2003年10月16日木曜日

洗面器の中

家に帰るとまっさきに唇を剥がす。
絹擦れと足音だけをささやかに響かせる、誰にも邪魔されない私だけの時間。
おしゃべりな唇。甘い果物ばかり欲しがる唇。
どこかに捨ててしまいたいと思いはじめたのは14の冬だった。
「そんなら剥がしちゃえばいいじゃない」
と教えてくれたのは、公園でタバコをくわえていたお姉さんだった。
「まじめなんだね、あんた」
お姉さんは「いっひっひっひ」とちょっとかすれた声で笑った。
私なんかよりずっと汚い唇だ、と思った。
ますます唇を疎ましく思った。案外スルリと剥がれた。
剥がした唇は一晩中洗面器のぬるま湯の中。
ずいぶん気持ちよさそうにしているから腹が立つけど、これなら唇は干からびないし、私もぐっすりと眠れる。
朝になったら唇をつけなきゃいけないと思うと憂鬱だ。
唇は私の気も知らないで明日もおしゃべりを続けるのだろう。