たっぷりと入った水菜をかき分ける。美しい湖に潜っているような心持ち。水菜はゆらゆら揺れる水草みたい。ゆれる水草に隠れる魚……もとい、鶏皮を見つけたら、水菜と一緒に箸で摘んで食べる。おいしい。水菜が少なくなって、湖の様子が変わる。
そんな空想をしながら夢中でスープを食べていたら、お母さんに「また何か考えてるでしょ?」って言われた。お母さんいわく、空想してる時の顔はすぐわかるって。
「だって、スープがきれいだったんだもん」って言ったら、笑った。そんなお母さんも、なんだかやけに真剣な顔でスープを覗きこんでいる。私もこんな顔してたのかな、と思ったらおかしくなってゲラゲラ笑った。
2013年8月29日木曜日
水菜と鶏皮のスープ
2013年8月22日木曜日
ミネストローネパスタ入り
木製のお椀を両手で包むように持ったまま、動こうとしない人がいる。中に何が入っているのだろうと、そっと覗いてみれば、スープだ。ミネストローネ。パスタも入っている。温かそうな湯気が立っている。ここが真冬の駅の改札口でなければ、もっと美味しそうに思うだろう。
待ち人をしている私の少し離れた横に居て、その人もやっぱりじっと立って駅から出てくる人を見ている。この人も誰かを待っているのだろうか。足先にしもやけの予感を感じながら、隣の人の様子を窺う。まだ湯気が立っていて、ミネストローネはまだ温かそうだ。もう随分立つのに、私の待ち人も、その人の待ち人も一向に現れない。
自分の白い息だけをぼんやり眺めていたら、ふと、それが息ではなく湯気だと気がついた。いつの間にか木製のお椀を持っていた。横に立っていた人はいなくなっていた。次の電車が終電だ。私はお椀に口を付けるかどうか悩む。
2013年8月19日月曜日
レンコンとアスパラのスープ
シャクシャクと音がする。「いい音で食べるね」と声を掛けると、少年は顔を上げてニッと笑った。本当に楽しそうな音だ。
少年はあまり言葉を話さない。だが、食べるときはとても饒舌になる。言葉ではない。表情や仕草から「おいしい!」が溢れてくるのだ。
「レンコンが入っているのね?」と尋ねると、大きく頷いた。それからアスパラガスもひょいと箸で持ち上げて見せてから、ぱくりと口に入れた。
「レンコンとアスパラが入ってるのね」と言うと、少年はまたニッと笑った。
少年はどんどん食べるけれど、器の中のスープは一向になくならない。リズムよくレンコンがシャクシャクと音を立てている。
食べる速度がゆっくりになってきてようやく器のスープも減り始めた。食いしん坊に都合のよい器。
空になった器を置くと少年はいつものむっつりとした表情に戻り、立ち上がった。去っていく足音は軽やかだから、きっと満足したのだろう。「難しい年頃」というけれど、そんなこともないと思う。
2013年8月18日日曜日
春野菜のミネストローネ
冬の間、畑は何を思っているのだろうか。土は冷え、固くなる。時には雪が積もる。畑はじっと耐え春を待つのか、それとも眠りこけているのか。
春の野菜を食べるとき、そんなことを考えてしまう。難しい顔してミネストローネを食べている私を、祖母は「すべてわかっている」といった風情で見ている。「おばあちゃんも昔は同じようなことを考えていたよ」と、その目は言っている。
「いつかは私もおばあちゃんみたいにおいしいお野菜と、おいしいスープが作れるようになるかな?」
と言ったら、「畑の土に聞いてみたら?」と、窓の外の畑を眺めながら祖母は笑った。やっぱりおばあちゃんはお見通しのようだ。
2013年8月13日火曜日
2013年8月12日月曜日
焼きトマトのお味噌汁
7歳の娘が「味噌汁日録」なるものを記しはじめた。毎日の味噌汁をイラスト付きで記している。なんだか不思議なことをする子供だと我が子ながら思うが、しばらくするとこちらも張り合いが出てきて、毎日の味噌汁に工夫したり新しい食材や味噌を取り入れてみたりするようになった。
娘も娘で、いっぱしの「味噌汁評論家」になりつつある。娘と明日の味噌汁の具を相談したり、今日の出来を語り合ったりするのは、案外楽しい。娘が台所を手伝う回数も増えてきた。
「そういえば、トマトのお味噌汁って作ったことないね」
と、娘がノートをめくりながら言った。「トマトかー、やってみる?」
「うん! やってみよう!」と元気よく答える娘と一緒に買い物に行き、とびきり美味しそうなトマトを買ってきた。このまま齧り付きたいところだが、あえて焼いてから味噌汁にした。椀によそうと、崩れたトマトが鮮やかだ。
「どう……?」
「すごーい! こりゃ絵になるね」と、おどけながらも、おいしいおいしいと娘は喜んでいた。
食事が終わるとさっそく色鉛筆を取り出した娘の横で、早くも新しい味噌汁の構想を練る。
2013年8月10日土曜日
三種のスープ
バケットをカリカリに焼いて、バターを塗り、スープと共に食べるのが、私の楽しみである。スープは三種類。今日はレンズ豆のスープ、にんじんポタージュ、ミネストローネ。もちろん自分で作る。一人で食べるには手間が掛かるし、ちょっと贅沢だ。
このお楽しみのために、一人暮らしを初めて早々に同じ鍋を色違いで三つ買った。厚手の琺瑯鍋だ。これで一度にスープを三種類作りたくても、鍋が足りずに困ることはない。高い買い物だったが、毎週のように使っているし、色違いの鍋が台所に並んでいる様子を眺めているとそれだけでウキウキする。
レンズ豆のスープは緑色の鍋、にんじんのポタージュはオレンジ色の鍋、ミネストローネは白い鍋に作った。たっぷり作ったから、三日は持つだろう。私は明日の朝の朝食に再びスープを食べることを楽しみに眠った。
翌朝、台所にはチグハグな鍋が並んでいた。緑色の鍋に白い蓋、オレンジの鍋に緑の蓋、白い鍋にオレンジの蓋。心なしかスープも減っているようだ。
「泥棒?!」と思ったけれど、どうもそうではないような気がする。きっと鍋同士で味見大会をしていたのだ。だって蓋にはこれまたチグハグにスープの跡が残っているから。
2013年8月7日水曜日
玄米のスープ
玄米のスープは本当に丁寧に作らないといけないのだ。私は深呼吸して鍋に向き直った。祖母は万事、丁寧な人ではあったが、玄米スープを作るときは特別だった。背筋をすっと伸ばし、木べらをゆっくりゆっくり動かす仕草からも真剣さが伝わってきた。
祖母は私や両親が少し調子を崩しかけている時、それも本人がそうと気が付かないくらいのうちに、何も言わずに作って出してくれるのだった。
祖母が亡き後、ずいぶん長いこと玄米のスープのことを忘れていたが、この頃なんとなく体調がすぐれない日が続いて、ふと思い出して作ってみる気になったのだ。
「ゆっくり、ゆっくり。優しく優しく」いつの間にか、祖母と同じ口調でつぶやきながら、ゆっくりと木べらを動かす。
玄米のスープは、昔と同じ味がした。うまくできたようだ。祖母が頭を撫でてくれた気がした。
2013年8月5日月曜日
けんちん蒸しのお吸い物仕立て
料理が得意な友人の家に招待された。小料理屋にでもいるような気分で、寛いで飲み食いし、話にも花が咲く。
「ところで、こんな料理、どこで覚えたんだ?」
けんちん蒸しがちょこんと入ったお吸い物を啜りながら、友人に訊いてみた。口の中でふんわりとけんちん蒸しが崩れる。絶品だ。
「信じられないだろうけれど……」と友人は切り出した。彼は料理教室に通ったことがあるわけでもなく、料理上手な家族から手ほどきを受けたわけでもないという。
「この家に暮らし始めてから、突然料理ができるようになったんだ」
少々古いが、なかなか心地のいい家である。中古で買ったというこの家に、料理が得意なオバケの類がいるのではないかと彼は大真面目な顔で言うのだった。
「たとえば実家の台所に立っても何もできない。これはもう、この家の仕業としか思えない」
このけんちん蒸しは、特に得意らしい。「いつのまにか、たくさん出来ていた」からと、おかわりを勧められる。遠慮無く椀を差し出すと、友人の顔が一瞬嬉しそうに微笑む女に見えた。