2009年4月30日木曜日

渦潮に飲み込まれたい、と隣の女の子が言う。
学校で瀬戸内海の渦潮の話を聞いた、その日の帰り道だった。
そんなのダメだよ、死んでしまうよ、としか僕は言えなかった。
けれども、隣の女の子は僕の声は聞こえなかったようで、渦潮渦潮と繰り返し呟いていた。
次の日、隣の女の子は、自由帳にぐるぐると渦巻きばかり描いていた。
さらに次の日、プールの時間に自由帳を大事そうに抱えていた。先生に、自由帳は置いていきなさいと言われても離さなかった。
準備体操をしている最中に、隣の女の子は自由帳を抱いたままプールに飛び込んだ。プールの水ははぐるぐると渦を巻き、隣の女の子もぐるぐると渦に巻かれていた。凄い轟音。
そのうち女の子は渦の中心に沈んでいき、プールは静かになった。プールの中に、隣の女の子はいなかった。
準備体操が終わって、プールに入る。もう少しで、五十メートル泳げるようになるんだ。

(378字)

2009年4月27日月曜日

宝物殿

深い森の中、かつて此処に小さいながらも裕福な王国があったことを知る者は誰もない。
ただ湖だけが、その記憶を持つ。湖底に沈む財宝を守るために。
清らかな湧水は、金属が錆びることを許さず、宝石に泥が積もることを拒否する。
湖を覗けば誰しも、色鮮やかなまばゆい光を見ることができるだろう。だが、それを目にする者は、過去にも未来にも存在しない。
見る者が顕れなくとも、財宝はひたすらに輝き続ける。深い森の奥に佇む、この湖が枯れ果てぬ限り。

(211字)

2009年4月25日土曜日

目前に壁がなくとも

少女が両手を使いたい時、黒猫の尻尾は少女の手首に巻き付く。
今日、少女はオニの家で編み物を習っている。
「キナリちゃん、とっても器用。上手ねぇ」
オニがニコニコと見守る傍らで、少女は夢中で編み棒を操る。
尻尾は退屈で眠たくなる。力が抜け、手首から落ちそうになると、少女は尻尾をギュウギュウときつく手首に巻き直す。
留守番をしている黒猫は思わず後退りしてしまう。

(175字)

2009年4月24日金曜日

小さな海

恋人が海で拾ってきたと巻き貝の貝殻をくれた。
小さな出窓の窓辺を片付け、一番美しく見えるように置く。
翌朝、僕は波の音で目覚めた。窓辺には、小さな海があった。
天気が悪ければ波は高くなり、良くなれば穏やかになった。一日部屋にいると潮が満ち干くのがよくわかる。紛れもない海が、僕の部屋にはある。
恋人には、まだ海を見せていない。遠くの国へ旅立ってしまったから。

(175字)

2009年4月21日火曜日

第七感

星の感触というのは、第五感では到底説明できない。
「七番目の感触だよね」
うんうん、と皆で言い合うけれど、ナルミ先生はキョトンとしている。
世界中で僕たちの年だけ、星の感触を感じることができる。2777年生まれの子供だけが。
だから僕たちは、スター・セブンなんて呼ばれるけれど、なんだか大昔の煙草の名前とよく似ているらしいから、あまりカッコいいとは思わない。
彗星はとても不思議な感触だった。昨日の夜のことだ。第五感はすべて塞がれてしまったけれど、いつまでも浸っていたかった。彗星は足が速く、三十分ほどで第七感は薄れて、五感が戻ってしまった。本当にあっという間だった……。
世界中の子供たちも同じだったようで、うっとりとしたまま失神した子供が、何十万人もいる。
僕たちはあの星が再び地球に近づくのを強く強く願っている。大人になった時、僕たちの中から、あの彗星を地球に近づけるプロジェクトを実現させる者が現れるだろう。
それが地球を滅ぼすことになっても、構わない。それぐらい、第七感は、僕たちには大事なんだ。

(445字)

2009年4月20日月曜日

冷たい香り

「よい香りでしょう?」
 言われるがまま、鼻孔をくすぐるジャスミン茶の香りに浸る。
 カップを覗くと、河の両岸に古ぼけた白い壁と黒い屋根の建物が並ぶ。水の中に建っているような不思議な家々。
「ここは?」
「蘇州の景色が見えましたね」
 男は嬉しそうに笑った。男の故郷だと言う。
「素敵な街ですね」
 お世辞ではなく、心底そう思った。舟からの景色だろうか、私はゆっくりと水路を下っている。穏やかに水と時が流れる。水面に映る家々がたゆたい、石の橋を潜る。
 「お茶が冷めてますよ」
 時計を見ると、どうやら二十分近くも経っていた。
 男はどういう幻術使いだろう。訝しみながらも、黙って冷えたお茶を飲む。しかし、もう一度蘇州に行きたい衝動は抗しがたく、冷たいジャスミンの香りを思い切り吸い込むと酷く咽た。

(332字)

2009年4月18日土曜日

亀影

老海亀が泳ぐ影は、水底と空に映る。
それを目にすることができるのは飛行機だけらしい。

(41字)

2009年4月17日金曜日

童話みたいな

人魚姫は、水の泡になってしまうんだっけなぁ。残念ながら僕はお姫様が出てくるような童話のことは、よく知らないんだ。
氷の姫は、温かくなったら一体どうなる?
溶けてしまうのか、蒸発してしまうのか。
僕の気も知らないで、冷凍庫の中の姫はぱちくりと睫毛を動かして小首を傾げる。
姫は小さい身体だけれど、冷凍室の中で窮屈そうに横たわったり、膝を抱えて座っていたりする。
おかげで、この新しい冷蔵庫が来てからというもの、氷も作れない(焼酎をロックで飲むのが好きなのだ!)し、冷凍食品も買えない。
例えば、僕が姫にキスをしたら(だって、たぶん、そういうものだろ?)、僕が王子になるか、姫が普通の女の子になるか。
だけど、どっちの展開になる人生もなんだか自分じゃないみたいで、結局今夜もため息をつきながら「おやすみ」と冷凍室の引き出しを閉めるのだ。

(359字)

2009年4月15日水曜日

空中散歩

月が言う。
「ヌバタマ、空を飛んでみたいとは思わないか」
黒猫は高いところを厭わない。教会の屋根もするりと歩く。だが宙を浮いたことはない。月や少女に抱かれて持ち上げられた時以外には。
「空中散歩に出掛けよう。キナリには内緒で」

月の友人だというコウモリは小さい身体でやすやすと黒猫を爪に引っ掛け飛び立った。
[人は思いもよらないだろう! コウモリと黒猫が夜空を散歩しているとは]
黒猫は地に足が着かないことよりも、いくらか偉そうなコウモリの物言いが不愉快だった。
しかし、教会の屋根から見るよりも満月が大きく見えるような気がするので、文句は言わないことにした。

(272字)

2009年4月14日火曜日

瓶の話

瓶が一本、波に揺れている。
浜辺に打ち上げられそうになりながら、しかし完全に打ち上げられることはなく、また返す波にさらわれて海に戻る。
瓶は、長い時間そうしている。
瓶は酒瓶だった。男か女が酒を飲む。瓶は小さな島の酒造場で洗浄され、また酒を詰められ、大陸に船で運ばれて、また女か男が酒を飲んだ。
そんなことを長い間繰り返していた。仲間と比べても、ずいぶん丈夫な瓶だった。
ある時、なぜか船から落っこちた。コルクが朽ちて、酒は海に流れた。それ以来ずっとこうして砂浜の前を漂っている。
寄せては返す波と共に、行ったり来たりするのは、酒瓶であった頃とたいして変わらない。
だが、世の中は静かになった。酒場も酒造場も人間の声が響いていた。海は荒れても、酒場のように五月蝿くはない。

(329字)

2009年4月13日月曜日

山の娘

彼女の髪には細かな水玉がたくさんついている。彼女の動きに合わせて艶やかな黒い髪を水玉たちが滑る。彼女の傍にいると、山の川の匂いがする。

「母に逢いに行くから、一緒に来ない?」
と誘われて、行くことにした。彼女の故郷の話はいつもおもしろかったから。

険しい山道も彼女は軽々と歩いた。「今日はお父さんの機嫌がいいみたい」といいながら、歩きやすい場所を示してくれたので、僕もそれほど苦労せずに歩くことができた。

水音が近づくにつれ、彼女の足取りはますます軽くなった。
「ただいまー!」
彼女の声は滝の轟音にかき消される。

裸になり滝壺に飛び込みはしゃぐ彼女を見守りながら、彼女と同じ匂いの滝の飛沫を浴びて、深く呼吸をする。

(301字)

2009年4月11日土曜日

だから僕は海へ入る

海水が荒れた肌に染みる。痛い。
痒いのと痛いのと、一体どちらが楽なのかと考える。
答えはない。

君の舌でざりざりと舐めてくれればきっと心地よいだろう。
けれど、君はたぶん鮫肌みたいな舌の持ち主ではない。残念だけれど、きっと擽ったくて、笑いこけて、もっと痒くなると思う。
そのうち僕を舐めるのになんか飽きちゃって、プイとどこかに行ってしまうだろう。
そうじゃなかったら、舐められているうちに欲情して、絡み合ってしまうかもしれない。
海水は、飽きてどこかに行ってしまうこともない。僕は海水に欲情することもないはずだ。
だからこのまま海水に沈んでしまうのが一番いいような気がしてきた。

(281字)

2009年4月10日金曜日

人魚の火遊び

右の眼窩に火灯シ海月を棲ませている、人魚の娘がいる。
海月が火を灯すと、身体をくねらせては下半身の鱗に無数の小さな炎を映し、左眼でうっとりと見惚れる。
一度でよいから、揺らめく炎に触れてみたい。
細い指を右の眼窩に近付けると火灯シ海月がひどく暴れるから、娘の右顔面は火傷で爛れている。

(139字)

2009年4月8日水曜日

皇帝ペンギン

一体、地球を何周したのだろう。見る度に皇帝ペンギンは大きくなった。
いつからか海水さえあれば生命を維持できる身体になっていた。もはや自分が動物なのか植物なのかもわからない。時折、海面に映る己の姿は、かつて陸地にいた頃の、やわらかい栗色の髪をなびかせた少女のままだ。たが、それは私の記憶が作り出す幻に過ぎないだろう。もしも少女の姿であれば、とっくに肉食の獣や凶暴な魚たちに襲われているに違いない。
私は破れることのない泡の中にいる。海流に乗って、地球の移り変わりを眺めている。暑い時には山脈と呼ばれた辺りを漂った。寒い時には、氷の隙間で永遠かと思われる時間を過ごした。
たくさんの生き物が滅び、生まれた。その間も皇帝ペンギンだけは巨大化を続けている。
海中を泳ぐこの鳥に皇帝の名を与えた人間を恨んでみたいと思うけれど、なぜか笑い声しか出てこない。

(368字)

2009年4月6日月曜日

樹音

樹齢三百年を越えた樹木の虚に溜まる水が唄うのは、樹木が幼木のころに聴いた鳥の囀りや風がそよぐ音。

(48字)

2009年4月4日土曜日

まばたきの発明

時間を数える方法が不明なので、眼球を保護するために装備されている膜を秒針の動きと同時に上げ下げしてみる。

(52字)

ジョアン・ミロの絵のタイトルより

2009年4月1日水曜日

底無し

しょっちゅう水溜まりに落っこちる。
水溜まりの中は案外深くてなかなか底には届かない。落っこちるのに飽きて、うとうと眠ってしまい、気が付くと、水溜まりの前にしゃがみこんでいるのが常だ。
目覚めた後、元の世界に戻ったのか、水溜まりの中の世界なのか、いつもわからなくて途方に暮れる。
だけど、水溜まりの中か外かを判断できるものは何もない。

いつものように水溜まりの前で膝を抱えていると、長い長い傘を持ったおじいさんがやってきた。背丈より長い傘を軽々と携えて、おじいさんは僕に言った。
「おや、坊や。水溜まり潜りの癖があるようだね」
ミズタマリクグリなんて言葉は知らないけれど、そういうことになるだろう。
「この水溜まりもずいぶん深いのぉ」
おじいさんが傘を水溜まりに入れると、長い長い傘は持ち手まですっかり沈んでしまった。
「いまのところ、ちゃんと戻ってきているようだから心配ない。ちゃんとここは坊やの世界だ。パパもママも友達も町も、正しく本来の坊やの世界だ。だが、次はそうではないかもしれない。水溜まり潜りをしたまま行ったきりの子供はたくさんおる」
坊やがそうならないために、とおじいさんはポケットから長い長い傘をくれた。傘を水溜まりに突き刺せば、坊やは潜らなくて済む。傘が代わりをするからだ、と説明してくれた。
おじいさんのポケットのほうが、水溜まりよりよほど不思議だと思う。

(576字)