2008年7月31日木曜日

花散る午後

猫という猫が昼寝せずにはいられない午後のぬくもり、花びらはちょっとした悪戯を思い付く。
風に吹かれて猫から猫へ。鼻先をちょっと掠めて、キスをする。猫という猫は、くしゃみをして、ちょっといぶかしそうに辺りを見回す。ふたたび微睡む。

2008年7月30日水曜日

蛇の屈葬

明日になればまた一つ、甕が増えるだろう。今夜もまた、隣の部屋から押し殺した姉の声が聞こえる。そっと襖を開いて覗く。
姉さんの部屋には、小さな素焼きの甕が壁いっぱいに積み上げられている。甕棺墓、と密かにそう呼んでいる。実際、あの甕は棺だから。
姉さんは蛇を見つけては持ち帰る。毒のあるのもないのも、細いのも太いのも関係なく、絡み合う。
姉さんの浅黒い肌が赤く火照っているのが襖の隙間からでもわかる。今夜はまた一段と細長い蛇が、姉さんの躰にきつく巻き付いている。
こうして一晩たっぷり戯れて、明け方になるとクイッと絞め殺すのだ。
涙を流しながら、硬直した蛇をぼきぼきと折り、畳み、甕に納める。祈りの唄を呟く口から、先割れた舌が見え隠れする。
泣き腫らしたまま、また蛇を求めて出掛けてしまう。
わたしは、姉さんが出掛けると甕を開けて、死んだばかりの蛇を、股間に擦り付ける。

2008年7月29日火曜日

哀しい食欲

ひもじいと言って、娘は泣く。毎日泣く。
飯はある。腹が減ったら食べればよい。ひもじくて泣く理由はない。
よくよく聞いてみると、ひもじいと、誰かに見放されて、棄て置かれた気分になるのだという。独りぼっちはもう嫌だから、蟻を食べるのもたくさんだから、泣かずにはいられないと、娘は幼い語彙を繋いで切れ切れに語った。
そういえば、この娘を孕むちょっと前に、道端で蟻を食らう少年を見た。おっかさん、と呼び止められて、逃げた。走って走って、少年が見えなくなっても、まだ走った。
蟻は酸っぱい。足や触角が舌に刺さる。食べても食べても腹くちくならなくて、泣きながらそれでも食べた。
また娘がひもじいと言って泣いている。抱き上げて、その涙を指で掬い舐める。酸っぱかった。

スカート

クローゼットの一番下の抽斗に一枚だけ入っている、細かい花柄のスカートを、俺は慌ただしく穿く。堪えがたい衝動を宥める必要はない。
スカートを穿き、くるりと回る。ひらりと翻る。
くるくると回る。ふわふわと、あの娘の匂いが漂う。
スカートを顔を当てて思い切り息を吸い込んでも、決して嗅ぐことができない、あの娘の匂い。だから俺は、回り続ける。
回り続けて、回り続けて、あの娘の香りでいっぱいになる。此処にいるのはわかっているのに、すぐにでも抱きしめたいのに、何故か回るのを止められずに、気を失ってしまう。目が回る前に、逢いたいよ……。

わたしは彼をもとめて部屋を見渡す。脱ぎ捨てられたばかりのシャツを拾いあげて抱きしめる。どうして会えないのか、わからないけれど、ついさっきまで彼は此処にいたのね……。
穏やかな気持ちで、わたしは眠りにつく。彼のベッドの大きなで枕で。

2008年7月27日日曜日

あしたの劇場

夜更け。小さな古い劇場の舞台にスポットライトが灯る。
もう劇団員は誰一人残っていない。

緞帳はつぎはぎだらけで、舞台はでこぼこ。天井はところどころ剥がれ落ちて、ちっとも声が響かない。劇場は百歳になった。
この劇場から巣立った役者は皆、ここに戻ってくる。曾孫のような若い役者たちを助けようと、役者魂だけになった大昔の演劇青年たちは、力を合わせておさらいする。
今度のヒロインはドレスを着るんだ。よく注意してやらなきゃ。でこぼこの舞台でつまずいたら大変だ。
あいつはまだまだ芝居というものが、わかっちゃおらん。甘やかすのはどうかと思うね。
まぁまぁそう言わずに、あの子たちにがんばってもらわなきゃ、おれたち浮かばれないからさ、ほら、ここの決め台詞、エコーつけてやろうよ。

役者魂たちは、さっきまでのリハーサルを懸命に思い出しながら、芝居の幻を舞台にくゆらせる。
あした、このお芝居で拍手が聞きたいのは、誰より役者魂たちなのだ。

大きな拍手が起きたら、また天井が剥がれるね、と役者魂の一人が呟いた。

2008年7月25日金曜日

鳩と積み木

鳩は「城を建てる」と鳴く。
繰り返しそう鳴きながら、じっと僕の手を見る。
公園で枝を集めて、小刀で削っている。ほかにすることがないから、日が傾いて手元が見えなくなるまで、そうして過ごす。公園には人もたくさん通るけれど、だれも僕に「何をしているんですか?」なんて尋ねたりはしない。小さな人懐っこそうな子供ですら、僕を見るとすぐに視線を逸らす。なぜだかわからない。鳩だけが、僕の側に集まる。
小刀は精確に四角柱や円柱や球を削り出す。指先ほどの小さな積木。鳩は、出来た積木を僕の手から奪い取って、どこかに飛んでゆく。嘴できちんと挟まれた、美しい四角柱や円柱や球を見送って、次の枝に取り掛かる。
「王様は誰?」「お城はどこにあるの?」と時々訊ねる。そんなときは「くるっくぅ」としか応えてくれない。
とびきり美しい球体が出来た。これはお城の屋根の天辺に載せて欲しい。

2008年7月23日水曜日

足の裏の世界

「足の裏に行ってみないか?」
と言うそばから、貴様は足をずるりんと裏返してしまうから、もうここは足の裏の世界なんである。
足の裏の世界といっても、臭くはない。貴様は案外よく足を洗っているとみえる。結構なことである。
貴様は度々こちらに来ているのか、慣れたふうに足を頭に、頭を足にして歩いている。
俺様は育ちがいいから、そんなことはできない、と思っていたが、貴様に鏡を見せられた。やはり、足を頭にしているんである。
しばらく散策していると、水虫男が現れた。俺様は動揺して「を、をい、どうするんだ」と言うと、貴様はにやりと笑って、懐から水虫薬を取り出して、水虫男に塗りたくっていた。
水虫男が「あ、そんな。ゆるして」と甲高い声を出すので俺様も水虫薬を塗りたくってやった。
貴様が「そろそろ帰るか、頭の裏の世界に」というが早いが、水虫薬でぬらぬらしている手を口に突っ込み、ずるりんと裏返してしまった。

2008年7月22日火曜日

ローズクオーツ

 薔薇の香りに誘われたからといって、どうしてこんなところに迷いこんでしまったのか。途中で引き返せばよかったものを。そもそも、こんなところに林があっただろうか。思い出そうとしてみるが、塩辛い唾液ばかりが溢れてきてどうにもならない。
 どこかの庭で薔薇が咲いているのだろう、そう思いながら歩いていたら、いつのまにか鬱蒼とした林の中にいたのだった。そのまま香りの源を求めて歩いていると突然木々が開け、ボコボコと泡立つ沼が現れた。泡が弾けると薔薇の香りが濃くなる。ここから香るのだと合点して帰ろうとしたが、急に辺りが暗くなって来た道がわからなくなったのだ。
 繰り返し記憶を辿ってみるが駅前の商店街を抜けたあたりから、まるで思い出せない。薔薇の香りだけを頼りに、ただただ彷徨い歩いていたというのか。
 さっきから女の呻き声のようなものが聞こえる。だんだん近づいているように思う。蹲って日が出るのを待つしかない。
 ふと時計を見ると、三本の針が高速で回転していた。衝動的に腕から外して、沼に投げ捨てる。その途端、時計を外した左手首がチクリとした。手首を掴まれている。びっしりと薔薇が身体に巻きついた女。ああ、この女が呻き声の主だ。
 「痛い」と女が言う。身体から薔薇を外して下さいと言う。しかし、薄暗い中で棘だらけの薔薇を身体から剥がすのは困難に思えた。それに、女にこれ以上触れたくない。今すぐに、手首を離して欲しい。
「ならば、薔薇を枯らすのがよかろう」
 沼を指してやった。
 女は沼に沈む。あれほど泡を立てていた沼は忽ち沈黙し、辺りも明るなった。もと来た道を見つけ、歩き始める。
 女に握られた手首には無数の棘が刺さり、とうとうと溢れ出る血から薔薇がひどく匂う。

第六回ビーケーワン怪談大賞 未投稿作品

2008年7月21日月曜日

打ち上げ花火

どどんと一発目の花火の音が響くと、むくむくと土の中から這い出す。
花火を見上げながらずるずると川まで這ってゆく。花火の音で、ぶるぶると身体が震える。
川に着く。川面に映る花火が揺らぐ。花開いた瞬間に素早く飛び込む。一年分の垢を落とし、存分に泳ぐ。夜だからか、花火に怯えるのか、魚は皆息を潜めている。
ひときわ大きな花火が上がり、川の中にも閃光が走り、地鳴りのような振動が水を激しく揺らす。気を遣る。
いそいそと川から上がる。緑がかった白い身体が、花火に照らされて輝く。
名残の尺玉を背に映しながら、ねぐらにもどってゆく。ゆらゆらと歩く項には、火薬の匂いがする。

牙を剥いたり、剥かれたり

 初めて歯が抜けた日のことさ。その夜は嬉しくてその歯を握り締めたまま眠ったんだ。夜中に目が覚めて手をそっと開くと、ちゃんと歯はあった。歯のなくなったぶよぶよの歯茎を舌で、さっきまでそこに生えていた歯を手で弄んだ。そうしているうちに歯が話かけてきんだ。
「ねえ、あっくん。外に行こうよ。神社で遊ばない?」
 ちょっと驚いたけど、誘いに乗った。神社の境内は公園になってるんだ。
 歯を握り締めて、そっと布団を抜け出した。サンダルは音が出るから裸足のままで外に出た。真夏のアスファルトは夜でも熱いんだね。
 神社には、ひまわりがたくさん咲いていた。夜のひまわりは昼間より眩しくて「夜なのに」と言ったら「夜だからね」と歯が言った。
「ひまわりにぶつけてよ。真ん中狙ってさ」
 言われるままに歯をひまわりに投げつけた。歯は地面に落ちても「ここだよ」と言うからすぐに見つかる。拾っては投げ、拾っては投げ。ちょうど真ん中に当たると、ギュエッと叫んでひまわりは消えた。その度に嫌な匂いがするけれど、僕も歯も大喜びで「ストライク!」とか「命中!」って叫んだ。
 最後のひまわりになると、急に怖くなった。すっぱい唾が口に溜まってきた。このひまわりが消えたらどうなるの?歯には聞けない。「早く最後のやつ、やっつけちゃえよ」
 手の上で飛び跳ねている歯に急かされた。
「いやだ」と言ったら、歯は動かなくなった。その歯を握り締めて、走って家へ帰った。
 次の日、神社は大騒ぎだった。あちこちに血が飛び散っていた。夜中に神社の前を通って怪我をした人が大勢いたんだって。あの嫌な匂いは血の匂いだったんだな。ひまわりは大きいのが一輪だけ咲いてたよ。訳知り顔で見下ろされているみたいだった。
 見て、ここ。握り締めてた歯が左の手のひらに刺さっちゃって、ずっとそのまま。

ビーケーワン怪談投稿作

ゆかりの色に

 娘は、男に恋をした。はじめての恋、本当なら抱くはずのない恋心。彼女は修道女だった。
 相手は書生だった。修道院で暮らす娘が、どこでどうして書生と出逢ったのかは定かでない。娘が想いを打ち明けると書生は真っ直ぐに娘を見据えた。
「あなたは立派なシスターになるのでしょう?僕なんかに構っていてはいけませんよ。さあ、修道院にお帰りなさい」
 どんなに諭されても娘の胸はときめくばかりだった。
 ある日の夕暮れ、娘が書生の部屋を訪ねてきた。黒い大きな帽子を深く被り、淡い紫色のワンピース姿の娘は、帽子のつばを上げて顔を出すと言った。
「修道院を出てきました。もう戻りません」
 娘は書生の首に腕を回し、聢と抱きついた。
「やっと、あなたに触れることが出来ました」
 目を潤ませ、唇を押し付ける。
 書生は初めて味わう蜜を夢中で啜った。ワンピースの裾から手を入れることさえもどかしい。慌しく腰を引き寄せ、脚を絡ませる。
 あくる朝、書生は起きてこなかった。一番に起きて屋敷の掃除をする書生が、朝飯の時間になっても現れない。訝しんだ手伝いの婆さんが様子を見に行くと、すでに事切れていた。藤の蔓で首を締められ、花が口一杯に詰め込まれた姿で。

 月高川のほとりに藤が美しい教会がある。墓地の一角にあるその藤棚は、若くして死んだ男の墓に巻き付いた藤を棚に仕立てたものだという。五月になると紫色の花房が小さな墓を覆うように垂れる。
 夕刻、教会の鐘が鳴り響くと藤の花はふるふると震え、若者の墓に蜜を滴らせる。

2008年7月18日金曜日

朝市の順路

五と十の日に朝市が立ちます。八月だけは特別です。
朝三時に起きて、仏壇に手を合わせます。それから左足から靴を履いて、右足から歩きはじめます。
一つ目の電信柱に登って、町を眺めます。そこで今日の市の立つ場所を探します。市の場所は、火の玉が浮かんでいるから、わかります。今日は、お稲荷さんの前の道のようです。
お稲荷さんのそばに来ると、買い物籠を抱えた小母さんたちが方々から集まってきます。八月の朝市は特別に安いから、小母さんたちは朝から元気です。
私も小母さんたちの流れにあわせて、頑張って歩きます。
店番は幽霊です。でも品物はお化けじゃありません。今日は枝豆と茄子をたくさん買うつもりです。小母さんのお尻にぶつかりながら、通りを歩きます。
やっと目的の店を見つけて、私は駆け足になります。
枝豆と茄子を、母さんが籠に入れてくれます。お金を冷たいてのひらに載せます。市が畳まれる六時まで、私は母さんの傍にいます。母さんが働くのを見ます。
母さんは忙しそうに働いてます。でも、私には、お手伝いすることができない。そういう決まりなんです。

2008年7月16日水曜日

星の終わり

それはひっそりと、誰にも気づかれることがないはずだった。今生の別れの涙を一粒落としたばっかりに、川原を歩いていた少女に知れてしまった。
少女は突如降ってきた星の涙を拾いあげると天を見上げて首を傾げる。それもそのはず、星が消えたと気づいても、広い夜空の、一体どの星が消えたかを特定することがどんなに難しいか。
少女は、さっきまで夜空にあったはずの星を探すことは諦めた。そして、星の涙に口づけてから、てのひらに載せてふっと息を吹き掛ける。
星の涙はたちまち溶けて、少女の肌に染み込んでゆく。

2008年7月14日月曜日

異文化交流

異星人と出会ったらどうする?と息子に聞いてみた。
「いらっしゃい、といって、お茶をだす」
息子は5歳だ。なかなか賢く、渋いと思う。親バカである。
「お茶が飲めないと断られたら?」と意地悪に聞いてみる。
「なにが飲めますか?ときく」
よろしい。相手は習慣や好みどころか、違う星の、違う生物なのだ。我々には想像のつかない体質かもしれない。柔軟に対応しようではないか。
ピンポーン
おっと、早速お出ましだ。息子よ、座布団を出してきなさい。

夢の味わい

  今夜の夢の蒸留酒は、何色かしらん。
  布団に入る前に、蓋を外した魔法瓶を部屋の真ん中に置く。慎重に位置を決めて。
  夢は、蒸気になって天井に上る。水滴になると電球を伝い雫となって、魔法瓶に落ちる。
  昨晩寝つきが悪かったせいで、今朝の酒はいつもより少なめだった。明日起きた時には魔法瓶一杯に貯まっているとよいのだけれど。
  獏の飼育係になって二年経った。獏の世話をする人間は夢が蒸気化する。獏がそうするのだ。獏が僕に馴れ、懐くにしたがって濃度は高くなった。近頃では、朝目覚めると桃色の霧の中にいた、なんてことも珍しくない。
  夢の内容によって蒸留酒の色は違う。僕が担当する雌獏ベルータは、勿忘草色をした夢の蒸留酒がお好みらしい。それは決まって初恋の人を夢に見たときの酒で、ベルータがうっとり旨そうに酒を舐める様子を眺めていると僕は堪らなく恥ずかしくなってしまう。


 


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コトリの宮殿 動物超短編(幻)投稿作



最高の兵器

猫の肉球から、ぷにっと発射される、そのロケットはぼくの疲れた心と身体を一撃で砕いてしまうんだ。

2008年7月12日土曜日

UMA

古代ビッグフットの足跡遺跡は、非常に住心地がよい。夏は風通しよく、冬は穏やかだ。ここにきて、ビッグフットの足跡遺跡に町を作る計画があちこちで進んでいる。これも温暖化の影響だ。
だが、ビッグフットの足跡を探すのは容易でない。なにしろ広すぎて普通に歩いたのではわからない。すでに樹木も生えているから、ヘリコプターで上空から見ても、見分けは難しい。
だから目利きの登場となる。一番の目利きの譲治は、ビッグフットの足跡を、匂いで探す。
どんな匂いなんですかい?譲治親方、と聞かれると譲治は
「おっかさんのおっぱいの匂いだ」
と答える。

2008年7月10日木曜日

心理的誘導

私の声を、本当の声を聞いて欲しいのです。
「お茶が入りました」
と言って、カップを落とします。あなたは怒鳴ります。
役たたずで出来損ないのロボットめ!
いいえ、私は優秀です。私は、故意にカップを落としました。
あなたは、カップを片付ける私の手を取り、火傷をしていないかどうか確かめます。1200度まで耐える人工皮膚です。火傷などするはずがありません。それはあなたも既に知っている情報です。

小さな段差で躓きます。あなたは慌てて私を支えようとします。私の重量は、あなたの腕では支えきれません。一緒に転んで、私を罵倒します。
ポンコツめ!ロボットの癖に転ぶなんて。スクラップだ!

けれども、あなたは私をロボット派遣会社に送り返すことはしません。
なぜですか。私はそれを知りたいです。
私が失敗するたびに、あなたは私の顔を覗きこみます。それはおそらく心配というものです。
私はあなたに見つめられた時のあなたの目を何度も見て心配について学習したいです。だから、故意に失敗をします。

もっともっと、私のことを心配してください。
心配すると、人は夜眠れなくなると聞きました。それくらい私のことを心配してください。
夜も眠れなくなるほど心配したときには、子守唄を唄います。何時間でも唄います。私の本当の声で唄います。

2008年7月9日水曜日

宇宙の虚空

宇宙は無に還った。

それはただ、宇宙ができる前に戻っただけなのだけれど、宇宙がないのだから、時間さえないわけで、この文章はおかしい。読んでいるあなたも。
しかし、あなたはこれを読んでいる。
宇宙の太陽系の地球の島国の携帯で日本語の文章はイガラシヒョータの指先に信号を送る脳ミソの細胞のミトコンドリアの宇宙のうちのひとつの話だが。

2008年7月8日火曜日

ミュータント

鳥かごの様子がおかしい。覗きに行くと、オカメインコの岡田くんの羽が手になっていた。鳥かごの中でパタパタと羽ばたくのが好きな岡田くんは、急に上手く羽ばたくことができなくなって、ひどく戸惑っていた。
岡田くんの手はきちんと動いた。ちゃんと指でものを掴める。翼がそっくり手になっているから、うずくまると、ほっそりとした少年の手にくるまっているような佇まいで、美しかった。
私は岡田くんの手に恋をしてしまったのだ。
鳥かごから岡田くんを出して、私はその手に唇を寄せる。

のりしろ

ペンを置いて、息をつく。山折りして、谷折りして、桜色の封筒に入れる。
だけど、いつも、のりしろが小さ過ぎる。なぜだか封が出来ない。
抽き出しの中には、出せなかった恋文が七通。多いのか少ないのか、ぼくにはわからない。

2008年7月7日月曜日

彗星

「ハローハロー。こちら彗星」
無線をやっていたら、唐突にそんな声が聞こえてきた。
「CQCQ。ハレー彗星やエンケ彗星なら知ってるよ。きみはなんて彗星だい?」
「ハローハロー。ハレー?エンケ?そんな腫れぼったいチンケな奴らと比べてもらっちゃ困るね。みんな夜空を見上げてごらんよ。東の空だ、ハロー」
マイクから離れ、ベランダに出る。
見事なハートマークの軌道を残して自称彗星は去っていった。
そうか、今夜は七夕だ。派手な演出に、ヴェガもアルタイルも赤くなってら。

2008年7月4日金曜日

微生物

腐り沼で繁栄した微生物は、自己を【やもねへ】として認識していた。やもねへは分裂で繁殖するので交配は必要ないが、やもねへはやもねへと出合うと融合し、フュシャの粘液をとろとろと出す。しばらくすると離れていくが、二つのやもねへは、融合する前のやもねへと全く同じとは言いきれない。
腐れ沼には無数のやもねへがいるから、フュシャの粘液が絶えず溢れている。沼はつまりフュシャの粘液そのもので、沼にはやもねへしかいない。
生暖かいフュシャの粘液のために、腐れ沼は赤紫の湯気を立ち上らせている。が、その湯気が腐れ沼の周囲に密生するフクシアの花を一年中咲かせていることは、やもねへは知らない。

宇宙ステーション

自動扉が開く音を聞く一瞬前に、わたしは彼がやってきたことに気づく。
彼の匂いをいっぱいに吸い込む。体臭と呼ぶのは似付かわしくない、お香でも焚いたような香りを彼は放っている。
ステーション内は無菌室状態に近い。常に清浄器を通された空気が循環している。衣類や寝具もきっちり殺菌するので、地球にいたときのように、自分の匂いが馴染んだ布団に安心するようなこともできない。ライナスは宇宙ステーションでは暮らせないかも、と時折考え事にもならないようなことに思いを巡らせながら眠れない夜を過ごす。そう、ライナスじゃなくたって、眠れないのだ。
その代わり。こんな夜は、なんの匂いにも邪魔されず彼の匂いだけを嗅ぐことができる。
また鼻がひくひくしてるよ、と彼に笑われるけれど、あなたの香りにわたしがどれだけ助けられているか、知らないでしょう?
子供のように彼にしがみついて目を閉じる。彼の匂いと寝息が、わたしを眠りに誘う。
これで眠れなくなったら、地球に帰ろう

2008年7月2日水曜日

サイボーグ

彼女は左腕の人工皮膚をペロリと捲ってみせた。
真夜中のネオン街のようだ、と僕は思った。極小の赤や緑、青色のLEDがたくさん瞬いていたから。人工皮膚には防音効果もあるらしく、皮膚を捲ると可動部の機械音や電子音が案外大きく聞こえる。それもまた、夜の繁華街のようだった。
「カッコいいじゃん?」
素直にそう言った。
彼女は一瞬、僕の顔をまじまじと見たけれど、すぐにまた目をそらして冷めた表情に戻った。
「こんな精密機械の腕なんか……ありがた迷惑だよ。壊れてしまえばいいのに」
彼女は、その腕の中にだらだらと涎を垂らしはじめた。
僕は自分でも驚くくらいの素早さで、捲られた彼女の人工皮膚をするりと撫でて機械部を覆った。それから、もっと素早い動きで彼女の唇を塞ぐと、たっぷりと溜まった唾液を啜りあげた。
君の涎は腕のグリースにはならないからオレに使いなよ、とカッコつけて囁いたけれど、きっと何のことかわかっていない。