2008年3月31日月曜日

古いノート

桜の花びらに埋もれながら、祖父の声を思い出す。

一番上の抽き出しにあるノートは開いてはいけないよ。開いたら最後、消えてなくなってしまうから。

一番上の抽き出しが開いているのに気が付いて、慌てて閉めようとしたが、間に合わなかったのだ。
強い風が窓から入ってきてノートを巻き上げた。
ぱらぱらと捲れあがる頁はそのままさらさらと灰になった。

ノート、本当に消えてなくなっちゃったよ、おじいちゃん。

なおも灰は風に飛ばされ、部屋の中が砂漠のように霞む。
窓は閉めたけれど、灰はほんの数枚部屋に入った桜の花びらを、何万枚にした。花咲かじいさんみたいだね、おじいちゃんのノートは。

この花びらを庭に埋めよう。大きな穴を掘って、一枚残らず。

2008年3月29日土曜日

風は強く

カーテンが大きく膨らんで、きみの匂いが入ってきた。
ぼくは深く息を吸い込み、懐かしいきみの匂いを身体に染み渡らせる。
今日は特に強い風だ。少し心配になる。何か不安なことでもあるのだろうか。眉がへの字になり、泣きそうな顔になるきみを思い浮かべる。
きみの見上げる空は、たぶん青すぎる。ぼくには届かないから、ただこうして窓を開けておくことしかできない。

2008年3月27日木曜日

ふとももに

 眠っているあなたのふとももを撫でていると、手のひらに違和感を感じた。
「芽が出てる……」
 それは確かに植物の芽で、瑞瑞しく緑で、つんと立っていて。わたしはそれを育てることにした。
 水をやろうと、唾液を流しながら舐めた。
 肥料を与えようと、指を噛み切って血を垂らした。
 そうするうちに背が伸びる、葉が出る。
 あなたが目を覚ます前に花を咲かせて欲しいと、私は願い、只管に舐める。
 月の光がカーテンの隙間から差し込んだとき、強い芳香が広がった。白い花がゆっくりと開いた。指で花にそっと触れると、一層強く香りが漂う。
 月下香。

「月下香」或いは「チューベローズ」
花言葉は「危険な楽しみ」。

2008年3月26日水曜日

花めぐり

辛夷と戯れ
雪柳に頬を撫でられ
桜にくちづけた

2008年3月25日火曜日

嘘をつく

嘘八百屋って知ってるか?嘘八百屋の野菜を食べりゃ、嘘をついても、ばれやしないんだとさ。
あんた、最近浮気してるんだろ、奥さんが気付き始めるころじゃねぇか?
え?昨日泣かれた?女は嘘泣きもうまいからな。
よっしゃ、嘘八百屋の地図を書いてやらぁ。
ま、嘘八百屋ってくれぇだから、嘘臭い商売だけどな。

2008年3月23日日曜日

本棚の片隅

本棚の三段目右奥に、小さなアトリエの入り口がある。
私が紙の束を差し入れると、あくる日には豆本になっている。
出来上がった豆本は、本棚のどこかにあるが、どこかはわからない。本棚を隅々まで探す。
豆本作り職人はかくれんぼが好きらしい。

2008年3月21日金曜日

橋を渡る

彫刻家は、西の岸から橋を渡る。欄干に龍を彫りながら。
彫刻家は家に帰らない。恋人が弁当を持って来て、二人で食べる。汗をかくと湯の入った桶と手拭いを持って来た恋人に身体を拭かせ、夜は橋の上で蹲って眠る。
ようやく東の岸まで来たが、橋を降りることなく反対の欄干を彫り出した。
尾から彫り始めた龍が、徐々に太く、たくましくなる。鱗はいよいよ細かく、輝きを増す。鋭い爪が宝珠を握る。
二年の歳月をかけ、彫刻家は西の岸まで戻る。最後に睛を入れ、彫刻家は橋を降りた。
すると、にわかに龍は躍動し、彫刻家を丸呑みしてしまう。

2008年3月20日木曜日

窓の向こう

 箱についた窓を覗きこむと、中は書斎だった。どっしりと重そうな机の上には、万年筆と書きかけの原稿用紙。壁一面の本棚には、厚い本がびっしり詰まっている。その本棚の前で本をめくっているのは、こともあろうに、ウサギだ。丸い鼻眼鏡をかけ難しい顔をして本をめくり、机に戻った。
 私が窓に小さなペンライトをあててウサギに合図すると、ウサギは鼻眼鏡をずりおろし、まぶしそうに窓を見やった。
 その眼鏡、老眼鏡か。

2008年3月18日火曜日

やっぱり忘れた

あの子の名前が膨らんだ桜の芽のような色であること、2+8が蜂蜜のように甘いこと。
15歳になった途端にわからなくなり、19歳になったら、そんな感覚があったことさえ忘れはじめていた。
「大人になったら、忘れてしまう」
と言われたとき、そんなはずはないと断言したのに。

2008年3月17日月曜日

平面的な出来事

福笑いで腹話術をする男がいた。
地面に広げた福笑いが、男の言葉に合わせくるくる表情を変える。
福笑いと言っても、お多福ではない。フランス人形のような碧眼の美しい少女だ。この少女の声で、腹話術の男がおとぎ話を語る。
男は福笑いを一切触らないのに目や口をかたどった紙片が滑らかに動くから、何か仕掛けがないかと、観客は夢中で福笑いを見る。
いつのまにか、男の横でみすぼらしい格好の女の子が大きな口を開けておとぎ話を朗読しているが、誰も気付かない。

2008年3月16日日曜日

誰にも言わない

俺は影と毎晩睦みあっている。
夜になると部屋にたくさんのキャンドルを灯して、影と抱き合う。
炎と俺の吐息に合わせてゆらめく影に、俺は包みこまれる。
誰にも言わないと約束したわけではないのに、なんとなく二人だけの秘密にしたいことってあるだろう?

2008年3月15日土曜日

それからのこと

「あなたにだけ、話せたことがたくさんあった」
春の嵐の中で、少年に言われた。生温かい風は、嫌いじゃなかったのに、少年が去ると嵐も去った。
それから一年経つ。
嵐は鎮まりましたか?

夜の闇の内側

いつもよりほんの少し饒舌なあなたに、わたしは少しとまどう。けれど、すぐにここが夢の中だからだと気が付く。
「正確には夢の中じゃない。よく似ているけれど、全く違うところなんだ」
とあなたは言った。
「夢の外の、つまり夜の闇に開いた、ピンホール。その中だ」
よくわからないよ。
「夜の闇は宇宙と同じくらい広くて深い。そこに一ヶ所だけある小さなキズのような穴に、おれたちは入り込んだ」
ますますわからない。だけど、此処はなぜだか心地よい。でも、どうやって。
「キズがほんの少し広がっていたから、見つけられたんだ」
どうして。
「春だから、だよ」
あなたのこの言葉が合図だったかのように、目の前に亀裂が走り、ぐぐっと開き、外、つまり夜の闇に押し出された。
あなたはいつもの無口に戻る。
もう少し、あなたの声を聞いていたかったのに、とわたしは悔やむ。

2008年3月10日月曜日

星待ち

玻璃のすずらんが、ふるふると揺れると、また一つ星が生まれる。
ぼくは何万年も玻璃のすずらんをじっと見つめてきた。星が生まれたら帳簿に印付ける、それがぼくの役目だ。
だけども、楽な仕事じゃない。玻璃のすずらんは、いつ震え出すかわからない。何年もぴくりともしないときもあれば、帳簿に印を付けているその隙に、また新しい星が生まれることもある。油断できない。
くしゃみどころか欠伸でも、玻璃のすずらんはゆさゆさと揺れてしまうから、常に息を潜めていなければならない。
けれども、もう五千年も前から、ぼくは欠伸を噛み殺し続けている。とてつもなく眠い……。
ぼくが眠ると、玻璃のすずらんの花が一つ、増えるだろう。

川面から

 なにやらキラキラと光るものがあるので、川へ降りていった。
 キラキラの正体は、蝶だった。羽を広げて、ぺたんと浮いている。鱗粉が周りの水面にもやもやと広がっている。
「そんなところに浮かんでいたら、羽が濡れて動けなくなってしまうでしょう?」
とわたしが言うと
「こうして空を見上げながら、漂っていたいのです」
と天から降るような声で答えが返ってきた。
「そんなに気持ちがいいなら、わたしも真似をしてもいい?」
 わたしは、服を全部脱いで川に浮かんだ。川の水は冷たい。乳首がきゅっとかたくなる。
 身体の力を抜いて浮かぶのは、なかなか難しい。蝶がときどきアドバイスをしてくれた。
「その調子です」
 やっと空を見る余裕ができた。真っ青かと思っていた空は、鱗粉を撒き散らしたようにキラキラしていた。
「空ってこんな色だったのね」
蝶の返事はなかった。

2008年3月9日日曜日

言祝ぐ日

仮死状態で生まれ落ちた赤ん坊は、小さな石を握り締めていた。
秘色の石は、老いた産婆によって赤ん坊の額に乗せられると、ギラリと光った。「生きよ」
石が低く唸る。それに応えるように、赤ん坊はようやく泣き出した。

2008年3月8日土曜日

静けさの奥

如月朔日
星星の語らいは
まだ解けきらぬ雪にしみ入る

2008年3月7日金曜日

桃の枝

淡い桃の香りを漂わせていたから、前を歩くその老女に背負われた大きな枝の束が、桃だとわかった。
こんなにたくさんの枝を一体何に使うんだろうか。そう思ってると、老女は小さな掠れた声で、一本調子の独り語りを始めた。
「桃ちゃんは十九で死にました。埋められたところに、誰も植えていない桃の木が育ちました。毎年桃ちゃんの枝で染めた綿で、おくるみを作ります。桃ちゃんの腹には赤ん坊がいました。おぉ、よしよし」
老女は、赤ん坊をあやすように背中の枝を背負い直した。その途端、鮮やかすぎる色の桃の花が一斉に咲いた。

2008年3月6日木曜日

かじかんだ手

少女は、手袋もつけずに雪の中に両手をを差し入れているのだった。
「何してるの?風邪ひいちゃうよ」
「雪の下の、春を触ってるの」
雪の中から出てきた手が、僕の頬を覆う。
「冷たいよ」
と言おうとして、気がついた。
フキノトウの香り。

すみませんでした

謝ることができれば、いいのに。これまで書いた物語たちへ。
でも、一度動き出してしまった物語を、止めることは出来ない。作者といえども。
羊に食わせてやりたいが、生憎紙じゃない。
いや、羊の腹に入ったとしても、意味のないことかもしれない。
一度動き出した物語は、それを綴った文字が消えてしまっても、物語を紡ぎ続けているのだ。わたしが物語の紡いだ糸を見つけられないだけの話。

2008年3月4日火曜日

台詞忘れた!

ルパートさんはいつもおんなじ赤い鼻をつけた道化役。だけれど今日は一味違う。台詞が長いのだ。
「火事場の馬鹿力なんて果実を齧るより簡単だ。角を堅田の鍛冶屋で買った果実の頭を箇条書きしてごらん。」
ルパートさんは、これが言えなかった。「か…か…」と蚊の鳴くような声を出したきり黙り込んでしまった。
だが、誰もルパートさんを笑わない。なぜなら客席には誰もいないから。

もしもの話

もしも男の子だったら、とよく考えた。
本当に男の子になりたいわけじゃない。
女の子の世界はダサくて男の子の世界は素敵だからだ。着せ替え人形よりプラモデル、スカートよりジーンズのほうが、魅力的なだけ。それが真に似合うのは男の子だけだと思っていた。だから、男の子になることを夢想した。

本物の男の子は、わたしのジーンズを見て寄ってきた。
「それ、ピンテージの復刻モノ?すごい!いいなぁ」
本物の男の子は、さすが話がわかる。
だけど、もしわたしが男の子だったら、彼の笑顔にときめかない。彼の笑顔がまぶしいのは、わたしが男の子じゃないからだ。
彼の笑顔をまぶしいと感じることのほうが、ジーンズの話で盛り上がることより、うれしい。

その日から「もしも」を考えるのは止めた。

2008年3月2日日曜日

暇をください三分ばかり

「三分」
願いが聞き届けられるとは思わなかったけれど、なぜかあっさり、三分間の暇をもらうことができた。
わたしはどういうわけか監禁されている。同棲のはずだったのに。
彼はわたしを束縛するあまり、何日もしないうちに仕事にいかなくなった。買い物にもいかないから、食事は買い置きのインスタントラーメンだけ。それも昨日の夜で終わった。
彼は暴力はふるわないけれど、わたしの一挙手一投足をただ見つめ続けている。
わたしは、そこに異様な快感を見出だしている自分に気付いて、怖くなった。

暇をもらった三分間、まず外に出て伸びをした。母に電話をし、早口で事情を告げた。
それから、彼に電話をした。
「もうわたしを見るのはやめて」
「どうして?」
その声は携帯電話からではなく……。
ストップウォッチを持った彼が瞬きもせずに、わたしの顔を凝視している。ずきんと身体が熱くなる。

エスケープの合図を送れ

本当に、合図なんて送れるのだろうか。
深い眠りの中で、僕たちはいつもしっかりと手を繋いで泳いでいる。昼間の僕たちには考えられないけれど、そうしなければ強い流れに飲み込まれてしまうから。

夢というには、あまりに苦しい現実だ。朝起きれば、パジャマも髪もぐしょ濡れで、同級生である彼女もまた同じ状態らしい。

今朝、巨大な生き物が接近するところで目が覚めた。シャチならいい。巨大タコでもまだマシだ。たぶんこの世の生き物じゃない。だってやっぱり、僕とあのコの夢が作り上げたものだから……。

とにかく今夜は確実に襲いかかってくるだろう。
授業中も、彼女の後ろ姿を見ながら、あの生き物から逃れる方法ばかり考えていた。

「引き付けたところで、合図するから」
学校からの帰り道、やっと彼女に話しかけた。彼女の顔色が変わった。
「右手に向かって逃げるんだ。あっちのほうが、たぶん流れが穏やかだ」
「できない、一人じゃ泳げないよ。それに……」
「大丈夫。ちゃんと目が覚めて、明日も退屈な学校にいく。それだけだよ」
大丈夫な保証はない。前に岩にぶつかってケガをした時は、病院でキズを縫った。

僕たちは、初めて手を繋いで歩いた。
よく知っている手。でも、濡れていない。ここは夢でも水中でもないんだな。なのに、不安なのはなぜだろう。
彼女逃がすために、僕は今夜眠るのだ。

2008年3月1日土曜日

誰よりも速く

「せむかたなきことよ」
と、スカラ君はぼやいた。
 ベクトルン嬢の行く先は、いつだって明白だ。スカラ君はベクトルン嬢の前に現れたい。颯爽とライバル達を追い越して、涼しげな顔でベクトルン嬢を迎えて一言いうのだ。
「お嬢さん、お待ちしておりましたよ」
 スカラ君が誰よりも速く進むのは容易いことだ。自身の値を上げればよい。それだけだ。しかし、それだけである。
 スカラ君は、自分でも何処へ行くか判らない。

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500文字の心臓 第74回タイトル競作投稿作
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