていた。表紙には「伝説の篤学者へ」とある。この町の本が読める喜びと、一度しか読めない緊張感で私の気持ちは掻き乱れている。
急に老人のような声色になった自動人形の司書は続けた。「ならば本館の全ての書物は貴殿のためのもの」そう言って、閲覧席に案内された。閲覧席は私のために誂えたようにぴったりの高さの椅子と机、そして書見台が据えてある。どれもどっしりとした木製のもので、とても古そうだが使われた形跡はない。
「全ページを読み終えると、やはり本は崩壊します。注意事項は以上です。本館内の図書資料の閲覧を希望しますか」急に事務的な口調になった自動人形の司書に、慌てて質問する。「この町で、知や詩の継承は、どのように行われてきたのですか?」先ほどよりも長い沈黙があった。「貴殿が伝説の篤学者か」
「書物専用の紙に文字を書くためのインクも研究されました。染料、顔料、没食子、墨……しかし賢人の知恵を集めても『一度読むと文字が消えてしまう』を克服することはできませんでした」自動人形の司書は目を伏せた。それでは大量に持ち込んだ故郷の紙に書き写すこともできないではないか。「さらに」
「この町では質のよい紙を作ることはできませんでした。質のよい紙を遠くの町から買うこともできませんでした」自動人形の司書は台詞のように語り始めた。「市場に出回っている紙は書いた字も読めぬほど。しかしそれでは書物になりません。図書館の本は苦心して作られた書物専用の紙に書かれています」
「けれども」自動人形の司書は続ける。「ここにある本は、まだ誰にも読まれたことがありません。そして、一度しか読むことができません」私は図書館内をぐるりと見渡した。立派な背表紙が並んでいる。「一度しか、読めない……?」なかば独り言のように訊ねる。「一度でも目を通した文字は消失します」
「ここにある本は、ちゃんと読めるのですか」自動人形の司書に訊ねると、やや間があり「読めなければ本ではありませんね」と返ってきた。続けて「今、名前を書いた紙のように文字が滲んで読めないことを心配しているのです」と言えば「本館に所蔵している本はすべて解読可能です」やけにきっぱり言う。
煉瓦作りの建物に入ると自動人形の司書に迎えられた。素朴ながら人工知能を持っているらしい。口頭でのやりとりも可能だ。入館記録書に記名するように言われ、紙とペンを差し出される。私の名前だった文字は紙を汚し、汚れた紙は自動人形の手でギクシャクと書類箱に仕舞われた。ボロボロに崩れながら。
この町に、本はあるのだろうか。手で触ても崩壊しない、滲んでいない文字で書かれた本は。図書館がひとつだけあることは役場で聞いてあった。大学は百年ほど前に廃れてしまったそうだ。私は控えてあった図書館の所番地への行き方を下宿の管理人に聞き、外へ出た。図書館は町の外れ、森の手前にあった。
触れれば崩れるほど脆い紙の町とは誰も教えてくれはしなかった。文字が解読できぬほど滲む紙の町で学問が盛んだったとはとても思えない。苦労して遠いこの町へ来たというのに。故郷の図書館で読んだ歴史書は幻想の書だったか。老人、船乗り、役人……皆がこの町の古くて美しい詩を聞かせてくれたのに。
封筒の宛先もインクが滲んでいる。郵便配達人を呼び止めてどう読んでいるのか聞いたが、怪訝な顔をされるだけだった。突然あることに気付き、冷汗が噴き出た。二日前、私はここにやって来た。勉学をしに来たのだ。かつて、この町には優秀な学者が集い、美しい詩に溢れていた。それを調べ、学ぶために。
封を切り、畳まれた便箋を開くだけで指先はガサガサになった。開いた便箋は折り目から破け、インクが滲み過ぎてどこに文字が書いてあるのかわからない。ペン先が引っ掛かるのか所々穴が空いている。ここの紙は粗悪に過ぎる。私の故郷の紙がいかに質がよかったか、初めて思い知る。手紙ひとつ読めない。