【500字】
血の臭い、死体の臭い、女の匂い。それだけがおれの知っている匂いだ。
遠い昔に腐れ鼻に冒されて、鼻はもげてなくなった。二本足で歩く牝の獣。毛深くて碧眼のあれが、霧深い山で遭難したおれを助けてくれた。霧が晴れるまで、おれはあれに抱きついて離れなかった。あれが腐れ鼻だったのだと気が付くまでずいぶん時間がかかった。
あれと別れ山を下りてまもなく、嗅覚が利かないことに気が付いた。月下美人の花畑や公衆便所で夜を明かしてもぴくりともしなかった嗅覚が、屍の匂いだけに強く反応した。その途端、鼻がずるりと取れた。
ひどく蒸し暑い。汗と垢に塗れた腿を、腐敗の進む屍がべたんべたんと叩きつける。さっき産院の裏口から頂戴したばかりの屍だが、この暑さで見る見るうちに腐敗が進んでいる。腐った汁が腿を伝い流れ、アスファルトに点々と跡を残す。おれの足跡。
鼻のない顔に屍をなすりつけ、匂いを嗅ぎ、舐め、啜る。
あぁ、あの夜のあいつと同じ匂いだ。
【800字】
屍をぶら提げている。歩くと屍がぶらぶらと揺れて、臭気を撒き散らす。獣でも見るように、そうでなければ存在しないものとして、人々がおれの脇を通り過ぎてゆく。ずいぶん距離を取っているのに、鼻をつまみ、懸命に息を止める表情が可笑しくて高笑いをする。おれの笑い声に驚くのか、足をもつれさせながら逃げ出す。
鼻なんてだいぶ前に腐ってもげてしまった。腐れ鼻に冒されたのだ。女にうつされたのだと気がつくまで、ずいぶん時間がかかった。
匂いがわからなくなり、かえって匂いに執心した。月下美人の花畑や公衆便所で夜を明かしてみてもぴくりともしなかった嗅覚が、屍の匂いだけに強く反応した。その途端、鼻がずるりと取れた。
だからおれは屍をぶら提げる。この世に匂いがあることを、おれの鼻がまだかろうじて機能していることを、おれがまだ死んではいないことを、確かめるために。
今日はひどく蒸し暑い。じっとり汗を掻いた腿を腐敗が進む屍がべたんべたんと叩きつける。腐った汁が腿を伝い、アスファルトに点々と跡を残す。おれの足跡。
屍を手に入れるのは難しいことではない。産院の裏口の陰に隠れて一日見張っていれば、一つや二つ、手に入る。
白衣を着た太った女が盥を持ってそっと裏口を開ける。あたりをせわしなく見回して、盥をおれの前にガチャンと置いてゆく。野良犬に餌を与えるよりもぞんざいな手つきで、おれの顔を見ようともしない。
粘液の混じった血を滴らせているまだ生暖かい屍を、おれは握り締める。血の臭い、死体の臭い、それを産み落とした女の匂い。それだけがおれの知っている匂いだ。
遠い昔、霧深い山の中で抱いた碧眼の毛深い女の匂いを思い出しながら、平べったい顔に屍をなすり付ける。
【1200字】
白衣を着た太った女が盥を持ってそっと裏口を開ける。あたりをせわしなく見回して、盥をおれの前にガチャンと置いた。野良犬に餌を与えるよりもぞんざいな手つきで、おれの顔を見ようともしないが、こうして毎日のように屍を手に入れられるのだ、なんの不満もない。
盥の中に溜まった血を残らず舐めると、おれは裏口の扉の前に盥を置き産院を後にする。粘液の混じった血を滴らせているまだ生暖かい屍を握り締める。今日のは少し大きい。目鼻立ちがしっかりしている。
血の臭い、死体の臭い、それを産み落とした女の匂い。おれの知っているすべての匂いだ。
手に入れたばかりの屍を腰紐に結わえ付け、ぶら提げて歩く。ひどく蒸し暑い。何年も風呂に入っていない硬い垢に覆われた腿に、じっとりとねばっこい汗が滲む。腰からぶら提げた屍は暑さのせいで一段と腐敗が速く進む。文字通り、見る見るうちに腐っていく。屍が腿をべたんべたんと叩きつける。腐った汁が腿を伝い流れ、アスファルトに点々と跡を残す。おれの足跡。
歩くたびに臭気が強くなり、おれは深く息を吸い込む。道行く人がおれの姿におびえ、鼻をつまみ、足早に去る。おれにはつまむ鼻がないからな、と独りごちて高笑いをする。すると懸命に素知らぬ振りで歩いていた者までもが、顔をゆがめて逃げ出していった。おれはさらに笑う。
鼻はとうの昔にもげた。遭難した山で出逢った女が腐れ鼻だったのだ、と気がついたのはずいぶん後になってからだ。
慣れた山だった。茸を採りに入ったら急に霧が深くなり、方向がわからなくなった。おれはあてもなく彷徨った。動かないほうがいいだろうとわかっていたが、歩かずにはいられなかった。
何時間歩いただろうか、突然真っ白の霧の中から女が現れ、傾いた山小屋におれを招きいれた。女は異様に毛深く、言葉が通じなかったが、疲れた身体を労わってくれた。おれは女の澄んだ青い眸に魅せられた。霧が晴れるまで、長い時間抱き合っていた。
山を下りてまもなく、嗅覚がやられた。おれは匂いを捜し求めつづけた。月下美人の花畑や公衆便所で寝泊りした。記憶にあるあらゆる強い匂いに身体を沈めたが、嗅覚はぴくりともしなかった。
産院の裏に棄てられようとしていた小さな屍を見たとき、おれの嗅覚は激烈に刺激された。白衣の女が叫ぶのも構わず、それを顔になすりつけ続けた。そうしているうちに鼻がずるりと取れた。白衣の女が、また叫んだ。
山で出逢ったあの女は獣だったのかもしれない。腐りゆく屍の匂いは、あの女と同じ匂いがする。もうおれはこの匂いしか嗅ぐことができない。この匂いを嗅いで、まだ己が死んでいないらしいことを、確かめる。