「さぁ、名前を教えておくれ」
カンバスに問い掛ける。若く美しい婦人像は応えない。つまり、完成していないのだ。絵は完成すれば、必ず名乗る。
マーガレット。僕は想い人をそこに描いたつもりだった。肖像画を描く技術には自信がある。愛情も劣情もありのままに筆に込めた。それなのに描かれた女は無言のまま。彼女を知る人は誰しもこれはマーガレットを描いたものだと言うはずだ。けれど当の絵が何も言わないのでは、どうしようもない。これはマーガレットに一見、似ているだけの絵であり、マーガレットの肖像画ではないと、絵は主張している。
僕は再び筆を取る。どうしてよいのかわからないので、暗い色ばかりを盛り付ける。
「名前は?」
無言。
一筆毎に名を訊ねる。絵は応えない。
マーガレットのはずだった婦人が暗澹たる油絵具に埋もれていく。それでも絵は名乗らない。
ついに陽が暮れてしまった。
「新作の肖像画、完成を見たかと思いきや、崩壊を始める」
創作ノートに記すと、まだ触れたことのないマーガレットを想いながら、欲望を激しく吐き出した。カンバスに白い汁が飛び散った。これ以上どう侵すことができようか?
(476字)
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500文字の心臓 第88回タイトル競作投稿作
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