2006年11月30日木曜日

クマの手

昨日はクマが来た。
はちみつたっぷりのコーヒーが好きだと聞いて
キリマンジャロとアカシアのはちみつとクッキーを用意した。
クマは、とても喜んだ。私も嬉しかった。
クマをもてなすのは初めてだから、ちょっと心配だったのだ。
ただひとつ失敗だったのは、大きくて丈夫なストローを準備していなかったこと。
家にはたくさんストローがあったけれど、どれもクマには小さすぎたし、柔らか過ぎた。
クマははちみつ入りコーヒーを飲むのに36本もストローを使ったのだ。

2006年11月28日火曜日

ブラックコーヒーに落とし物

「それ、飲ませて」
私の飲んでいたコーヒーを少年は指差した。
「いいけど、これ苦いよ」
私はブラックが好みだ。しかも冷めたのが。
「わかってる」
少年はコーヒーををゴクゴクと飲み、いかにも苦い顔をした。
「ほら、見ろ。苦かったろ」
顔とは裏腹に、戻っていく少年の足取りは軽く、背中はどこか堂々としていた。
返ってきたコーヒーは、甘い桃の香りがした。

切り傷

冷たい風が、頬を切る。でも私は歩くことしかできなかった。
コートの襟をぐいと合わせて、ただ歩いた。
コーヒーが飲みたいな。
頭の中で呟いたつもりだったのに、大きな声で言っていた。
「じゃあ、喫茶店に入ろう」
と強引に喫茶店へ連れ込まれた。この人は、たぶん私の頬を傷つけた北風だ。あんなに冷たい風が吹いていたのに、窓の外は穏やかに晴れているもの。
ゆっくりコーヒーを飲む北風氏の指に触れてみたかったけれど、指を絡めたらきっと私の指はまた血だらけになってしまう。
だから歩いていたのに。何度傷つけられたら気が済むのだろう。

2006年11月24日金曜日

拝み倒す

大学イモが食べたいなあ。腹が減っては勉強はできぬ。
サツマイモはあるはずだ。でも、どうやって大学イモを作るのか、オレにはさっぱりわからない。
台所から皿とサツマイモを持ってきて、勉強机に載せた。
洗ってもいないサツマイモが載った皿に、手を合わせた。
「大学行きたい。大学イモ食いたい。大学行きたい。大学イモ食いたい。大学行きたい。」
何回も唱えるうちに頭がボーとしてくる。そもそも腹が減り過ぎているのだ。
「大学イモ行きたい。大学食べたい」
目を開けるとサツマイモが悩んでいた。

2006年11月22日水曜日

悪いシナリオ

さくらんぼの種を飲んでしまった、と青い顔で友人がやってきた。
「ヘソからさくらんぼの木でも出てきたら、教えろよ」
と冗談めかして言ったら、「それくらいで済むならいいが」とますます落ち込んでいる。
数か月後、彼は身体中の毛の一本一本にさくらんぼをぶら下げていた。

2006年11月21日火曜日

幻滅

朝起きると床に苺が生えていた。
仕方ないから裸足で踏み潰して歩く。
訪ねて来た男は狂喜した。そういえば、こいつは苺が好きだった。
男は私が歩く後を這って付いてくる。
砂糖を撒き、床の苺を犬食いする。
「だって勿体ないじゃないか。食べ物は大切にしなくちゃ」
赤くべとべとした口で諭すようなことを言うな。

2006年11月20日月曜日

だれにも見えない

 だんだんと沈みゆく夕日に照らされて、塔はアスファルトに影を落とした。 夕日が沈むのと速度を合わせて、塔の影は伸びていく。ぐんぐん伸びて、耳が生え、しっぽが生え、とうとう塔の影は巨大な猫になった。
 でもそれは、ほんの一瞬のこと。猫だと気づかれる間もなく日は沈みきって、影猫は消えてしまう。
 だれにも見えない、大きな塔と大きな影猫のお話。


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「夕やけだんだん」点字物語2006、出品 天の尺賞&高杉賞受賞
地域雑誌「谷中根津千駄木」86号掲載
イベント「超短編の世界」2008.12.14朗読作


この作品は、視覚障害のある方が点字で音読することを前提に書き下ろしたものです。



料亭

吸い物に三ツ葉が浮かんでいる。
三ツ葉の上には小さな小さなカエルがいる。
カエルは三ツ葉の香りが苦手らしく、渋い顔をしていた。
吸い物は残らずいただいた。

2006年11月17日金曜日

残り香

彼がまぼろしだとしたら、どうする?
大葉の香りは、私をいつも不安にさせる。
大好きだから、好きになればなるほど、彼はまぼろしの存在で本当はどこにもいないんじゃないか、という妄想に取り付かれる。
三日前のキスの感触も、昨日の夜のメールもちゃんと残っているのに、それもすべてまぼろしに思えてくる。
刻んだ大葉を中華鍋に入れると、鍋の中は空っぽになった。
大葉の香りだけが、台所に充ちている。

2006年11月15日水曜日

俯く理由

鼻に人参を生やしていたら、家に帰れない。母さんに何言われるだろう。
僕は近所の公園のベンチで顔を覆って途方に暮れていた。
「どうしたの?」
お向かいの四歳年上のミサちゃんが声を掛けてくれたら、なおさら顔を上げられない。
「ねえ、顔あげて……食べてあげるから」
思いがけない申し出に、僕は思わず顔を上げてしまった。
ミサちゃんは何も聞かなかった。黙々と僕の鼻に生えた人参を食べていた。
僕は少しづつ近付いてくるミサちゃんの形のいい鼻を見ていた。
僕の眉間にミサちゃんの鼻が触れたのと同時に、鼻の穴と穴の間をペロっと舐められた。
「帰ろうか」
人参はなくなったけど、僕はまた顔が上げられない。

2006年11月14日火曜日

そらもよう

そら豆を茹でていると、鼻をヒクヒクさせながらウサギがやってきた。
「そら豆の正体を知っているか?」
とウサギが言う。
「正体って……さやが空に向かって伸びるんじゃなかったっけ?」
フフンとウサギは鼻で笑う。
「そら豆は宇宙だ。命はそら豆に還る」
そう言ってウサギは茹で上がったばかりのそら豆の皮を向き、噛って見せた。
そこには、小さな闇があった。
「覗き過ぎと吸い込まれるぞ」
言うが早いが、蝿が一匹、そら豆に消えた。

EVER DARK

アサツキを朝噛ったら月が褪せ、夜噛ったら朝が尽きた。
まあ、いいか。温かいココアとベッドがあるもの。

2006年11月12日日曜日

みそ汁

茗荷の味みたいな恋だったなぁ。
と八百屋のおじさんは奥さんをチラリと見遣って呟いたのでした。
わたしは茗荷を買って帰りみそ汁にして、八百屋のおじさんの恋に思いを巡らせました。

2006年11月10日金曜日

お嬢さん、お逃げなさい

「そんなに焦って食わなくともよいではないか」
友人は鼻息荒く両手に一本ずつバナナを持ち、交互に食べていた。
「ここに来る途中、若い娘に会ったから、歌ったよ。『お嬢さんお逃げなさい』って」
そのお嬢さんに彼の歌はなんと聞こえただろう。
必死の形相でハナナに食らいつく友人の姿が哀しい。
もうすぐ冬眠の季節だ。

2006年11月9日木曜日

愚か者

落ちた柿をからすが突いている。
「おい、からす。旨そうだなぁ」
「なんだ、人間。お前の林檎と取り替えてやろうか」
歯型の着いた林檎と嘴が突いた柿を交換する。
からすの食いさしは、汚かった。
「なぁ、からす。やっぱりやめた……」
遅かった。からすはすっかり夢中で林檎を突いていた。
柿を庭に放ったら、すぐに別のからすがやって来た。
旨そうに突いているのを見て、放るんじゃなかったと悔やんだ。

2006年11月7日火曜日

甘い汁

彼女は噛り付いた桃の汁をボタボタと滴らせている。
彼女の口から垂れた汁は、ギョッとするほどの青で、それを見ると彼女が人形であることを突き付けられる。
テーブルに溜まった青い桃の汁を指に付けて舐めると、桃の味の中にいつもの彼女の唾液の味がする。
早く桃を食べてしまえ。

2006年11月6日月曜日

補色

キウイの緑は鮮やかで眩しかったけれど、口紅を塗ったあの娘の唇が近づいたら、引き立て役にしかならなかった。

2006年11月4日土曜日

あらくれもんのあさ

レモンはすっぱい。それだけのことだ。
と俺は独りごちた。冷蔵庫にはレモンが一つ。ほかには何もない。
昨日、冷蔵庫は空だった。買い物には行っていない。
あの女か……。
俺はまた独り言をいう。名前も知らない女が置いて行ったレモンを口にするのは不気味だったが、俺は腹が減っていた。曲がりなりにも食品であるレモン、それは捨てることができないほどに腹が減っていた。
レモンは、甘すぎて涙が出た。

2006年11月3日金曜日

匂宮になるために

ようやく黄色く色づきはじめたカリンの実をもいで、匂いを確かめる。僕は、その場で服を脱いだ。寒いなんて言っている場合じゃない。
カリンの実を、少し粟立つ身体にこすりつけていく。首、脇、膝のうら、みぞおち、鼻のまわりにも。
彼女はうっとりと喜んでくれるはずだ。
でも、僕は不満で仕方ない。カリンの香りがしないと彼女は僕の胸に飛び込んでこない。
だから僕は毎年、カリンが色づくのをそわそわと、少しの苛立ちを抱えながら、指をくわえて待っているのだ。

2006年11月1日水曜日

鍋奉行

「まさか春菊に限って」
わたしは頭を抱えた。
春菊と夫は、鍋の具を入れる順序やタイミングで喧嘩をしていた。
「わたしはまだ鍋に入るべきではない。時期尚早である」
と春菊は言った。
「鍋奉行に逆らう気か! どうせオレに食べられる運命なのだ。おとなしくしろ」
夫はやや興奮気味に言った。夫が鍋の具とやり合うのは、これが初めてではない。しらたきや白菜とは何度も言い争いをしている。だが、どんな騒ぎになっても春菊だけはいつでも沈黙していたのだ。
「いいえ、いけません」
春菊はきっぱりと言った。
大騒ぎになるのに夫は鍋が好物で、私はこの楽しくない食事に困っている。ちっともおいしくない。
夫は歯向かう春菊に向かってまくし立てながらも箸を休めない。
「あ、頃合いになった」
春菊は、自ら鍋に入った。
威勢よく文句を言い続けていた夫は、呆気ない結末にぽかんとしている。
私は久しぶりに春菊をおいしくいただいた。