2003年12月31日水曜日

湯煙の中をさまよう主水くんのこと

広くて湯煙が立ちこめる浴場内を歩き回るのは難儀だ。
どんどん身体が熱くなり、主水くんの息は荒くなっていた。
大勢の人のざわめきとあちこちで流れる湯の音が反響する中でションヴォリ氏を呼ぶ声もかき消された。
「あ、あの洗面器は」
主水くんは桃色の洗面器の周囲にいる人々を見渡した。
そして湯に浸かっているションヴォリ氏を見つけた主水くんは、ションヴォリ氏ではない名を口にしたのである。

2003年12月29日月曜日

引く手あまたの毬子嬢のこと

主水くんが髪を洗われている間にも、何人かの人が毬子嬢に声を掛けていった。
「マリー、あとで頭を洗って欲しいんだ」
「マリちゃん、背中流してくれよう」
「頼んだよ、マリー」
頭を流し終えたところで主水くんは言った。
「おばちゃま、ありがとう。ぼくはもう自分でできますから。ほら、丈二おじさんが待ちくたびれてのぼせちゃいますよ」
「あら、ジョージ、あんなに真っ赤な顔して。そうねぇ、残念だけど」
毬子はウィンクして去っていった。
やっと解放された主水くん、心底ほっとした。
「あれ、博士はどこにいるんだろう」

2003年12月27日土曜日

毬子嬢のこと

主水くんは観念した。
こうなることは、はじめからわかっていたのだ。
確かに毬子嬢の洗髪は上手い。
広い浴場内をわざわざ探して彼女に頭を洗ってもらう人も少なくないのだ。
中にはお金を渡そうとする人もいたが、毬子はそれを嫌がる。
「こちらこそ洗わせてくれてありがとう。このお金は、次にここへ来るためにとって置いてちょうだい。そうしたらまた私が洗ってあげられるでしょ」
などと言ってやんわりと断っている。
本当に人を洗うのが好きなのだ。若い子が好きなのもまた、真実である。
主水くんがそんな毬子嬢に目をつけられないわけがない。
いくら上手に洗ってもらえるとは言っても、主水くんはトウのたった子供であるので
他人に身体を触られるのはどうにも具合が悪いらしい。

2003年12月26日金曜日

石鹸を泡立てる毬子嬢のこと

大浴場の中は熱気と湯気でモワンとしている。
「さ、モンドちゃん。あっちが空いているわ。座ってちょうだい。」
主水くんが腰をおろすと、毬子嬢は長いお下げをグイッと頭のてっぺんでまとめてから、勢いよく石鹸を泡立てはじめた。
またたく間に毬子の両手には白い泡が山盛りになった。
「髪の毛、しばらく洗ってないんでしょ?かゆいところはない?」
「頭も身体も自分で洗えますから」
主水くんは最後の抵抗を試みた。
「遠慮しないでいいの。自分で洗うよりキレイになるんだから」

2003年12月24日水曜日

毬子嬢の視線を浴びる主水くんのこと

主水くんはあきらめて服を脱ぎ始める。
「モンドちゃん、おっきくなったわねぇ。ちょっと前まであんなに小さかったのに。カモンちゃんは元気?たまにはお風呂に入らないと」
毬子嬢はねっとりとした視線を主水くんに浴びせながら
彼の脱いだものをさらりと畳んでカゴに入れていく。
手と目と口が別々の生きものみたいだ、と主水くんは思った。
「放っておいて下さい。自分でできますから」
「いいのよぅ」
主水くんは毬子嬢に気付かれないよう、大きく息を吐いた。
「さぁ。お風呂に行きましょう。背中洗ってあげるからねぇ」

2003年12月23日火曜日

主水くんを待ち受けていたもののこと

混浴の「河童・ド・キャア」は脱衣場もなにもない。
建物の中に一歩入れば素っ裸の老若男女がウロウロしている。
「あーら、モンドちゃん」
「来たな、ババァ」
いきなり主水くんに抱きついた裸の 老女に主水くんは顔を背けた。
「ババァなんて言葉、どこで覚えたのかしら」
「こ、こんにちは、毬子おばちゃま」
この老女こそが主水くんの悩みの種である。
「河童・ド・キャア」の常連の彼女はこの浴場のお節介ババさまなのだ。
「レオナルド、モンドちゃんが私のことババァなんて言うのよ」
白髪混じりのお下げをいじりながら毬子嬢はションヴォリ氏に訴える。
「ほ? なんだ。マリーか」
ションヴォリ氏は脱衣カゴを数えるのに夢中で釣れないお返事。
「いいわ、モンドちゃん。レオナルドは放っておいて早くお風呂にはいりましょ」

2003年12月22日月曜日

憂鬱な主水くんのこと

桃色の洗面器を抱え、石鹸をカタカタ言わせながら機嫌よく歩くションヴォリ氏の隣で主水くんは憂鬱であった。
実は主水くん「河童・ド・キャア」が少々苦手なのである。
ぼそりと主水くんは言った。
「博士、やっぱりサンライズ湯にしませんか?」
「34 35 36 37 38 39」
ションヴォリ氏は蟻の行列を数えるのに夢中で
主水くんの声などまるで聞いていない。
「ダメだこりゃ」

大通りの一番外れにある石造りの大きな建物が公衆大浴場「河童・ド・キャア」である。
ワンコインでいつでもだれでも風呂に入れる。
「あーぁ着いちゃった。」
主水くんの憂鬱はいまや最高潮である。

2003年12月21日日曜日

ションヴォリ氏の行き着けの銭湯のこと

ションヴォリ氏の行き着けの銭湯は幾つかある。
まずは街にある「サンライズ湯」。
摩耶の喫茶店の向かいの三軒先で、もっともよく通う風呂屋である。
繁華街の外れにあるのが「河童・ド・キャア」。混浴の大浴場である。
ションヴォリ氏の家の裏山の奥にあるのが温泉「緋刀の湯」。
赤い湯は爪に効くと言われている。
「さて、今日はどちらの湯をいただきに参りましょうか」
「ふーむふむ。今日はカッパ・ド・キャアにしよう」
ションヴォリ氏は河童という字を知らない。

2003年12月20日土曜日

銭湯に行きたいションヴォリ氏のこと

さて、ションヴォリ氏の楽しみは銭湯に行くことである。
もちろんションヴォリ氏の家にはバスルームもあるが、ションヴォリ氏曰く「家の風呂と銭湯は別物」だそうだ。
これは主水くんも大好きで、しょっちゅう二人は連れだって風呂に行く。
この日もションヴォリ氏はそわそわと主水くんがくるのを待っていた。
「おはようございます、博士」
「モンドくん、モンドくん風呂に行かんかね」
「もちろんお供します、博士」
この日ションヴォリ氏は桃色の服を着ていた。
主水くんはクローゼットから桃色の手ぬぐい、桃色の浴衣を出し、
物置から桃色の洗面器と桃色の石鹸箱、桃色の櫛を持ってきた。
物置にはションヴォリ氏の服に合わせて色とりどりの洗面用具が揃えてあるのである。
「まだかね、モンドくん」
ションヴォリ氏は落ち着きがない。
「用意できましたよ、博士」

2003年12月19日金曜日

阿礼の料理のこと

阿礼の手料理はかなりのものだった。
出てくるまでにずいぶん時間がかかったけれども。
なにしろ阿礼ときたら材料をひとつ手に取る度
「レタスはデラックス百科事典5863頁に……」
「デラックス百科事典によればマッシュルームは……」
と始めるのである。
阿礼はシチューとサラダを作った。
それからションヴォリ氏たちが初めてみるパンが出た。
掃部くんはこのパンがいたくお気に召したらしく以後ずいぶん「あれっくのぱんがたべたい」とダダをこねていた。
黄色い酒を飲んだ阿礼とションヴォリ氏はご機嫌だった。
とても盛り上がっていたが主水くんには二人がお互い独り言を言っているようにしかみえなかった。
掃部くんは雪だるまになつき、冷蔵庫の扉を開けっ放しにするのでなんども阿礼に叱られた。
こうしてションヴォリ氏一行は阿礼宅で楽しい一夜を過ごしたのだった。

2003年12月17日水曜日

雪だるまの言い分と掃部くんの証明のこと

「hello!ご機嫌いかが?」
「こんばんは、じゃっく。チーズがほしいんだ」
「ねずみはイヤだよ」
「ねずみのどこがいやなの?」
「かれらはチョロチョロと動き周りまーす」
「それならだいじょうぶだよ。これがぼくのらもんとしもん」
掃部くんは羅文と四文を掴んだ左手をポケットから引き上げた。
掃部くんの手の中でぐにゃりとしている二匹を見て雪だるまは驚いた。
「oh……?静かですねぇ」
「これでもきらい?らもんとしもんはチーズがないとしんじゃうよ」
「OK チーズを出ましょー」
雪だるまが体をよじると、奥にはたくさんの食べ物が見えた。
掃部くんはいっぱいに腕を伸ばしチーズを取ることができたのだった。
「アレック、人間どもも夕食の時間でーす」
雪だるまは言った。
「では、僭越ながら小生の手料理を召し上がっていただこう」

2003年12月16日火曜日

決意した掃部くんのこと

主水くんは慌てて冷蔵庫の扉を閉じ、ションヴォリ氏に助けを乞うた。
「博士、ジャックフロストはねずみが嫌いだと言っています」
「モンドくん、モンドくん、それならばカモンくんが直接ジャックフロストに頼めばよいではないか」
それを聞いた掃部くんは意を決した。
大事は羅文と四文にひもじい思いをさせるわけにはいかない。
ポケットの中に左手を入れ羅文と四文を掴んだまま
ズズッと鼻をすすり、深呼吸をして冷蔵庫の扉を開けた。

2003年12月11日木曜日

ねずみ嫌いの雪だるまのこと

「冷蔵庫についてはデラックス百科事典の10064頁に記されておる。冷蔵庫は雪だるまの夏眠のために開発された特殊な箱である。現在では雪だるまの夏眠だけでなく、食品の保管にも使用されている」
阿礼の解説に構わず掃部くんが言った。
「あんちゃん、らもんとしもん、おなかすいたって」
「あぁ、そうか。アレック、チーズか何かありますか?」
「それならば冷蔵庫を開いてみればよろしい」
主水くんはおそるおそる冷蔵庫を開けた。
「hello、ご機嫌いかが?」
「ハイ、ジャック。ねずみにやる、チーズをさがしてるんだけど」
「oh my god!ジャックはねずみが嫌いでーす」
ジャックフロストの叫びを聞いて掃部くんは火がついたように泣き出した。

2003年12月9日火曜日

阿礼の部屋にいた雪だるまのこと

ションヴォリ氏ははしゃいだ。
「昼間のように明るいですな。あの明るい棒がこの街に何本あるのか是非とも数えたいものだ」
などと言いながら部屋の中をウロウロしている。
「客人だ。ジャック・フロスト」
阿礼は大きな箱に向かって言った。
「アレック、誰かと一緒に住んでいるのですか?」
主水くんが近づくと大きな箱の中には雪だるまがいた。
「hello ご機嫌いかが?ジャックはアレックの同居人だよ」
「……ハイ、ジャック。お邪魔してます。ところでキミはどうして箱の中にいるのですか?」
「ジャックは冷蔵庫の中にいないと溶けてしまうのさ」
「れいぞこってなに?あんちゃん」
「……あんちゃんにもわからない」

2003年12月8日月曜日

狭い箱の中で後悔している主水くんのこと

「こちらへ」
阿礼に続き一行は白い光があふれる背の高い建物の一つに入った。
建物の中に入るとまたすぐに扉があった。そのような造りの建物は長く生きてきたションヴォリ氏でも初めてだった。
阿礼が何やら丸い物に触れると扉が音もなく開き、中に入る。中は狭い。四人でいっぱいの広さである。
「12階に小生の住まいがござる」
と言って「12」と書かれているところを阿礼が触れた。
「え?そんなに高いところに?」
主水くんは少し後悔していた。阿礼がこんな遠くて不思議な街に住んでいるとは思ってもみなかった。
身体がスゥとする。耳もおかしな感じだ。
緊張している主水くんのに対し、ションヴォリ氏は好奇心旺盛である。
「これは動いておるのですな?なんという乗り物で?
エレキベイター。はー。ここを触ると? ふむふむ。なるほど」
阿礼は阿礼でションヴォリ氏の疑問にいつもの調子で答えている。
「エレキベイターはデラックス百科事典の386頁に……」
チンと音がして、 扉が開いた。
「到着いたした」
「どこに?」
「小生の住まい」

2003年12月6日土曜日

思いがけなく遠かった阿礼の住む街のこと

立ち上がった阿礼は主水くんが見上げるほど大きかった。
掃部くんは彼の腰までしかない。
「では参ろう」
阿礼はゆっくり歩きだした。
阿礼の家は思いがけなく遠かった。
ションヴォリ氏の家とは逆の方角で、主水くんは初めて踏み入る土地だ。
すっかり日が暮れ、掃部くんは主水くんに背負われて寝てしまった。
 やがて隣街に到着した。
ションヴォリ氏一行にとっては珍しい光景が広がっている。
夜空の下は白く輝いていた。あまりの明るさに掃部くんも目を覚ました。
背の高い建物の窓がひとつひとつ青白く光っている。
暖かい揺らめく明かりはどこにも見られない。
「アレック、ずいぶん遠くに住んでいたのですね」
阿礼はニヤッとした。

2003年12月4日木曜日

萎縮してしまった掃部くんのこと

「アレック!」
主水くんが大きな声を出し、掃部くんはビクッとした。
阿礼は聞こえるのか聞こえないのか、つぶやき続けている。
「やはりウルトラデラックス百科事典でなければ……」
「はぐらかさないで、アレック。ぼくたちはアレックともっと仲良くなりたいのです」
主水くんは一呼吸置いて言った。
「知りたいのはあなたのことです」
「……各々方は、小生の住まいを知りたいと、申すのか」
ようやく阿礼は顔を上げた。
「さようでござりまする」
ションヴォリ氏が阿礼の口ぶりを真似て答えたので
主水くんはちょっと笑った。
しかし、主水くんにしがみつく掃部くんの手の力はますます強くなった。
「では案内いたそう、小生の住まいへ」

2003年12月3日水曜日

ションヴォリ氏と主水くんが本当に知りたかったこと

「ありがとう、アレック。もう一つ質問してもいいですか?」
主水くんはまっすぐ阿礼の目を見て言った。
主水くんとションヴォリ氏が、本当に聞きたかったのはルーシーのことではなかった。
「よかろう。小生は各々方に知識を分け与えることに惜しみはない」
今度はションヴォリ氏が口を開く。
「アレック、あなたの家を教えて下さい」
阿礼の顔色が変わるのを見て掃部くんは緊張した。
主水くんの陰に隠れ服の裾を握り締める。
「それはデラックス百科事典には記載されていない。やはりウルトラデラックス百科事典を購入せねば……」

2003年12月2日火曜日

ルーシーのこと

そして阿礼は声色を変えて一息に言う。
「カウンセラールーシーはマシュマロパイが大好物、黄色いセロハンチューリップの花畑で踊る。ある朝、ルーシーは次の言葉を遺しオレンジの空へ飛び立った。
{あたしの助言は必ずあたる。100%の保証付き。}
この偉大なるルーシーの伝説はジェームズ・マクドナルドによって歌い継がれていくであろう」
三秒ほど間があって阿礼は帰ってくる。
「以上、デラックス百科事典に拠る」

2003年12月1日月曜日

冷えた椅子

林の中で見つけた小さな木製の椅子を、その足で近所の年寄りに見せることにしたのはなぜなのか、自分でもよくわからない。
「あぁ、もうこの椅子は死にかかっているよ。」
「どうしてわかるのですか?」
「ほら、ここを触ってみなさい」
私は塗装がはげ、泥がこびり付き、苔まで生えかかった座面に手をあてた。
「痛い」
「そうだろう、冷えきっているから痛いんだ。おまえさん、なぜこれを拾ってきた。
どうせならもっと良い椅子を拾えばいいものを」
「なぜって……」
「これが椅子だとよくわかったな」
そう言われてみると目の前にあるのは、椅子にはとても見えない朽ち果てた代物だった。
それでも拾わずにいられなかった。無我夢中で絡んだ雑草から引っ張りだし、積もった泥を落としてここへ持ってきたのだ。
私は涙を堪え、声を絞り出した。
「これは、ぼくの椅子だ。 ぼくの椅子なんだ。やっと見つけたんだ。」
「そうだ、よく言った……大事になさい。」

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500文字の心臓 第33回タイトル競作投稿作
△1×1