五月某日、雨。夜中、急に豚汁を作る。ひと口食べたところでハタと気づく。このままでは熱くて冷蔵庫に入れられない。室温は二十五度、そのままにするのは危ない。盥に氷水を張り、鍋を浸し、団扇で扇いだ。深夜の所業に笑いが込み上げる。祖母の形見の舞扇が踊りに飛んできた。手伝いのつもりらしい。
2025年5月25日日曜日
2025年5月22日木曜日
暮らしの140字小説16
五月某日、曇。図書室で借りた分厚い本に絵画展の案内葉書が挟まっていた。小さくなった人物画や風景画、静物画も少し、行儀よく並んでいる。本職の画家たちではないのだろう、どれも生真面目な佇まいがある。そのまま栞として使うことにする。展覧会は銀座の画廊にて、会期は十年前の今日から一週間。(140字)
2025年5月19日月曜日
暮らしの140字小説15
五月某日、雨。数日前から始まったアパートの解体を眺める。ベランダからよく見えるが、前を通ったことは殆どない。重機の音が雨音も壊す。屋根が剥がされた建物に雨が降る。そのまま雨で腐って、朽ち果てるといい。あそこに棲んでいた生き物はどうしているのか。建物が朽ちたら、雑木林に戻るといい。(140字)
2025年5月15日木曜日
暮らしの140字小説14
五月某日、晴。手帳を処分する。七年前から三年分、月間の日程表だけは切り取って保管する。日記帳に憧れた時期もあったが、その日の出来事や感情思考を文章で綴るような習慣は身に付かなかった。数冊分の帳面がなくなり、棚に少し空白が生まれた。ここには過去ではなく、未来を収納したい。今はまだ。
2025年5月12日月曜日
暮らしの140字小説13
五月某日、雨。布巾を煮洗いする。金盥の中でグラグラ煮立つ布巾。地獄の釜の番をしている気分。濯いで絞るのはあまり好きではない。濡れた布というのはどうしてか手に不快だ。白くなった布巾を乾燥室に干す。外は雨だが晴れ晴れとした光景である。布巾の洗濯というのは斯くの如く忙しないものである。(140字)
2025年5月9日金曜日
暮らしの140字小説12
五月某日、晴。どうしても寝付けず、布団を抜け出して西の窓を開けてみた。正面で月がニタニタ笑っているので、慌ててカーテンを閉めた。あれはちょうど、富士山の真上辺りだったと思いながら寝床に戻ると、今度は強烈な眠気が襲って来た。月の笑顔には要注意だが、眠れないときにはいいかもしれない。(140字)
2025年5月8日木曜日
暮らしの140字小説11
五月某日、雨。読書専用の椅子で一日中、本を読む。時々、うたた寝をする。椅子というのは、座れば尻や背に貼り付いて見えなくなる。謂わば吾と椅子の一体化が起こる。離れて見る椅子は即ち己の後ろ姿である。というのは言い過ぎだろうか。一度見たことがあるのだ。後ろに伸びた影が椅子の形だった人。(140字)
2025年5月6日火曜日
暮らしの140字小説10
五月某日、晴。グラスを割ってしまった。グラスは再生速度を半分にして落下し、そして割れた。おかげで弾ける硝子片とその音をじっくり鑑賞することができたが、グラスは失われた。佇まいのすっきりしたよいグラスだった。ベランダからそれを見ていた鳥がグラスの割れる音を覚え、延々と再生している。(140字)
2025年5月4日日曜日
暮らしの140字小説9
五月某日、晴。たまに寝床の場所を変えてみる。布団の中から見る景色と聞こえる音が変わると、ちょっとだけ楽しい。ここはいつもの寝床より冷蔵庫の音が少し大きく感じる。それでもいつもの家の、いつもの布団だ。寝付きが悪くなることもなく、だが少し奇妙な夢を見て、いつもより三十分早く目覚めた。(140字)
2025年5月2日金曜日
暮らしの140字小説8
四月某日、晴。先日、仕方なく買った石鹸の使い心地に慣れない。早く使い切ってしまいたいと思う。シャツの襟に擦り付けるとか。シャボン玉にしよう! それが最もよい使い道だ。早速シャボン液を作る。何度吹いても、ふわふわ舞い上がらず、矢のように真っすぐ飛んでいく。この石鹸は、もう使えない。
2025年4月30日水曜日
暮らしの140字小説7
四月某日、晴。空豆を茹でる。ふかふかの鞘の中で寝てみたいものだといつも思う。湯はたっぷり塩はしっかり。「そらまめうでてさてそこで」と唱えれば、いい塩梅に茹で上がる。ぼんじりの焼き鳥、冷奴、もちろん日本酒。ほろ酔いで寝床に入ると、ふんわり青い空豆の香り。鞘の中は思った通りの寝心地。
2025年4月29日火曜日
暮らしの140字小説6
四月某日、曇。半丁の木綿豆腐を手の上で切る。十字に包丁を入れて四つにする、それが上手くいかない。きっちり四等分にしたいと集中する。小さめ硬めの木綿豆腐だ。難易度は高くないはずなのに。毎回、己の不器用さにガッカリしながら梅干しで豆腐を食う。豆腐は安物だが梅干しはちょっといいものだ。
#春の星々140字コンテスト「原」投稿作
雨の日にだけ辿り着ける原っぱがあった。よく知る道なのに「こんな脇道あったかしら」と、曲がると原っぱに出るのだ。春の雨の日、二十年連れ添った傘が「置いていってください」と泣く。私は一人、濡れて帰った。翌日も雨だった。傘の様子を見に行くと立派な木になっていた。傘の頃そのままの樹形で。(140字)
2025年4月28日月曜日
#春の星々140字小説コンテスト「原」投稿作
漆黒の左眼を持つ人形が言う。「この眼玉の原石を探してください」人形は眼球をコロンと私の手に落とした。「右眼が欲しい」伽藍洞になった眼窩で訴えた。黒曜石か黒瑪瑙か。ついに丸い窪みのある石を見つけた。尖晶石だった。眼玉は窪みにピタリと嵌り、カッと紅くなった。これが元来の色であったか。(140字)
暮らしの140字小説5
四月某日、晴。西日が埃を照らしている。無視するには輝きすぎている埃、埃、埃。仕方なく箒を手に本日二度目の掃除を始める。朝、掃いたものは何だったのか。やけに消しゴム屑が多い。今日は書き物をしていない。卓上に見知らぬ帳面と禿びた鉛筆、消しゴムが転がっていた。中は覗かず、そっと閉じる。(140字)
2025年4月27日日曜日
#春の星々140字小説コンテスト「原」投稿作
科学が極まり、人類は自然との共存を必要としなくなった。環境が破壊されても繁栄は続くと考えられ、神も祖先も忘れた。ここは最後の原生林。樹齢の長い巨きな木々と、虫や小動物たちが暮らす。たった一つとなった森林に世界中から人々が集まる。手を合わせ、天を仰ぐ者が現れ始めた。「祈り」が蘇る。(140字)
2025年4月26日土曜日
暮らしの140字小説4
四月某日、雨。石鹸がない。長く使ってきた日用品が店頭から姿を消すことが増えた。いくつかの店を回り、それでもなければ代わりを求めることになる。使い心地も見た目も値段も好ましいものなど、そう簡単に見つかるわけがない。新しい品を探し当てる喜びは、若さとともに何処かに置いてきてしまった。(140字)
2025年4月25日金曜日
暮らしの140字小説3
四月某日、曇。今日も今日とて着古したジーンズを穿く。パッチワークリペアに憧れて、穴の開いたリーバイスに端布を当てたのが去年の春。早くも継ぎ当ては三箇所になった。格好いい? よくわからない。裏に貼った接着芯はすぐ剥がれたので穿くときに足指が引っ掛かるのが難点である。次の穴はまだか。(140字)
2025年4月24日木曜日
暮らしの140字小説2
四月某日、晴。夕方、見知らぬ詩集を本棚に見つける。古そうな本だ。パラパラと捲り、一編を声に出して読み始める。藁半紙を丸めるようなガサガサした声。そういえば今日は誰とも話していない。誰かに聞かせるわけでなし。掠れ声のまま読み上げる。古い紙に刷られた誰かの詩に、掠れた声で色を付ける。(140字)
2025年4月23日水曜日
暮らしの140字小説1
四月某日、曇。起き抜けに紅茶を淹れる。棚には二種類の白いティーカップが並んでいる。温かい白のものと、冷たい白のものだ。久しぶりに冷たい白に手を伸ばす。この部屋に射し込む光には温かな白のティーカップが似合う。だが薄暗い春の朝は冷たい白のティーカップから立ち昇る湯気の中で過ごしたい。(140字)
2025年4月14日月曜日
#春の星々140字小説コンテスト「原」未投稿作品
決断を迫られると脳裏にシーソーが浮かぶ。私はシーソーに座り、向かいに誰か来るのを待っている。ガトーショコラかモンブランで迷っている今も。「ショートケーキ」また心にもないことを言ってしまった。砂場とシーソーだけの小さな公園、私の原風景。家族の誰に聞いてもそんな公園はなかったという。
2025年4月13日日曜日
#春の星々140字小説コンテスト「原」未投稿作
夜明け前、腹の音で目が覚めた。猫の鳴き声のような音。酷い空腹感。隣で寝ている夫をつっつき腹を撫でてもらう。音は「ゴロゴロ」に変わって、私は心穏やかに再び眠る。昼近くに目覚めると夫は猫を抱いていた。「明け方、原っぱでお腹を空かせて鳴いていたよ」猫は私の腹に飛び乗って、喉を鳴らした。
2025年3月10日月曜日
2025年3月9日日曜日
2025年3月7日金曜日
2025年3月6日木曜日
2025年2月2日日曜日
冬の星々140字小説コンテスト「重」未投稿作
朝日の射し込む部屋でスピーカーのコーンが力強く跳ねている。徹夜で作った曲のはずだが、何かがおかしい。スピーカーから繰り出される重低音の激しいリズムに撃たれ、立っていられなくなった。寝転がると徐々にリズムは緩やかになり、私のようで私ではない美しい歌声に包まれていく。音楽に眠らされる(140字)
2025年2月1日土曜日
冬の星々140字小説コンテスト「重」未投稿作
庭に埋められ空襲を逃れたという重箱に、おせちを詰めていく。かれこれ百年経つ筈だが、欠けも剥げもなく見事に四角い。だが今年、同じ寸法で一段だけ誂えた。やはり与の段で菜箸が止まる。盛り付けようとすると煮しめの人参が、蓮根が、弾かれ宙を舞う。飛翔人参は華麗に新重箱に着地した。拍手喝采。(140字)
2025年1月31日金曜日
#冬の星々140字小説コンテスト「重」投稿作
荒れた家だった。手入れされないままの植物が屋内外に放置されていた。「現代の八重葎だな……」と独り言ち、淡々と植木鉢を軽トラに積んでいく。出来心で荷台の植木鉢にホースで水を撒くと、瞬く間に緑が鮮やかになった。花を咲かせるものまである。振り返れば、やけに奇麗になった家が澄ましていた。(140字)
2025年1月20日月曜日
#冬の星々140字小説コンテスト「重」投稿作
昔住んでいた古いマンションのエレベーター前には大小の石ころが積まれていた。軽くても重くても警告音が鳴る。私の身体は、このエレベーターには軽かった。手ぶらの時は形の良い漬物石のようなのを抱き、買い物帰りにはゴツゴツした黒い石を握る。馴染みの石がいる生活は悪くない。懐かしい思い出だ。(140字)
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予選通過
2025年1月16日木曜日
#冬の星々140字小説コンテスト「重」投稿作
鉛のようになった身体で歩く帰り道。そんな夜には重金属が漂っているのだと教えてくれる人がいた。スキップしながら帰るといい、と言われたことを思い出し「らんららん」と靴を鳴らす。私の足取りは軽くなり、街路灯は仄暗くなって、アスファルトに鈍い光を放つ澱が溜まっていく。東京の空に満天の星。(140字)
2025年1月1日水曜日
「花」(2021年4月、月々の星々のテーマ)
寒空の下、バラ園内を歩く。人は見えず、小さな草花がちらほら咲いている。頭の中では悩んでも仕方のないことばかりが絶えず流れている。急に強い香りが鼻腔を襲ってきた。季節外れのバラが一輪。大きい。ずいぶん威張っている。そして少し寂しそうだ。傍らのベンチに腰掛け、共に真冬の風に吹かれた。(140字)