2009年1月12日月曜日

掌に降るゆき

 一月二十日夜。凛とした静寂に、雪が積もり始めていることを知る。
 僕は寒さに身を縮めながら部屋を出た。着古した綿入れを羽織り、マフラーをしっかりと巻いて長靴を穿く。手袋はつけない。寝ている父や母を起こさぬようそっと外に出た。
 日が落ちてから降りだした雪は、既に足首まで積もっていた。夜なのに仄かに白い空を仰ぎ見る。今夜は、きっと逢える。冷えて赤くなった両の掌を椀のようにして、そっと差し出した。
 まるで僕の掌目掛けて雪が降っているようだった。たちまち掌一杯に雪が積もる。はぁ、と温かい呼気を吹き掛けると、懐かしく愛しい人があらわれる。まだちょっと眠たそうにしているから、驚かさぬよう囁き声で名を呼んだ。
「ゆき」
 くるん、とゆきの瞳が輝いた。
「一馬」
 十一歳の頃そのままの笑顔と声で、僕の身体中の関節は甘く火照る。ぎゅっと手で包みたくなるけれど、掌の中のゆきはあまりに小さい。そのまま、そのまま。やさしく掌を崩さぬように。
 元気そうで、よかった。と呟いたら涙が零れた。ぽたん、とゆきの傍らに落ちた。いけない。ゆきが身体を強ばらせる。僕の涙も、ゆきにとっては重い塩水の塊だ。
「ごめんよ、あんまり久しぶりだから……嬉しくて涙が出てきちゃったんだ」
 謝るとゆきはにっこりと笑ってくれるから、また涙が溢れてきて、顔を背けて鼻を啜った。
 去年は逢えなかった。雪が降らなかったからだ。一昨年とその前の年は逢えたけれども、四年前は逢えなかった。毎年というわけにはいかない。一月二十日に降り出すしんしんと静かな雪の晩にしか、僕はゆきに逢えない。

 十一歳だった一月二十日、幼なじみの悠紀は居なくなった。悠紀は母親が入浴しているほんの数十分の間に、居なくなった。父親は夜勤の日で不在の夜のことだった。
 風呂上りのまま表に飛び出してきた悠紀のお母さんが、真っ赤な顔で身体中から湯気を上げて悠紀の名前を叫んでいた姿を、僕は一生忘れることはないだろう。娘を呼ぶその声は、無情にもすべて雪に吸い取られた。本当に雪の多い夜だった。
 一週間ほど近所のおじさんやお兄さんたちが険しい顔で探し回った。結局、悠紀は見つからなかった。
 春になればひょっこり出てくるよ、と地区で一番年長のばあちゃんが目を真っ赤にして呟いた言葉に皆が期待したが、雪が解けてもやっぱり悠紀は帰ってこなかった。未だに手がかりも、遺体も何も見つかっていない。悠紀は、雪と一緒に解けてしまったんだ、と僕は思った。
 悠紀の両親は、居た堪れなくなったのか、形だけの葬儀を済ませると遠くの町へ引っ越していった。悠紀が帰ってくると最後まで信じていたばあちゃんも夏の終わりに死んで、近所の人も悠紀のことを口に出さなくなった。一年も経たないうちに誰もが、悠紀はまるではじめから存在すらしなかったような態度になったのが、許せなかった。
 悠紀を偲ぶことが出来るのは、僕だけだ。僕は白いうさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて毎晩のように誓った。引っ越していく日に悠紀のお母さんがそっとうちを訪ねて来て、僕にくれたぬいぐるみだ。悠紀が可愛がっていたそのぬいぐるみは、何度も悠紀の部屋で見たことがあるものだった。その夜は、悠紀とよく似た悪戯っぽい瞳をしたそのうさぎのぬいぐるみを、泣きながら抱いて眠った。

 悠紀が居なくなってちょうど一年後の一月二十日の夜、去年と同じように雪が降った。僕は一人で外へ出て、掌に積もる雪を見詰めながら「ゆき……」と呟いたのだ。
「なあに? 一馬」
 聞き覚えのある声とともに現れた悠紀に、僕は心底驚いた。恐ろしくもあった。手を開いて放り出しそうになるのを、寸でのところで押し留まった。深呼吸して、もう一度、掌を覗き込んだ。悠紀は悠紀だけど、小さくて軽かった。
「本当に、悠紀? おれ、何かに化かされてない?」
「化かしてなんかいないよ。悠紀よりずっと小さいけれど、ゆきだよ」
 それを聞いて僕は、胸がいっぱいになった。ずっとずっと、逢いたかったのだ。
 悠紀に逢うことがあれば、たくさん言ってやりたいことがあった。
 皆、心配したんだぞ。どこに行っていたんだ。怪我はなかったか。怖い思いをしなかったか。
 けれども、悠紀の小さすぎるその姿は、違う世界の人であることをはっきりと物語っていた。今更、失踪したことを責め立てるのは躊躇われた。それでもやっぱり、訊きたいこともいっぱいあった。
 普段はどこにいるの。誰かと一緒に暮らしているの。どうして僕に逢えるの。……悠紀は死んだの。
 でも、言いたいことも、訊きたいことも、何ひとつ口に出せなかった。今僕にできることは、今のゆきを大切にすること。そう決めたら、ひとつだけ訊ねることができた。
「来年も、逢える?」
 ゆきは、きっぱりと答えた。
「雪が降ったら」

 ゆきに初めて逢った日のことをぼんやりと思い出しながら、僕は近い将来のことを語った。春になったら専門学校を卒業して、町に出ること。もうすぐ一人暮らしの準備を始めること。ゆきはちょっと寂しそうな声で言った。
「一馬、なんだか知らないお兄さんみたいだ。もう大人なんだよね。もうすぐ二十歳だもんね。いつまで経ってもゆきばっかり小さいままだ」
 ゆきに悠紀の頃の記憶がどれくらいあるのか、僕は知らない。ゆきが自分の話をすることはほとんどなかった。いつでも僕の近況を知りたがり、嬉しそうに聞いていた。だから、ゆきが僕に負い目を感じているとは、気付かなかった。僕はあの頃のままの悠紀の姿でいる、今のゆきを大切に思っているし、大好きなんだ。でも、それを口にしてよいのかどうか、わからない。
 黙っていると、ゆきは、ふっと優しい声になって言った。
「一馬、手が疲れたでしょう?  ほら……霜焼けになってる」
 ゆきは僕の指先をちろちろと舐める。その仕草は、十一歳のものとは思えなくて、姿は変わらずともちゃんと年齢を重ねているのではないかと思わずにはいられない。
「危ないよ、滑り墜ちる。おれは大丈夫だから」
 そう言った声は少し擦れていた。顔が赤いのは、寒さのせいではない。ゆきの唾液が赤くなった指に滲みるけれど、その痛みすらもこの小さな小さなゆきが幻ではない証だと思える。
「一馬の着てる綿入れ。あの日着ていたのと同じだよね。わたしがこっちに来た日。一馬がそれを着て、雪の中でわたしを探しているの、ずっと見てたよ。ごめんね、って思いながら」
 心臓がぎゅっと掴まれたような気がした。ゆきは、やっぱり悠紀でいた頃を覚えているのだ。
「誰かに呼ばれたわけじゃない。自分で来たの。間違って人間に生まれちゃったような気がしてた。ずっと、小さい時から。だから、自分の棲むべき場所に帰ろうと思ったの。一馬と離れ離れになることだけが、嫌だった」
 間違って人間に生まれちゃった、ってどういうことだ? ゆきは何者なんだ? ゆきは、悠紀であるときから人間ではないと自覚していたのか……。
「わたしは、幸せだと思う。本当に棲むべき場所がどこだか解ったから。時々だけど、一馬ともこうして、逢うことができる。抱きしめてもらうことは、ちょっとできないけどね」
 冗談めかしてゆきは言ったけれど、僕はその真っ直ぐな言葉にひどくたじろいだ。

 朝が近づいても、空は相変わらず雪を降らし続けている。もう何時間も同じ姿勢で、ゆきを両の掌で掬うように包んでいるから、すっかり凝った肩に雪が降り積もっている。とうに両腕は痺れを通り越して、感覚がない。
「そろそろ、帰るね。一馬、また来年も雪が降ったら、逢えるよ」
「うん」
「でもね、一馬はもう、ゆきに逢いに来ないと思う」
「え?」
 そんなことはない、きっと、必ず来年も、と言った時にはゆきの姿はなくなっていた。掌の中にはこんもりと積もった雪があるだけ。思わず空を見上げて叫んでいた。
「悠紀ー!」
――ありがとう、一馬。
 と聞こえたような気がして掌をもう一度見ると、掌の雪は跡形もなく消えていた。

ゆきのまち幻想文学賞投稿作