2008年1月31日木曜日

うるさい人形

瑠璃はなんとか口を動かそうと懸命だ。
「頑張って、瑠璃。もう少しだ」
僕はやさしく声を掛ける。
瑠璃は人形だ。ラピスラズリの瞳が入っているから、そう名付けた。瑠璃と暮らし始めてすぐ、彼女が何か言いたがっていることに、僕は気づいた。
「きみは人形だ。陶で出来た人形だ。でも言いたいことがあるんなら、きっと話せるようになる。まずはそのかわいいくちびるを動かそう」
瑠璃の青い瞳が濃くなった。
しばらくすると、瑠璃の口元は罅だらけになった。罅が増えるたび、瑠璃のくちびるは、大きく動くようになった。
「いいぞ、瑠璃。今度は声だよ、喉を震わせるんだ、できるね?」
もはやくちびるがどこにあったのかわからないほど顔が砕けた瑠璃だが、発声練習は四六時中休むことなく続いた。「ア」とも「ハ」ともつかない囁き声。
そしてついに、瑠璃が僕を見つめて言った。
「タス、ケテ、タスケ、テ、タスケテ、タスケテエエエエエエエエエエエエエエエエエ」
瑠璃の絶叫は、まだ止まない。

2008年1月30日水曜日

無の境地はどこにある

無の境地に至るため、世界各地の秘境に出向き、滝に打たれる。
滝に打たれている最中は、疲労と水圧と冷えで何も考えられなくなる。これを無と呼んでいいものか、私はいつも疑問に思いつつ、なお滝に打たれる。

今、目の前でゴウゴウと落ちるのは、ココアの滝だ。
世界中の滝を訪れたが、無論こんな滝ははじめてである。
早速、服を脱ぎ、滝壺に入る。
疲れた身体に香りと熱さが、容赦なく襲う。
皮膚が今まさに爛れはじめている。なのに、ココアの香りに包まれていることに、幸せすら感じる。
味わったことのないこの恍惚感は、限りなく無の境地に近いかもしれない!

わずかに残った理性は、甘い香りのもたらす煩悩と、全身火傷による死の予感を警告している。

2008年1月28日月曜日

回帰

 旅の途中で立ち寄った浴場は、ひどく寂れていた。脱衣所の蛍光灯は点滅し、そのスイッチは壁から垂れ下がって配線が剥き出しだった。
 それでも、そそくさと服を脱ぎ湯に入った。寒さで縮こまっていた筋肉が徐々にほぐれていく。
 心地よさは突然破られた。老婆が入ってきたのだ。混浴だったことにも、腰が曲がり骨と皮だけのような姿にも動揺した。しばらくしたら、素知らぬ振りで風呂から出よう。
 老婆は浴槽の縁に腰掛けると、脚を広く開いた。やや苦しそうに呼吸している。大丈夫かと声を掛けるべきか。迷っていると、その股座(またぐら)から何やら出てくるのに気づいた。風呂から出たいと思っていたことも忘れ、その光景に目を奪われる。
 小さな呻き声をあげながら、老婆はそれを産み落とした。一瞬水子かと思ったそれは、人形だった。ぬらぬらと濡れたまま湯に沈められると、たちまち大きくなり手足が動いた。人形は、十歳くらいの少女となった。
 少女は老婆と俺を洗い場へ誘い、石鹸を丹念に泡立て、二人の身体を交互に洗い始めた。足の指から耳の中まで。臍も性器も例外なく。その感触に俺が我を忘れそうになると、やわらかい手は老婆の身体へかえってしまう。
 落胆と期待の眼差しで、少女の手の動きを見つめる。幼い手に撫でられている皺だらけの肌は、次第に赤みを帯びていくようだ。腰が伸び、乳房が持ち上がる。老婆は、少女とそっくりな女になった。
 「本当に親子なんですね」
 「ええ。でも、そろそろ時間です。この子は帰らなくてはなりません」
 冷水を浴びせられた少女は、人形に戻ってしまった。それを俺に差し出して、女が言う。
 「お手伝い、してくださいますか」
 俺は、泡の残る女の肢体を撫で回しながら人形を突き刺した。

ポプラ社 週刊てのひら怪談掲載作

ラストバトル2060

2008年から始まった戦いは2060年に終わる。
そう預言したのは、黄金虫のアルフォンスだ、と言われている。
アルフォンスは標本になり、今は博物館のロビーに陳列されている。
2060年の今、アルフォンスの言う戦いが何だったのか、わからなくなってしまった。
たかが半世紀ちょっと前なのだけど、2008年には、オリンピックもあるし、夫婦喧嘩もあるし、二酸化炭素もあるし、プロレスも相撲もあるし、冤罪もある。一体どれが黄金虫の言う戦いなのか、わからないのだ。
それでも、何かが終わることを期待して、人々は「ラストバトル」を待っている。

2008年1月27日日曜日

涙を舐める

いまにも溢れそうな涙を舌で掬い、飲み込んだ。すると、キミはいよいよ泣き出すから、ぼくは流れる涙を次々に舐める。
ぼくの舌はキミの朿で傷だらけになり、涙は血の味になった。
サボテンであるキミが涙のような露を出すと知ったのは、ぼくが初めフられた日の夜だった。
朿の先にぷわりと水玉が膨らむのを見て、これは涙だ、ぼくの代わりに泣いているのかもしれない、と思った。

あの日からだいぶ月日は過ぎた。ぼくは何度もサボテンを泣かせた。けれども、流れるほどサボテンが泣くのは初めてだ。
そう。今夜、ぼくはすごく泣きたい。声出して泣きたい。かわりにサボテンが泣いてくれるなら、ぼくはその涙を全部引き受ける。

2008年1月26日土曜日

値切るつもりじゃなかったのに

エジプトの露店で、小さなオルゴールを見つけた。
金と紫色の石で細かい幾何学模様が施された箱型のオルゴールだ。
「東洋人、これはよいものに目をつけた」
などと店主に言われて、あやしさにますます胸が高鳴る。値段は安い。すぐにでも買いたかったが
「どんな曲が聞けるんだい?」
と聞いてみた。すると店主は目に見えて焦りだし
「音楽なんかどうでもいいじゃないか。金と紫水晶の細工がきれいだろう?お土産にすればいい。安くするよ」
とまくし立てた。
「確かにきれいな箱だよ。でもこれはオルゴールだろ?ちょっと聞かせてくれよ」
店主は、そんなの宿に帰ってからゆっくり聞けばいいじゃないか、と言い放つ。小銭を数枚渡すと、ろくに数も数えずオルゴールを私に握らせた。そして、早く去れといいたそうに「ありがとう」を繰り返したのだった。
オルゴールから聞こえたのは、女のすすり泣きだった。なぜか私はその声に心を奪われ、毎晩、発条を回している。

黒猫のしっぽを切った話

ピカビアな夜のこと、X君は、大きな黒猫に出会った。
「きみのしっぽは実にふかふかでしなやかでたくましい」
X君がそう褒めると黒猫はそのしっぽをX君の身体に巻きつけた。
X君はこれ幸いとしっぽをハサミでチョキンと切った。
その瞬間、X君は黒猫のしっぽもろとも、ひゅぃっと飛び出し、ほうき星になった。

【鴨沢祐仁氏を偲んで】

2008年1月25日金曜日

吊り橋のまんなかで

吊り橋のまんなかで、一頭の蝶が泣いていた。
蝶は吊り橋が怖くて泣いていたのではない。動けないには変わりないが。
小さな男の子が蝶に気づいた。
「ちょうちょさん、どうしたの? あと少しで踏んでしまうところだったよ」
蝶はべったりと橋に貼りついていた。
「どうしてこんなことに!」
男の子は懸命に蝶を剥がした。けれども、途中で蝶は息絶えた。
男の子はなおも輝く蝶をそっとつまみ、泣いている。
蝶の死が悲しくて泣いているのではない。彼もまた、動けないからだ。
その時、橋を渡りはじめた少女がいた。男の子は少女が自分と同じ行動をするだろうと確信し、絶望する。

2008年1月23日水曜日

その他の人々

その他の人々は、みな風船を胸にぶら下げている。
風船の色形はさまざまだ。大きな風船の人は時々ふわりと浮き上がるし、小さな風船の人は、しぼまないように大切にしている。
赤い風船の人は「情熱的なキスをするに違いない」と噂され、青い風船の人は「冷たい人って思われて困るんだ」とぼやく。
だが、ぼくにそんな悩みはない。だって風船がないんだもの。ぼくの風船は、生まれたときにぱちんと割れた。
きっとぼくが出来損ないだから簡単に割れてしまったのだろう。どんな形のどんな風船だったか、母も産婆さんも、「覚えていない」と申し訳なさそうな顔で言うだけだ。

2008年1月21日月曜日

レタスとキャベツとマヨネーズ

レタスはキャベツが嫌い。キャベツはマヨネーズに片思い。
マヨネーズはレタスのほうがよっぽど好きだけど、レタスはぬるぬるがあんまり好きじゃない。
キャベツはレタスに一目置いてるけども、レタスは嫌われてると思ってる。だからレタスはキャベツが嫌い。
そんなことはお構い無しに、アイちゃんはマヨネーズをご飯にかけて食べる。
レタスもキャベツも腐りそう。

2008年1月20日日曜日

ただの婆さん

ただの婆さんとただでない婆さんの見分け方を知ってるかい?
まずは、青信号が点滅すると走るかどうか。ただの婆さんは婆さんだから走ったりはしない。というか、そもそも走れないだろ?
それから、ただの婆さんは宅配ピザに興奮しない。あんな脂っこくて味の濃いジャンクフードを大喜びでぺろりと平あげるようなのは、ただの婆さんではない。
最後に、これが一番重要だ――ただの婆さんの遺骨は、骨壺から溢れかえらない。ただの婆さんは、そのために塩梅よく骨を減らしていくんだ。知ってるだろ?骨粗鬆症ってやつだ。

2008年1月17日木曜日

夜を盗みにきた男

泥棒のスチュワートは四部屋だけの小さなアパートにやってきた。夜を盗むためである。
抜き足差し足忍び足、階段をあがり、202号室のドアの錠を針金で開ける。
202号室のリチャードは、明日の試験に備えて徹夜の勉強中だった。これでは夜を盗めない。
隣の201号室のジョンは、テレビゲームに夢中だった。これでは夜を盗めない。
気を取り直して一階へ降りる。102号室のポールは、ベッドを軋ませ愛を喚いていた。うぶなスチュワートは動揺する。
深呼吸してから101号室へ。101号室のジョージは、ぶつぶつと何か呟きながら酒を飲んでいた。酒臭さに辟易してあわててドアを閉めた。
「嗚呼!マミィ。俺はただすやすやと眠る人から夜を盗みたかっただけなのに!一体なにがいけなかったの?」
スチュワートは暖かいベッドに潜り込み、仕事をしくじったとベソをかく。

2008年1月16日水曜日

枯れない花

少年は小さな銀色の花を見つけた。彼の家の玄関から百二十五歩の道端に。毎日水をやり、話かけた。嵐の日も雪の日も
「やぁ、僕のともだち。銀色のお花、元気かい?今日もきれいだね」
少年が青年になってもその習慣は変わらない。大きくなった彼の足が、八十五歩で銀色の花にたどり着くようになっただけ。
老人になっても変わらない。人々は彼を奇人扱いしたが、一年中みずみずしい葉と花を保つ小さな銀色の花こそがおかしいと気づく者はいない。
彼は、銀色の花の傍らで蹲ったまま命を終えた。ごろり、と風で彼の亡骸は転がり、銀色の花は下敷きになった。
翌日、すでに死体はない。銀色の花は一回り大きくなって風にそよいでいる。

2008年1月15日火曜日

罠の数は35

罠の数は35、ということはあらかじめわかっていた。
ミミズのプールとか、天井から蛸が落ちてきたりとか、巨大なめくじの扉とか、蛙の卵の掴み取りとか、どうもヤツはぬめぬめしたのがお好みらしい。
あと残る罠はひとつのはずなのだが、身体中が色々な生き物の体液や粘液に塗れ、臭いは痒いは。どろどろ服は、所々粘液が乾きはじめカピカピになっている。
「もう、勘弁してくれ!!」
俺は叫んだ。すると「最後の粘液は自分で出せ!」とアイツの声が帰ってきた。
どういうことだ?とぼんやりした頭で考えていると、なんと向こうから美しい女がやってくるではないか。合点承知。
とにかく、この汚れた服を脱ぎたいのだけれども、粘液がたっぷり染み込んだ服がなかなか脱げない。あぁ、これが35番目の罠なんだ、と気付いた。美女を目の前にますます焦る。

2008年1月14日月曜日

ヲトメゴコロ

ヲトメは可愛いお人形にもキラキラのポシェットにも、素敵なドレスにも、クリームたっぷりのケーキにも振り向かない。喜ぶふりをしているだけ。
ヲトメが一番ココロときめくのは、嵐の晩に船が転覆しそうになるのを、双眼鏡で眺めること!あぁ、なんと胸が踊ることだろう、とヲトメは頬を上気させる。稲光に照らされるこのヲトメの横顔を、あのびしょ濡れの甲板員たちに見せてやりたいもんだ。恍惚としたその表情に、いてもたってもいられないはずだよ。
けれども、本当に転覆してはいけない。本当に転覆したら「なんと悲しく嘆かわしい」と泣いてみせなくてはならないからね。

2008年1月12日土曜日

ルパートさん出番です

ルパートさんは大根役者だから、だいたい大根を抱えて舞台にあがる。
「ルパートさん出番です」
と声が聞こえて、ルパートさんはピエロの赤い鼻の取り付け具合を直し、大根の本数は二本がいいか三本がいいか悩み、最初のセリフが「やぁ、スミスさん」だったか「こんにちは、スミスさん」だったかを確認した。
ルパートさんが舞台に出ると、いつも客席には誰もいない。

2008年1月11日金曜日

雪の上を歩いた話

雪の感触を肉球で確かめながら、思ったより悪くないな、と尻尾を切られた黒猫は考えた。
「ヌバタマ、寒くないの」
と白い息で少女は言う。人間は毛皮がないから、羊の毛を借りるらしい。少女は、耳あてのついた羊の毛の帽子と、羊の毛の手袋をして、それでもまだ寒そうに縮こまりながら歩いている。
〔寒い〕
ヒゲが凍りそうなのは、頂けない。
「でも、なんだか楽しそうだよ。猫は寒いの苦手だと思ってた」
雪が積もった後の満月だから、闇に紛れるどころか、黒猫は何よりも目立っている。

2008年1月10日木曜日

ぬしは逃げた

亀の姿で人語を操る山のぬしは、小さな洞窟に住んでいた。
ぬしと出会ったのは十年前、家出をして山に迷い込んだときにぬしが助けてくれたのだ。
「こども、何を泣いている。飴でもやろうか」と亀に言われてわたしはピタリと泣き止んだものだ。
後から知ったのだが、ぬしはペロペロキャンディーが大好きだったのだ。洞窟には色とりどりのペロペロキャンディーがきちんと整理されていた。
以来、わたしはぬしの洞窟に遊びに行くようになった。キャンディーを舐めながらぬしと喋るのは、楽しかった。
昨日、ぬしが突然我が家にやってきた。山のぬしが町まで出てきていいのだろうか。
「亀の足では何日かかったことやら。迎えに行ったのに」と言うと
「急なことだったのだ」と頭を甲羅に出し入れしながら照れ臭そうに言った。
どうやら歯医者に見つかりそうになったらしい。

2008年1月8日火曜日

飛行機の事実

尻尾を切られた黒猫は飛行少年の部屋に迷い込んでしまった。
飛行少年は、デスクライトだけを点けた薄暗い部屋の中で飛行機のグラビア写真を食い入るように見つめていたから、黒猫に気付く様子はなかった。
飛行少年の部屋には小さいのも大きいのも、沢山の飛行機の模型が並んでいた。
夥しい飛行機に囲まれながら、飛行少年は飛行機のグラビアを、頬を赤く染めながら、うっとりと見つめているのだった。
黒猫は、船については少女から船長の話を聞いていたからよく知っていたが、飛行機のことは知らなかった。
後から月に尋ねると
「飛行機? あれじゃ私の処へは到底来られないね」
それきり黒猫は飛行機への興味を失った。

理由はたったひとつだけ

 きみが海に帰ると言ったとき、ぼくは心底哀しかった。
海に帰るということは、水の泡になるということだ。きみの身体は鱗一枚も残らない。たとえここでぼくがきみの鱗を引っかいて、むしって、硝子の瓶に入れておいたとしても。
 そんなことを考えていたせいか、ぼくはきみの鱗を逆立つように撫で回していた。
ざりざりざりざり
 ――やめて。鱗が剥がれちゃう。
ざりざりざりざり
 ――なんだよ、水の泡になるくせに、鱗が惜しいのか。
ざりざりざりざり
 ――そうよ。すべて均等に泡になりたい、一斉に。それ以上の何があるの?
 何もないから、哀しいのに。

2008年1月6日日曜日

ちらちらと瞬くひかり

ちらちらと輝く彼女のひとみを見ていると、僕は雪の降った朝のことを想う。
あの朝は快晴で、前夜に降った雪が眩しかった。
僕は夜更かしの顔で外に出て、雪の上につっぷした。
雪の中で目をあけると、やっぱりちらちらと輝いていた。真っ白くちらちらと瞬くひかりの世界に沈み込んだ僕は、ぼぅっとなって起き上がれなくなってしまった。
気がついたときには高熱で、布団の中でうなされていた。
彼女のひとみの中は、まるっきりあの雪の中とおんなじで、このまま見つめていたらきっと僕は熱を出す。それでもいいや、と僕はちょっと思っている。今度の熱は氷枕じゃ下がらないかもしれないけれど。

2008年1月5日土曜日

取り返しのつかない失態

惚れた男は幽霊だった。
そうと知ってはいたものの惚れた弱み、まぐわって、子を産んだ。
産まれた子は幽霊ではなかったが、やたらと若い女の幽霊に媚びを売られ、ほいほいとついていく。次々と女についていくから息子はなかなか家に寄り付かないが、息子の子を孕んだ幽霊は、なぜか私の元に居座る。
今、私には嫁が8人と、孫が11人いる。全員幽霊だ。嫁も孫も皆かわいく、よくしてくれるが、ちょっとばかり肩身が狭い。私も早く幽霊になりたくて剃刀を持ち出したこと数知れず。
けれども8人の嫁が「いけません、おかあさま」とやるもんだから、死ぬに死ねない。

2008年1月3日木曜日

変人は誰だ

冷たいシャワーを浴びながら小便をする人と、その小便で頭を洗う人。

ビールの友

「昔な、」
とちょっと赤い顔になった親父が言い出したので、またいつもの昔語りが始まったと思ったら、そうではなかった。
「ビールを飲み始めると必ず会う男がいたんだ。最初に会ったのは、どこだったかなぁ。新宿……いや、代々木だったかなぁ。まぁ、ビールを飲んでいて隣の奴と意気投合、話が弾んだのがそいつだった。背の高い男だったな。優男なんだが、よく飲むんだ。たまたま隣合っただけの奴だと思っていたのに、それからしょっちゅう会った。どこの飲み屋でも。あぁ、田舎のパブで会った時にはさすがに驚いたよ。出張で、なんて言ってたけどどんな仕事かは話そうとはしなかったな。で、俺がウィスキーなんか始めると、いつの間にかいなくなっちまうんだ。どんなに話が盛り上がっている時でも。店のママやバーテンに訊いても、あらまぁ、って言いながらニコニコするだけなんだ。どこの店でも、全く同じ。みんなニコニコするだけで、突然居なくなるあいつにも店員にも毎度腹が立ったね。おかしな奴だったよ」
あいつ元気かなぁ、と親父は呟いたけれど、そういえば俺は親父がビールを飲むところを見たことがない。

ほう、それが正体か

着替えを終えた者は、儚げな少年だった。
「ほう、これが正体か。百戦錬磨の兵、若いとは思っていたが、思っていた以上に幼いな。この細腕で一体幾人を……」
少年は薄い着物を纏い、その細い腕を所在なさそうにぶらぶらとさせながら
「なぜ俺にこんな格好をさせるのだ!」
と怒鳴った。
青年は構わず、少年を値踏みするように見やる。
傍らには鎧兜が転がっていた。あちこちに飛び散った血はまだ乾いていない。

例の小兵を必ずや生け捕りにしろと命令した大将は、この少年を最初から慰みものにするつもりだったのだ。大将が自分に飽きているのは、もうわかっている。
青年は少年の耳に囁いた。「いいことを教えてやろう」
息を吹き掛けられた耳が赤くなる。
大将は壁の穴からそれを覗き見ている。

2008年1月1日火曜日

二枚目と三枚目

契約書は全部で三枚目あった。
一枚目は白い紙に甲だの乙だの印鑑だの、一見して契約書とわかる。
二枚目は真っ赤な紙だった。三枚目は真っ青な紙だった。
二枚目にも三枚目にも文字は書かれていない。何の為にこんな色の紙が付いているのか。
一枚目を再び熟読した。契約内容には問題ないが、やはり二枚目と三枚目の色紙については一切触れられていない。
二枚目と三枚目を重ねて透かしてみた。見事な紫色が広がった。紫色の中に「嘘」という小さな文字が浮かび上がった。
では、真っ青の意味は……鏡を見るまでもない。