犬が失踪してから一ヵ月と三日経った。それまでは犬を中心にした生活だったから、自分と時間を持て余してる。ドッグフードの袋を手に取りハッとする回数は減ったけれど、代わりに犬の匂いが染み付いたクッションを抱きしめて泣く時間は長くなった。
その夜、帰宅すると玄関の前で「わん」と吠えるものがある。懐かしい犬の声だ。なのに、犬の姿がない。よくよく見ると、手が落ちていた。右手。
わたしは手を握り、家に入る。手はわたしに指を絡めた。少し毛深い手。
手は指と手のひらを使って尺取虫のように家の中を移動した。迷わず紙と鉛筆を取ってテーブルに上がると、すらすらと鉛筆を動かし始めた。
「これまであなたの愛玩動物として生きていましたが、それが不満だったのです。あなたに愛玩されるのではなく、あなたを愛玩したい。そのための手になりました。」
あなたを愛玩したい。奇妙な日本語だと思いながら、手が髪を撫でる感触に身をまかせる。されるがままにしていると、手はうなじをつつつ、と撫で上げた。
「きゃん」
わたしの声だった。
こうして、かつて愛玩していた犬との立場は逆転した。でも、一つだけ頼みがある。あなたの爪は、わたしに切らせて。
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500文字の心臓 第69回タイトル競作投稿作
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